44 / 384
12話-1、薬屋つむじ風の手伝い
しおりを挟む
気持ちのいい朝焼けが、まだ完全に起きていない温泉街を照らしつけている朝八時頃。
花梨の部屋内に、寝る前にセットした携帯電話の目覚ましがけたたましく鳴り響くも、今日はいつまで経っても止まらないでいた。
体の小さい座敷童子の姿のままで寝ていた花梨は、いつもより短くなっている腕を携帯電話を置いた場所に伸ばすも届かず、必死になってもがいていた。
物理的に届かないと察した花梨は、まだ寝ている重い体で携帯電話がある場所までハイハイしていき、忌々しい音を放っている目覚ましを消す。
そして、その体勢から頭をベッドに落とし、代わりに尻を高く突き出しながら再び眠りへとついていく。
同時刻、座敷童子の纏も目を覚まし、寝ぼけ眼を擦りながら小さな口であくびをつき、花梨が寝ているであろう方向に目を向けると、不可解な姿勢で寝ている花梨が目に入り、首を傾げた。
「……花梨のお尻がちょうど良い高さにある、叩いて起こせってことなのかな」
寝ぼけた頭で超解釈をした纏はスッと立ち上がり、花梨の体の右側まで行くと、花梨の尻を強く叩きながら口を開く。
「コラ、起きなさい。遅刻するよ」
「うっ……、あと八時間……、いてっ」
「寝すぎ、姉さん怒るよ」
「あっ、いたっ、いだっ、おっ、起きっ……、グゥ……、あだぁっ」
花梨の尻を叩く音が部屋内に響いている中、二人分の朝食を持って部屋の中に入り込んできた女天狗のクロが、呆然としながら「なんなんだ、この状況は……?」と、声を漏らす。
いつもより体が小さくなっている花梨が、座敷童子に尻を叩かれている光景はとてもシュールであり、なおかつそれでも起きない花梨の苦痛で歪んでいる表情は、とても滑稽であった。
尻を何度も叩かれながらも、クロの存在に気がついた花梨が口を開く。
「あっ、クロさんいだっ。おはようござイデッ」
花梨の挨拶を聞いて纏もクロの存在に気がつき、尻を叩くのをやめてクロの元へと駆け寄っていった。
クロは朝食をテーブルの上に置き、足元で小さく飛び跳ねている纏を抱っこしてから花梨に目を向けた。
「おはよう二人共、花梨えらく小さくなったな。それが座敷童子の姿か?」
「ええ、そうです。どうですかこの姿?」
花梨はニコッと笑いつつベッドの上で立ち膝をし、着物の袖を手で掴んで引っ張りながら答えると、クロが「うん、カワイイんじゃないか?」と、はにかんで言葉を返す。
クロの返答を聞いた花梨は満足気に微笑むと、二人の会話を聞いていた纏も、クロに詰め寄りながら問いかけた。
「クロ、私は」
「んっ、纏も充分カワイイぞー」
「むふーっ」
クロは、鼻をふんっと鳴らして嬉しがっている纏をそっと床に降ろし、扉に向かいながら話を続ける。
「それじゃあ、私は行くぞ。纏の分の朝食もあるから一緒に食ってけ。じゃあな」
そう言ったクロは手を振りながら廊下に出て、静かに扉を閉めて去っていった。座敷童子の姉妹は喜びながらテーブルの前に座り、顔を見合わせながら花梨が口を開く。
「纏姉さんの分もあるって! 食べましょ食べましょ!」
「食べるっ」
花梨はニコッと笑ってからテーブルの上にある料理に目をやると、和やかにしていた表情が一気に強張っていく。
テーブルの上には、てっぺんに少量のゴマが振られている大きなあんパンが二つずつ。そして、そのパンのお供にと牛乳が置かれていた。
「これは、あんパンかな? まさか、昨日の夜飯からまだ罰が続いていると……? 考えすぎかな、まあいいや。いただきまーす」
「いただきます」
二人は、自分の手よりも遥かに大きいふっくらと焼けたパンを、両手で半分にちぎってから一気に頬張り始める。
焼きたてのパンの芳醇な香りと、中にぎっしりと入っているしつこくなく丁度いいあんこの甘みが、起きたばかりの体の隅々まで広がっていく。
そして、充分に冷えている濃厚な甘みのある牛乳を飲み、口周りに白いヒゲを生やしながら「ぷはぁ!」と声を上げた。
「ふうっ。なんだかんだ言っても、やっぱりすごく美味しいや」
「花梨と一緒に食べてるから更に美味しい」
二人は、微笑み合いながら楽しい朝食を食べ終え、食器類を水で洗ってテーブルの上に置いた後、纏は「それじゃあ座敷童子堂に帰る」と言い、窓の淵に飛び乗った。
しかし、纏はそこで立ち止まり、ゆっくりと振り向くと、寂しそうな表情をしながら花梨に向かって口を開く。
「花梨」
「んっ、なんですか?」
「……少し言いづらい」
「なんですが今更~。気を遣わないでどんどん言ってください」
「……じゃあ、ちょくちょく花梨の部屋に泊まりに来てもいい?」
纏が恥ずかしそうに言った言葉に、花梨は一瞬だけハッとした表情になるも、すぐにふわっと笑みを浮かべて言葉を返す。
「はいっ、大歓迎です! なんなら毎日来てくれてもいいですよ」
「本当? 嬉しいっ、じゃあ今夜もここに来るっ」
「ええっ、待っていますね」
「ありがとう、それじゃあまた夜に会おうね。バイバイ」
花梨は手を振って纏を見送ると、纏も笑みを浮かべて小さく手を振りながら外に飛び降りていった。すかさず窓まで駆け寄り、纏の姿を追うように外を覗いてみる。
纏は既に建物の屋根の上を凄まじい速度で走っており、遠くから見ても分かるほど幸せそうにニコニコと笑っていた。
「これからは、寝る前の時間が楽しくなりそうだなぁ。さってと、すっかり忘れていたけど歯を磨かないと。その前に、人間に姿に戻らねば」
そう呟いた花梨は、ベッドに座りながら「座敷童子さんおやすみなさい」と唱えると、ポンッと音を立たせて一日ぶりに人間の姿へと戻る。
すっかり座敷童子の姿に慣れていたせいか、急に部屋内が一気に狭くなったような感覚に陥り、まるで自分が巨人にでもなったような気分にさえなった。
いつもの味に戻った歯磨き粉を使って歯を磨き終え、狭くなった自室を後にして支配人室へと向かっていく。
昨日よりも小さく見える支配人室の前まで来て、ドアノブに手を掛けようとするも、よからぬ好奇心が頭の中を過ってしまい、その手を止めて目の前にある扉をじっと睨みつけた。
「……なーんでこのタイミングで、人間の姿でも壁を歩けるんじゃ? って、思っちゃったかなー、私。歩けるワケがないけども……、好奇心には逆らえないなぁ」
花梨は、現在いる廊下を見渡して誰もいない事を確認すると、胸の鼓動を早めつつ右足の裏をそっと扉に着ける。
感覚的には座敷童子の姿の時と同様でやはり分からず、生唾を喉を鳴らして飲み込むと、意を決してそのままバッと左足の裏も扉に持っていった。
次の瞬間、静まり返っている廊下にドスンッという鈍い落下音と、一人の女性の悶え苦しむ声が響き始める。
その音と声が耳に入ったのか、支配人室の扉がひとりで開き、中からぬらりひょんが廊下へと出てきた。
何事かと思っていたぬらりひょんが視線を下にやると、そこには背中を思いっきり反らし、背中の部分に手を当てながら「ゔゔっ……ゔっ」と、苦しそうに呻き声を上げている花梨の姿が目に入る。
その悲惨な光景を目の当たりにしたぬらりひょんが、口をヒクつかせなが腕を組んだ。
「……お前さんはそこで、いったい何をやっとるんだ?」
「なっ、なんでもない……、です……」
「ふんっ、大体予想はつくがな。扉、歩けたか?」
「……ご、ご覧の通り、です……。はい……」
「バカもんが、このまま話を続けるぞ。今日は『薬屋つむじ風』に行って、仕事の手伝いをしてきてくれ」
その説明を聞いた花梨は、「おっ」と、声を漏らし、その場で体を起こして女座りをしながら話を続ける。
「そこって確か、纏姉さんを診察してくれたカマイタチの辻風さんがいる所でしたよね」
「おお、そうだ。っと言っても、手伝う事はほとんどないと思うがな」
ぬらりひょんの言葉に対し、花梨はおもむろに首を傾《かし》げた。
「まあ、行けば分かる。とりあえず行ってこい」
「了解ですっ!」
今日の仕事内容の説明を終えたぬらりひょんは、キセルの煙をふかしながら支配人室へと戻り、扉をゆっくりと閉めて姿を消した。
その場で立ち上がった花梨は、体全体についているホコリを手で払い、一階を目指して目の前にある階段を下りて永秋を後にする。
今日の目的地である薬屋つむじ風は、永秋から出て左側の秋国山に続く道の通りにあり、そっちの方面に足を運ぶのはここに来てから初めてのことだった。
初めての景色を堪能しようと胸を弾ませるも、薬屋つむじ風の建物は永秋からかなり近くにあったようで、歩き始めてから五分もしない内にたどり着いてしまった。
若干物足りなさを感じるものの、建物の外見に目を向ける。
周りにある建物とほぼ変わらない外見をしているが、薬屋とすぐ分かるように、入り口の上に木目が際立つ看板が設置されており、太くて艶のある黒文字で『くすり屋』と表記されている。
建物の外見を見終えると、中の様子が伺えるガラス戸を引いて中に入っていく。ガラス戸を開けた際に、頭上からチリンチリンとベルの音が鳴り、その音を再び鳴らしながらガラス戸を閉めた。
店内を見渡してみると誰もおらず、何かの薬品だろうか、それとも多種多様の薬草でも使っているのか、何物にも例えられない独特の薬のような匂いが、店の人よりも先に花梨を出迎えてくれた。
口をポカンと開けながら改めて店内を見渡してみると、大小様々な茶色い壺が壁際に置いてあり、半分以上の壺は蓋が開いている。
壺の中を覗いてみると、空っぽの物や白濁色の塗り薬のような物が入っており、手で仰いで匂いを嗅いでみるもほぼ無臭だった。
触ってみたいという好奇心が湧いてくるも、効用も薬さえも分からない得体の知れない物だったので、好奇心を抑えながら壺から距離を取る。
壁には上に向かって等間隔で木の板が設置されており、そこにも茶色い壺があるも、見た事が無い名前が直に書かれている。
背が届く距離にある壺の中身を覗いてみようとしてみるも、棚にある壺には全てちゃんと蓋が閉まっており、中身を見ることができなかった。
この部屋の奥は襖になっており、その襖は少しだけ開いている。手前にはカウンターらしき木の机が設置されていて、筆記類やカルテであろう資料が乱雑に置かれていた。
一通り部屋を見渡した花梨は、誰もいない部屋内で一人ポツンと立って人が来るのを待ってみるも、いつまで待っても来る気配が無く、開いている襖に向かって「すみませーん」と声を上げる。
すると、襖の奥から「はい」と、聞き覚えのある声がしたと同時に風の音と共に襖が開き、そこからカマイタチの辻風がのっそりと出てきた。
寝ていたのか目がしょぼついており、クリーム色の毛皮で覆われた短いマズルを大きく開き、鋭い牙を覗かせながらあくびを一つついた。
店にいるせいか白衣は来ておらず、温かそうなクリーム色の毛皮に身を包んでいる。寝ぼけ眼を擦った辻風が、花梨の姿を見るや否や笑みを浮かべた。
「おお、来たね花梨君」
「お久しぶりです辻風さん。座敷童子堂で初めて会った以来ですね」
「そうだね、その件についてはお礼を言わねばな。纏君の看病、本当にありがとう」
「いえいえっ、こちらこそ纏姉さんの診察ありがとうございました。それで、私は何をすればいいですかね?」
「なに、簡単さ。そこにある椅子に座ってここに来た客の対応をしてくれればいい。まあ、すぐに終わるがね。おっと、早速最初で最後の客が来たよ」
「えっ?」
辻風がそう言うと背後にあるガラス戸の方から、チリンチリンと言うベルの音と共に、一人の客が店内へと入り込んできた。
花梨の部屋内に、寝る前にセットした携帯電話の目覚ましがけたたましく鳴り響くも、今日はいつまで経っても止まらないでいた。
体の小さい座敷童子の姿のままで寝ていた花梨は、いつもより短くなっている腕を携帯電話を置いた場所に伸ばすも届かず、必死になってもがいていた。
物理的に届かないと察した花梨は、まだ寝ている重い体で携帯電話がある場所までハイハイしていき、忌々しい音を放っている目覚ましを消す。
そして、その体勢から頭をベッドに落とし、代わりに尻を高く突き出しながら再び眠りへとついていく。
同時刻、座敷童子の纏も目を覚まし、寝ぼけ眼を擦りながら小さな口であくびをつき、花梨が寝ているであろう方向に目を向けると、不可解な姿勢で寝ている花梨が目に入り、首を傾げた。
「……花梨のお尻がちょうど良い高さにある、叩いて起こせってことなのかな」
寝ぼけた頭で超解釈をした纏はスッと立ち上がり、花梨の体の右側まで行くと、花梨の尻を強く叩きながら口を開く。
「コラ、起きなさい。遅刻するよ」
「うっ……、あと八時間……、いてっ」
「寝すぎ、姉さん怒るよ」
「あっ、いたっ、いだっ、おっ、起きっ……、グゥ……、あだぁっ」
花梨の尻を叩く音が部屋内に響いている中、二人分の朝食を持って部屋の中に入り込んできた女天狗のクロが、呆然としながら「なんなんだ、この状況は……?」と、声を漏らす。
いつもより体が小さくなっている花梨が、座敷童子に尻を叩かれている光景はとてもシュールであり、なおかつそれでも起きない花梨の苦痛で歪んでいる表情は、とても滑稽であった。
尻を何度も叩かれながらも、クロの存在に気がついた花梨が口を開く。
「あっ、クロさんいだっ。おはようござイデッ」
花梨の挨拶を聞いて纏もクロの存在に気がつき、尻を叩くのをやめてクロの元へと駆け寄っていった。
クロは朝食をテーブルの上に置き、足元で小さく飛び跳ねている纏を抱っこしてから花梨に目を向けた。
「おはよう二人共、花梨えらく小さくなったな。それが座敷童子の姿か?」
「ええ、そうです。どうですかこの姿?」
花梨はニコッと笑いつつベッドの上で立ち膝をし、着物の袖を手で掴んで引っ張りながら答えると、クロが「うん、カワイイんじゃないか?」と、はにかんで言葉を返す。
クロの返答を聞いた花梨は満足気に微笑むと、二人の会話を聞いていた纏も、クロに詰め寄りながら問いかけた。
「クロ、私は」
「んっ、纏も充分カワイイぞー」
「むふーっ」
クロは、鼻をふんっと鳴らして嬉しがっている纏をそっと床に降ろし、扉に向かいながら話を続ける。
「それじゃあ、私は行くぞ。纏の分の朝食もあるから一緒に食ってけ。じゃあな」
そう言ったクロは手を振りながら廊下に出て、静かに扉を閉めて去っていった。座敷童子の姉妹は喜びながらテーブルの前に座り、顔を見合わせながら花梨が口を開く。
「纏姉さんの分もあるって! 食べましょ食べましょ!」
「食べるっ」
花梨はニコッと笑ってからテーブルの上にある料理に目をやると、和やかにしていた表情が一気に強張っていく。
テーブルの上には、てっぺんに少量のゴマが振られている大きなあんパンが二つずつ。そして、そのパンのお供にと牛乳が置かれていた。
「これは、あんパンかな? まさか、昨日の夜飯からまだ罰が続いていると……? 考えすぎかな、まあいいや。いただきまーす」
「いただきます」
二人は、自分の手よりも遥かに大きいふっくらと焼けたパンを、両手で半分にちぎってから一気に頬張り始める。
焼きたてのパンの芳醇な香りと、中にぎっしりと入っているしつこくなく丁度いいあんこの甘みが、起きたばかりの体の隅々まで広がっていく。
そして、充分に冷えている濃厚な甘みのある牛乳を飲み、口周りに白いヒゲを生やしながら「ぷはぁ!」と声を上げた。
「ふうっ。なんだかんだ言っても、やっぱりすごく美味しいや」
「花梨と一緒に食べてるから更に美味しい」
二人は、微笑み合いながら楽しい朝食を食べ終え、食器類を水で洗ってテーブルの上に置いた後、纏は「それじゃあ座敷童子堂に帰る」と言い、窓の淵に飛び乗った。
しかし、纏はそこで立ち止まり、ゆっくりと振り向くと、寂しそうな表情をしながら花梨に向かって口を開く。
「花梨」
「んっ、なんですか?」
「……少し言いづらい」
「なんですが今更~。気を遣わないでどんどん言ってください」
「……じゃあ、ちょくちょく花梨の部屋に泊まりに来てもいい?」
纏が恥ずかしそうに言った言葉に、花梨は一瞬だけハッとした表情になるも、すぐにふわっと笑みを浮かべて言葉を返す。
「はいっ、大歓迎です! なんなら毎日来てくれてもいいですよ」
「本当? 嬉しいっ、じゃあ今夜もここに来るっ」
「ええっ、待っていますね」
「ありがとう、それじゃあまた夜に会おうね。バイバイ」
花梨は手を振って纏を見送ると、纏も笑みを浮かべて小さく手を振りながら外に飛び降りていった。すかさず窓まで駆け寄り、纏の姿を追うように外を覗いてみる。
纏は既に建物の屋根の上を凄まじい速度で走っており、遠くから見ても分かるほど幸せそうにニコニコと笑っていた。
「これからは、寝る前の時間が楽しくなりそうだなぁ。さってと、すっかり忘れていたけど歯を磨かないと。その前に、人間に姿に戻らねば」
そう呟いた花梨は、ベッドに座りながら「座敷童子さんおやすみなさい」と唱えると、ポンッと音を立たせて一日ぶりに人間の姿へと戻る。
すっかり座敷童子の姿に慣れていたせいか、急に部屋内が一気に狭くなったような感覚に陥り、まるで自分が巨人にでもなったような気分にさえなった。
いつもの味に戻った歯磨き粉を使って歯を磨き終え、狭くなった自室を後にして支配人室へと向かっていく。
昨日よりも小さく見える支配人室の前まで来て、ドアノブに手を掛けようとするも、よからぬ好奇心が頭の中を過ってしまい、その手を止めて目の前にある扉をじっと睨みつけた。
「……なーんでこのタイミングで、人間の姿でも壁を歩けるんじゃ? って、思っちゃったかなー、私。歩けるワケがないけども……、好奇心には逆らえないなぁ」
花梨は、現在いる廊下を見渡して誰もいない事を確認すると、胸の鼓動を早めつつ右足の裏をそっと扉に着ける。
感覚的には座敷童子の姿の時と同様でやはり分からず、生唾を喉を鳴らして飲み込むと、意を決してそのままバッと左足の裏も扉に持っていった。
次の瞬間、静まり返っている廊下にドスンッという鈍い落下音と、一人の女性の悶え苦しむ声が響き始める。
その音と声が耳に入ったのか、支配人室の扉がひとりで開き、中からぬらりひょんが廊下へと出てきた。
何事かと思っていたぬらりひょんが視線を下にやると、そこには背中を思いっきり反らし、背中の部分に手を当てながら「ゔゔっ……ゔっ」と、苦しそうに呻き声を上げている花梨の姿が目に入る。
その悲惨な光景を目の当たりにしたぬらりひょんが、口をヒクつかせなが腕を組んだ。
「……お前さんはそこで、いったい何をやっとるんだ?」
「なっ、なんでもない……、です……」
「ふんっ、大体予想はつくがな。扉、歩けたか?」
「……ご、ご覧の通り、です……。はい……」
「バカもんが、このまま話を続けるぞ。今日は『薬屋つむじ風』に行って、仕事の手伝いをしてきてくれ」
その説明を聞いた花梨は、「おっ」と、声を漏らし、その場で体を起こして女座りをしながら話を続ける。
「そこって確か、纏姉さんを診察してくれたカマイタチの辻風さんがいる所でしたよね」
「おお、そうだ。っと言っても、手伝う事はほとんどないと思うがな」
ぬらりひょんの言葉に対し、花梨はおもむろに首を傾《かし》げた。
「まあ、行けば分かる。とりあえず行ってこい」
「了解ですっ!」
今日の仕事内容の説明を終えたぬらりひょんは、キセルの煙をふかしながら支配人室へと戻り、扉をゆっくりと閉めて姿を消した。
その場で立ち上がった花梨は、体全体についているホコリを手で払い、一階を目指して目の前にある階段を下りて永秋を後にする。
今日の目的地である薬屋つむじ風は、永秋から出て左側の秋国山に続く道の通りにあり、そっちの方面に足を運ぶのはここに来てから初めてのことだった。
初めての景色を堪能しようと胸を弾ませるも、薬屋つむじ風の建物は永秋からかなり近くにあったようで、歩き始めてから五分もしない内にたどり着いてしまった。
若干物足りなさを感じるものの、建物の外見に目を向ける。
周りにある建物とほぼ変わらない外見をしているが、薬屋とすぐ分かるように、入り口の上に木目が際立つ看板が設置されており、太くて艶のある黒文字で『くすり屋』と表記されている。
建物の外見を見終えると、中の様子が伺えるガラス戸を引いて中に入っていく。ガラス戸を開けた際に、頭上からチリンチリンとベルの音が鳴り、その音を再び鳴らしながらガラス戸を閉めた。
店内を見渡してみると誰もおらず、何かの薬品だろうか、それとも多種多様の薬草でも使っているのか、何物にも例えられない独特の薬のような匂いが、店の人よりも先に花梨を出迎えてくれた。
口をポカンと開けながら改めて店内を見渡してみると、大小様々な茶色い壺が壁際に置いてあり、半分以上の壺は蓋が開いている。
壺の中を覗いてみると、空っぽの物や白濁色の塗り薬のような物が入っており、手で仰いで匂いを嗅いでみるもほぼ無臭だった。
触ってみたいという好奇心が湧いてくるも、効用も薬さえも分からない得体の知れない物だったので、好奇心を抑えながら壺から距離を取る。
壁には上に向かって等間隔で木の板が設置されており、そこにも茶色い壺があるも、見た事が無い名前が直に書かれている。
背が届く距離にある壺の中身を覗いてみようとしてみるも、棚にある壺には全てちゃんと蓋が閉まっており、中身を見ることができなかった。
この部屋の奥は襖になっており、その襖は少しだけ開いている。手前にはカウンターらしき木の机が設置されていて、筆記類やカルテであろう資料が乱雑に置かれていた。
一通り部屋を見渡した花梨は、誰もいない部屋内で一人ポツンと立って人が来るのを待ってみるも、いつまで待っても来る気配が無く、開いている襖に向かって「すみませーん」と声を上げる。
すると、襖の奥から「はい」と、聞き覚えのある声がしたと同時に風の音と共に襖が開き、そこからカマイタチの辻風がのっそりと出てきた。
寝ていたのか目がしょぼついており、クリーム色の毛皮で覆われた短いマズルを大きく開き、鋭い牙を覗かせながらあくびを一つついた。
店にいるせいか白衣は来ておらず、温かそうなクリーム色の毛皮に身を包んでいる。寝ぼけ眼を擦った辻風が、花梨の姿を見るや否や笑みを浮かべた。
「おお、来たね花梨君」
「お久しぶりです辻風さん。座敷童子堂で初めて会った以来ですね」
「そうだね、その件についてはお礼を言わねばな。纏君の看病、本当にありがとう」
「いえいえっ、こちらこそ纏姉さんの診察ありがとうございました。それで、私は何をすればいいですかね?」
「なに、簡単さ。そこにある椅子に座ってここに来た客の対応をしてくれればいい。まあ、すぐに終わるがね。おっと、早速最初で最後の客が来たよ」
「えっ?」
辻風がそう言うと背後にあるガラス戸の方から、チリンチリンと言うベルの音と共に、一人の客が店内へと入り込んできた。
0
お気に入りに追加
82
あなたにおすすめの小説
隣の家に住むイクメンの正体は龍神様でした~社無しの神とちびっ子神使候補たち
鳴澤うた
キャラ文芸
失恋にストーカー。
心身ともにボロボロになった姉崎菜緒は、とうとう道端で倒れるように寝てしまって……。
悪夢にうなされる菜緒を夢の中で救ってくれたのはなんとお隣のイクメン、藤村辰巳だった。
辰巳と辰巳が世話する子供たちとなんだかんだと交流を深めていくけれど、子供たちはどこか不可思議だ。
それもそのはず、人の姿をとっているけれど辰巳も子供たちも人じゃない。
社を持たない龍神様とこれから神使となるため勉強中の動物たちだったのだ!
食に対し、こだわりの強い辰巳に神使候補の子供たちや見守っている神様たちはご不満で、今の現状を打破しようと菜緒を仲間に入れようと画策していて……
神様と作る二十四節気ごはんを召し上がれ!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

冤罪をかけられた上に婚約破棄されたので、こんな国出て行ってやります
真理亜
恋愛
「そうですか。では出て行きます」
婚約者である王太子のイーサンから謝罪を要求され、従わないなら国外追放だと脅された公爵令嬢のアイリスは、平然とこう言い放った。
そもそもが冤罪を着せられた上、婚約破棄までされた相手に敬意を表す必要など無いし、そんな王太子が治める国に未練などなかったからだ。
脅しが空振りに終わったイーサンは狼狽えるが、最早後の祭りだった。なんと娘可愛さに公爵自身もまた爵位を返上して国を出ると言い出したのだ。
王国のTOPに位置する公爵家が無くなるなどあってはならないことだ。イーサンは慌てて引き止めるがもう遅かった。
公主の嫁入り
マチバリ
キャラ文芸
宗国の公主である雪花は、後宮の最奥にある月花宮で息をひそめて生きていた。母の身分が低かったことを理由に他の妃たちから冷遇されていたからだ。
17歳になったある日、皇帝となった兄の命により龍の血を継ぐという道士の元へ降嫁する事が決まる。政略結婚の道具として役に立ちたいと願いつつも怯えていた雪花だったが、顔を合わせた道士の焔蓮は優しい人で……ぎこちなくも心を通わせ、夫婦となっていく二人の物語。
中華習作かつ色々ふんわりなファンタジー設定です。

アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

後宮浄魔伝~視える皇帝と浄魔の妃~
二位関りをん
キャラ文芸
桃玉は10歳の時に両親を失い、おじ夫妻の元で育った。桃玉にはあやかしを癒やし、浄化する能力があったが、あやかしが視えないので能力に気がついていなかった。
しかし桃玉が20歳になった時、村で人間があやかしに殺される事件が起き、桃玉は事件を治める為の生贄に選ばれてしまった。そんな生贄に捧げられる桃玉を救ったのは若き皇帝・龍環。
桃玉にはあやかしを祓う力があり、更に龍環は自身にはあやかしが視える能力があると伝える。
「俺と組んで後宮に蔓延る悪しきあやかしを浄化してほしいんだ」
こうして2人はある契約を結び、九嬪の1つである昭容の位で後宮入りした桃玉は龍環と共にあやかし祓いに取り組む日が始まったのだった。
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!
オレは視えてるだけですが⁉~訳ありバーテンダーは霊感パティシエを飼い慣らしたい
凍星
キャラ文芸
幽霊が視えてしまうパティシエ、葉室尊。できるだけ周りに迷惑をかけずに静かに生きていきたい……そんな風に思っていたのに⁉ バーテンダーの霊能者、久我蒼真に出逢ったことで、どういう訳か、霊能力のある人達に色々絡まれる日常に突入⁉「オレは視えてるだけだって言ってるのに、なんでこうなるの??」霊感のある主人公と、彼の秘密を暴きたい男の駆け引きと絆を描きます。BL要素あり。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる