あやかし温泉街、秋国

桜乱捕り

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75話-7、行き当たりばったりなお菓子作り

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 花梨と酒天しゅてんがカウンターに入り込み、材料を出し終えた翡翠ひすいの元へ向かって行く。
 途中、真新しい業務用の冷蔵庫、大量のお菓子が同時に焼けそうな電気オーブン、汚れを知らない整備したてのキッチンを通り過ぎていった。

「では始める前に。翡翠さん、どんなお菓子を作りたいですか?」

「え~っと……」

 花梨の質問に対し、顎に指を添えた翡翠の視線が、思案するように天井へと移る。

「そもそもなんですが、お菓子が何なのかを分かっていないんですよね」

「えっ? そこから、ですか?」

「はい。全ては、紅柘榴べにざくろの突拍子もない思い付きで始まった事でして、私はほとんど付き添いなんです」

 のほほんと嫌味もなく明かした翡翠に、花梨は、と、突然の提案に、お菓子すら知らないままお店を建てて、私達をここまで連れて来た翡翠さんって……。度を超えたお人好しなのでは? と翡翠の見る目を改め、口元をヒクつかせる。

「な、なら今日は、簡単に作れる物をお教えしますね。材料は、どれがありますか?」

「材料は、ここにある物で全てです」

 花梨の震えた問い掛けに、翡翠は目の前に点々と置かれている物に手をかざす。
 そこには、薄力粉、砂糖、バターが一つずつ置いてあり、これから菓子作りをするには、何とも物寂しい光景が広がっていた。

「……嘘でしょ? これだけ?」

「はい。紅柘榴が「これだけありゃあ充分だろ!」と言って、用意してくれました」

「ま、マジか……。卵と牛乳すら無いなんて……」

 立派な機材は豊富にあるものの、要である材料の無さを認めた花梨は、唖然とした表情で立ち呆ける。
 隣で静かにやり取りを目で追っていた酒天も、少ない材料を目にするや否や。「あたしも、お菓子作りの知識はないっスが……。何も作れないんじゃないっスかね、これ?」と早々にさじを投げた。

「そうなんですか?」

「あいや、適当に言いました。すみませんっス。花梨さん、これだけで何か作れるんスか?」

「む~っ……」

 酒天の弱気な質問に答えず、ごくごく家庭的な三つの材料を睨みつけては、数多の思考を繰り広げ、材料に見合わない物を削除していく花梨。
 生クリームをたっぷり使用したケーキ類。油、適した粉が無いドーナッツ類。あんこも無いので和菓子類全般。卵やチョコ、バニラエッセンスが必要な冷菓子類。
 僅かな希望を探しては泣く泣く削除し、最早、諦めようとしていた中。ようやく一つだけ作れる物を見出した花梨は、思考を停止し、長いため息をついた。

「シンプルなクッキーなら、なんとか作れます」

「これだけでクッキーが作れるんスか?」

 酒天の信じ難いと驚いた返しに、花梨は小さく頷《うなず》く。

「必要最低限の材料とオーブンがあるので、なんとかですがね」

「へえ~、すごいっスね」

「クッキーって初めて聞きましたが、美味しいんですか?」

 これから喫茶店を営んでいくというのに、全てにおいて知識が皆無な翡翠も話に加わり、花梨に質問を投げ掛ける。

「ほんのりと甘く、サクサクした食感のお菓子です。紅柘榴さんとは、そういう話をしないんですか?」

「あの子はお酒の事ばっかりなんですよね。ジントニック然り、マティーニ、バラライカ、レッドアイ、カルーア・ミルクとか」

「全部カクテルの名前っスね。というか、紅柘榴はよくバーではなく、喫茶店を開こうとか言い出したっスよね」

「ですねえ。あの子は感化されやすい子なので、たぶん初めて喫茶店へ行った時に感動して、自分もやりたくなったんだと思います」

「あ~、間違いなさそうな推理っスね……」

 まだ居ぬ紅柘榴について、突拍子のなさに拍車をかける会話を終えると、「では」と両手を合わせた翡翠が、うきうきとしている表情を花梨に向ける。

「クッキーと言う物を食べてみたいので、作ってもらってもよろしいでしょうか?」

「分かりました。それじゃあ作り始めますね」

 早く食べたそうにしている翡翠の催促に、花梨は応えるべく即答し、クッキーを作る準備を始めた。
 まず初めに花梨は、厚手のビニール袋を探し出し、その中に薄力粉と砂糖を入れる。空気を入れつつビニール袋の口を軽く捻り、薄力粉と砂糖が均等に混ざるよう、様々な角度から振った。
 次に適量のバターをそのまま袋に投入し、粉っぽさが無くなるまで力強く揉む。バターの色が移った生地が出来上がると、麺棒で四角状に薄く伸ばし、ビニール袋をハサミで切り開いていった。

「で、丸い型抜きで生地をくり抜き、これを沢山作っていきます」

「ここまでなら、私や紅柘榴でも出来そうです」

「へぇ~、かなり簡単っスね。これならあたしも作れそうっス」

「作る時間もあまり掛かりませんからね。オススメですよ~」

 お菓子作りに疎い二人も、だんだんと興味を持ち出し、ここぞとばかりに分かりやすく説明を挟み、お菓子作りの魅力について説いていく花梨。
 型抜きが終わると、クッキングシートを敷いた天板に、くり抜いた丸い生地を綺麗に並べていく。
 そして、あらかじめ百七十℃に熱していたオーブンに天板を入れ、そこから二十分の間。花梨は翡翠にお菓子作りのイロハを教える為、小さな勉強会を開いた。

 ゼラチンと水さえあれば作れるゼリー。一手間とチョコを加えた、チョコクッキー。バニラエッセンスを使用しない、作り方が簡単なバニラアイス。
 翡翠は初心者中の初心者なので、手間があまり掛からず、やる気が削がれない物から教えていった。

「それと大事なのは、卵の卵白を泡立たせたメレンゲです。このメレンゲはかなり使用するので、必ず覚えて下さいね」

「メレンゲっと。卵という物は、色んなお菓子に使うんですね」

「ですねぇ。大体のお菓子に使うと言っても過言ではありません。もちろん、クッキーにも使用しますよ。あと、牛乳もあれば嬉しいですね」

「牛乳もっと……」

 花梨の順を追った説明に、借りたペンと紙を駆使し、慣れない手つきで書き綴っていく翡翠。
 粗方必要な材料と、お菓子の作り方を書き終えた頃。オーブンから焼き終えた事を知らせる音が鳴り、その音を耳にした花梨が「おっ」と反応し、両手に青色のミトンをはめた。

「焼けた焼けたっと~」

 声を弾ませつつオーブンの前に行った花梨が、オーブンを開けたと同時。バターの香ばしい匂いと多少の熱気を感じ取り、思わずにんまりと笑みを浮かべる。
 鼻で呼吸をしながら天板を引き出し、二人の元へ運んでテーブルの上に乗せると、生まれて初めてクッキーを目にした翡翠が、「うわぁ~っ」と無邪気に透き通った声を漏らした。

「花梨さん花梨さん、これがクッキーと言う物でしょうか?」

「はい。焼きたてなので柔らかいですが、食べてみましょう。まだ熱いので、私が取り分けますね」

「はい、ありがとうございます!」

 待ち切れない様子の翡翠に、花梨は温かみのある微笑みを返す。棚から小皿を三つ用意し、水洗いして布で拭き取り、翡翠、酒天、自分用と置いていく。
 熱さを確認する為に、クッキーを指で何度か突っつき、ある程度冷めた事を確認すると、四つずつ小皿に取り分け、椅子に腰を下ろした。

「大丈夫でしょうか? もう食べても大丈夫でしょうかっ?」

「ええ、余熱は取れたので大丈夫ですよ。それでは、いただきましょうか」

「はいっ! いただきます!」

 翡翠が食べる前から満面の笑みで号令を唱えると、すかさずクッキーを手に取り、半分だけ齧る。
 出来たてなので、クッキー本来のサクサク感はまだなく、ややしっとりとしているものの。翡翠には全てが新感覚の食感で、咀嚼そしゃくをする度に頬が緩んでいく。
 噛み進めていくと、中から芳醇なバターの強い風味が口の中にふわっと広がり、一気に満たしていった。
 いつまでも咀嚼を続け、初めの一口目を余す事無く堪能した翡翠がコクンと飲み飲むと、目と口をギュッと閉じ、両手をぶんぶんと振り出す。

「ん~っ! おいしい~っ! 花梨さん、すごく美味しいです!」

「ふふっ。よかった、お口に合ってなによりです」

「バターの味が濃くって美味いっスねえ。ほどよい甘さだから、何枚でもいけそうっス」

 最低限の材料ながらも、二人からの高評価に花梨もこの上なく満足し、嬉しく思いながらクッキーを食べ進めていく。
 二枚、三枚と大事に食べていくも、とうとう全て食べてしまったようで。不意に翡翠が「ああっ!」と悲壮感漂う叫び声を上げた。

「そんなっ……。クッキーが、もう、ない……?」

 透き通った白さを誇る顔がみるみる内に青ざめていき、小皿に伸ばしている翡翠の手が小刻みに震え出す。
 そんな感情の入れ替わりが分かりやすい翡翠に、横目でうかがっていた花梨は、本当に悲しそうな顔をしてるなぁ……。と心の中で呟き、最後のクッキーを口に入れた。
 クッキーを求めている手を口に当て、とうとうすすり泣きまでし出した翡翠が何を思ったのか。口に当てていた手を離し、かよわく握る。

「……花梨さん。残っている材料で、まだクッキーは作れますでしょうか?」

「え~と、もう五回は作れる量がありますね。おかわりを作りましょうか?」

「それは是が非にもですが、次は私に作らせて下さい!」

「翡翠さんが、ですか?」

 花梨の問い掛けに、翡翠はおしとやかな表情ながらも力強くうなずく。

「お恥ずかしながら、私はクッキーが大好きになりました。なので喫茶店とは関係なく、常々常食したいと思っています。ですので花梨さん、美味しく作るコツも一緒に教えて下さいっ!」

 翡翠の透明な声の中に、クッキーに対して欲が強い熱意のこもったお願いに、花梨は俄然とやる気に満ちた表情になり、すっと立ち上がる。

「分かりました。それじゃあ私の極意を交えて、一から十までビシバシとお教えしましょう。ちゃんと付いてきて下さいね?」

「はいっ、よろしくお願い致します!」

 必要最低限の食材で、一人の人魚の心と胃袋を鷲掴んだ花梨が先生と化し。クッキーの虜になり、生徒となった翡翠がペコリと頭を下げる。
 そして、そこから花梨は、丁寧にかつ分かりやすくクッキーの作り方を教え。翡翠はメモを取りつつ全ての説明を頭に叩き込み、実戦に備えて知識を蓄えていった。
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