68 / 296
67話、腹がへっては目的を果たせぬ
しおりを挟む
「む。サニー、海が見えてきたぞ」
「えっ、どこどこっ!? ……うわぁ~っ!」
景観が毒々しい湿地帯に入り、限界速度で飛び続けて、早三十分。ようやく湿地帯の端まだ来れたようで、突出した黒い岩肌が目立つ草原の向こう側に、目的地の海が見えてきた。
太陽の光を乱反射させている、空の色とはまた違う雄大な青。懐かしさを覚えるチカチカとした光だ。思わず目が眩み、顔を逸らしてしまいたいほどに。
「海だーっ! 空が下にもあるみたいっ!」
「波が穏やかなら太陽が海に映るだろうし、あながち間違いではないな」
そう、穏やかであればの話だ。ここは迫害の地である。もちろん普通の海じゃない。街にある平和な海とは違い、海面の下には、海に住んでいる魔物が大量に蠢いている。
なので年中争いが絶えず、魔物の骨が砂浜に流れ着いてくる訳だ。もうここからでも、砂浜から突き出した骨が見えている。かなり大きい。もしあの骨が竜の類(たぐい)であれば、ファートが喜ぶだろう。
嬉々とした声を上げ続けているサニーをよそに、更に海へ近づいていく。草原を飛び越え、数多の骨をサニーの視界に入れたくないので、砂浜を少し通り越してから止まった。
「ざざ~ん、ざざ~んって音がするっ。これが波の音かぁ」
「ああ、心地いい音だな」
他の雑音は一切無いので、さざ波の音だけが等間隔に聞こえてくる。やはりこの音を聞くと、自然と瞼を閉じてしまい、頭の中にピースの顔が浮かんでくるな。
幼少期の頃、私達を拾ってくれた『レム』さんの教会で共に暮らし。私に『アカシック』という名前を付けてくれた、とても頼れる父のような存在であり。
常に傍に寄り添い合っていた、優しい兄のような男であり。私の心の拠り所で、結婚まで誓ってくれた、大切な彼であるピース。ああ、逢いたいなぁ。
「お母さんお母さん、早く下に降りよっ!」
「む」
興奮しているサニーが催促してくるも、私の頭の中からは、ピースの顔は消えない。海に居る間は、消える事は決してないだろう。
サニーは、ああ言っているが、今日は地面には降りない。砂浜の景観は骨で禍々しさを極めているし、砂浜の下には魔物がそこら中に潜んでいるので、かなり危険なのだ。
「ちょっと待ってろ。面白い場所を作ってやる」
そう焦らす様に言った私は指を鳴らし、箒の先にぶら下げてある布袋の中に入っている、大きな一枚布に『ふわふわ』をかけた。
すると、大きな一枚布が布袋からふわりと抜け出し、くるまっていた身を伸ばしていく。そして、私達の隣まで引き寄せると、今度はサニーの体に『ふわふわ』をかけ、大きな一枚布の上に座らせた。
「今日は、そこで過ごすぞ」
「わ、わっ、これ知ってる! 魔法の絨毯だ!」
絵本で知った知識を披露し、青い瞳をキラキラと輝かせ、ぱふぱふと一枚布を叩き出すサニー。そのはしゃぎ倒している姿は、さながら名の無い童話の主人公。
魔法の絨毯を手に入れたサニーの不思議な冒険は、これから始まろうとしている。……待てよ? そうか、私が絵本の物語を書くのもアリだな。絵は壊滅的に下手なので、書くとしたら小説か。
題名は『サニーと魔法の絨毯』。いや、ありきたりだな。『サニーと不思議な魔法の絨毯』……む? 前とほとんど変わってないじゃないか。『サニーとすごい魔法の絨毯』。……ああ、分かった。こっちも絶望的にダメだ。恥を掻く前にやめておこう……。
全てを始める前から諦めた私も、布袋を手に持ってから自分の体に『ふわふわ』をかけ、魔法の絨毯と化した一枚布に移動する。
正座をしながら布袋を置き、箒からぶら下がっている状態のファートに顔をやった。
「ファート、起きろ。海に着いたぞ」
「うにゅ……、海ぃ~……? おおっ!?」
傍から見ると吊るされた白骨にしか見えないファートが、海を認めるや否や。目の部分に黄色の眼光が灯った。なるほど、こいつも興奮し出したな。
「な、ちょっ、なんだこの縄ッ!? ファーストレディ、我に括り付けられてる縄を解いてくれ!」
「括り付けてくれとか、解いてくれとか、注文が多い奴だな」
ボヤきつつも、私は箒をこちら側に寄せ、ファートの体に括り付けた縄を解こうとする。
が、飛んでいる間に力が加わっていったのか、固く締まり過ぎて解けそうにもない。仕方ない、風魔法で切ってしまおう。
指を鳴らし続けて、小さな風の刃を何度も呼び出す。ファートの骨に傷を付けぬよう調整し、縄を少しずつ切っていった。
「もうちょい、もうちょいで切れるああぁぁぁぁぁ……」
もう少しで切れようとしていたのが……。一皮繋がりだった縄が、ファートの軽い重みに耐え兼ねたのか。突然ブツンと切れてしまい、そのままファートが落下していった。
サニーが「あっ!」と驚きながら下の様子を覗きに行ったので、私もサニーの体を覆う形で後を追う。
大小様々な骨が散乱している浜辺を確認してみると、その中で宙に浮いている生き生きとしている骸骨が、私達に向かって元気よく手を振っていた。
「ありがとよ、ファーストレディ! しばらく好き勝手やらせてもらうから、帰る時になったら声をかけてくれ!」
「ああ、分かった」
「ほっ……。ファートさん、いってらっしゃーい!」
私の体の下に居るサニーが、安心した様な息を漏らし、ファートに負けじと小さな手を大きく振り返す。
ファートも風魔法を使えて、宙に浮かべるのは知っていたので私は驚かなかったが。本当に優しい愛娘だな、サニーは。
……そういえばファートは、物体をすり抜けられる幽体にもなれたはず。わざわざ縄を切らなくても大丈夫だったじゃないか。
「それじゃあサニー、絵を描くか?」
「描く! ……あっ」
当初の目的を思い出させてあげたと同時に、サニーの腹から『くぅ』と小動物を思わせるような腹の虫が鳴った。
その音がしてからサニーは自分の腹に顔をやり、真顔になっている顔を私に合わせてきた後、恥ずかし気に苦笑いをする。
「絵を描く前に、昼食にするか」
「うんっ、お腹ぺこぺこになっちゃった」
私の家から海まで来るのに、おおよそ二、三時間といった所か。朝早く家から出たので、昼食にはまだ早いが、サニーの腹事情を優先しよう。
一枚布の中央へ戻り、布袋を漁る。中から昼食用のパンを二つ、精霊の泉の水が入っている容器を取り出し、パンをサニーに差し出した。
「ほら、焦って食べるなよ?」
「ありがとう!」
両手で大事そうにパンを受け取ったサニーが、私の言う事を聞かずにパンを一気に頬張り、満面の笑みで口を動かし出す。
この頬が膨らんでいるサニーが、また可愛いんだ。ずっと見ていられる。けれども、喉にパンを詰まらせるといけないので、水が入っている容器をサニーの前に置いた。
「パンを飲み込んだら、すぐに飲め」
まだ口の中にパンが入っているので、黙ったまま大袈裟に頷くサニー。腹はへっていないけども、私もパンを食べてしまうか。
前までは新薬の副作用で、食事や睡眠をしなくても平気な体になっていたが。サニーと接していく内に、この二つの副作用は治ってしまっていた。
睡眠の方は、ゴーレム達を助けた後に治り。食事の方は、気が付いたら治っていた。たぶん、サニーの食事を作り出してからだろう。となると、かなり前になるな。
あと体に残っている副作用は、致命傷を負わなければ死なない中途半端な不老と、肌で熱さ、寒さを感じ取れないといった、この二つのみ。
不老は、ピースを生き返らせるまで残っていてほしいが、肌で熱さ、寒さを感じ取れないのは、今すぐにでも消え去ってほしい。
理由は単純明快。サニーの体の温かさが、私の肌で感じ取れないからだ。忌々しいにもほどがある。この副作用を早く治したくて、これまで何kg分の秘薬を飲んだ事か……。
目の前にある幸せを感じ取れないまま、やきもきしながらパンを齧る。噛んだ野菜から染み出した酸味が、口の中に広がった途端、『ぐぅ~』という低い音が耳に入り込んできた。
……なんだ、今の聞くに堪えない音は? 腹の虫の音に似ていたが、決してサニーの物ではない。断言出来る。となると、必然的に今の音は―――。
「お母さんもお腹がペコペコだったんだね」
「……そうみたいだな」
やはり、私の腹から鳴った音か……。野菜の酸味で食欲が刺激されたのだろうか? 一つパンを食べ終えたけども、腹は満たされずにへるばかり。野菜を挟んだパンは六つ作ったので、もう一つ食べてしまおう。
「あっ、待ってお母さん! 先に私にちょうだい!」
「む? そんなに腹がへってたのか。ほら」
パンに手を伸ばすと、遮るようにサニーが催促してきたので、手に持ったパンをサニーに渡す。するとサニーは、貰ったパンを綺麗に二つに割り、片方を私に戻してきた。
「はいっ、半分あげる」
サニーのやりたい事が分からないものの、せっかくなので半分に割れたパンを貰う私。
「何がやりたかったんだ?」
「えっとね。絵本でこんな事をやってた親子がいたから、私もやってみたくなったの。二人ともね、おいしいって言いながら食べてたんだ」
「なるほどな」
つまり、サニーがしたこの行為は、絵本の再現という訳か。ならば私は、それに乗っかるべきだな。
次に言う台詞を頭の中で考えながらパンを大きく齧り、よく噛んでから飲み込んだ。
「うん。サニーがくれたパンは、すごく美味いな」
「ほんと? じゃあ次は、お母さんがパンを半分こにして、私にちょうだい!」
「ああ、分かった。なら特別に、もっと美味くなるおまじないをかけてやろう」
「うわぁ~、やった! 楽しみだなぁ」
私が分けたパンを早く食べたいのか、持っているパンを急いで食べ出すサニー。今言った私の言葉は、台詞ではなく本音である。
サニーがくれたパンには、今まで感じた事のない味が含まれていた。たぶんこの味は、サニーがパンに加えてくれた、幸せの味なのだろう。
食べた瞬間、心身共にほっとするような優しさと。体では感じ取れなかったが、心で娘の温かみを感じ取れたような、幸せがとても深い味だった。
体では感じないが、心で確かに感じ取れた。どうやら新薬の副作用は、私の心まで冒す事は出来なかったようだ。それとも、たった今治ったのだろうか?
まあ、それはもうどうでもいい。今は無駄な事を一切考えず、サニーと食事を楽しんでいよう。私の心が温かな幸せで満たされていく、サニーとの楽しい食事を。
「えっ、どこどこっ!? ……うわぁ~っ!」
景観が毒々しい湿地帯に入り、限界速度で飛び続けて、早三十分。ようやく湿地帯の端まだ来れたようで、突出した黒い岩肌が目立つ草原の向こう側に、目的地の海が見えてきた。
太陽の光を乱反射させている、空の色とはまた違う雄大な青。懐かしさを覚えるチカチカとした光だ。思わず目が眩み、顔を逸らしてしまいたいほどに。
「海だーっ! 空が下にもあるみたいっ!」
「波が穏やかなら太陽が海に映るだろうし、あながち間違いではないな」
そう、穏やかであればの話だ。ここは迫害の地である。もちろん普通の海じゃない。街にある平和な海とは違い、海面の下には、海に住んでいる魔物が大量に蠢いている。
なので年中争いが絶えず、魔物の骨が砂浜に流れ着いてくる訳だ。もうここからでも、砂浜から突き出した骨が見えている。かなり大きい。もしあの骨が竜の類(たぐい)であれば、ファートが喜ぶだろう。
嬉々とした声を上げ続けているサニーをよそに、更に海へ近づいていく。草原を飛び越え、数多の骨をサニーの視界に入れたくないので、砂浜を少し通り越してから止まった。
「ざざ~ん、ざざ~んって音がするっ。これが波の音かぁ」
「ああ、心地いい音だな」
他の雑音は一切無いので、さざ波の音だけが等間隔に聞こえてくる。やはりこの音を聞くと、自然と瞼を閉じてしまい、頭の中にピースの顔が浮かんでくるな。
幼少期の頃、私達を拾ってくれた『レム』さんの教会で共に暮らし。私に『アカシック』という名前を付けてくれた、とても頼れる父のような存在であり。
常に傍に寄り添い合っていた、優しい兄のような男であり。私の心の拠り所で、結婚まで誓ってくれた、大切な彼であるピース。ああ、逢いたいなぁ。
「お母さんお母さん、早く下に降りよっ!」
「む」
興奮しているサニーが催促してくるも、私の頭の中からは、ピースの顔は消えない。海に居る間は、消える事は決してないだろう。
サニーは、ああ言っているが、今日は地面には降りない。砂浜の景観は骨で禍々しさを極めているし、砂浜の下には魔物がそこら中に潜んでいるので、かなり危険なのだ。
「ちょっと待ってろ。面白い場所を作ってやる」
そう焦らす様に言った私は指を鳴らし、箒の先にぶら下げてある布袋の中に入っている、大きな一枚布に『ふわふわ』をかけた。
すると、大きな一枚布が布袋からふわりと抜け出し、くるまっていた身を伸ばしていく。そして、私達の隣まで引き寄せると、今度はサニーの体に『ふわふわ』をかけ、大きな一枚布の上に座らせた。
「今日は、そこで過ごすぞ」
「わ、わっ、これ知ってる! 魔法の絨毯だ!」
絵本で知った知識を披露し、青い瞳をキラキラと輝かせ、ぱふぱふと一枚布を叩き出すサニー。そのはしゃぎ倒している姿は、さながら名の無い童話の主人公。
魔法の絨毯を手に入れたサニーの不思議な冒険は、これから始まろうとしている。……待てよ? そうか、私が絵本の物語を書くのもアリだな。絵は壊滅的に下手なので、書くとしたら小説か。
題名は『サニーと魔法の絨毯』。いや、ありきたりだな。『サニーと不思議な魔法の絨毯』……む? 前とほとんど変わってないじゃないか。『サニーとすごい魔法の絨毯』。……ああ、分かった。こっちも絶望的にダメだ。恥を掻く前にやめておこう……。
全てを始める前から諦めた私も、布袋を手に持ってから自分の体に『ふわふわ』をかけ、魔法の絨毯と化した一枚布に移動する。
正座をしながら布袋を置き、箒からぶら下がっている状態のファートに顔をやった。
「ファート、起きろ。海に着いたぞ」
「うにゅ……、海ぃ~……? おおっ!?」
傍から見ると吊るされた白骨にしか見えないファートが、海を認めるや否や。目の部分に黄色の眼光が灯った。なるほど、こいつも興奮し出したな。
「な、ちょっ、なんだこの縄ッ!? ファーストレディ、我に括り付けられてる縄を解いてくれ!」
「括り付けてくれとか、解いてくれとか、注文が多い奴だな」
ボヤきつつも、私は箒をこちら側に寄せ、ファートの体に括り付けた縄を解こうとする。
が、飛んでいる間に力が加わっていったのか、固く締まり過ぎて解けそうにもない。仕方ない、風魔法で切ってしまおう。
指を鳴らし続けて、小さな風の刃を何度も呼び出す。ファートの骨に傷を付けぬよう調整し、縄を少しずつ切っていった。
「もうちょい、もうちょいで切れるああぁぁぁぁぁ……」
もう少しで切れようとしていたのが……。一皮繋がりだった縄が、ファートの軽い重みに耐え兼ねたのか。突然ブツンと切れてしまい、そのままファートが落下していった。
サニーが「あっ!」と驚きながら下の様子を覗きに行ったので、私もサニーの体を覆う形で後を追う。
大小様々な骨が散乱している浜辺を確認してみると、その中で宙に浮いている生き生きとしている骸骨が、私達に向かって元気よく手を振っていた。
「ありがとよ、ファーストレディ! しばらく好き勝手やらせてもらうから、帰る時になったら声をかけてくれ!」
「ああ、分かった」
「ほっ……。ファートさん、いってらっしゃーい!」
私の体の下に居るサニーが、安心した様な息を漏らし、ファートに負けじと小さな手を大きく振り返す。
ファートも風魔法を使えて、宙に浮かべるのは知っていたので私は驚かなかったが。本当に優しい愛娘だな、サニーは。
……そういえばファートは、物体をすり抜けられる幽体にもなれたはず。わざわざ縄を切らなくても大丈夫だったじゃないか。
「それじゃあサニー、絵を描くか?」
「描く! ……あっ」
当初の目的を思い出させてあげたと同時に、サニーの腹から『くぅ』と小動物を思わせるような腹の虫が鳴った。
その音がしてからサニーは自分の腹に顔をやり、真顔になっている顔を私に合わせてきた後、恥ずかし気に苦笑いをする。
「絵を描く前に、昼食にするか」
「うんっ、お腹ぺこぺこになっちゃった」
私の家から海まで来るのに、おおよそ二、三時間といった所か。朝早く家から出たので、昼食にはまだ早いが、サニーの腹事情を優先しよう。
一枚布の中央へ戻り、布袋を漁る。中から昼食用のパンを二つ、精霊の泉の水が入っている容器を取り出し、パンをサニーに差し出した。
「ほら、焦って食べるなよ?」
「ありがとう!」
両手で大事そうにパンを受け取ったサニーが、私の言う事を聞かずにパンを一気に頬張り、満面の笑みで口を動かし出す。
この頬が膨らんでいるサニーが、また可愛いんだ。ずっと見ていられる。けれども、喉にパンを詰まらせるといけないので、水が入っている容器をサニーの前に置いた。
「パンを飲み込んだら、すぐに飲め」
まだ口の中にパンが入っているので、黙ったまま大袈裟に頷くサニー。腹はへっていないけども、私もパンを食べてしまうか。
前までは新薬の副作用で、食事や睡眠をしなくても平気な体になっていたが。サニーと接していく内に、この二つの副作用は治ってしまっていた。
睡眠の方は、ゴーレム達を助けた後に治り。食事の方は、気が付いたら治っていた。たぶん、サニーの食事を作り出してからだろう。となると、かなり前になるな。
あと体に残っている副作用は、致命傷を負わなければ死なない中途半端な不老と、肌で熱さ、寒さを感じ取れないといった、この二つのみ。
不老は、ピースを生き返らせるまで残っていてほしいが、肌で熱さ、寒さを感じ取れないのは、今すぐにでも消え去ってほしい。
理由は単純明快。サニーの体の温かさが、私の肌で感じ取れないからだ。忌々しいにもほどがある。この副作用を早く治したくて、これまで何kg分の秘薬を飲んだ事か……。
目の前にある幸せを感じ取れないまま、やきもきしながらパンを齧る。噛んだ野菜から染み出した酸味が、口の中に広がった途端、『ぐぅ~』という低い音が耳に入り込んできた。
……なんだ、今の聞くに堪えない音は? 腹の虫の音に似ていたが、決してサニーの物ではない。断言出来る。となると、必然的に今の音は―――。
「お母さんもお腹がペコペコだったんだね」
「……そうみたいだな」
やはり、私の腹から鳴った音か……。野菜の酸味で食欲が刺激されたのだろうか? 一つパンを食べ終えたけども、腹は満たされずにへるばかり。野菜を挟んだパンは六つ作ったので、もう一つ食べてしまおう。
「あっ、待ってお母さん! 先に私にちょうだい!」
「む? そんなに腹がへってたのか。ほら」
パンに手を伸ばすと、遮るようにサニーが催促してきたので、手に持ったパンをサニーに渡す。するとサニーは、貰ったパンを綺麗に二つに割り、片方を私に戻してきた。
「はいっ、半分あげる」
サニーのやりたい事が分からないものの、せっかくなので半分に割れたパンを貰う私。
「何がやりたかったんだ?」
「えっとね。絵本でこんな事をやってた親子がいたから、私もやってみたくなったの。二人ともね、おいしいって言いながら食べてたんだ」
「なるほどな」
つまり、サニーがしたこの行為は、絵本の再現という訳か。ならば私は、それに乗っかるべきだな。
次に言う台詞を頭の中で考えながらパンを大きく齧り、よく噛んでから飲み込んだ。
「うん。サニーがくれたパンは、すごく美味いな」
「ほんと? じゃあ次は、お母さんがパンを半分こにして、私にちょうだい!」
「ああ、分かった。なら特別に、もっと美味くなるおまじないをかけてやろう」
「うわぁ~、やった! 楽しみだなぁ」
私が分けたパンを早く食べたいのか、持っているパンを急いで食べ出すサニー。今言った私の言葉は、台詞ではなく本音である。
サニーがくれたパンには、今まで感じた事のない味が含まれていた。たぶんこの味は、サニーがパンに加えてくれた、幸せの味なのだろう。
食べた瞬間、心身共にほっとするような優しさと。体では感じ取れなかったが、心で娘の温かみを感じ取れたような、幸せがとても深い味だった。
体では感じないが、心で確かに感じ取れた。どうやら新薬の副作用は、私の心まで冒す事は出来なかったようだ。それとも、たった今治ったのだろうか?
まあ、それはもうどうでもいい。今は無駄な事を一切考えず、サニーと食事を楽しんでいよう。私の心が温かな幸せで満たされていく、サニーとの楽しい食事を。
8
お気に入りに追加
43
あなたにおすすめの小説
絶対に間違えないから
mahiro
恋愛
あれは事故だった。
けれど、その場には彼女と仲の悪かった私がおり、日頃の行いの悪さのせいで彼女を階段から突き落とした犯人は私だと誰もが思ったーーー私の初恋であった貴方さえも。
だから、貴方は彼女を失うことになった私を許さず、私を死へ追いやった………はずだった。
何故か私はあのときの記憶を持ったまま6歳の頃の私に戻ってきたのだ。
どうして戻ってこれたのか分からないが、このチャンスを逃すわけにはいかない。
私はもう彼らとは出会わず、日頃の行いの悪さを見直し、平穏な生活を目指す!そう決めたはずなのに...……。
幼い公女様は愛されたいと願うのやめました。~態度を変えた途端、家族が溺愛してくるのはなぜですか?~
朱色の谷
ファンタジー
公爵家の末娘として生まれた6歳のティアナ
お屋敷で働いている使用人に虐げられ『公爵家の汚点』と呼ばれる始末。
お父様やお兄様は私に関心がないみたい。愛されたいと願い、愛想よく振る舞っていたが一向に興味を示してくれない…
そんな中、夢の中の本を読むと、、、
悪役令嬢になるのも面倒なので、冒険にでかけます
綾月百花
ファンタジー
リリーには幼い頃に決められた王子の婚約者がいたが、その婚約者の誕生日パーティーで婚約者はミーネと入場し挨拶して歩きファーストダンスまで踊る始末。国王と王妃に謝られ、贈り物も準備されていると宥められるが、その贈り物のドレスまでミーネが着ていた。リリーは怒ってワインボトルを持ち、美しいドレスをワイン色に染め上げるが、ミーネもリリーのドレスの裾を踏みつけ、ワインボトルからボトボトと頭から濡らされた。相手は子爵令嬢、リリーは伯爵令嬢、位の違いに国王も黙ってはいられない。婚約者はそれでも、リリーの肩を持たず、リリーは国王に婚約破棄をして欲しいと直訴する。それ受け入れられ、リリーは清々した。婚約破棄が完全に決まった後、リリーは深夜に家を飛び出し笛を吹く。会いたかったビエントに会えた。過ごすうちもっと好きになる。必死で練習した飛行魔法とささやかな攻撃魔法を身につけ、リリーは今度は自分からビエントに会いに行こうと家出をして旅を始めた。旅の途中の魔物の森で魔物に襲われ、リリーは自分の未熟さに気付き、国営の騎士団に入り、魔物狩りを始めた。最終目的はダンジョンの攻略。悪役令嬢と魔物退治、ダンジョン攻略等を混ぜてみました。メインはリリーが王妃になるまでのシンデレラストーリーです。
とある元令嬢の選択
こうじ
ファンタジー
アメリアは1年前まで公爵令嬢であり王太子の婚約者だった。しかし、ある日を境に一変した。今の彼女は小さな村で暮らすただの平民だ。そして、それは彼女が自ら下した選択であり結果だった。彼女は言う『今が1番幸せ』だ、と。何故貴族としての幸せよりも平民としての暮らしを決断したのか。そこには彼女しかわからない悩みがあった……。
【完結】公爵家の末っ子娘は嘲笑う
たくみ
ファンタジー
圧倒的な力を持つ公爵家に生まれたアリスには優秀を通り越して天才といわれる6人の兄と姉、ちやほやされる同い年の腹違いの姉がいた。
アリスは彼らと比べられ、蔑まれていた。しかし、彼女は公爵家にふさわしい美貌、頭脳、魔力を持っていた。
ではなぜ周囲は彼女を蔑むのか?
それは彼女がそう振る舞っていたからに他ならない。そう…彼女は見る目のない人たちを陰で嘲笑うのが趣味だった。
自国の皇太子に婚約破棄され、隣国の王子に嫁ぐことになったアリス。王妃の息子たちは彼女を拒否した為、側室の息子に嫁ぐことになった。
このあつかいに笑みがこぼれるアリス。彼女の行動、趣味は国が変わろうと何も変わらない。
それにしても……なぜ人は見せかけの行動でこうも勘違いできるのだろう。
※小説家になろうさんで投稿始めました
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
メインをはれない私は、普通に令嬢やってます
かぜかおる
ファンタジー
ヒロインが引き取られてきたことで、自分がラノベの悪役令嬢だったことに気が付いたシルヴェール
けど、メインをはれるだけの実力はないや・・・
だから、この世界での普通の令嬢になります!
↑本文と大分テンションの違う説明になってます・・・
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる