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「リリエラっ!!」

 学院にいるはずのないクロード殿下の声が私の名を呼ぶ。いつになく必死な様子に訝しく思いながら振り向いたすぐそこには、焦る殿下の顔。あまりの近さに驚いたけど、すぐに私の視界は彼の胸で覆われてしまう。暇もなく、襲った衝撃で足が宙に浮く。その勢いのまま、後方へ押し倒され、地面に転がった。

 その途端、耳を突き刺す魔獣の叫び。

 魔獣? ここは学院の敷地内なのに、何故魔の森にしかいない魔獣の声が?
 それに、何故、殿下がここに? 

 地面に転がった時、殿下に抱きしめられていたおかげで、私の体はどこも痛むところはなかった。緩んだ腕の中から殿下の顔を覗き込んで、その顔に浮かぶ苦悶の様とその蒼白さに息を呑む。

「クロード様?」

 問いかけても返事はない。恐る恐る背中に触れた手が血で染まる。

「クロード様っ?!」

 背中が衣服ごと裂けていた。背中に走る爪痕。
 背中越しに大きな黒い狼のような魔獣の姿が見えた。血のついた爪。殿下の血が。

 周りから悲鳴が上がる。一瞬にして騒然とする中、私の思考は緩慢になる。

 私を庇って?
 早く血を止めなきゃ。
 逃げないと。
 クロード様を安全なところへ。
 怪我の治療を。
 誰かっ!!

 駆けつけた衛兵と殿下の護衛たちが暴れる魔獣に向き合っている。
 教師が声を張り上げ、逃げ惑う学生を誘導している。
 学生の中でも腕に自信のある者たちは、剣を持ち、魔法を使い、魔獣に攻撃を仕掛けている。

 混乱をきたす中、皆がそれぞれ考え得る最善の行動を取っていて、私の情けない助けを求める声は誰にも届かない。今クロード殿下を助けてくれる人はいない。今は、頼りない私しかいない。

 私は、拙い初歩の治癒魔法を唱える。こんなもので背中の大きな傷は癒える訳もなく、血を止めることさえもできない。でも、何もしないでいることはできなかった。
 何度も何度も繰り返し、泣きながら治癒魔法を唱える。私の魔力量なんてたかが知れている。魔力が切れるのなんてすぐだとわかっていたけど、治療できる者が来るまで何とか繋ぐしかない。諦めそうになる自分を叱咤しながら、何度も繰り返す。

 魔獣の断末魔の叫びが上がった。

 歓声が起こり、魔獣が倒されたことを知る。その後、誰かがクロード様の名を呼び、駆け寄ってくるのが霞む視界に入った時、完全に魔力切れを起こした私は意識を失ってしまったのだった。



 私が目を覚ました時には、既に事件は収束していた。研究用に捕らえた魔獣が、拘束を解いて逃げ出し、学院に逃げ込んできたらしかった。研究の責任者は相応の処分を受け、魔獣を倒した学院の衛兵や生徒たちには、褒賞が与えられるとも聞く。

 クロード殿下は、命は取り留めたものの、高度の治癒魔法での怪我の治療を施すまでに時間がかかったからなのか、なかなか目を覚まさなかった。
 私は婚約者の立場を振りかざし、一日のほとんどの時間彼に寄り添い、手を握り、目を覚ましてくれるよう祈り続けた。バチが当たった私の祈りになど意味がないと分かっていても祈らずにはいられなかった。

 あの時魔獣の爪を受けるのは私であったはずなのに。
 殿下は私を庇う必要などなかったのに。

 ズルをした自分への神様の罰で、大切な人を傷つけることになってしまった後悔で、どうにかなってしまいそうだった。


 殿下が大怪我をした日から三日後、キャシャレル様が殿下の見舞いに来訪された。魔獣を倒し褒賞が与えられることが決まっている生徒の一人は、彼女だと聞いている。

 悲しみを浮かべたその美しい佇まいに、私は目を逸らす。

「花瓶の水を替えてくる間、殿下の傍にいていただけますか?」

 そう言って、逃げるように部屋を出た。

 彼女が殿下の婚約者であったならば、こんなことにならなかったのでは。
 彼女が祈れば、殿下は目を覚ますのでは。

 考えても仕方ないことを考えながら、足取り重く部屋に戻ろうとしていたら、殿下の部屋から慌ただしく侍女が走り去るのが見えた。

 殿下が目を覚まされた?!

 駆けつけたい気持ちとは裏腹に覚束ない足取りで、すぐそこにある部屋へと向かう。
 微かに聞こえてくるのは確かに殿下の声!

「……ずっと、手を握っていてくれたのは、君……?」
「はい、殿下」

 少し掠れた辿々しい問いかけに、涙声で返すキャシャレル様。

 キャシャレル様の返事は「嘘」だ。彼女が訪問したのは先程で、それまでずっと殿下の手を握っていたのは……。

 私は踵を返す。きっと、殿下のためには彼女の言葉が「本当」である方がいいに違いない。





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