あやかし温泉街、秋国

桜乱捕り

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90話-3、終戦の涙

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 突如として、東の空から轟音が鳴り出しては赤く光り出し。収まったかと思えば、途方にもなく巨大な火柱が上がり。
 満月をも覆い隠す暗雲が出現して、暴雨と間髪を容れぬ稲光を伴った遠雷が去ってから、更に一時間後。

 この頃になると、辻風つじかぜは薬の実験に専念出来るようになり。
 薙風なぎかぜ癒風ゆかぜは、先の謎が極まった異変の考察が捗るようになっていて、二人の推測が盛り上がってきた矢先。
 薙風が持ってき携帯電話に、着信を知らせる音が仮説研究所内に響き渡り、油断していた薙風が驚き、ガタイのいい体を情けなく波立たせた。

「っとあ!? ビックリしたあ! ……おっ、兄ぃ! ぬらりひょん様から電話が来たぞ!」

「本当かい? なら出てみてくれ」

「あいよお!」

 辻風も、やはり謎の異変を気に掛けていたようで。逸る気持ちが籠った許可を与えると、薙風はすぐさま通話ボタンを押し、もう一度同じボタンを押してスピーカーモードにした。

「もしもし! 薙風ですがあ!」

『ぬらりひょんだ。相変わらず元気があってよろしい』

「ありがとうございます! それで、何用でございましょうか?」

『ちょっと、こちらで色々いざこざがあったもんでな。大体片が付いたので、そっちに危害が無かったか確認したかったんだ』

 やはり、先の異変は秋国を巻き込んだ異常事態だったらしく。待ちわびた答え合わせの時間が来ると、辻風達の間に、喉が詰まる緊張が走った。

「はい。こっちは霧雨が降った程度で、特に危害はありませんです。逆にそっちは、大丈夫だったんですか? なんか、遠雷やら巨大な火柱が見えましたけどお……」

『ワシとかえでが二重の結界を張っていたので、秋国の被害はゼロだ。だが、ススキ畑の一部が焼け野原になってしまった』

「では、戦闘はススキ畑で……?」

 話を進めていき、薄々と見えてきた答えに、薙風に身を寄せて聞いていた癒風が口を開く。

『そうだ、詳しい内容は明日説明しよう。それよりも、皆が無事そうで何よりだ』

「はい! 辻風兄ぃも、まだ余裕で正気を保ってます!」

『そうか。辻風よ、ワシの声が聞こえているか?』

「はい、聞こえてます」

 携帯電話から、一番遠く離れている事もあり、呼ばれた辻風が大きめの声量で返答した。

『ふむ、よろしい。どうだ辻風? 今日で決着は付きそうか?』

「ええ。二十二年間ほど、辛酸を舐め続けてきましたが。今日こそは、必ずや満月に打ち勝ってみせましょう」

 自信に満ち溢れた辻風の声に、薙風が持っている携帯電話から間を置き、息の漏れたような音が鳴る。

『分かった。なら落ち着いたら、皆で酒を交わそう。特上の酒を用意して待っているからな』

「いいですね。昔みたいに、ベロベロになるまで飲み明かしましょう」

「懐かしいなあ。兄ぃ酒強えから、飲み対決だけはいつも勝てねえんだよ」

「注ぐ係は、私にお任せ下さい」

 場を和ませる意味も込めて、景気付けに皆を飲みに誘ったぬらりひょんが、『ふっふっふっ』と柔らかく笑う。

『それじゃあ、今宵はワシも朝まで起きているから、何かあったらすぐ連絡してくれ。薙風よ、頼んだぞ』

「了解です! ぬらりひょん様も無理をせず、ごゆっくりしてて下さい!」

『分かった分かった。それじゃあな』

「はい! お疲れ様です!」

 やまびこが返ってきそうな大声で、終始ハキハキと喋っていた薙風が、ぬらりひょんからの通話が切れた事を確認すると、電源ボタンを押して固いため息をついた。

「やっぱ、ぬらりひょん様から直々に電話が来ると、めちゃくちゃ緊張するぜえ」

「顔が酷く強張ってたので、見てて楽しかったです」

「お前、電話してる間、ずっと笑いを堪えてたもんなあ」

 薙風が呆れたボヤキを入れると、とうとう耐え切れなく癒風は、笑いを堪える口を固く噤み、ニヤけた顔を垂らしていった。

「な、薙風お兄様の……、あの顔が反則なんです。今思い出しても、本当に、お、おもしろ……、ふふっ」

「あー、もう! 緊張感の欠片もねえ奴だなあ、お前は! さっさと忘れて、兄ぃを応援しやがれってんだ!」

「はっはっはっ。私は、そんな二人を見ているだけで、安心するけどもね」

 妖怪にとって劇薬であり、普通では決して抗えない満月の光を浴び続けている辻風が、フォローを入れるついでにあどけない笑いを飛ばす。

「本来なら、兄ぃが一番緊張感を持つべきなんだがなあ……。ったく、まあいいや。その調子で、朝まで正気を保っててくれよ? 兄ぃ」

「うん、分かっているよ。ぬらりひょん様とも、酒を交わす約束をしたからね。今回ばかりは期待に応えてみせるよ」

 いつもと変わりない様子で語るも、辻風の声には確たる自信が宿っており。その自信を肌で、心で感じ取った薙風と癒風が、安心した笑みを辻風に送った。

「辻風お兄様。日の入りまで、後五時間を切っています。お身体に変化は無いと思いますが、もうしばらくご辛抱下さい」

「癒風もありがとう。大丈夫、心配はいらないさ。私はただ、無言でここに立ち続けて、満月が消えていく様を見届けるよ」

 現世うつしよにある満月の様に、暖かみのある笑みで答えると、辻風は凍てついた眼差しを隠世かくりよの満月へ戻す。
 数時間前に遠方で繰り広げられた、天変地異を起こした戦いに比べれば、こちらはただ見つめ合うだけの、静寂が佇む飾り気がない素朴な攻防。
 火花も散らなければ、大地を揺るがす轟音も鳴らない。耳に届くのは、青白き闇に染まった紅葉が風に揺れて擦れ合う音か、フクロウの夜鳴きのみ。

 辻風の勝利条件は、正気を保ちつつ、夜空の頂点に君臨する満月が、地平線に没していく姿を認める事。
 満月の勝利条件は、迎え撃つ一介の妖怪を懐柔させて、正気を奪い、殺戮の限りを尽くさせる事。
 辻風は二十二年以上もの間、この戦いに負け続け、実の兄妹達に牙を剥けていた。
 そして、一度も兄を見捨てた事が無く、傍で見守り続けては、満月の下僕と化した兄を沈め、その都度励まし合った兄妹達。

 たった一回勝利を掴めば、戦いに終止符を打てる。後は、薬を更に改良していくだけ。しかし、その願いはいつも届かず。いくら手を伸ばしても勝利は掴めず、嘲笑う満月に屈していた。
 が、それも今日で終わると、確信まで得ている三人の心は穏やかでいて。相反して余裕が無くなってきた満月は、対抗するも夜空の頂点から下がり始めていった。

「辻風お兄様、夜中の一時になりました。日の入りまで、あと四時間前後です」

「分かった。身体の方は、依然として変化無しだよ」

 一時間毎に時間を報告しては、辻風の言動や表情の細かな変化を探る癒風に、心配は無用だとすぐに返答する辻風。
 夜闇はより濃く満ちて、満月の光はより鮮明に青々しく輝き、抗う者の見出した希望を打ち砕かんと、煌々と瞬いていく。

「兄ぃ、二時になったぜえ。日の入りまで、あと三時間ちょっとか。まだまだ余裕だよなあ?」

「そうだね。けど、そろそろ満月を見飽きてきたかな」

「そりゃあしょうがねえよ、兄ぃ。二十二年以上もにらめっこしてきたんだ。見過ぎたせいで、どっかに穴でも空いてんじゃねえかあ?」

「小規模のクレーターぐらいなら、何個か出来ているかもしれないね」

 暇を持て余した冗談の応酬に、緊張の糸が少しだけ解れた辻風の、抜けたあくびが一つ混ざる。
 やれやれと肩を落とした癒風も、視線でくだらない冗談を追っては、相槌代わりにほくそ笑む。
 そんな、憎き相手を蚊帳の外へ追いやるやり取りをし続けている内に、満月はだんだん力尽きていくかのように、地平線に落ち始めていく。

「満月の傾き具合からして、日の入りまで残り二時間と少しかな?」

「一昔であれば、私達は臨戦態勢に入っていましたよね

「そうそう。大体この時間辺りで、兄ぃが正気を失ってたんだよなあ」

「昔はね。でも、今はもうそんなヘマはしないよ」

 『昔』という言葉を、あからさまに素っ気なく強調した辻風が、苦い顔を浮かべた。まだ薬の効果が未熟で、試行錯誤に限界を感じていた数十年前。
 持続時間が分単位でしか上がらず、月一の戦いを無駄に終わらせていた時期が長期間あり。
 三人の確固たる結束に僅かな亀裂が生じ、距離感さえ覚える険悪な空気に包まれ、誰にも向ける事の出来ない怒りを募らせていた時期があった。

「されても困るから、頼むぜ兄ぃ?」

「分かっているよ。二人共、最後まで身構えなくていいからね」

「へいへい」

「はい、心得ています」

 今日こそは必ず成功すると、辻風の念を押した忠告に、仕方なく攻撃の意思は無いと言い返す二人。
 ごくありふれた日常を垣間見せるやり取りに、満月は為す術なく地平線に近づいていくと、夜闇がだんだん薄くなり出し、夜空に散りばめられていた星々が跡形もなく消えていった。

「兄ぃ! 日の入りまで、あと一時間だぞ!」

「とうとう来ましたね。私達を途方にもなく苦しめてきた、越えられぬ壁の刻が」

「ああ、ついにだね。ここで、何年足止めを食らった事か」

 短いようで、一生にも感じる一時間。そして、いつも笑っていたのは、最後に強烈な悪あがきをしてきた満月。
 黎明色に同化していく満月は、姿は薄れど地平線に没さなければ、どこに居ようとも青白き光の効果は薄れず。
 期待に胸を膨らませては打ち砕かれ、満月に怨嗟を吐きながら、堕ちた辻風との戦闘が始まっていた。
 心は折れずとも、疲弊は溜まっていく一方で。実験が失敗に終わると、しばらくは誰も口を開かないでいた。

「あと三十分!」

「辻風お兄様、お身体の方は!?」

「何も変化無し、すこぶる良好さ」

 残り一時間を切ると、今まで冷静さを保っていた癒風の声も荒立ててきて、たおやかだった目は見開き、上体が前のめりになっていく。
 この頃になると、東の空から新たな光がじわじわと残夜を飲み込み、淡い朱色に帯び出していく。
 そして、薙風と癒風が手に汗を握り、呼吸を乱して辻風を見守り続けて、前回越えられなかった残り十分を切った。

「兄ぃ、薙風だ! 俺の声が聞こえるか!?」

「辻風お兄様! 癒風です! 私の声が聞こえてますか!? あなたの耳に届いていますか!?」

 居ても立っても居られなくなった二人が立ち上がり、真顔で空を仰いでいる辻風に、出せる限りの大声で叫び掛ける。

「大丈夫、聞こえているよ」

「そうか! あと九分だぞ兄ぃ! 頑張れ! 満月なんかに負けねえでくれえ!」

「意識は遠のいていないですか!? 視界は晴れてますか!? 脈は早くなってないですか!?」

「朝焼けがハッキリ見えるよ。視界も十分晴れている。脈は……、ちょっと早いかな。見えてきた勝利のせいで、興奮しているのかもしれないね」

「兄ぃ、あと八分だ! 満月はもう地平線に着いてんだろ!?」

「そうだね。薙風の言う通り、欠けてきたよ」

「いつまで悪あがきをしてるんですか、満月!? さっさと落ちなさい!」

 焦れったいと言動まで荒らげる癒風に、感化された薙風も手に力が入り、持っていた携帯電話がミシミシと悲鳴を上げる。

「あと七分! お前の出番は、とっくに終わってんだよ満月! なあ兄ぃ!」

「ああ、その通りだよ。君に名残惜しさなんて微塵も感じていない。その忌々しい姿を、早く全て隠しておくれ」

「辻風お兄様は、もうあなたになんか二度と負けません! 二度とです! 分かったのなら、さっさと消え失せなさい!」

 迫害せんとばかりに追い詰められては、朝焼けに屈して透明化していく満月。が、まだ輪郭は残っていて、完全には消え去ってはいない。

「あと五分! もう満月の光より、朝焼けの方が強えぞ!」

「けど、あいつはまだそこに居る。まあしかし、ようやく拝めそうだね。あいつを最期を」

 楽しみだと言わんばかりに、真顔だった辻風の顔が、二人に悟られない程度にほころんでいく。
 二人にとっていつもであれば、この時間は正気を失った辻風と戦っているか、既に倒して休憩しているかの二択。
 だが今回の辻風は、消滅寸前の満月と最後の戦いに挑んでおり、腕を組んでは悠々と立ち誇っていた。

「あと三分!」

 薙風と癒風の意識は、辻風と携帯電話の交互に向いていて、言葉を発せられる状態ではなくなっていく。

「あ、あと二分!」

 とうとう二人の体は硬直し出し、視線だけが辻風と携帯電話の画面を追い、固唾を呑む音が間に挟む。

「あと、一分……!」

 ここまで来ると、薙風は携帯電話の画面を凝視し。癒風は、薙風の広い肩をギュッと掴み、辻風と薙風の顔を見返していた。

「「十秒前! 九、八、七、六、五、四、三、二、一、ゼロ!!」」

 寸分の狂いもない、二つに重なるカウントダウンが終わった瞬間。薙風と癒風は、顔をバッと辻風へ移した。

「……なあ、兄ぃ。今のあんたは、一体どっちなんだ?」

「辻風お兄様……」

 恐る恐る薙風が問い掛けるは、血の繋がりがある者へ対する質問というよりも、正体不明の何かに、名を名乗れと強要するような命令。
 その、まだ中身があらわになっていない辻風は、未だに腕を組んでいて、目を瞑らせた顔で空を仰いだまま。
 薙風の問い掛けが、そよ風に乗り流されていき、数秒後。遅れて二人に向けた辻風の顔は、日常でも見せるような笑みを浮かべていた。

「やあ、二人共。夜が明けてからこうやって話すのは、実に二十数年振りぐらいかな?」

 そう穏やかな声で返して辻風が、朝焼けに似合う笑顔を二人に送る。が、二人はまだ現状を理解していないのか。
 信じ難い物を見たと言わんばかりに目を丸くさせ、言葉も発さず、ただただボーッと呆けている。
 五秒、十秒と、徐々に新鮮な空気が包み込んでいく静寂の中。二人の丸くさせていた瞳から、同時に大粒の涙が零れ落ち、毛深い頬に吸い込まれていった。

「……あ、兄ぃ、兄ぃーーーッ!!」

「辻風お兄様ぁーーーっ!!」

「うわっ!?」

 感極まった二人が一斉に走り出し、身構えていなかった辻風に飛びつき、立ち疲れていた辻風の体に強く抱きついた。
 その拍子に全員がよろけて地面に倒れようとも、二人はお構い無しにと、辻風の胸元で号泣していた。

「よぐ、よぐ頑張っだなあ兄ぃ! ほんどうに、よぐ……!」

「私は……! 辻風お兄様のお身体が、ずっとずっと心配で仕方がなかったんです……! けど、これで、ようやく……!」

 感情が爆発した二人が曝け出すは、涙声で支離滅裂な本音の言葉。
 それでも辻風の心には、二人の熱い想いが届いたらしく。涙でびちゃびちゃになっていく胸元を認めつつ、二人の頭に手を置いた。

「ああ。二人共、今まで本当にありがとう。やっと、全てが終わったよ」

 二十二年以上の戦いに終わりを告げる、感無量に染まった三つ目の涙声が、二人分の感涙に溶け込んでいく。
 そして、二人の体を抱き返した辻風も本格的に泣き出してしまい、初めて満月に打ち勝った三人の涙は、しばらくの間止まる事はなかった。
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