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「承ります」
「よろしくお願いします」

 いつものように分厚い書類の束を受け取りながら、淡々と言葉を交わす。目の前の男性の顔のほとんどを覆い隠すような分厚いガラスの嵌った黒縁眼鏡は今日も健在だ。余りに存在感があり過ぎて、心の中での彼の呼称が「眼鏡さん」となってしまうのも致し方ないと思う。もちろん、ちゃんと名前も知ってはいるのだけれど。

「では、夕刻受け取りに上がります」
 そう言って自分の部署に戻っていく彼の背中を見送りながら、私は頭を垂れた。


 私は王宮の経理課に所属する文官だ。中でも下っ端の私の仕事は、他の部署で作成された文書の検算作業。単純な作業ではあるのだけれど、様々な部署から様々な文書が回ってくる。
 その中のひとつが眼鏡さんの所属する部署からで、そこからは毎日必ず大量の依頼がやってくる。それの受け渡しはいつも眼鏡さんなので、私たちは顔見知りになったのだが、お互いに社交的な性格ではないので、仕事以外の話はしたことがない。初めの頃は社会人として季節の挨拶くらいはするものなのかな、とか緊張したのだけれど、彼の毎日変わらない態度を見ていると無理しなくてもいいと言われているようで、今では変な気を回すこともなく、ただ仕事のやり取りの会話だけを交わしている。
 それだけでも何となく人となりは分かってきて、私の中で眼鏡さんは尊敬できる先輩文官の一人となった。


「ありがとうございました」

 検算後の文書を眼鏡さんに渡すと、いつものようにお礼を言われた。丁寧にお礼を言ってくれるのは眼鏡さんだけだ。他の部署の人たちはおざなりに口にするだけ、中には何も言わないでひったくるように文書を持ち帰る人もいる。こちらも仕事なんだし、そんなものなのかも知れないのだけれど、お礼を言われて嬉しくない訳がない。

「いえ。いつもお疲れ様です」

 思わず浮かぶ笑顔でそう返すと、ほとんど眼鏡に埋め尽くされた顔に微かに笑みが浮かんだように見えた。表情に変化があるのは珍しい。何となく気恥ずかしくなって視線を逸らした先に、何か動くものが見えた気がして注視する。
 人影? そう思った時にはその人はこちらに向かって恐ろしい形相で走り寄って来るところだった。何か液体の入った瓶のようなものを持っている。

 あの瓶で何かするつもり?

 何だか嫌な予感がして、勝手に体が動き、眼鏡さんの前に飛び出していた。

 ぱしゃん!

 思っていたよりは少ない量の液体を頭から被る。花のような香りのするそれに眼を瞬かせ、慌てて眼鏡さんの方を見て、彼にも大事な書類にもかかっていないことを確認する。良かった!

「どうして貴女が被るのよ!」
 悲鳴のような甲高い女性の声に我に返ると、眼鏡さんが若い女性の腕を掴んでいる。手には水滴の滴る飾り細工付きの瓶。彼女が何だかわからない液体を眼鏡さんにかけようとしていたようだった。
 何のためにこんなことをしようとしたのかさっぱりわからなくて、それを問いかけようとした瞬間、彼女の手から瓶が滑り落ちた。

「「あ!」」

 受け止めようとしたが間に合わない。私と眼鏡さんがお互いに伸ばした手を擦り抜けて、落下した瓶が砕け散る。また甲高い悲鳴が聞こえたかと思った瞬間、五感がシャットアウトされた。



 我に返った私は見知らぬ部屋にいた。
 そして目の前には眼鏡さん。
 お互いに瓶を掴もうと腕を伸ばした体勢のままだった。

「あれ?」

 思わず零れた疑問符は私のものだけで、眼鏡さんは大きな溜息をついた。

「よりによって、これか」

 何となく私より今置かれている状況を把握していそうなので、聞いてみる。

「何が起こったんでしょうか?」
「……とりあえず、落ち着きましょう」

 そう言った眼鏡さんは充分落ち着いているように思えたのだけれど、私を近くのソファに座るようエスコートした手のひらは少し熱いように感じられた。

 手にしていた書類をテーブルに置き部屋の中を見渡した眼鏡さんにつられて、私もようやく周りに目をやる。
 私の文官女子寮の私室の2倍程の広さの部屋には、窓も扉もなかった。どうやって私たちはここに入ってきたのだろう。箱の中のような部屋にあるのは2人掛けのソファ、ローテーブル、そして天蓋付きのベッドだけ。
 男性と2人きり、ということだけでも緊張するのに、そこに2人で寝転がっても充分余裕のある大きな寝台があることを変に意識してしまう。私と眼鏡さんの間に、そんな雰囲気とか欠片も感じたことなんてないのに!

 とにかく落ち着こうと、ポケットから出したハンカチで少し濡れた髪を拭う。かけられた液体は、何だかいい匂いがするくらいで、無色透明のサラサラした水のようで、それほど不快感はない。そのことにホッとしていると、どこからか置き時計を持ってきた眼鏡さんが隣に並んで座る。ソファは2人掛けのものがひとつしかないのだから当然だ。初めての距離感に動揺している私に、どうか気付かないで欲しい。
 私は眼鏡さんの方を見ることはできず、彼が目の前のテーブルに置いた置き時計を注視することに専念した。時計は規則的に動いているが、針が指すのは現在の時刻ではないようだ。

「わかっていることから説明します」

 いつもの事務連絡のように、眼鏡さんが淡々と話し始める。

「貴女は『魔法の仮宿』というものを知っていますか?」

「いえ、聞いたことがありません」
 素直に答えると、小さく頷いた眼鏡さんが説明してくれる。

「近頃魔術省で発明されたもので、魔力を注ぎ込んで発動させればすぐさま異空間に部屋を設置することができます。これによって旅をする際野宿をしないで済むようになります」

 なるほど。それはとても便利だ。旅の危険度がぐっと下がるし、宿の場所に縛られていた旅程の調整の自由度が格段に上がるだろう。画期的な発明といえる。

「しかし、まだ一般的に普及するにはコストや必要な魔力量、改善点など課題が山積みなのですが」

 なるほど。平民の私にはまだまだ金銭的にも魔力量的にも縁のないもののようだ。
 ふと気付く。

「もしかして、この部屋がその」
「そうです」

 思わぬところで貴重な体験をさせてもらっているようだが、できればこんな不意打ちではないかたちでお願いしたかった。
 そういえば、駆け寄ってきた女性は、身なりからすると王宮で多く働いている文官ではなく、貴族のご令嬢のようだった。

「あの、先程の女性がこのアイテムを使用されたということでしょうか?」
 そう尋ねると、眼鏡の影からでもわかるような渋面を浮かべ、頷く。

「恐らくですが、自分の魔力を先程割れた瓶に込めて、割れると同時に発動するように設定してあったのだと思います」

 魔力量の多い貴族のご令嬢だからこそ、実行できたことのようだ。この部屋の定員が2名となっていたため、発動した瞬間に最も近くにいた私と眼鏡さんが巻き込まれたらしい。

「彼女はその、私にお付き合いを申し込んで来られたご令嬢で、今までに何度もお断りしているのですが、全く話が通じなくて……。最近は様子が尋常ではないので、気をつけてはいたのですが、とうとう周りの人を巻き込むようなことをしでかしてくれました」

 大きな溜息をつく眼鏡さん。厄介な人に気にいられて、とても気の毒だ。

「私と一緒にこの部屋に閉じ込められようとして、失敗したのでしょう」

 なるほど。……ん?

「あの、今閉じ込められる、とか言いましたか?」
 恐る恐る問いかけると、頭を下げられた。
「すみません。先程言っていたこのアイテムの課題のひとつが、一定の時間が経過するまで出られない、ということなのです」

 そう言って、彼はテーブルに置いた置き時計を指差す。

「この時計によると、明日の朝までこの部屋からは誰も出ることは叶わず、また誰も入って来ることもできません」

 衝撃の事実に言葉をなくす。
 眼鏡さんと朝まで密室で2人きり!?

 眼鏡さんのせいではなく、どうしようもないことだとはいえ……。大丈夫? 私、平静でいられる?!

 驚きの表情のまま固まってしまった私に対し、眼鏡さんは一見平静なように見えたけれど、絞り出された声はいつもよりも硬質で、ただならぬ緊張感を感じさせた。

「このようなことになったのは私のせいで、貴女に何の非もありません。……ですが、まだ貴女が冷静であるうちに、お伺いしておいてもよろしいでしょうか?」

 既に冷静ではない自覚があるというのに、そんなことを問うてくる。彼の顔を見ることもできず、俯いたまま問い返す。

「貴方のせいでないのはわかっていますので、お気に病まれないでください。私に何を聞きたいのですか?」

 すぐに返ってくると思った質問は、なかなか彼の口から出てこなかった。

「……実は、先程貴女が頭からかけられた液体なのですが」
 きっと必要な前置きなのだろう。私は話を促すように「はい」と頷く。

「媚薬なのです」

「え?」

 聞き慣れない単語に目を瞬かせる。理解が及んでいない間に、眼鏡さんは話し続ける。

「最近益々挙動不審になったあのご令嬢が、既成事実さえ作ってしまえば何とかなると思ったようで、媚薬を手に私に迫ってくるようになったのです。いつも何とか逃れていたのですが、物理的に逃げられないように、金とコネにものを言わせて『魔法の仮宿』なんて特殊なアイテムを使ってくるなんて、想定外でした……」

 想像以上に恐ろしい話に、自分がその薬を頭からかぶってしまったことを一瞬忘れてしまっていたのだけれど、続く言葉に否応なしに思い出させられることとなった。

「貴女はその薬の効果で、自分の意思とは関係なく、この場にいる唯一の男である私に自らを抱いて欲しいと迫ってくるでしょう。その時私はそれをお受けしてもよろしいでしょうか?」


 抱いて欲しいと迫る? 私が? 眼鏡さんに?!

 
 衝撃的な言葉と情報量の多さに、私の頭は思考停止した。いつの間にか眼鏡さんの顔を凝視してしまっていることにも気付かない私の頭には、今口にすべき言葉が何ひとつ思い浮かばない。何も言えない私の代わりのように彼はいつもとは違って饒舌に話し続ける。

「憎からず想っている貴女から、強引に迫られたり、苦しいから助けてくれと懇願されて、一晩拒み続けられる自信はありません。でも、貴女に恋人や想っている方がいらっしゃるとか、そもそも私のことをそういった対象として見られないとか、触れられるのも嫌だとかいうことでしたら、一晩中走り続けてでも貴女から逃げ切ってみせます」

 回らない頭を何とか回し、話の中から理解できたものだけ拾い上げ、一つずつ答えを返していく。

 眼鏡さんが私のことを憎からず想ってくれている?
 私を拒み切れる自信がない?
 私に恋人や想っている人?
「私には恋人も好きな人もいません」
 眼鏡さんをそういった対象として見られない?触れられるのも嫌?
「貴方のことは先輩として尊敬しています」  
「触れられて嫌だとは、思ってないです」
 そういえば、先程ソファに座るよう促された時、初めて手に触れたのだと気付く。嫌悪感はなかった。むしろ

「手を引かれた時ドキドキしたかも」

 無意識に零れた言葉に、隣に座る眼鏡さんが息を呑むのがわかった。慌てて口を塞いだけれども遅い。羞恥心に顔が赤くなるのを自覚する。

 息苦しい程の沈黙の後、努めて平坦な声で眼鏡さんは確認してきた。

「それは、拒まなくてもよい、ということでいいですか?」

 返す言葉がうまく見つからない。いいと言ってしまっていいのか、駄目だと言ったらどうなるのか、思考はグルグル回ってまとまらない。
 でも、目の前で顔を染めて私の返事を待つ眼鏡さんを見ていたら、胸がドキドキして……私は頷いていた。……つまり、私の気持ちはそういうことなのだろう。

「……わかりました」

 目を逸らした眼鏡さんの声は少しうわずっていて、私の胸がぎゅうっとなった。


「……媚薬って、どれくらいで効いてくるんでしょうか?」

「今まで何とか躱してきたので、わからないです」

「どんな感じになるのかはご存知ですか?」

「聞いた話によると、性的に興奮状態になって誰彼構わず異性を求めるようになるらしいです。その衝動を無理に抑え込もうとすると、死ぬ程苦しいのだとか」

「……怖いですね」

「はい」

「……」

「……」

「……ところで、どれくらいで効いてくるんでしょうか」




 結論から言うと、媚薬の効果は現れなかった。
 令嬢が偽物の薬を掴まされたのか(そもそも正規に売られているものではないし)、使い方が間違っていたのか(飲ませるもののような気がするし)、もしくは男性用だったのか、とかいろいろ考えられることはあるのだけれど。

 魔法の仮宿の効果が切れるまで二人並んでソファに座っていた私と眼鏡さんは、時間が経過するに伴って、これは何も起こらないんじゃないだろうか、と疑い出しながらも、隣にいるお互いの存在が気になってしまって、眠ることも出来なかった。
 お互いに、抱く、抱かれるつもりで一晩過ごした私たちが、その後そういう関係になったのは、必然というものだろう。


「承ります」
「よろしくお願いします」

 いつものように分厚い書類の束を受け取りながら、言葉を交わす。顔のほとんどを覆い隠すような分厚いガラスの嵌った黒縁眼鏡は今日も健在だけれど、その端から覗く優しい笑顔にはまだ慣れないでいる。もちろんら彼のことを「眼鏡さん」と心の中で呼ぶことも、もうない。

「では、夕刻また受け取りに上がります」
 そう言って自分の部署に戻っていこうとした彼は、もう一度振り返りこそっと囁く。

「今晩は私の手料理をご馳走するから、うちにおいで」

 彼の背中を見送りながら、明日の朝まで彼の家から出ることはないのだろうな、などと想像して顔を赤くする私なのだった。



 
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