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128話、癒す権利がない、悲痛な涙
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「……え? 沼地帯? ……引っ越す?」
「そうだ。実は私とサニーは、この地の一角にある『沼地帯』に住んでる。純白の花が咲き乱れてて、とても綺麗な場所でな。魔物や獣も居ないし、ここに居るよりかはずっとマシだと思う。どうだ、一緒に来ないか?」
「……つまり、どういう事だ?」
いきなり提案してしまったせいか、はたまた動揺しているのか。ウィザレナから返ってきたのは、まるで理解していない様子の再質問。
無理もない、いきなり引っ越そうなんて言ったんだ。動揺しない方がおかしい。逆に分かったと即答されたら、私が驚いていただろう。
「要は、お前をここから救い出してやりたいんだ。いつ来るか分からない脅威に怯え、限定的な閉鎖空間に取り残されたお前をな」
「はあ……。つまりアカシック殿が、私をこの森から出してくれて。平和な沼地帯へ連れていってくれると?」
「そんな感じだ」
頭で理解してくれたようだけど。ウィザレナの表情が途端に曇り出し、申し訳なさそうに細まった横目を、サニー達へ送った。
「とても嬉しい提案なんだが……。すまない、アカシック殿。その提案は受け入れられない」
「なんでだ?」
「先にも話した通り、私はあの子達を守る為だけに生きてる。私がここを出てしまったら、あの子達が孤立してしまうだろ? だから―――」
「ああ、すまん。言葉足らずだったな。あの子達も一緒に連れてくぞ」
足りなかった説明をあっけらかんと付け加えると、見開いたウィザレナの目が私の方へ戻ってきた。
「あ、あの子達ごと!? ……出来るのか? そんな事が」
「出来る、例えばだ。あそこにある家は、お前のか?」
手頃な大きさの物を見つけ、サニーの背後にある家を指差す私。
「ああ、私の家だ。最初は木の上にあったんだが、あの子達の中に、上へ登れない子がいてな。皆で安心して眠れるようにと、少しずつ解体してあそこに建て直したんだ」
「建て直した!? それはすごいな……」
「ふふん、すごいだろ? 慣れない作業だったから、数年掛かってしまった。でもお陰で、皆が雨風を凌げるようになり、安心して夜を超えられてる」
どこか誇らしげに笑ったウィザレナが、しみじみとした表情を家へ送る。木の上にある家、相当高い場所にあるのだが……。想像を絶する肉体労働だっただろうに。
生半可な覚悟では、絶対に出来ない作業だ。それ程までに、あの子達を想っているのだろう。ならば、余計に放ってはおけない。必ず全員、ここから連れ出してみせる。
「そうか。仲間思いなんだな、ウィザレナは」
「当然だ。最早、私とあの子達は一心同体。あの子達が居なければ、私もとっくの昔に死んでただろう」
『死んでただろう』という言葉が、私には『死を選んでいた』としか聞こえなかった。とどのつまり、あの子達はウィザレナにとって、唯一無二の生命線。最後の希望の光。
いつから一緒に居ただとか、どの子も見た事がない動物だとか。不要な好奇心が湧いてきたけども、まずは本題を進めよう。
「でだ。あの家は、地面に固定してあるのか?」
「いや、してない。地面に置いてある感じだ」
地面には固定されていない。ならば、かつて花畑地帯でゴーレム達を浮かせた要領で、簡単に沼地帯へ運んでいける。
「なら、あの家を乗り物にしよう」
「はい? 乗り物?」
「そうだ。空を飛ぶ家なんて、面白いと思わないか?」
「……アカシック殿? 何を考えてるんだ?」
少し焦らしてみれば、ウィザレナの困惑顔に深みがかかっていった。分かりやすく説明するべく、私は風の杖に指招きをして、手前まで持ってきた。
「風魔法で家を浮かせるんだ。高高度まで昇れば、魔物に襲われる心配もない。安全な空の旅を楽しみつつ、沼地帯まで行けるぞ」
「風魔法で、家を……? それならば、あの子達を家の中に待機させておけばいい話だが……。その沼地帯とやらは、本当にここより安全なのか? 魔物が居なくとも、盗賊達はどうなんだ? この森の外は、一体どうなってるんだ? 教えてくれ、アカシック殿」
外の状況が気になり出したウィザレナが、質問攻めをしながら私に詰め寄ってきた。そうだ。ウィザレナは『樹海地帯』から一歩も外へ出た事がない。
ならば、この地が今どうなっているのか。世界からどう呼ばれているのかすら知らないだろう。まずは、そこを順々に説明した方がいい。
「分かった、説明する。説明するけども、一つだけ約束してほしい事がある」
「約束? なんだ?」
ウィザレナの問い掛けに、私は一旦サニーへ横目を送る。
「ここから話す内容は、全てサニーも知らないんだ。だから、内緒にしておいてほしい」
「内緒に? なぜだ?」
「色々と深い事情があってな。話すと長くなるから、沼地帯に着いたら追々話す」
一方的なお願いにも関わらず、ウィザレナは私達の関係を察してくれたのか。何か詮索しているような瞳をサニーへ流してから、私の方に戻してきて、小さく頷いてくれた。
「分かった。私は、アカシック殿を信じてる。何か訳ありみたいだし、今は聞くのをやめておこう」
「ありがとう、私を信じてくれて。私達の関係も、後で必ず話す。じゃあ、今この地がどうなってるか説明しよう」
絶大な信頼を得られる切っ掛けとなった、ウンディーネ様に感謝しつつ、細く息を吐く。
「今この地は、針葉樹林、沼、山岳、砂漠、渓谷、凍原といった様々な地帯で構成されてて、とある名前が付いてる」
「名前? この地に、名前なんてないはずだが……。なんて呼ばれてるんだ?」
「『迫害の地』、そう呼ばれてる」
「は、迫害の地? ……なんだ、それ? 一体、誰がそんな物騒な名を?」
「残念だが、それに至った経緯は、どの書物にも記されてない。誰かが勝手に呼び始めて、それが噂となって定着していったのか。世界が、必然的にそう呼ぶようになったのか。どちらにせよ、的を射た名前だと思ってる」
「的を射たって、どういう事なんだ?」
聞きたい事が山積みなようで、困惑しているウィザレナの問い返しが続く。生まれてからずっと、この地に居たというのに……。
ウィザレナの時間は、長様が盗賊に殺されてから止まったままだ。まだ、この地に名前が付いていなかった頃から。そして、『迫害の地』という名前が付いてからも、ずっと。
「この森に、凶暴な魔物や獣が溢れ返ってるように。他の地帯も同様、酷い有り様になってる。唯一安全に住めるとしたら、私達が居る『沼地帯』。それとこの森の隣にある、『花畑地帯』だけだ」
「そ、そんな……。あ、そうだ!」
表情が絶望の底に沈んでいったかと思いきや。すぐにウィザレナが声を上げ、絶望が振り払われた。
「長様から聞いた話だと、この森の隣にあるのは草原のはずだ。今は違うのか?」
「それは、かなり古い情報だぞ。いつ聞いた話なんだ?」
私も気になっていた事を質問にして返してみると、ウィザレナは左手で口を覆い隠し、天色の瞳を右へ逸らした。
そのまま硬直すると、眉間にシワが寄り。瞳がそっと閉じ、数秒して更に強く閉じていった。
「たぶん……、八、九百年前、ぐらいだと思う」
「きゅ、九百年前?」
「たぶんな。記憶が正しければ、大体そのぐらいだ」
……九百年前? もう、古いという騒ぎじゃない。よく書物に残っていたなという次元だ。流石に、それほど古いとは予想していなかった。『タート』があったかどうかすら怪しいぞ。
となると、ウィザレナは少なくとも九百歳以上になる。アルビスの、ほぼ倍……? 見た目は、二十歳ぐらいの女性とそんなに大差がないのに……。エルフって、とんでもなく長生きするんだな。
「……だ、だいぶ古いな。今は、心優しいゴーレムが住んでて、一帯に純白の花を植えて管理してるぞ」
「ゴーレム? それも魔物じゃないのか?」
「魔物だけども、花畑地帯に居るゴーレムはちょっと違う。人間の手によって造られ、そして廃棄された使用人とも言うべきか」
「使用人?」
「そう、元は使用人として造られた人工物だ。けど、不要な心と意思を持ってしまった為に、草原だった場所に廃棄されたらしい」
「なんなんだ、それ? 本当に救いようのない屑だな、人間って奴は。……あ、アカシック殿の事ではないから、気を悪くしないでくれ」
人間への憎悪が垣間見える本音を漏らすも、慌てて弁解を挟むウィザレナ。そのまま話を逸らすように、「それじゃあ」と声を暗くしつつも口を開いた。
「ゴーレムが居るって事はだ。その花畑となった草原には、もう盗賊は居ないのか?」
「まったく居ないし、他の地帯もそうだ。この地に住んでから九十年以上経つけども、盗賊なんて一度も見た事がない」
「九十年間、一度も……?」
今にも消えてしまいそうに呟いたウィザレナが、落胆と絶望が入り乱れたような表情になり、その顔を地面へ下げていった。
ゴーレムの件から、様子がおかしくなっていたが……。何かまずい事を言った気がする。今まで暴言を一度も吐いていなかったし、ゴーレムの説明が決定打となったのかもしれない。
気まずい雰囲気が漂い出し、次の説明が出てこない中。沈黙を貫いているウィザレナの見えない顔から、水らしき物がポタポタと落ち始めた。もしかして、泣いているのだろうか……?
おもむろに握った両手が、小刻みに震えている。その震えが腕、肩、上半身まで移ると、ウィザレナはゆっくりと顔を上げ、私に合わせてきた。
先ほどまでとは打って変わり、ウィザレナの表情は弱々しく。色白な両頬には、太い涙の線が走っていた。
「……もう、そんな昔から、盗賊はこの地から居なくなってたんだな。それを知らずに、百年近くも馬鹿みたいに怯えて暮らしてただなんて……。いきなりなだれ込んで来たかと思えば……、仲間を次々に攫って殺し。いつの間にか、また勝手に消えやがって……!」
とうとう我慢出来なくなったのだろう。誰にも届かなかった強い恨み辛みが、震えた口から溢れ出してきている。
「私達エルフは、人間に何かしたか……? してないよなぁ……? ただこの森で、静かに暮らしてただけなのに……。それなのに!! なんだこの仕打ちは!? 私は一体、なんの為に生まれてきたんだ!? ……一体、なんの為に……」
私はただ、奥歯を食いしばり、ウィザレナの恨みを聞く事だけしか出来ない。なんとももどかしい……。人間の代表として、土下座をして謝りたいというのに……。
けど、今のウィザレナは怒りと憎しみに囚われている。下手に謝れば、神経を逆撫でするかもしれない。何も出来ないこの状況が、本当に悔しいな……。
「……アカシック殿、私は人間が大嫌いだ。なんて身勝手な生き物なんだ、人間って奴は……。いきなり来て、仲間達を攫って殺し。この大地を穢して、勝手に居なくなった人間が、大嫌いだ……! クソッ! クソォッ!! ……悔しいよぉ、アカシック殿ぉ……」
一欠片の恨みを曝け出しだウィザレナが、私の胸元に顔を埋め、体を抱きしめながら本格的に泣き出してしまった。
……果たして私は、慰める為にウィザレナの体を抱き返してやってもいいのだろうか? そんな恐れ多い権利が、私にあるとは到底思えない。
ああ、心が痛い。ウィザレナの悲しくて重い嗚咽が耳に入る度に、何もしてやれない未熟な心が、際限なく締めつけられていく。
ウィザレナの後頭部を見ている視界が、逃げるように空を仰いだ。……人間である私は、ウィザレナを幸せにする事が出来るのだろうか?
それ以前に私は、エルフを幸せにする権利を持っているのか? 人間にとって、おこがましい行為なんじゃないか? ……もう、だんだん分からなくなってきた。
しかし、私はウィザレナを助けてやると言った。平和な沼地帯へ、連れていってやるとも言った。ならば、やる事はただ一つ。私なりに、ウィザレナを幸せにしてみせる。
権利が無くとも、私が人間であろうと関係ない。罪を背負えと言われたら、喜んで背負ってやる。とりあえず今は、ウィザレナの涙を受け取り続けていよう。
泣きたいほど悔しいけど、今の私には、それしか出来る事がないのだから。
「そうだ。実は私とサニーは、この地の一角にある『沼地帯』に住んでる。純白の花が咲き乱れてて、とても綺麗な場所でな。魔物や獣も居ないし、ここに居るよりかはずっとマシだと思う。どうだ、一緒に来ないか?」
「……つまり、どういう事だ?」
いきなり提案してしまったせいか、はたまた動揺しているのか。ウィザレナから返ってきたのは、まるで理解していない様子の再質問。
無理もない、いきなり引っ越そうなんて言ったんだ。動揺しない方がおかしい。逆に分かったと即答されたら、私が驚いていただろう。
「要は、お前をここから救い出してやりたいんだ。いつ来るか分からない脅威に怯え、限定的な閉鎖空間に取り残されたお前をな」
「はあ……。つまりアカシック殿が、私をこの森から出してくれて。平和な沼地帯へ連れていってくれると?」
「そんな感じだ」
頭で理解してくれたようだけど。ウィザレナの表情が途端に曇り出し、申し訳なさそうに細まった横目を、サニー達へ送った。
「とても嬉しい提案なんだが……。すまない、アカシック殿。その提案は受け入れられない」
「なんでだ?」
「先にも話した通り、私はあの子達を守る為だけに生きてる。私がここを出てしまったら、あの子達が孤立してしまうだろ? だから―――」
「ああ、すまん。言葉足らずだったな。あの子達も一緒に連れてくぞ」
足りなかった説明をあっけらかんと付け加えると、見開いたウィザレナの目が私の方へ戻ってきた。
「あ、あの子達ごと!? ……出来るのか? そんな事が」
「出来る、例えばだ。あそこにある家は、お前のか?」
手頃な大きさの物を見つけ、サニーの背後にある家を指差す私。
「ああ、私の家だ。最初は木の上にあったんだが、あの子達の中に、上へ登れない子がいてな。皆で安心して眠れるようにと、少しずつ解体してあそこに建て直したんだ」
「建て直した!? それはすごいな……」
「ふふん、すごいだろ? 慣れない作業だったから、数年掛かってしまった。でもお陰で、皆が雨風を凌げるようになり、安心して夜を超えられてる」
どこか誇らしげに笑ったウィザレナが、しみじみとした表情を家へ送る。木の上にある家、相当高い場所にあるのだが……。想像を絶する肉体労働だっただろうに。
生半可な覚悟では、絶対に出来ない作業だ。それ程までに、あの子達を想っているのだろう。ならば、余計に放ってはおけない。必ず全員、ここから連れ出してみせる。
「そうか。仲間思いなんだな、ウィザレナは」
「当然だ。最早、私とあの子達は一心同体。あの子達が居なければ、私もとっくの昔に死んでただろう」
『死んでただろう』という言葉が、私には『死を選んでいた』としか聞こえなかった。とどのつまり、あの子達はウィザレナにとって、唯一無二の生命線。最後の希望の光。
いつから一緒に居ただとか、どの子も見た事がない動物だとか。不要な好奇心が湧いてきたけども、まずは本題を進めよう。
「でだ。あの家は、地面に固定してあるのか?」
「いや、してない。地面に置いてある感じだ」
地面には固定されていない。ならば、かつて花畑地帯でゴーレム達を浮かせた要領で、簡単に沼地帯へ運んでいける。
「なら、あの家を乗り物にしよう」
「はい? 乗り物?」
「そうだ。空を飛ぶ家なんて、面白いと思わないか?」
「……アカシック殿? 何を考えてるんだ?」
少し焦らしてみれば、ウィザレナの困惑顔に深みがかかっていった。分かりやすく説明するべく、私は風の杖に指招きをして、手前まで持ってきた。
「風魔法で家を浮かせるんだ。高高度まで昇れば、魔物に襲われる心配もない。安全な空の旅を楽しみつつ、沼地帯まで行けるぞ」
「風魔法で、家を……? それならば、あの子達を家の中に待機させておけばいい話だが……。その沼地帯とやらは、本当にここより安全なのか? 魔物が居なくとも、盗賊達はどうなんだ? この森の外は、一体どうなってるんだ? 教えてくれ、アカシック殿」
外の状況が気になり出したウィザレナが、質問攻めをしながら私に詰め寄ってきた。そうだ。ウィザレナは『樹海地帯』から一歩も外へ出た事がない。
ならば、この地が今どうなっているのか。世界からどう呼ばれているのかすら知らないだろう。まずは、そこを順々に説明した方がいい。
「分かった、説明する。説明するけども、一つだけ約束してほしい事がある」
「約束? なんだ?」
ウィザレナの問い掛けに、私は一旦サニーへ横目を送る。
「ここから話す内容は、全てサニーも知らないんだ。だから、内緒にしておいてほしい」
「内緒に? なぜだ?」
「色々と深い事情があってな。話すと長くなるから、沼地帯に着いたら追々話す」
一方的なお願いにも関わらず、ウィザレナは私達の関係を察してくれたのか。何か詮索しているような瞳をサニーへ流してから、私の方に戻してきて、小さく頷いてくれた。
「分かった。私は、アカシック殿を信じてる。何か訳ありみたいだし、今は聞くのをやめておこう」
「ありがとう、私を信じてくれて。私達の関係も、後で必ず話す。じゃあ、今この地がどうなってるか説明しよう」
絶大な信頼を得られる切っ掛けとなった、ウンディーネ様に感謝しつつ、細く息を吐く。
「今この地は、針葉樹林、沼、山岳、砂漠、渓谷、凍原といった様々な地帯で構成されてて、とある名前が付いてる」
「名前? この地に、名前なんてないはずだが……。なんて呼ばれてるんだ?」
「『迫害の地』、そう呼ばれてる」
「は、迫害の地? ……なんだ、それ? 一体、誰がそんな物騒な名を?」
「残念だが、それに至った経緯は、どの書物にも記されてない。誰かが勝手に呼び始めて、それが噂となって定着していったのか。世界が、必然的にそう呼ぶようになったのか。どちらにせよ、的を射た名前だと思ってる」
「的を射たって、どういう事なんだ?」
聞きたい事が山積みなようで、困惑しているウィザレナの問い返しが続く。生まれてからずっと、この地に居たというのに……。
ウィザレナの時間は、長様が盗賊に殺されてから止まったままだ。まだ、この地に名前が付いていなかった頃から。そして、『迫害の地』という名前が付いてからも、ずっと。
「この森に、凶暴な魔物や獣が溢れ返ってるように。他の地帯も同様、酷い有り様になってる。唯一安全に住めるとしたら、私達が居る『沼地帯』。それとこの森の隣にある、『花畑地帯』だけだ」
「そ、そんな……。あ、そうだ!」
表情が絶望の底に沈んでいったかと思いきや。すぐにウィザレナが声を上げ、絶望が振り払われた。
「長様から聞いた話だと、この森の隣にあるのは草原のはずだ。今は違うのか?」
「それは、かなり古い情報だぞ。いつ聞いた話なんだ?」
私も気になっていた事を質問にして返してみると、ウィザレナは左手で口を覆い隠し、天色の瞳を右へ逸らした。
そのまま硬直すると、眉間にシワが寄り。瞳がそっと閉じ、数秒して更に強く閉じていった。
「たぶん……、八、九百年前、ぐらいだと思う」
「きゅ、九百年前?」
「たぶんな。記憶が正しければ、大体そのぐらいだ」
……九百年前? もう、古いという騒ぎじゃない。よく書物に残っていたなという次元だ。流石に、それほど古いとは予想していなかった。『タート』があったかどうかすら怪しいぞ。
となると、ウィザレナは少なくとも九百歳以上になる。アルビスの、ほぼ倍……? 見た目は、二十歳ぐらいの女性とそんなに大差がないのに……。エルフって、とんでもなく長生きするんだな。
「……だ、だいぶ古いな。今は、心優しいゴーレムが住んでて、一帯に純白の花を植えて管理してるぞ」
「ゴーレム? それも魔物じゃないのか?」
「魔物だけども、花畑地帯に居るゴーレムはちょっと違う。人間の手によって造られ、そして廃棄された使用人とも言うべきか」
「使用人?」
「そう、元は使用人として造られた人工物だ。けど、不要な心と意思を持ってしまった為に、草原だった場所に廃棄されたらしい」
「なんなんだ、それ? 本当に救いようのない屑だな、人間って奴は。……あ、アカシック殿の事ではないから、気を悪くしないでくれ」
人間への憎悪が垣間見える本音を漏らすも、慌てて弁解を挟むウィザレナ。そのまま話を逸らすように、「それじゃあ」と声を暗くしつつも口を開いた。
「ゴーレムが居るって事はだ。その花畑となった草原には、もう盗賊は居ないのか?」
「まったく居ないし、他の地帯もそうだ。この地に住んでから九十年以上経つけども、盗賊なんて一度も見た事がない」
「九十年間、一度も……?」
今にも消えてしまいそうに呟いたウィザレナが、落胆と絶望が入り乱れたような表情になり、その顔を地面へ下げていった。
ゴーレムの件から、様子がおかしくなっていたが……。何かまずい事を言った気がする。今まで暴言を一度も吐いていなかったし、ゴーレムの説明が決定打となったのかもしれない。
気まずい雰囲気が漂い出し、次の説明が出てこない中。沈黙を貫いているウィザレナの見えない顔から、水らしき物がポタポタと落ち始めた。もしかして、泣いているのだろうか……?
おもむろに握った両手が、小刻みに震えている。その震えが腕、肩、上半身まで移ると、ウィザレナはゆっくりと顔を上げ、私に合わせてきた。
先ほどまでとは打って変わり、ウィザレナの表情は弱々しく。色白な両頬には、太い涙の線が走っていた。
「……もう、そんな昔から、盗賊はこの地から居なくなってたんだな。それを知らずに、百年近くも馬鹿みたいに怯えて暮らしてただなんて……。いきなりなだれ込んで来たかと思えば……、仲間を次々に攫って殺し。いつの間にか、また勝手に消えやがって……!」
とうとう我慢出来なくなったのだろう。誰にも届かなかった強い恨み辛みが、震えた口から溢れ出してきている。
「私達エルフは、人間に何かしたか……? してないよなぁ……? ただこの森で、静かに暮らしてただけなのに……。それなのに!! なんだこの仕打ちは!? 私は一体、なんの為に生まれてきたんだ!? ……一体、なんの為に……」
私はただ、奥歯を食いしばり、ウィザレナの恨みを聞く事だけしか出来ない。なんとももどかしい……。人間の代表として、土下座をして謝りたいというのに……。
けど、今のウィザレナは怒りと憎しみに囚われている。下手に謝れば、神経を逆撫でするかもしれない。何も出来ないこの状況が、本当に悔しいな……。
「……アカシック殿、私は人間が大嫌いだ。なんて身勝手な生き物なんだ、人間って奴は……。いきなり来て、仲間達を攫って殺し。この大地を穢して、勝手に居なくなった人間が、大嫌いだ……! クソッ! クソォッ!! ……悔しいよぉ、アカシック殿ぉ……」
一欠片の恨みを曝け出しだウィザレナが、私の胸元に顔を埋め、体を抱きしめながら本格的に泣き出してしまった。
……果たして私は、慰める為にウィザレナの体を抱き返してやってもいいのだろうか? そんな恐れ多い権利が、私にあるとは到底思えない。
ああ、心が痛い。ウィザレナの悲しくて重い嗚咽が耳に入る度に、何もしてやれない未熟な心が、際限なく締めつけられていく。
ウィザレナの後頭部を見ている視界が、逃げるように空を仰いだ。……人間である私は、ウィザレナを幸せにする事が出来るのだろうか?
それ以前に私は、エルフを幸せにする権利を持っているのか? 人間にとって、おこがましい行為なんじゃないか? ……もう、だんだん分からなくなってきた。
しかし、私はウィザレナを助けてやると言った。平和な沼地帯へ、連れていってやるとも言った。ならば、やる事はただ一つ。私なりに、ウィザレナを幸せにしてみせる。
権利が無くとも、私が人間であろうと関係ない。罪を背負えと言われたら、喜んで背負ってやる。とりあえず今は、ウィザレナの涙を受け取り続けていよう。
泣きたいほど悔しいけど、今の私には、それしか出来る事がないのだから。
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