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111話、不可能な約束
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『タート』に来てからというものの、足取りがずっと軽い。心身共に宙へ浮いている気分だ。
残り買う物は、肉、酒、アルビスに指定された書物、香辛料。野菜、魚は最高級品だったので、肉と酒、香辛料もそうなのだろが、もう驚かないぞ。たぶん。
各々の店先に並んでいる、美味しそうな食べ物の誘惑を振り払い、すれ違う人が食べている物に横目を送り、すいてきた小腹を無視つつ先へ進む。
おかしい。普段は間食なんてしないのに、今日はやたらと食べ物に目がいってしまう。どれも食べた事ないのだが、目に入る物全てが美味しそうに見えてくる。
だんだん誘惑が強くなってきたけど、私だけいい思いをするのは駄目だ。もしするのであれば、明日サニーと一緒にするべきだ。
……待てよ? 事前に味を把握しておけば、無駄な時間を省けて、サニーが食べたそうな物をすぐに決められるのでは?
いや、惑わされるな。その考えは、ただ自分の考えを正当化しているだけにすぎない。誘惑に負けず、冷静になれ。
鼻で呼吸すると、食欲を刺激してくる甘い匂いが入り込んでくるので、口で大きく息を吸い込み、吸った以上に吐く。
それを幾度となく繰り返していると、次の目的地である肉屋が見えてきた。深呼吸もしたし、今の私は非常に落ち着いている。どんな金額を提示されたとしても、軽く受け流せるだろう。
「すみません」
「はい。あっ、アカシックさんじゃないですか。どうも」
元気活発そうで、爽やかな好青年を思わせる笑みを浮かべた店員が、私にペコリと会釈をしてきた。
いつ見ても清々しい笑顔だ。私もいつか、こんな風に笑える日がくればいいのだが。
「今日は、どのお肉をお探しですか?」
「えっと、このメモに書かれてる物を下さい」
野菜屋のおばちゃん、魚屋のおじさん同様、肉屋の店員にメモを見せる。さあ、心の準備は、とうに出来ている。どんな金額を言われようとも、私は慄かないぞ。
生唾を飲み込み、店員の様子を窺っていると、店員は「はあ~」という、何とも悩ましそうな息を漏らした。
「アカシックさん、この街にお住みでしたっけ?」
「いえ、は……。き、近隣に住んでます」
危ない。思わず、流れるがままに『迫害の地』と言いかけてしまった。迫害の地に住んでいるだなんて、口が裂けても言える訳がない。
しかし、先に金額を言わず、なぜそんな事を聞いてきたんだ? 腕を組みながら首を傾げている所を見ると、何か悩んでいるようだが。
「う~ん、近隣かあ。冷やした布袋に包めば、なんとか持つかな?」
「どうしたんですか?」
「いやですね。このメモに書かれてるお肉、全てが最高級品でして。今日、日差しが強くて暑いじゃないですか。その日差しを長時間浴びると、お肉が温まって脂が溶けてきちゃうんですよ」
やはり、肉も最高級品だったか。けど、日差し程度の暑さで、肉の脂が出てくるものなのだろうか? 普通、火で焼かないと出てこないはずなのに。
きっと今日は、とんでもなく暑いのだろう。新薬の副作用は未だに健在なので、肌で温度を感じ取る事が出来ない私には、まったく分からない話だけども。
「そういえば、今日は特に暑いですけど。最高級品にもなると、すぐに脂が出てくるんですか?」
「ええ。脂身が葉脈のようにびっしりと巡ってて、それでいてかなり多く。手で触ってても、そのうち滲み出してきちゃうんですよ」
「はあ、繊細な肉なんですね」
「そうなんです。だから、なるべくお肉を温めないようにと、考えてる所なんですよ」
なるほど。持って帰っている途中に脂身が溶け出してきたら、布袋の中がとんでもない事になりそうだ。だが、それは普通に持って帰った場合である。
私は魔女なので、肉に『ふわふわ』を使えば触る事もないし。日差しについては、氷魔法で氷の箱でも作り、その中に入れてしまえばいい。私には関係のない問題だ。
「それなら大丈夫です」
「んっ。何か、いい方法でもあるんですか?」
「ええ、例えば……」
周囲を見渡し、手頃な小石が視界に入ったので、その小石に向けて指を鳴らして『ふわふわ』をかける。そのまま指招きをして、立てた人差し指の上まで持ってきた。
「こう、肉を浮かして持って帰ればいいですし」
やや驚いた表情をしている店員を差し置き。今度は左手で指を鳴らし、詠唱を省いた氷魔法を発動。同じく立てた人差し指の上に、小さな四角い氷を生成した。
「こうやって氷の箱を作って中に入れとけば、肉が冷えて、日差しで脂身が溶け出す事もないでしょう」
「はあ~……。アカシックさん、魔女だったんですね。知らなかったんで、ちょっと驚いちゃいました」
そう肩を落としながら本音を漏らし、目をぱちくりとさせる店員。が、すぐに爽やかな笑みを送ってきた。
「なら、問題ないですね。金貨七枚になりますけど、もう持ってっちゃいます?」
「ななっ……」
……不意を突かれてしまったけども、なんとか持ち堪える事が出来た。金貨七枚か。とんでもなく高いな……。
まあ、持ち運ぶ事すら難しい代物なんだ。きっと、この店に持ってくる間にも、相当な手間暇が掛かっているのだろう。
「あ、あいえ。まだ買い出しがあるので、後で取りに来ます」
「そうですか、分かりました。それじゃあ、待ってますね」
が、やはり肉体は正直なようで。金貨七枚を持っている私の手が、小刻みに震えていた。店を後にする足もそう。ちゃんと真っ直ぐ歩けていない。ちょっと歩幅狭めよう。
さて、野菜が金貨一枚。魚が金貨五枚。肉が金貨七枚か。流石に、酒はそこまで高くないだろう。かつて、この街でヴェルインと一緒に酒を樽ごと購入した時、その酒は銀貨十枚程度だった。
ならば今から購入する酒は、多く見積もっても、せいぜい金貨一枚が関の山。所詮、副作用が多いただの液体よ。恐れる事なぞ何もない。
酒屋はすぐ近くにあるが、心の落ち着きは取り戻している。たとえ、予想以上の金額を言われたとしても、私の気持ちは平常心を保ったままだ。
そう確信しつつ、ややおぼつかない足取りで店の前まで行き、小奇麗な扉を開ける。ほぼ同時、扉に取り付けられていた鈴が、『カランコロン』と鳴った。
「いらっしゃい。おや」
鈴の音に気付いた店主が、私に顔を合わすや否や。口角を緩やかに上げ、老紳士に恥じぬ笑みを見せつけてきた。
白髪を後ろ流した髪型。鼻の下に生やしている、灰色の髭。使用人でもやっていたのか、若々しく背筋を伸ばして立っている店主。
その店主が、酒瓶が綺麗に並んでいるカウンター越しから、礼儀正しいお辞儀をした。
「あなた様は、いつぞやの」
「ここには一回しか来た事がないのに、覚えててくれたんですか?」
「ええ。ウェアウルフ様と共に、ご来店なされましたよね。確か名前は、アカシック様」
「そうです、アカシックです」
前に少しだけ話した事があるけども、やはり品の高い喋り方だ。思わず緊張して、畏まってしまうほどに。
「おお、やはり。今日は、お一人なのですね」
「はい。買い出しを頼まれたので、またここに来ました」
「それはそれは。私の店を選んで頂きまして、誠にありがとうございます。して、どのようなお酒をお求めで?」
「こちらのメモに書かれた酒を、一つだけ下さい」
落ち着いたまま内懐からメモを取り出し、そのメモを店主の顔前で持っていく。店主がメモを見た直後、「むっ」と詰まった声を発し、眉間に浅いシワが寄った。
先ほどの店員達と同じ反応だ。すなわち、この酒も最高級品だという事を意味する。ここまでは想定内。そして、店主が険しい顔を私に合わせてきた。さあ、問題の時間が始まるぞ。
「アカシック様、ご予算のほどは?」
「予算ですか? 金貨三十枚ほどあります」
「ふむ。他にも高級食材の名が連なっておりますが、ご購入の方はお済ませで?」
「ええ、後は香辛料ぐらいです」
「香辛料だけ。なら、大丈夫か……」
顎を手で擦り、真剣な眼差しでメモを吟味する店主。金貨三十枚もあるんだ、大丈夫に決まっている。
後は、何食わぬ顔で酒を購入し、店から出るだけだ。ひとまず、先に金を払っておかなければ。
「すみません。酒は後で取りに来ますので、先に金を払っておきますね。いくらでしょうか?」
「いくら? アカシック様、このお酒の値段を知らないのですか?」
「はい。聞いた事も見た事もないので、何も知らないです」
「はあ……。このお酒について、何も知らないと。まあ、いいでしょう」
やや狼狽えている店主をよそに、私は内懐から金貨が入っている袋をサッと取り出す。金貨は、数枚出しておけば足りるだろう。なんなら、大量のおつりが来るかもしれないな。
「こちらのお酒、金貨二十八枚になります」
「金貨二十八枚、はあっ!? 金貨二十八枚ぃ!?」
うっかり風魔法を発動させてしまったのか。私の叫び声を浴びた店主の髭が、僅かに右へたなびいた。やや遅れて、金貨が入った袋を持っていた手が軽くなり、足元から『ドシャ』という鈍い音が響いてきた。
酒が、金貨二十八枚……? 有り得ない。金貨二十八枚もあれば、一階層の一角にある部屋が買えるぞ? 嘘だろ? 二枚か八枚と、聞き間違えたか?
「き、きんか、にじゅう、はち、まい……?」
「はい。金貨二十八枚になります」
……聞き間違えていなかった。合っていた、合っていてしまった。唖然として次の言葉が出てこなく、店主を見据えている開けた視界が、高速で何度も瞬きしている。
「そのご様子ですと、本当に何も知らされていないようですね」
「ひゃ、ひゃい……。料理に使うからとだけ言われて、メモを渡しゃれ、まひた……」
「なに、料理ッ!?」
「ふぉあっ!?」
店主の興奮気味に荒いだ叫びに、体を大きく波立たせる私。なんだ、何があった!? 今までおっとりしていた店主の瞳が、ランプの光よりも眩く輝き出したぞ!?
「ほほうっ! このお酒を料理に使うッ! 実に素晴らしいッ!」
「あ、あの……?」
「アカシック様! 万能薬をご存知でしょうか!?」
「ば、万能薬、ですか? はい、知ってます」
万能薬。万物の病を治し、致命傷すら瞬く間に治す薬の総称。効果は劣るものの、私が作った秘薬がそれに近い。
「知っているのであれば話は早い! このお酒、別名『料理の万能酒』と言いましてねえ! 肉の臭みはもちろんの事! 数分浸せば、魚の生臭さも無くなりッ! 野菜の青臭さをも掻き消す代物です! だがしかあしッ! 素材本来の風味は一切落とさず、むしろ旨味を凝縮させッ! ごく普通の食材を、高級食材の味へと昇華させる事が出来るのです! けれどもッ! このお酒を購入していく方々にいくら説明をしようとも、勿体ないと一蹴され、嗜む事しかしないのです! いやあ、実に素晴らしいッ……!」
大袈裟な動作をして叫び上げていた店主が、目のふちに指を当て、とうとう泣き出してしまった。なんだろう。今の店主は、嬉々としている時のアルビスと、そことなく似ている気がする。
日頃から紳士的な振る舞いをしている者は、興奮するとこうなってしまうのだろうか? 短絡的な考えだけども、それだと頷けてしまう。
「……アカシック様。このお酒を購入すると言ったお方と、相見える事は可能でしょうか?」
「相見える? なぜ会いたいんですか?」
「それはもちろん、そのお方と語り明かしたいのです。このお酒を料理に使ってくれるお方は、ここ二階層では存在しておりません。故に、非常に寂しい思いをしておりましてねえ……」
感涙を流し続けていた店主の涙が、あからさまな悲涙へと変わっていく。語っている口は、店主の感情が満遍なく乗っているのか、震えに震えている。
けど、今は不可能は相談だ。店主が言っている事は、アルビスをこの街へ連れて来いと言っているようなもの。それだとあいつは拒否するだろうし、私も賛成出来ない。
「すみません。今は無理です」
「おお、そうですか……。そうキッパリと言われてしまいますと、理由を尋ねる事も出来ませんね……」
よかった、すんなりと諦めてくれた。しかし、店主の悲しみが深い項垂れようよ。見ていて心が痛くなってくるし、軽い罪悪感が湧いてきてしまった。
「期待に応えられず、本当にすみません」
「いえ、謝らないで下さい。これは、単なる私のワガママなのですから」
そう店主は微笑んでみせたけども、なんとも孤独が垣間見える笑みだ。しばらくの間、この儚い笑みは頭から離れそうにないな。
「そう、ですか、分かりました。それじゃあ、お金だけ先に払っておきますね」
これ以上話を続けるのも悪いので、私はいつの間にか落ちていた袋を拾い、金貨二十八枚を店主に渡し、逃げる様に外へと出た。
重苦しい空気から一転、活気に溢れている風が、私の肌を撫でていく。
「ふう……。なんだか疲れてしまったな」
かなり萎んでしまった袋を内懐にしまい込み、もう一度だけため息をつく。今日はまだ半日も経っていないのに、気分の浮き沈みがやたらと激しい。
この疲れは、きっと気疲れなのだろう。あまり慣れない疲れ方をしてしまったから、書物屋を目指している足取りも重い。表情にも出ていそうだ。
疲れた顔で家には戻りたくないから、後で休憩を挟みつつ、元気が出る物を食べてしまうか。すまないサニー。誘惑に負けた私を、許してくれ。
残り買う物は、肉、酒、アルビスに指定された書物、香辛料。野菜、魚は最高級品だったので、肉と酒、香辛料もそうなのだろが、もう驚かないぞ。たぶん。
各々の店先に並んでいる、美味しそうな食べ物の誘惑を振り払い、すれ違う人が食べている物に横目を送り、すいてきた小腹を無視つつ先へ進む。
おかしい。普段は間食なんてしないのに、今日はやたらと食べ物に目がいってしまう。どれも食べた事ないのだが、目に入る物全てが美味しそうに見えてくる。
だんだん誘惑が強くなってきたけど、私だけいい思いをするのは駄目だ。もしするのであれば、明日サニーと一緒にするべきだ。
……待てよ? 事前に味を把握しておけば、無駄な時間を省けて、サニーが食べたそうな物をすぐに決められるのでは?
いや、惑わされるな。その考えは、ただ自分の考えを正当化しているだけにすぎない。誘惑に負けず、冷静になれ。
鼻で呼吸すると、食欲を刺激してくる甘い匂いが入り込んでくるので、口で大きく息を吸い込み、吸った以上に吐く。
それを幾度となく繰り返していると、次の目的地である肉屋が見えてきた。深呼吸もしたし、今の私は非常に落ち着いている。どんな金額を提示されたとしても、軽く受け流せるだろう。
「すみません」
「はい。あっ、アカシックさんじゃないですか。どうも」
元気活発そうで、爽やかな好青年を思わせる笑みを浮かべた店員が、私にペコリと会釈をしてきた。
いつ見ても清々しい笑顔だ。私もいつか、こんな風に笑える日がくればいいのだが。
「今日は、どのお肉をお探しですか?」
「えっと、このメモに書かれてる物を下さい」
野菜屋のおばちゃん、魚屋のおじさん同様、肉屋の店員にメモを見せる。さあ、心の準備は、とうに出来ている。どんな金額を言われようとも、私は慄かないぞ。
生唾を飲み込み、店員の様子を窺っていると、店員は「はあ~」という、何とも悩ましそうな息を漏らした。
「アカシックさん、この街にお住みでしたっけ?」
「いえ、は……。き、近隣に住んでます」
危ない。思わず、流れるがままに『迫害の地』と言いかけてしまった。迫害の地に住んでいるだなんて、口が裂けても言える訳がない。
しかし、先に金額を言わず、なぜそんな事を聞いてきたんだ? 腕を組みながら首を傾げている所を見ると、何か悩んでいるようだが。
「う~ん、近隣かあ。冷やした布袋に包めば、なんとか持つかな?」
「どうしたんですか?」
「いやですね。このメモに書かれてるお肉、全てが最高級品でして。今日、日差しが強くて暑いじゃないですか。その日差しを長時間浴びると、お肉が温まって脂が溶けてきちゃうんですよ」
やはり、肉も最高級品だったか。けど、日差し程度の暑さで、肉の脂が出てくるものなのだろうか? 普通、火で焼かないと出てこないはずなのに。
きっと今日は、とんでもなく暑いのだろう。新薬の副作用は未だに健在なので、肌で温度を感じ取る事が出来ない私には、まったく分からない話だけども。
「そういえば、今日は特に暑いですけど。最高級品にもなると、すぐに脂が出てくるんですか?」
「ええ。脂身が葉脈のようにびっしりと巡ってて、それでいてかなり多く。手で触ってても、そのうち滲み出してきちゃうんですよ」
「はあ、繊細な肉なんですね」
「そうなんです。だから、なるべくお肉を温めないようにと、考えてる所なんですよ」
なるほど。持って帰っている途中に脂身が溶け出してきたら、布袋の中がとんでもない事になりそうだ。だが、それは普通に持って帰った場合である。
私は魔女なので、肉に『ふわふわ』を使えば触る事もないし。日差しについては、氷魔法で氷の箱でも作り、その中に入れてしまえばいい。私には関係のない問題だ。
「それなら大丈夫です」
「んっ。何か、いい方法でもあるんですか?」
「ええ、例えば……」
周囲を見渡し、手頃な小石が視界に入ったので、その小石に向けて指を鳴らして『ふわふわ』をかける。そのまま指招きをして、立てた人差し指の上まで持ってきた。
「こう、肉を浮かして持って帰ればいいですし」
やや驚いた表情をしている店員を差し置き。今度は左手で指を鳴らし、詠唱を省いた氷魔法を発動。同じく立てた人差し指の上に、小さな四角い氷を生成した。
「こうやって氷の箱を作って中に入れとけば、肉が冷えて、日差しで脂身が溶け出す事もないでしょう」
「はあ~……。アカシックさん、魔女だったんですね。知らなかったんで、ちょっと驚いちゃいました」
そう肩を落としながら本音を漏らし、目をぱちくりとさせる店員。が、すぐに爽やかな笑みを送ってきた。
「なら、問題ないですね。金貨七枚になりますけど、もう持ってっちゃいます?」
「ななっ……」
……不意を突かれてしまったけども、なんとか持ち堪える事が出来た。金貨七枚か。とんでもなく高いな……。
まあ、持ち運ぶ事すら難しい代物なんだ。きっと、この店に持ってくる間にも、相当な手間暇が掛かっているのだろう。
「あ、あいえ。まだ買い出しがあるので、後で取りに来ます」
「そうですか、分かりました。それじゃあ、待ってますね」
が、やはり肉体は正直なようで。金貨七枚を持っている私の手が、小刻みに震えていた。店を後にする足もそう。ちゃんと真っ直ぐ歩けていない。ちょっと歩幅狭めよう。
さて、野菜が金貨一枚。魚が金貨五枚。肉が金貨七枚か。流石に、酒はそこまで高くないだろう。かつて、この街でヴェルインと一緒に酒を樽ごと購入した時、その酒は銀貨十枚程度だった。
ならば今から購入する酒は、多く見積もっても、せいぜい金貨一枚が関の山。所詮、副作用が多いただの液体よ。恐れる事なぞ何もない。
酒屋はすぐ近くにあるが、心の落ち着きは取り戻している。たとえ、予想以上の金額を言われたとしても、私の気持ちは平常心を保ったままだ。
そう確信しつつ、ややおぼつかない足取りで店の前まで行き、小奇麗な扉を開ける。ほぼ同時、扉に取り付けられていた鈴が、『カランコロン』と鳴った。
「いらっしゃい。おや」
鈴の音に気付いた店主が、私に顔を合わすや否や。口角を緩やかに上げ、老紳士に恥じぬ笑みを見せつけてきた。
白髪を後ろ流した髪型。鼻の下に生やしている、灰色の髭。使用人でもやっていたのか、若々しく背筋を伸ばして立っている店主。
その店主が、酒瓶が綺麗に並んでいるカウンター越しから、礼儀正しいお辞儀をした。
「あなた様は、いつぞやの」
「ここには一回しか来た事がないのに、覚えててくれたんですか?」
「ええ。ウェアウルフ様と共に、ご来店なされましたよね。確か名前は、アカシック様」
「そうです、アカシックです」
前に少しだけ話した事があるけども、やはり品の高い喋り方だ。思わず緊張して、畏まってしまうほどに。
「おお、やはり。今日は、お一人なのですね」
「はい。買い出しを頼まれたので、またここに来ました」
「それはそれは。私の店を選んで頂きまして、誠にありがとうございます。して、どのようなお酒をお求めで?」
「こちらのメモに書かれた酒を、一つだけ下さい」
落ち着いたまま内懐からメモを取り出し、そのメモを店主の顔前で持っていく。店主がメモを見た直後、「むっ」と詰まった声を発し、眉間に浅いシワが寄った。
先ほどの店員達と同じ反応だ。すなわち、この酒も最高級品だという事を意味する。ここまでは想定内。そして、店主が険しい顔を私に合わせてきた。さあ、問題の時間が始まるぞ。
「アカシック様、ご予算のほどは?」
「予算ですか? 金貨三十枚ほどあります」
「ふむ。他にも高級食材の名が連なっておりますが、ご購入の方はお済ませで?」
「ええ、後は香辛料ぐらいです」
「香辛料だけ。なら、大丈夫か……」
顎を手で擦り、真剣な眼差しでメモを吟味する店主。金貨三十枚もあるんだ、大丈夫に決まっている。
後は、何食わぬ顔で酒を購入し、店から出るだけだ。ひとまず、先に金を払っておかなければ。
「すみません。酒は後で取りに来ますので、先に金を払っておきますね。いくらでしょうか?」
「いくら? アカシック様、このお酒の値段を知らないのですか?」
「はい。聞いた事も見た事もないので、何も知らないです」
「はあ……。このお酒について、何も知らないと。まあ、いいでしょう」
やや狼狽えている店主をよそに、私は内懐から金貨が入っている袋をサッと取り出す。金貨は、数枚出しておけば足りるだろう。なんなら、大量のおつりが来るかもしれないな。
「こちらのお酒、金貨二十八枚になります」
「金貨二十八枚、はあっ!? 金貨二十八枚ぃ!?」
うっかり風魔法を発動させてしまったのか。私の叫び声を浴びた店主の髭が、僅かに右へたなびいた。やや遅れて、金貨が入った袋を持っていた手が軽くなり、足元から『ドシャ』という鈍い音が響いてきた。
酒が、金貨二十八枚……? 有り得ない。金貨二十八枚もあれば、一階層の一角にある部屋が買えるぞ? 嘘だろ? 二枚か八枚と、聞き間違えたか?
「き、きんか、にじゅう、はち、まい……?」
「はい。金貨二十八枚になります」
……聞き間違えていなかった。合っていた、合っていてしまった。唖然として次の言葉が出てこなく、店主を見据えている開けた視界が、高速で何度も瞬きしている。
「そのご様子ですと、本当に何も知らされていないようですね」
「ひゃ、ひゃい……。料理に使うからとだけ言われて、メモを渡しゃれ、まひた……」
「なに、料理ッ!?」
「ふぉあっ!?」
店主の興奮気味に荒いだ叫びに、体を大きく波立たせる私。なんだ、何があった!? 今までおっとりしていた店主の瞳が、ランプの光よりも眩く輝き出したぞ!?
「ほほうっ! このお酒を料理に使うッ! 実に素晴らしいッ!」
「あ、あの……?」
「アカシック様! 万能薬をご存知でしょうか!?」
「ば、万能薬、ですか? はい、知ってます」
万能薬。万物の病を治し、致命傷すら瞬く間に治す薬の総称。効果は劣るものの、私が作った秘薬がそれに近い。
「知っているのであれば話は早い! このお酒、別名『料理の万能酒』と言いましてねえ! 肉の臭みはもちろんの事! 数分浸せば、魚の生臭さも無くなりッ! 野菜の青臭さをも掻き消す代物です! だがしかあしッ! 素材本来の風味は一切落とさず、むしろ旨味を凝縮させッ! ごく普通の食材を、高級食材の味へと昇華させる事が出来るのです! けれどもッ! このお酒を購入していく方々にいくら説明をしようとも、勿体ないと一蹴され、嗜む事しかしないのです! いやあ、実に素晴らしいッ……!」
大袈裟な動作をして叫び上げていた店主が、目のふちに指を当て、とうとう泣き出してしまった。なんだろう。今の店主は、嬉々としている時のアルビスと、そことなく似ている気がする。
日頃から紳士的な振る舞いをしている者は、興奮するとこうなってしまうのだろうか? 短絡的な考えだけども、それだと頷けてしまう。
「……アカシック様。このお酒を購入すると言ったお方と、相見える事は可能でしょうか?」
「相見える? なぜ会いたいんですか?」
「それはもちろん、そのお方と語り明かしたいのです。このお酒を料理に使ってくれるお方は、ここ二階層では存在しておりません。故に、非常に寂しい思いをしておりましてねえ……」
感涙を流し続けていた店主の涙が、あからさまな悲涙へと変わっていく。語っている口は、店主の感情が満遍なく乗っているのか、震えに震えている。
けど、今は不可能は相談だ。店主が言っている事は、アルビスをこの街へ連れて来いと言っているようなもの。それだとあいつは拒否するだろうし、私も賛成出来ない。
「すみません。今は無理です」
「おお、そうですか……。そうキッパリと言われてしまいますと、理由を尋ねる事も出来ませんね……」
よかった、すんなりと諦めてくれた。しかし、店主の悲しみが深い項垂れようよ。見ていて心が痛くなってくるし、軽い罪悪感が湧いてきてしまった。
「期待に応えられず、本当にすみません」
「いえ、謝らないで下さい。これは、単なる私のワガママなのですから」
そう店主は微笑んでみせたけども、なんとも孤独が垣間見える笑みだ。しばらくの間、この儚い笑みは頭から離れそうにないな。
「そう、ですか、分かりました。それじゃあ、お金だけ先に払っておきますね」
これ以上話を続けるのも悪いので、私はいつの間にか落ちていた袋を拾い、金貨二十八枚を店主に渡し、逃げる様に外へと出た。
重苦しい空気から一転、活気に溢れている風が、私の肌を撫でていく。
「ふう……。なんだか疲れてしまったな」
かなり萎んでしまった袋を内懐にしまい込み、もう一度だけため息をつく。今日はまだ半日も経っていないのに、気分の浮き沈みがやたらと激しい。
この疲れは、きっと気疲れなのだろう。あまり慣れない疲れ方をしてしまったから、書物屋を目指している足取りも重い。表情にも出ていそうだ。
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