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71話-8、もう一夜限りのわがままを
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花梨と公の場で密談を交わした、約束の深夜一時前。
食事、風呂、明日の準備を全て済ませた女天狗のクロは、自室にある扉を見据え、花梨が来るのを静かに待っていた。
扉を見ていた目を掛け時計に滑らせ、現在の時刻を確認してみる。約束の時間まで残り一分を切っており、無意識の内に心と体がソワソワとし出す。
そして、深夜一時ちょうど。視線を扉へ戻したと同時に、小さなノック音が数回鳴った。
その微かな音を聞き逃さなかったクロは、すぐさま「開いてるぞ、入って来い」と言い、ノックした人物を部屋へと誘う。
すると扉がひとりでに開き、パジャマ姿の花梨が「失礼しまーす」と、小声で呟きながら入り込んできた。
疲れを見せないでいる花梨が扉を閉めると、クロの前まで歩いて来て、その場に正座をする。
「お疲れ様です、クロさん」
花梨が元気に満ちている笑みを送ると、クロもほがらかな表情になり、口角を緩く上げた。
「よう、お疲れ。一時キッカリに来たな」
「はい。少し早くベッドから抜け出してきちゃったので、時間が来るまで扉の前で待機してました」
そう明かして苦笑いした花梨が、指で頬をポリポリと掻く。釣られてクロも苦笑いすると、呆れ気味に腕を組んだ。
「相変わらず律儀だな、お前は。それで、ここに来た理由はあれか? 朝言ってたやつでか?」
朝からずっと気になっていたのか。クロが予想を付けて口にすると、花梨は苦笑いを崩し、緊張を含んだ真面目な表情に変わった。
「はい、そうです。一つわがままに近いお願いがありまして、ここに来ました」
「お願い? なんだ? 言ってみろ」
嫌な顔を一つせずクロが催促すると、花梨は何かを言う為に口を開くも躊躇ってしまい、何も言わずに頭を垂らしていく。
しかし覚悟を決めたのか。決心がついた眼差しをクロに戻し、太ももに置いていた手を握り締めた。
「クロさん。もう一夜だけ、私のお母さんになってくれませんか?」
「むっ……」
まるで想定外なお願いに、クロは思わず言葉に詰まり、眉間に小さなシワを寄せる。
その予期せぬクロの反応に対し、花梨は否定されたと思って表情を曇らせ、オレンジ色の瞳が潤んでいった。
「やっぱり、ダメ、ですかね……?」
絶望すら頭に過る花梨のか細い声に、呆気に取られていたクロがハッとする。
「あっ、いや! どうしたんだ急に? ……はっはーん、なるほど? さては、露天風呂で味を占めたな?」
場の淀み始めた空気と、花梨の機嫌を直すべく。クロはわざとらしく悪どい笑みを浮かべ、冗談を交えて言う。
不安をまるごと払拭するような返しに、花梨は心の底から安心感を得られたようで、ほっと息を漏らした。
「その~、二日前に雅の部屋に泊まったんですが……。お母さんである楓さんと仲良くしている光景を見て、我慢が出来なくなっちゃいまして」
普段通りの様子に戻った花梨が、後頭部に手を当てながら理由を明かすと、今度は不安を与えないよう、クロは即座に「なるほどねえ」と返す。
そのまま心の中で、そうか。今まで叶わなかった事を、私は叶えちまったんだ。一度味わったから、我慢してた事も出来なくなったって訳か。と、一夜限りで母親になった時の場面を思い返し、感傷に浸っていく。
更に、となると、全ては私の責任だ。花梨のこの思い、しっかりと応えてやらなくちゃな。と考えを固め、花梨に温かみのある笑みを見せつけた。
「ったく、しょうがないな。もう一度だけだぞ?」
「ほ、本当ですかっ!?」
「ああ、本当さ。なってやるよ、お前の母親に」
「うわぁ~っ……! ありがとうございます! クロさん!」
昨夜から切に願っていた夢が叶うと、花梨は屈託の無い満面の笑顔になり、少しだけクロとの距離を詰めていく。
花梨の想像以上の喜びに、クロも嬉しい気持ちが込み上げてくるも、「よし」と切って話を続けた。
「やるからには徹底的にやるぞ」
「へっ? 徹底的に、ですか?」
「ああ、徹底的にだ。これから以後のルールを設ける。敬語は禁止。今から私の事をお母さんと呼べ。いいな?」
突然ルールを設けてきたクロに、花梨は驚いて目が点になり、その点と化した目をぱちくりとさせる。
「えっ……? そ、そこまでやるんですか?」
「当たり前だろ? 今から私とお前は“血の繋がった家族”だ。母親と娘の関係だぞ? 家族に気遣いは一切無用。もっと気軽になり、喋り方も崩せ。分かったな? 花梨」
“血の繋がった家族”。その言葉に花梨は心を強く打たれ、点になっていた目を大きく見開き、呼吸を震わせては飲み込んでいく。
短い沈黙の後。花梨の表情が柔らかくなっていき、ふわっと無邪気に微笑んだ。
「分かったよ、お母さん。これでいい?」
「ああ、やれば出来るじゃないか。流石は私の娘だ」
早速クロに褒められたせいで、花梨の無邪気な微笑みに明るさが増していく。が、すぐにその微笑みが消え失せ、強張ったものへと変わった。
「でさ、悪いんだけども……。このあとの事、まったく考えて、ないんだよね」
「はっ?」
花梨の歯切れが悪い返しに、クロが素に近い言葉を発し、目を細める。気が引けている花梨は、顔の前に両手をパンッと合わせ、頭を深々と下げた。
「本当にごめんっ! 私にはおじいちゃんしかいなかったから、どう接すればいいのかも分からないんだ。お母さん、何か、ない……?」
「何かって、私に聞くのかよ……。う~ん……」
物心がついた時から父と母がおらず、接し方すら分かっていない花梨の、欲が皆無な無い物ねだりに、母親となったクロが思考を張り巡らせていく。
まずは架空の祖父を演じていた頃の記憶を掘り返し、花梨に与えられなかった物がないか、朧気な過去の記憶を探っていく。
しかしいくら思い返そうとも、元々花梨には物欲すら無かった事を思い出し。次にクロは、形無き物に焦点を合わせていった。
祖父を演じている時にも、あげられなかった物。形が無くともいつでも娘に与えられる、母親が持つべき物。
考え抜いた末にクロは、たった一つの温かみが深い物を思いつくと、娘である花梨に顔をやり、両手を大きく広げた。
「よし花梨、来い。母親である私が、ありったけの愛情をくれてやる」
「愛情?」
「そうだ。思いっきり抱きしめてやるから、私の元まで来い」
「ええっ!? そ、それはいくらなんでも、恥ずかしいよぉ」
まだ娘を演じ切れていないようで。花梨があたふたと恥じらいを見せると、母親になり切っているクロがクスリと笑う。
「おいおい。この部屋には、私とお前しかいないんだぞ? 羞恥心なんか捨てて、私に甘えてこい」
「うう~……。わ、分かったよ」
身内にすら甘えた事が無かった花梨は、恥ずかし気に頬を赤らめつつ、立ち膝でクロの元へ近づいていくと、その身をクロの体に預けていく。
花梨が恐る恐るクロの背中に両手を回すと、クロも同じく花梨の背中に両手を回し、体をガッチリと抱きしめた。
そこから二人は一言も喋らず、黙ったまま身を寄り添い続ける。十秒ほどすると、クロを抱きしめていた花梨の力が、少しずつ加わっていった。
「……お母さんの体、とっても温かいや」
「それが、母親の愛情ってヤツさ。存分に噛み締めろよ」
短いやり取りを終えると、クロは花梨の背中に回していた手を動かし、トン、トンと、等間隔で叩き始める。
背中から感じる心地よい振動に、花梨の大人びた心がだんだんと童心に帰り、我慢のタガが外れていき、クロの肩に顔を埋めた。
「……お母さん」
「んっ、どうした?」
「頭、撫でて」
花梨の甘い初めてのわがままにクロは、人知れず母性のある笑みを浮かべた後。背中に置いていた手を頭に移し、ゆっくりと撫で始める。
すると途端に、花梨の全身がふるっと震えた。撫でる度に二度、三度と小刻みに震えると、花梨が「ふふっ」と声を漏らす。
「……そっか。ゴーニャはいつも、こんな気持ちになってたんだなぁ」
「ゴーニャ、ねえ。お前は今、どんな気持ちなんだ?」
「……なんて言えばいいんだろう? 初めて味わう気持ちだから上手く言えないけど、とにかく嬉しくて、幸せな気持ちでいっぱいになって、ずっとされたいって思っちゃって、もっと甘えたくなっちゃうような感じ、かな?」
「ふ~ん。なら、ずっとやっててやろうか?」
クロのあまりに強い誘惑に、花梨は夢心地になっているとろけた横目を送る。
「お母さん、二時には寝るんでしょ? 流石にずっとは悪いよ」
「なら、そろそろやめるか?」
意地悪そうに言ったクロがニヤリと笑うと、花梨は何も言わず、再びクロの肩に顔を埋めていく。
「……やだ、もっと撫でて」
「ははっ、そうか。私の事は気にすんな。お前が満足するまで、ずっとこうしててやるよ」
「……うん。ありがと、お母さん」
いつまでも甘えたくて、追加のわがままで限りある時間が増えると、花梨はまどろみに落ちていく意識を必死に保ちつつ、延長された時間を堪能していった。
心の芯まで温まるような、母親の温もり。体から漂ってくる、花梨も使用しているボディソープの薔薇の匂い。
背中から感じる、心地よい等間隔の振動。頭から伝わってくる、娘を想う母親の体温。その全てから愛情と母性を感じ取り、全身で味わっていく花梨。
至福のまどろみに酔いしれ、意識がだんだんと途切れ途切れになってきた頃。花梨を寝かさんとしたのか、クロがおもむろに語り出した。
「花梨、お前は本当に偉い奴だよ」
「……んっ」
「よく今まで欲を表に出さず、我を押し殺して我慢してきたな。だが、それはもうしなくていいんだぞ」
「……なんで?」
「それはな花梨。お前には、私が居るからだ」
「お母さんが?」
「そうだ。どんな些細でくだらないわがままでもいい。全部私が必ず受け止めてやる。だからお前は、全力で私に甘えてこい」
「……いいの? 怒らない?」
「怒るもんか。愛娘のわがままだぞ? それ聞いて叶えてやるのが、母親の務めってもんだ。違うか?」
「どうだろ、分かんないや」
「なら、分からせてやるよ。お前は二十四年間も我慢してきたんだ。溜めてもんを全部、私に吐き出しちまえ」
「……分かった。じゃあ、クロさん」
唐突に花梨が娘を演じるのを止めると、寄せていた体を離し、近い距離でクロの顔を見据える。
その花梨の表情には一抹の不安がこもっており、オレンジ色の瞳を泳がせてはクロに戻し、視線を下に落としていった。
「私のもう一つのわがままを、聞いてくれませんか?」
「なんだ? 言ってみろ」
花梨が普段通りの態度で接してくると、クロも凛した表情へと戻し、不安を与えない為に即答する。
そして二度目の覚悟を決めると、花梨は下に落としていた視線をクロに移し、瞳を閉じる。そのまま軽く息を吸い込むと、幼さが垣間見える瞳をクロに見せつけた。
「こうやって二人だけで居る時は、これからずっと私のお母さんに、なってくれませんか?」
切なる願いを込めた二度目のわがままを言うと、花梨の瞳に薄っすらと涙が滲んでいく。その願いを確かに聞いたクロは、予想通りと言わんばかりにほくそ笑んだ。
「言うと思ったよ。私がお前の母親になって、本当にいいのか? 後悔しないか?」
クロが念入りに確認してくると、花梨は首を力強く横に振った。
「後悔なんて絶対にしません。こんな私の事を想ってくれていて、私の事をなんでも知っていて、私を愛娘だと言ってくれた大好きなクロさんだからこそ……、私のお母さんに、なって、ほしいんです……」
日記にすら書かない本音を全て曝け出すと、感情が込み上げてきたのか。右目から一粒の涙が零れ落ち、火照っている頬をつうっと伝っていく。
心の奥底に閉まっている本音を晒し、人前では絶対に見せない涙まで流した花梨に対し、クロは、これは、本気だな。と確信し、花梨の頬を伝っている熱い涙を親指で拭った。
「分かった」
「……えっ?」
「なってやるよ、お前の母親に。ずっとな」
改めて宣言したクロが「ただし」と付け加え、自分の唇の前に人差し指を立たせる。
「二人で居る時だけだぞ? 間違っても誰かが居る時の前で、私をお母さんと呼ぶなよ? 恥ずかしいからな」
優しく砕けた口調で言ったクロが、右目でワンパクなウィンクを送った。
クロが快諾してくれると、夢が叶い、何もかも我慢出来なくなった花梨は、呆けている表情のまま両目から大量の涙を流し、クロの胸元に飛び込んでいった。
「……ありがとう、本当にありがとうっ! お母さんっ……!」
愛娘となった花梨が胸元で大泣きし出すと、母親となったクロは、花梨の体をそっと抱き返し、頭を撫で始める。
「よしよし。今まで我慢してきた涙は、ここで全部流しちまえ。一粒残さず、私が受け止めてやるからな」
そう言ったクロは天井を仰ぎ、悪いな紅葉、花梨がこう言ってるんだ。お前の代わり、やらせてもらうわ。と今は亡き本当の母親に断りを入れ、花梨の体を強く抱きしめてやった。
食事、風呂、明日の準備を全て済ませた女天狗のクロは、自室にある扉を見据え、花梨が来るのを静かに待っていた。
扉を見ていた目を掛け時計に滑らせ、現在の時刻を確認してみる。約束の時間まで残り一分を切っており、無意識の内に心と体がソワソワとし出す。
そして、深夜一時ちょうど。視線を扉へ戻したと同時に、小さなノック音が数回鳴った。
その微かな音を聞き逃さなかったクロは、すぐさま「開いてるぞ、入って来い」と言い、ノックした人物を部屋へと誘う。
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「よう、お疲れ。一時キッカリに来たな」
「はい。少し早くベッドから抜け出してきちゃったので、時間が来るまで扉の前で待機してました」
そう明かして苦笑いした花梨が、指で頬をポリポリと掻く。釣られてクロも苦笑いすると、呆れ気味に腕を組んだ。
「相変わらず律儀だな、お前は。それで、ここに来た理由はあれか? 朝言ってたやつでか?」
朝からずっと気になっていたのか。クロが予想を付けて口にすると、花梨は苦笑いを崩し、緊張を含んだ真面目な表情に変わった。
「はい、そうです。一つわがままに近いお願いがありまして、ここに来ました」
「お願い? なんだ? 言ってみろ」
嫌な顔を一つせずクロが催促すると、花梨は何かを言う為に口を開くも躊躇ってしまい、何も言わずに頭を垂らしていく。
しかし覚悟を決めたのか。決心がついた眼差しをクロに戻し、太ももに置いていた手を握り締めた。
「クロさん。もう一夜だけ、私のお母さんになってくれませんか?」
「むっ……」
まるで想定外なお願いに、クロは思わず言葉に詰まり、眉間に小さなシワを寄せる。
その予期せぬクロの反応に対し、花梨は否定されたと思って表情を曇らせ、オレンジ色の瞳が潤んでいった。
「やっぱり、ダメ、ですかね……?」
絶望すら頭に過る花梨のか細い声に、呆気に取られていたクロがハッとする。
「あっ、いや! どうしたんだ急に? ……はっはーん、なるほど? さては、露天風呂で味を占めたな?」
場の淀み始めた空気と、花梨の機嫌を直すべく。クロはわざとらしく悪どい笑みを浮かべ、冗談を交えて言う。
不安をまるごと払拭するような返しに、花梨は心の底から安心感を得られたようで、ほっと息を漏らした。
「その~、二日前に雅の部屋に泊まったんですが……。お母さんである楓さんと仲良くしている光景を見て、我慢が出来なくなっちゃいまして」
普段通りの様子に戻った花梨が、後頭部に手を当てながら理由を明かすと、今度は不安を与えないよう、クロは即座に「なるほどねえ」と返す。
そのまま心の中で、そうか。今まで叶わなかった事を、私は叶えちまったんだ。一度味わったから、我慢してた事も出来なくなったって訳か。と、一夜限りで母親になった時の場面を思い返し、感傷に浸っていく。
更に、となると、全ては私の責任だ。花梨のこの思い、しっかりと応えてやらなくちゃな。と考えを固め、花梨に温かみのある笑みを見せつけた。
「ったく、しょうがないな。もう一度だけだぞ?」
「ほ、本当ですかっ!?」
「ああ、本当さ。なってやるよ、お前の母親に」
「うわぁ~っ……! ありがとうございます! クロさん!」
昨夜から切に願っていた夢が叶うと、花梨は屈託の無い満面の笑顔になり、少しだけクロとの距離を詰めていく。
花梨の想像以上の喜びに、クロも嬉しい気持ちが込み上げてくるも、「よし」と切って話を続けた。
「やるからには徹底的にやるぞ」
「へっ? 徹底的に、ですか?」
「ああ、徹底的にだ。これから以後のルールを設ける。敬語は禁止。今から私の事をお母さんと呼べ。いいな?」
突然ルールを設けてきたクロに、花梨は驚いて目が点になり、その点と化した目をぱちくりとさせる。
「えっ……? そ、そこまでやるんですか?」
「当たり前だろ? 今から私とお前は“血の繋がった家族”だ。母親と娘の関係だぞ? 家族に気遣いは一切無用。もっと気軽になり、喋り方も崩せ。分かったな? 花梨」
“血の繋がった家族”。その言葉に花梨は心を強く打たれ、点になっていた目を大きく見開き、呼吸を震わせては飲み込んでいく。
短い沈黙の後。花梨の表情が柔らかくなっていき、ふわっと無邪気に微笑んだ。
「分かったよ、お母さん。これでいい?」
「ああ、やれば出来るじゃないか。流石は私の娘だ」
早速クロに褒められたせいで、花梨の無邪気な微笑みに明るさが増していく。が、すぐにその微笑みが消え失せ、強張ったものへと変わった。
「でさ、悪いんだけども……。このあとの事、まったく考えて、ないんだよね」
「はっ?」
花梨の歯切れが悪い返しに、クロが素に近い言葉を発し、目を細める。気が引けている花梨は、顔の前に両手をパンッと合わせ、頭を深々と下げた。
「本当にごめんっ! 私にはおじいちゃんしかいなかったから、どう接すればいいのかも分からないんだ。お母さん、何か、ない……?」
「何かって、私に聞くのかよ……。う~ん……」
物心がついた時から父と母がおらず、接し方すら分かっていない花梨の、欲が皆無な無い物ねだりに、母親となったクロが思考を張り巡らせていく。
まずは架空の祖父を演じていた頃の記憶を掘り返し、花梨に与えられなかった物がないか、朧気な過去の記憶を探っていく。
しかしいくら思い返そうとも、元々花梨には物欲すら無かった事を思い出し。次にクロは、形無き物に焦点を合わせていった。
祖父を演じている時にも、あげられなかった物。形が無くともいつでも娘に与えられる、母親が持つべき物。
考え抜いた末にクロは、たった一つの温かみが深い物を思いつくと、娘である花梨に顔をやり、両手を大きく広げた。
「よし花梨、来い。母親である私が、ありったけの愛情をくれてやる」
「愛情?」
「そうだ。思いっきり抱きしめてやるから、私の元まで来い」
「ええっ!? そ、それはいくらなんでも、恥ずかしいよぉ」
まだ娘を演じ切れていないようで。花梨があたふたと恥じらいを見せると、母親になり切っているクロがクスリと笑う。
「おいおい。この部屋には、私とお前しかいないんだぞ? 羞恥心なんか捨てて、私に甘えてこい」
「うう~……。わ、分かったよ」
身内にすら甘えた事が無かった花梨は、恥ずかし気に頬を赤らめつつ、立ち膝でクロの元へ近づいていくと、その身をクロの体に預けていく。
花梨が恐る恐るクロの背中に両手を回すと、クロも同じく花梨の背中に両手を回し、体をガッチリと抱きしめた。
そこから二人は一言も喋らず、黙ったまま身を寄り添い続ける。十秒ほどすると、クロを抱きしめていた花梨の力が、少しずつ加わっていった。
「……お母さんの体、とっても温かいや」
「それが、母親の愛情ってヤツさ。存分に噛み締めろよ」
短いやり取りを終えると、クロは花梨の背中に回していた手を動かし、トン、トンと、等間隔で叩き始める。
背中から感じる心地よい振動に、花梨の大人びた心がだんだんと童心に帰り、我慢のタガが外れていき、クロの肩に顔を埋めた。
「……お母さん」
「んっ、どうした?」
「頭、撫でて」
花梨の甘い初めてのわがままにクロは、人知れず母性のある笑みを浮かべた後。背中に置いていた手を頭に移し、ゆっくりと撫で始める。
すると途端に、花梨の全身がふるっと震えた。撫でる度に二度、三度と小刻みに震えると、花梨が「ふふっ」と声を漏らす。
「……そっか。ゴーニャはいつも、こんな気持ちになってたんだなぁ」
「ゴーニャ、ねえ。お前は今、どんな気持ちなんだ?」
「……なんて言えばいいんだろう? 初めて味わう気持ちだから上手く言えないけど、とにかく嬉しくて、幸せな気持ちでいっぱいになって、ずっとされたいって思っちゃって、もっと甘えたくなっちゃうような感じ、かな?」
「ふ~ん。なら、ずっとやっててやろうか?」
クロのあまりに強い誘惑に、花梨は夢心地になっているとろけた横目を送る。
「お母さん、二時には寝るんでしょ? 流石にずっとは悪いよ」
「なら、そろそろやめるか?」
意地悪そうに言ったクロがニヤリと笑うと、花梨は何も言わず、再びクロの肩に顔を埋めていく。
「……やだ、もっと撫でて」
「ははっ、そうか。私の事は気にすんな。お前が満足するまで、ずっとこうしててやるよ」
「……うん。ありがと、お母さん」
いつまでも甘えたくて、追加のわがままで限りある時間が増えると、花梨はまどろみに落ちていく意識を必死に保ちつつ、延長された時間を堪能していった。
心の芯まで温まるような、母親の温もり。体から漂ってくる、花梨も使用しているボディソープの薔薇の匂い。
背中から感じる、心地よい等間隔の振動。頭から伝わってくる、娘を想う母親の体温。その全てから愛情と母性を感じ取り、全身で味わっていく花梨。
至福のまどろみに酔いしれ、意識がだんだんと途切れ途切れになってきた頃。花梨を寝かさんとしたのか、クロがおもむろに語り出した。
「花梨、お前は本当に偉い奴だよ」
「……んっ」
「よく今まで欲を表に出さず、我を押し殺して我慢してきたな。だが、それはもうしなくていいんだぞ」
「……なんで?」
「それはな花梨。お前には、私が居るからだ」
「お母さんが?」
「そうだ。どんな些細でくだらないわがままでもいい。全部私が必ず受け止めてやる。だからお前は、全力で私に甘えてこい」
「……いいの? 怒らない?」
「怒るもんか。愛娘のわがままだぞ? それ聞いて叶えてやるのが、母親の務めってもんだ。違うか?」
「どうだろ、分かんないや」
「なら、分からせてやるよ。お前は二十四年間も我慢してきたんだ。溜めてもんを全部、私に吐き出しちまえ」
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その花梨の表情には一抹の不安がこもっており、オレンジ色の瞳を泳がせてはクロに戻し、視線を下に落としていった。
「私のもう一つのわがままを、聞いてくれませんか?」
「なんだ? 言ってみろ」
花梨が普段通りの態度で接してくると、クロも凛した表情へと戻し、不安を与えない為に即答する。
そして二度目の覚悟を決めると、花梨は下に落としていた視線をクロに移し、瞳を閉じる。そのまま軽く息を吸い込むと、幼さが垣間見える瞳をクロに見せつけた。
「こうやって二人だけで居る時は、これからずっと私のお母さんに、なってくれませんか?」
切なる願いを込めた二度目のわがままを言うと、花梨の瞳に薄っすらと涙が滲んでいく。その願いを確かに聞いたクロは、予想通りと言わんばかりにほくそ笑んだ。
「言うと思ったよ。私がお前の母親になって、本当にいいのか? 後悔しないか?」
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「後悔なんて絶対にしません。こんな私の事を想ってくれていて、私の事をなんでも知っていて、私を愛娘だと言ってくれた大好きなクロさんだからこそ……、私のお母さんに、なって、ほしいんです……」
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「分かった」
「……えっ?」
「なってやるよ、お前の母親に。ずっとな」
改めて宣言したクロが「ただし」と付け加え、自分の唇の前に人差し指を立たせる。
「二人で居る時だけだぞ? 間違っても誰かが居る時の前で、私をお母さんと呼ぶなよ? 恥ずかしいからな」
優しく砕けた口調で言ったクロが、右目でワンパクなウィンクを送った。
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「……ありがとう、本当にありがとうっ! お母さんっ……!」
愛娘となった花梨が胸元で大泣きし出すと、母親となったクロは、花梨の体をそっと抱き返し、頭を撫で始める。
「よしよし。今まで我慢してきた涙は、ここで全部流しちまえ。一粒残さず、私が受け止めてやるからな」
そう言ったクロは天井を仰ぎ、悪いな紅葉、花梨がこう言ってるんだ。お前の代わり、やらせてもらうわ。と今は亡き本当の母親に断りを入れ、花梨の体を強く抱きしめてやった。
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