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ループ物語がしんどいのはハードモードだから以上にループだからだと思う
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「……………………」
この世の全てが真新しく、希望にあふれる幼児なはずの私は、しかし失望で言葉を失っていた。
急にだまりこんだ私に私付きの侍女たちがあわあわとして、一人が医者を呼びに行く。
「あぶう……」
絢爛豪華な金の装飾のされた部屋を見ながら思う。
なんてことだ。
今、目覚めてしまった。前世の記憶に。
赤ちゃんなのにため息が出る。
また始まった。
アドリアンヌ・コレンズの人生が。
前々々々々々々々世が日本人であった私だが、その次の前々々々々々々世は日本にあった乙女ゲームの世界の悪役令嬢になっていたという、時間の概念はどうなってんねん状態だったのだが、まぁそれはもうどうでもいい。
ほんとどうでもいい。
今回、同じ人生が8回目だ。
この部屋は乙女ゲームの悪役令嬢アドリアンヌ・コレンズの部屋に間違いない。
すっごい見慣れているもの。私が間違うわけがないもの。侍女の顔ぶれも見慣れているもの。みんなの未来の顔すら覚えているわよ。
人生がループしている。
しかも試行錯誤が必要ないぬるい設定で。
1回目、2回目、3回目はまだよかった。
最初は、乙女ゲームのメイン攻略対象である婚約者から婚約破棄なんてされたら、私は後世の憂いを無くすために修道院に送られてしまう状況だということに危機感を持っていた。
そうならないよう婚約者の王子と仲良くすることをがんばった。
結果上手くいって、ヒロインもそっと優しくキャッチアンドリリースな感じで場外送りにして。
やったね!
と幸せな人生を送りました1回目。
そのうちに大好きになってしまった王子と生まれ変わってもまた共にいきられるなんて幸せ。と幸せいっぱいだった2回目。
3回目。
あ、また王子と結婚した先の見える人生か……とちょっとさすがにもういいんじゃないかな。と思いながら、家庭にすべてを捧げていてはできないことに興味を持って、王妃だからできることに尽力した趣味と仕事に生きた3回目。
4回目。
え、また?
と思いつつ、政略である婚約破棄はそもそも国家としてない方が良い事態だと今は分かっているので、そうならないよう事務的に対処し、趣味と仕事に生きた4回目。
こんな事務的な女なのに大事にしてくれた夫は素晴らしい方だと思う。
あとこんな事務的で大事にされるというのに、婚約破棄された元祖乙女ゲームの悪役令嬢はどんだけだよ。と思ったりした。
そして飽きが出てきた5回目。
またか……。
とはじめて心底ため息した。
やり直しまくるのなら国に尽くす意味なくない? とも思った。
それならもう修道院いこうかな。と、なーんにも努力しないでヒロインが暗躍(あんやく)するにまかせました。
やってもいないいじめをやったと言われて婚約破棄され、修道院送りになった。
修道院での暮らしは地味で、清貧で、厳しく大変なものだったけれど日本でいう出家みたいなものだし、これはこれであり。
悟りは開けなかったけれど、人としてかなり成長したと思う。
この世界の宗教に悟りという概念はないのだけれど、そこは私が元日本人だから別の話。個人的にそれを目指していた。
家族に迷惑かけるのだけは嫌だなぁと思って、2年後に新聞社にかけあって冤罪暴露新聞を出してもらったら、なんかお城でいろいろあったみたい。
それから彼に側妃がたくさんできたみたい。
私と結婚していたときは側妃をもつような人じゃなかったのに、どうしたのかしら。
冤罪は冤罪だけれど、純粋に勘違いや他の貴族令嬢のやったことをなすりつけられただけなのだとしたらヒロインが冷遇される理由にはならないはずだ。
ヒロインの側にも嫌われる理由はあるのだろう。
夫、じゃないか。未来の王である彼への愛情は今もそのときもあったから、もしあのヒロインとの結婚で苦しんで性格が変わってしまったのなら悪いなぁと思った。
なので6回目では、仕方ないので王妃をめざした。
もう自分の人生を生きるとか飽きたから。
しょうがないわ。
不幸になって欲しくない人がいるんだもの。誰かのために生きるのも悪くないわ。
で夫を愛して過ごした6回目。
毎回ヒロインが気になってその後を調べているけれど、毎回毎回、中身が違う人格なんじゃないかってくらい別の人生を送っている。
いい子ねぇって思うようなヒロインのほのぼのした人生もあれば、なんていうスキモノなのという色恋に溺れる人生のヒロインもいる。
あれって私みたいに中身が違うのかしら。
でも私と違って毎回ちがう人格なのかもしれないわ。
う、うらやましいとか思ったら夫に失礼かなぁ。
7回目は、乙女ゲームをちゃんと成就させたらこのループも終わるんじゃないか。
というのと、なんかもう色々飽きたので傍若無人に生きてみるのもいいか。というのとで悪役令嬢をしっかりやってみました。
人をいじめるのって気分良くないから、目立つこと以外はしないでいたのだけれど、それでも悪評はちゃんとたって、ヒロインと夫は乙女ゲームそのままに幸せに暮らしたわ。
私は5回目と同じく悟りを目指して修道院で質素に暮らしました。
でも、このままずうっとループして私の気が狂ったら、元祖乙女ゲームの悪役令嬢に成り果てそうとは思ったわ。八つ当たりでいじめをする気持ちも分かる。
だってどうせその世界は消えるのだもの。
7回目のヒロインはまともなのかどうなのかよく分からないけれど、いじめられたのは事実だからボロもでなかったようで彼も幸せだったみたい。
側妃ができたって話は聞いていない。
彼が私以外を心底愛したのだと思うとちくりと哀しむ心があるけれど、彼が幸せなら私もまぁ満足だわ。
私が産むはずだった子供たちには悪いけれど、でも魂があるのなら、きっと別の体で産まれて、そして幸せになっていると願っている。
それ以上に、このループ世界から抜け出して、別の世界で幸せに生きていることを願っている。
そんな7回目の努力が水の泡になった8回目の目覚めのただ今。
赤ちゃんなのにため息が出るのも仕方が無いと思うの。
「ぶぅ……」
飽きたー。
飽きたわー。
人生に飽きたわー。
もーねー、やることないですし。
この世界にある娯楽とかほぼほぼ全部知っていると思うし。
なかなか悟りひらけないダメな子ですし。
でも悟り目指しているから、この先ずっとこれでも気が狂うことはないと思うわ。
だって悟りって、今をただただ諸行無常、空即是色の精神で生きることだと思うの。
それができるようになったら、きっとループとかどうでもよくなるんでしょうね。
まだなれていないけれど。
悟れていない私は普通に人生に飽きたわ。
どーしましょー。
あーあー……。
はぁ。
何か面白いことないかしら。
面白いこと……ねぇ。
娯楽がないなら作ればいいんじゃないかしら。
「あぶ!」
そうよ!
そうだわ!
面白い本とか、観劇とか、動物とかサーカスとか探したって世界には限りがあるけれど、想像の世界には限りが無いわ!
私が娯楽をつくればいいのよ!
手始めに何がいいかしら。
音楽は趣味に生きたときにそれなりにやって満足したから、あとやれることといったら小説とか漫画とか絵描きかしら。
絵を描くのは苦手でも得意でもないけれど、簡単に出来ないことに挑戦した方が時間の無駄使いになるわよね。
まずは絵を描きましょう!
そしてゆくゆくは漫画を!
それがいいわ!
あと夫をとられるのは哀しいし、いじめとかしたくないから婚約破棄もしない方向でいきましょ。
さーそうとなったらがんばって、まずはハイハイできるようになるわよ!
「あばー!」
赤ちゃんの小さい両手を高らかに天に向けたら、近くであたふたしていた侍女が「まぁ!」と嬉しそうな声をあげた。
「よかった! お嬢様がお笑いに!」
他の侍女もやってきて、みんなほっとした顔をする。
ご心配おかけ致しましてごめんなさいね。
「まぁかわいく笑っているわ。良かったぁ、急にぶすっとされたから、どこかお具合が悪いのかと思った」
「あ、お医者様。と旦那様、奥様」
侍女たちが扉がある方向を見て言い、私の側からすっと一歩下がった。
あいた空間に若い父と母と、幼いころにお世話になっていたおじいちゃん医師が顔を出す。
「ばぁ! あー!」
「まぁかわいい! アドリアンヌ、お母さんよ。分かるの?」
手を伸ばされた母が嬉しそうに私の手の中に指を入れる。反射的にきゅっと握ると、また「うふふふふ」と嬉しそうにした。
過去の人生ではみんなの死を見送っているから、また会えたことが嬉しい。
子供を甘やかしすぎるダメな親だけれど、親は親なの。
そしておじいちゃん先生は一番最初にいなくなってしまった人だから、やっぱり会えるのは嬉しい。
何度も繰り返す人生で、もう本当ループ抜けたいとは思うけれども、会えなくなった人に会えるのは素直に嬉しいわ。
「アドリアンヌの様子がおかしいと聞いたが」
「はい。先ほど――」
私を母にあずけて、ほっとした顔をした父と侍女、おじいちゃん先生が話をする。
おじいちゃん先生が私を診察して、異常は無いとの言葉を残してその日は帰って行った。
そんなことがあったものの、私は成長するに従って、とっくの昔に身につけている淑女としてのマナーや勉強を一回で覚える天才ともてはやされながら、絵を描くことに取り組んだ。
そしてまた、6歳で王子と婚約した。
婚約後はじめての面会の日。
金の短い巻き毛に、青い瞳の王子は私を一目見るなり走ってきて、ぎゅうっとその小さな体で力一杯に私を抱きしめてきた。
子供の加減を知らない抱擁に私の小さな体がきしむ。
「アビー! 僕のお嫁さん!」
まるでずっと無くしていたお気に入りのおもちゃを見つけた子供のようだ。
アビーというのは私の名前の愛称で、今までの前世でも王子が好んで使っていた呼び名だった。
「ううう」
強烈な抱擁で声もでない私の代わりに、周囲にいる大人たちが慌てて王子をひきはなそうとする。
「王子、そのように抱きついてはアドリアンヌ様が苦しゅうございます。お放しになってあげてください」
しかし、ぎゅううっと抱きしめる力がさらに強くなる。
「いやだ! いやだ! ぜったいにいやだ! ぜったいにはなれないよ! もうぜったい放さないから!」
「うええ?」
なにがどうなっているの?
私がうめき声をあげながらはてなマークを飛ばしている間に、王子は力ずくで大人たちに引き剥がされた。
王子のこんな執着は、今までのループ人生でも見たことのないものだ。
どういうことかしら??
まさか彼にも異常事態が起きているの?
前世をすべて覚えているループ地獄は、彼には味あわせたくない。
どうかそれだけはありませんように。
+++王子+++
1回目
つややかな黒い髪。神秘的な紫の瞳。整った美しい容姿に優しい心根。
好意を隠せていないまっすぐな目で僕を見る婚約者を好きになるのにそう時間はかからなかった。
2回目
はじめて見たとき「かわいいな」と思った。
穏やかに、けれどあたたかな好意を伝えてくる彼女の側にいるのはそれだけで幸せだった。
3回目
出会った瞬間に、彼女といれば僕は幸せでいられるだろう。という直感があった。
たまに困ったように笑うのはどうしてなのか最後まで分からずじまいだったが。
王として多忙ながら、心は彼女に支えられた満たされた日々を送ることが出来た。
そんな妃には感謝の念がたえない。
4回目
出会ったときからずっと変わらない、どこか疲れたような、諦めているような、哀しそうな表情が気になっていた。
いつか僕がその憂いを払ってあげたかった。
心の底から幸せだと思わせたいと思った。
どんな珍しいものを見せても、感動的な劇を見ても彼女の反応はかんばしくなかったけれど、僕が彼女を気遣うと嬉しそうにするのがたまらなく愛おしい。
「愛しています」
僕が先に逝くときに、涙を流しながらそう言ってくれた愛しい人。
僕は君の憂いを晴らすことは出来ただろうか。
残していくのは心苦しいが、僕は心の底からの幸せのなかにいた。
5回目
僕ははじめて会ったときから彼女に惹かれてやまないのに、彼女は僕を嫌いらしい。
声をかけても無反応。
プレゼントを渡しても返される。
もっと嬉しそうにする顔がみたいのに。穏やかに幸せにしていて欲しいのに。
僕は理想を彼女に求め、違うということに失望している気がした。それはよくないとも思って、そのうち僕も彼女にかまうのをやめた。
貴族の通う学園で、心優しい少女に会った。
男爵家の庶子だという彼女は、僕が探していた誰かに似た優しい人だと思った。
理想は理想であって現実ではない。
今目の前にいるこの人の優しさを大切にしたい。
その少女がときおりつらそうにしているのを見つけた。
なんでもアドリアンヌにいじめられているという。
僕に何の興味も示さなかったアドリアンヌがそんなことをするとは意外だったが、婚約者としてのプライドはあったのかもしれない。
このままでは僕もアドリアンヌを愛することは出来ないし、かなうなら愛しい少女と共に生きたい。
僕は父に婚約の解消を願い出て、了承された。
コレンズ家の長男を宰相にするということで政治的なバランスはとっていくことにして、アドリアンヌとの婚約は破棄された。
幸せになれると思っていた。
だが私が優しいと思った少女の優しさは、まがいものであって本物ではなかったようだ。
妃とした女が、寝所に別の男を呼んでいるという情報を受けて真偽を確かめに行けばその通りで、僕の心は冷えて固まった。
どういうことだ!
と問いただした彼女の我が儘な本性の言葉を聞いた瞬間に、ひび割れていた心は砕け散った。
婚約を破棄してまで望んで得た妃を不義密通で離縁するのは醜聞が過ぎる。
私は側妃を得る方向で解決することにした。
適任者は誰だろうかと吟味していたときに、あの冤罪暴露新聞が出回った。
アドリアンヌのいじめはなかった。
アドリアンヌはやはり私にいっさいの興味が無かったのだ。
なんだか嗤えてきて、側妃を吟味するのも馬鹿らしくなった。
家臣がすすめる縁組みをすべて受けることにした。
もちろん暗殺をたくらんでいそうなところは排除したが。
たくさんの女と過ごすのは楽しいが、楽しいだけだ。
それは一時的に苦しみを忘れるものであって、苦しみを根本から消すものではない。安らぎとは違う。
女同士の醜い争いも見るに堪えない。
僕は女を不幸にしか出来ないのか。
心の底が求めている幸せと、一時の楽しさは別物なのだと突きつけられる日々。
ふと思い出すのは、反応の薄いかつての婚約者のこと。
修道院で穏やかに日々を過ごしているという彼女は、僕が求めている幸せを知っているのだろうか。
6回目
優しく僕を見つめる瞳に恋をした。
なぜだかそれが嬉しすぎて、たまに人目を忍んで泣いてしまった。
妃が愛しい。
その存在が奇跡のように思える。
7回目
あの女に一目惚れをしたのは人生の汚点だ。と思う。
僕に対しては普通なのに、使用人に対して口汚く罵る姿を見れば、心が離れるのも、未来の王妃にふさわしくないと思うのも致し方あるまい。
だが何か、妙にそれを拒絶する気持ちがあってなかなか婚約を解消とは言い出せなかった。
貴族の通う学園で心優しい少女に出会った。
男爵家の庶子で、元は平民だったとかで、貴族のマナーがなっていないところがあるが、前向きないい子だった。
こういう子がいたらいいのに、と思う反応をする彼女はまさに僕の理想そのもので、あの女と婚約を解消する決心がやっとついた。
後世の憂いを無くすため、あの女には修道院送りになってもらった。
彼女の人生をふみにじることになるが、王家にあだなす可能性のある者を自由にさせるわけにはいかない。
「どうして!」と叫ぶ姿は、ひどく残念だった。
最後まで君は僕の求めている君じゃないのか。
新しい婚約者はそのまま婚姻を結んで妃となった。
優しく、穏やかな女性だ。
子供にも恵まれた幸せな日々。
幸せなのに、妃が愛しいのに、たまに胸をむなしさがよぎる。
ふと思い出すあの女。
修道院でのあの女の暮らしは穏やかで、僕の知っているあの女とはまるで別人のようだった。
どちらが本当のあの女なのか分からない。
だが、報告書に書かれたあの女は、僕がずっと探していた誰かがそこにいるかのようで、読むと幸せで切ない気持ちになる。
家族は大切だし妃も愛しているが、部下に報告書を提出させるのをやめさせることはできなかった。
名目上はその行動の監視。
妃を傷つけた敵だというのに、今の穏やかになったあの女が、誰のものにもならず、質素ながらも幸せに暮らしているということを知ると、なぜかとても満ちた気持ちになった。
恋とは違う。
幸せでいてくれることにほっとする。
このあたたかな想いは何だろう。
8回目
彼女を見たときに感じたことを一言で言い表すことはできない。
愛しさ、恋しさ、切なさ、さみしさ、悲しさ、焦燥感、そして言葉に出来ないごちゃごちゃと混ざり合ったなにか。
様々な感情を爆発的に感じて、それらは幼い僕の心の中で一点に集約した。
――アビーがいないといやだ。
++++++
「いやだ! いやだ! ぜったいにいやだ! ぜったいにはなれないよ! もうぜったい放さないから!」
「うええ?」
私をぎゅうぎゅうに抱きしめる王子は少しだけ抱擁をゆるめて、顔をちょっとだけ離した場所で首をかしげて言う。
「アビー、アビーが僕のお嫁さんになるんだよね? そうだよね?」
「う、うん」
「へへ、よかった!」
ぎゅっとまた抱きつこうとした王子は、大人たちにひき離されて「なんだよー」と文句を言っている。
なおも私を諦めようとしない王子は、邪魔をする大人たちの存在でしぶしぶ、しぶしぶというように諦めた。
ちょっと離れた私の隣の椅子に腰掛けて、じっと私をみてくる。
視線がびしびし刺さりすぎて居心地が悪い。
王子が体をかたむけて、ちゅっと私の頬にキスをした。
びっくりして見れば、色っぽさのない無邪気な笑顔がある。
「殿下!」
まわりの大人たちがまた王子と私をひきはなした。
そんなやりとりを何回か繰り返して、王子も私の手を握ることで妥協するようになると、やっと二人だけで話が出来るようになった。
お城の庭園のかたすみを流れる小川に、二人で足をつけてぱしゃぱしゃして遊ぶ。
手は握られたままだ。
護衛と見張りの大人たちが、小声なら声が聞こえない距離にいるのを確認して、私はやっと王子に聞いた。
「あの、殿下は、前のことを覚えてらっしゃるんですか?」
「前?」
「えーと、修道院にいったときとか、結婚したこととか」
「結婚? アビーは僕じゃない人と結婚したの?」
子供だというのに、嫉妬もあらわな低く重い声。
私は勢いよく首を横にふる。
「いえ! していません!」
今世は当然ながら、前世を含めてもしていない。
アドリアンヌの過去の人生は王子と結婚するか修道院かの二択だった。
というか他の男性と結ばれるという選択肢を考えなかった私もすごいわ。
自分でびっくりの一途さだわ。
「ふうん? ならいいよ」
よく分かっていないようだが、とりあえず納得したらしい王子は、またつま先で水をぱしゃりと蹴り上げる。
この様子では王子は前世のことは覚えていないだろう。
そうよね、だって覚えていて大人の意識を持っていたら、あんな手加減なしにぎゅうぎゅうに抱きしめるなんてしないもの。
よじよじと王子が横からにじりよってくる。これ以上無理だよというほどぴったりと私にくっついた。
「へへ、アビー、アビー、だいすきだよ」
「あ、ありがとうございます」
「アビーを見たとき、この子だって思ったんだ。もうぜったいぜったいぜったいにはなれちゃダメだ! って思ったんだ」
「そうなのですか」
「うん。アビー。君がいると心がぽかぽか、ふわふわする。アビーだいすき」
「あ、ありがとうございます」
「へへへ」
私はもう何度も人生を送りなおした年上のような精神年齢だけれど、王子はアドリアンヌの人生全てにいた人だから、子供なのに子供とは思えない。
ただただ私の大切な人。
るんるんと私のとなりに陣取って、あれやこれやお城の話や好きな食べ物の話なんかをする王子様。
そんな中、彼がふと妙にだまりこんで「うーん」とうなった。
「どうしました?」
「うーん。あのね、アビー、聞いてくれる? なんだか意味がよく分からないんだけど、君に言いたくてたまらない言葉がずっと頭の中をぐるぐるしているんだよね」
「言いたいこと? なんですか?」
小さな王子はあどけない声で、言葉の意味を分かっていない無邪気な笑顔で、でも真剣な目で言った。
「ずっと君が好きだった」
この世の全てが真新しく、希望にあふれる幼児なはずの私は、しかし失望で言葉を失っていた。
急にだまりこんだ私に私付きの侍女たちがあわあわとして、一人が医者を呼びに行く。
「あぶう……」
絢爛豪華な金の装飾のされた部屋を見ながら思う。
なんてことだ。
今、目覚めてしまった。前世の記憶に。
赤ちゃんなのにため息が出る。
また始まった。
アドリアンヌ・コレンズの人生が。
前々々々々々々々世が日本人であった私だが、その次の前々々々々々々世は日本にあった乙女ゲームの世界の悪役令嬢になっていたという、時間の概念はどうなってんねん状態だったのだが、まぁそれはもうどうでもいい。
ほんとどうでもいい。
今回、同じ人生が8回目だ。
この部屋は乙女ゲームの悪役令嬢アドリアンヌ・コレンズの部屋に間違いない。
すっごい見慣れているもの。私が間違うわけがないもの。侍女の顔ぶれも見慣れているもの。みんなの未来の顔すら覚えているわよ。
人生がループしている。
しかも試行錯誤が必要ないぬるい設定で。
1回目、2回目、3回目はまだよかった。
最初は、乙女ゲームのメイン攻略対象である婚約者から婚約破棄なんてされたら、私は後世の憂いを無くすために修道院に送られてしまう状況だということに危機感を持っていた。
そうならないよう婚約者の王子と仲良くすることをがんばった。
結果上手くいって、ヒロインもそっと優しくキャッチアンドリリースな感じで場外送りにして。
やったね!
と幸せな人生を送りました1回目。
そのうちに大好きになってしまった王子と生まれ変わってもまた共にいきられるなんて幸せ。と幸せいっぱいだった2回目。
3回目。
あ、また王子と結婚した先の見える人生か……とちょっとさすがにもういいんじゃないかな。と思いながら、家庭にすべてを捧げていてはできないことに興味を持って、王妃だからできることに尽力した趣味と仕事に生きた3回目。
4回目。
え、また?
と思いつつ、政略である婚約破棄はそもそも国家としてない方が良い事態だと今は分かっているので、そうならないよう事務的に対処し、趣味と仕事に生きた4回目。
こんな事務的な女なのに大事にしてくれた夫は素晴らしい方だと思う。
あとこんな事務的で大事にされるというのに、婚約破棄された元祖乙女ゲームの悪役令嬢はどんだけだよ。と思ったりした。
そして飽きが出てきた5回目。
またか……。
とはじめて心底ため息した。
やり直しまくるのなら国に尽くす意味なくない? とも思った。
それならもう修道院いこうかな。と、なーんにも努力しないでヒロインが暗躍(あんやく)するにまかせました。
やってもいないいじめをやったと言われて婚約破棄され、修道院送りになった。
修道院での暮らしは地味で、清貧で、厳しく大変なものだったけれど日本でいう出家みたいなものだし、これはこれであり。
悟りは開けなかったけれど、人としてかなり成長したと思う。
この世界の宗教に悟りという概念はないのだけれど、そこは私が元日本人だから別の話。個人的にそれを目指していた。
家族に迷惑かけるのだけは嫌だなぁと思って、2年後に新聞社にかけあって冤罪暴露新聞を出してもらったら、なんかお城でいろいろあったみたい。
それから彼に側妃がたくさんできたみたい。
私と結婚していたときは側妃をもつような人じゃなかったのに、どうしたのかしら。
冤罪は冤罪だけれど、純粋に勘違いや他の貴族令嬢のやったことをなすりつけられただけなのだとしたらヒロインが冷遇される理由にはならないはずだ。
ヒロインの側にも嫌われる理由はあるのだろう。
夫、じゃないか。未来の王である彼への愛情は今もそのときもあったから、もしあのヒロインとの結婚で苦しんで性格が変わってしまったのなら悪いなぁと思った。
なので6回目では、仕方ないので王妃をめざした。
もう自分の人生を生きるとか飽きたから。
しょうがないわ。
不幸になって欲しくない人がいるんだもの。誰かのために生きるのも悪くないわ。
で夫を愛して過ごした6回目。
毎回ヒロインが気になってその後を調べているけれど、毎回毎回、中身が違う人格なんじゃないかってくらい別の人生を送っている。
いい子ねぇって思うようなヒロインのほのぼのした人生もあれば、なんていうスキモノなのという色恋に溺れる人生のヒロインもいる。
あれって私みたいに中身が違うのかしら。
でも私と違って毎回ちがう人格なのかもしれないわ。
う、うらやましいとか思ったら夫に失礼かなぁ。
7回目は、乙女ゲームをちゃんと成就させたらこのループも終わるんじゃないか。
というのと、なんかもう色々飽きたので傍若無人に生きてみるのもいいか。というのとで悪役令嬢をしっかりやってみました。
人をいじめるのって気分良くないから、目立つこと以外はしないでいたのだけれど、それでも悪評はちゃんとたって、ヒロインと夫は乙女ゲームそのままに幸せに暮らしたわ。
私は5回目と同じく悟りを目指して修道院で質素に暮らしました。
でも、このままずうっとループして私の気が狂ったら、元祖乙女ゲームの悪役令嬢に成り果てそうとは思ったわ。八つ当たりでいじめをする気持ちも分かる。
だってどうせその世界は消えるのだもの。
7回目のヒロインはまともなのかどうなのかよく分からないけれど、いじめられたのは事実だからボロもでなかったようで彼も幸せだったみたい。
側妃ができたって話は聞いていない。
彼が私以外を心底愛したのだと思うとちくりと哀しむ心があるけれど、彼が幸せなら私もまぁ満足だわ。
私が産むはずだった子供たちには悪いけれど、でも魂があるのなら、きっと別の体で産まれて、そして幸せになっていると願っている。
それ以上に、このループ世界から抜け出して、別の世界で幸せに生きていることを願っている。
そんな7回目の努力が水の泡になった8回目の目覚めのただ今。
赤ちゃんなのにため息が出るのも仕方が無いと思うの。
「ぶぅ……」
飽きたー。
飽きたわー。
人生に飽きたわー。
もーねー、やることないですし。
この世界にある娯楽とかほぼほぼ全部知っていると思うし。
なかなか悟りひらけないダメな子ですし。
でも悟り目指しているから、この先ずっとこれでも気が狂うことはないと思うわ。
だって悟りって、今をただただ諸行無常、空即是色の精神で生きることだと思うの。
それができるようになったら、きっとループとかどうでもよくなるんでしょうね。
まだなれていないけれど。
悟れていない私は普通に人生に飽きたわ。
どーしましょー。
あーあー……。
はぁ。
何か面白いことないかしら。
面白いこと……ねぇ。
娯楽がないなら作ればいいんじゃないかしら。
「あぶ!」
そうよ!
そうだわ!
面白い本とか、観劇とか、動物とかサーカスとか探したって世界には限りがあるけれど、想像の世界には限りが無いわ!
私が娯楽をつくればいいのよ!
手始めに何がいいかしら。
音楽は趣味に生きたときにそれなりにやって満足したから、あとやれることといったら小説とか漫画とか絵描きかしら。
絵を描くのは苦手でも得意でもないけれど、簡単に出来ないことに挑戦した方が時間の無駄使いになるわよね。
まずは絵を描きましょう!
そしてゆくゆくは漫画を!
それがいいわ!
あと夫をとられるのは哀しいし、いじめとかしたくないから婚約破棄もしない方向でいきましょ。
さーそうとなったらがんばって、まずはハイハイできるようになるわよ!
「あばー!」
赤ちゃんの小さい両手を高らかに天に向けたら、近くであたふたしていた侍女が「まぁ!」と嬉しそうな声をあげた。
「よかった! お嬢様がお笑いに!」
他の侍女もやってきて、みんなほっとした顔をする。
ご心配おかけ致しましてごめんなさいね。
「まぁかわいく笑っているわ。良かったぁ、急にぶすっとされたから、どこかお具合が悪いのかと思った」
「あ、お医者様。と旦那様、奥様」
侍女たちが扉がある方向を見て言い、私の側からすっと一歩下がった。
あいた空間に若い父と母と、幼いころにお世話になっていたおじいちゃん医師が顔を出す。
「ばぁ! あー!」
「まぁかわいい! アドリアンヌ、お母さんよ。分かるの?」
手を伸ばされた母が嬉しそうに私の手の中に指を入れる。反射的にきゅっと握ると、また「うふふふふ」と嬉しそうにした。
過去の人生ではみんなの死を見送っているから、また会えたことが嬉しい。
子供を甘やかしすぎるダメな親だけれど、親は親なの。
そしておじいちゃん先生は一番最初にいなくなってしまった人だから、やっぱり会えるのは嬉しい。
何度も繰り返す人生で、もう本当ループ抜けたいとは思うけれども、会えなくなった人に会えるのは素直に嬉しいわ。
「アドリアンヌの様子がおかしいと聞いたが」
「はい。先ほど――」
私を母にあずけて、ほっとした顔をした父と侍女、おじいちゃん先生が話をする。
おじいちゃん先生が私を診察して、異常は無いとの言葉を残してその日は帰って行った。
そんなことがあったものの、私は成長するに従って、とっくの昔に身につけている淑女としてのマナーや勉強を一回で覚える天才ともてはやされながら、絵を描くことに取り組んだ。
そしてまた、6歳で王子と婚約した。
婚約後はじめての面会の日。
金の短い巻き毛に、青い瞳の王子は私を一目見るなり走ってきて、ぎゅうっとその小さな体で力一杯に私を抱きしめてきた。
子供の加減を知らない抱擁に私の小さな体がきしむ。
「アビー! 僕のお嫁さん!」
まるでずっと無くしていたお気に入りのおもちゃを見つけた子供のようだ。
アビーというのは私の名前の愛称で、今までの前世でも王子が好んで使っていた呼び名だった。
「ううう」
強烈な抱擁で声もでない私の代わりに、周囲にいる大人たちが慌てて王子をひきはなそうとする。
「王子、そのように抱きついてはアドリアンヌ様が苦しゅうございます。お放しになってあげてください」
しかし、ぎゅううっと抱きしめる力がさらに強くなる。
「いやだ! いやだ! ぜったいにいやだ! ぜったいにはなれないよ! もうぜったい放さないから!」
「うええ?」
なにがどうなっているの?
私がうめき声をあげながらはてなマークを飛ばしている間に、王子は力ずくで大人たちに引き剥がされた。
王子のこんな執着は、今までのループ人生でも見たことのないものだ。
どういうことかしら??
まさか彼にも異常事態が起きているの?
前世をすべて覚えているループ地獄は、彼には味あわせたくない。
どうかそれだけはありませんように。
+++王子+++
1回目
つややかな黒い髪。神秘的な紫の瞳。整った美しい容姿に優しい心根。
好意を隠せていないまっすぐな目で僕を見る婚約者を好きになるのにそう時間はかからなかった。
2回目
はじめて見たとき「かわいいな」と思った。
穏やかに、けれどあたたかな好意を伝えてくる彼女の側にいるのはそれだけで幸せだった。
3回目
出会った瞬間に、彼女といれば僕は幸せでいられるだろう。という直感があった。
たまに困ったように笑うのはどうしてなのか最後まで分からずじまいだったが。
王として多忙ながら、心は彼女に支えられた満たされた日々を送ることが出来た。
そんな妃には感謝の念がたえない。
4回目
出会ったときからずっと変わらない、どこか疲れたような、諦めているような、哀しそうな表情が気になっていた。
いつか僕がその憂いを払ってあげたかった。
心の底から幸せだと思わせたいと思った。
どんな珍しいものを見せても、感動的な劇を見ても彼女の反応はかんばしくなかったけれど、僕が彼女を気遣うと嬉しそうにするのがたまらなく愛おしい。
「愛しています」
僕が先に逝くときに、涙を流しながらそう言ってくれた愛しい人。
僕は君の憂いを晴らすことは出来ただろうか。
残していくのは心苦しいが、僕は心の底からの幸せのなかにいた。
5回目
僕ははじめて会ったときから彼女に惹かれてやまないのに、彼女は僕を嫌いらしい。
声をかけても無反応。
プレゼントを渡しても返される。
もっと嬉しそうにする顔がみたいのに。穏やかに幸せにしていて欲しいのに。
僕は理想を彼女に求め、違うということに失望している気がした。それはよくないとも思って、そのうち僕も彼女にかまうのをやめた。
貴族の通う学園で、心優しい少女に会った。
男爵家の庶子だという彼女は、僕が探していた誰かに似た優しい人だと思った。
理想は理想であって現実ではない。
今目の前にいるこの人の優しさを大切にしたい。
その少女がときおりつらそうにしているのを見つけた。
なんでもアドリアンヌにいじめられているという。
僕に何の興味も示さなかったアドリアンヌがそんなことをするとは意外だったが、婚約者としてのプライドはあったのかもしれない。
このままでは僕もアドリアンヌを愛することは出来ないし、かなうなら愛しい少女と共に生きたい。
僕は父に婚約の解消を願い出て、了承された。
コレンズ家の長男を宰相にするということで政治的なバランスはとっていくことにして、アドリアンヌとの婚約は破棄された。
幸せになれると思っていた。
だが私が優しいと思った少女の優しさは、まがいものであって本物ではなかったようだ。
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どういうことだ!
と問いただした彼女の我が儘な本性の言葉を聞いた瞬間に、ひび割れていた心は砕け散った。
婚約を破棄してまで望んで得た妃を不義密通で離縁するのは醜聞が過ぎる。
私は側妃を得る方向で解決することにした。
適任者は誰だろうかと吟味していたときに、あの冤罪暴露新聞が出回った。
アドリアンヌのいじめはなかった。
アドリアンヌはやはり私にいっさいの興味が無かったのだ。
なんだか嗤えてきて、側妃を吟味するのも馬鹿らしくなった。
家臣がすすめる縁組みをすべて受けることにした。
もちろん暗殺をたくらんでいそうなところは排除したが。
たくさんの女と過ごすのは楽しいが、楽しいだけだ。
それは一時的に苦しみを忘れるものであって、苦しみを根本から消すものではない。安らぎとは違う。
女同士の醜い争いも見るに堪えない。
僕は女を不幸にしか出来ないのか。
心の底が求めている幸せと、一時の楽しさは別物なのだと突きつけられる日々。
ふと思い出すのは、反応の薄いかつての婚約者のこと。
修道院で穏やかに日々を過ごしているという彼女は、僕が求めている幸せを知っているのだろうか。
6回目
優しく僕を見つめる瞳に恋をした。
なぜだかそれが嬉しすぎて、たまに人目を忍んで泣いてしまった。
妃が愛しい。
その存在が奇跡のように思える。
7回目
あの女に一目惚れをしたのは人生の汚点だ。と思う。
僕に対しては普通なのに、使用人に対して口汚く罵る姿を見れば、心が離れるのも、未来の王妃にふさわしくないと思うのも致し方あるまい。
だが何か、妙にそれを拒絶する気持ちがあってなかなか婚約を解消とは言い出せなかった。
貴族の通う学園で心優しい少女に出会った。
男爵家の庶子で、元は平民だったとかで、貴族のマナーがなっていないところがあるが、前向きないい子だった。
こういう子がいたらいいのに、と思う反応をする彼女はまさに僕の理想そのもので、あの女と婚約を解消する決心がやっとついた。
後世の憂いを無くすため、あの女には修道院送りになってもらった。
彼女の人生をふみにじることになるが、王家にあだなす可能性のある者を自由にさせるわけにはいかない。
「どうして!」と叫ぶ姿は、ひどく残念だった。
最後まで君は僕の求めている君じゃないのか。
新しい婚約者はそのまま婚姻を結んで妃となった。
優しく、穏やかな女性だ。
子供にも恵まれた幸せな日々。
幸せなのに、妃が愛しいのに、たまに胸をむなしさがよぎる。
ふと思い出すあの女。
修道院でのあの女の暮らしは穏やかで、僕の知っているあの女とはまるで別人のようだった。
どちらが本当のあの女なのか分からない。
だが、報告書に書かれたあの女は、僕がずっと探していた誰かがそこにいるかのようで、読むと幸せで切ない気持ちになる。
家族は大切だし妃も愛しているが、部下に報告書を提出させるのをやめさせることはできなかった。
名目上はその行動の監視。
妃を傷つけた敵だというのに、今の穏やかになったあの女が、誰のものにもならず、質素ながらも幸せに暮らしているということを知ると、なぜかとても満ちた気持ちになった。
恋とは違う。
幸せでいてくれることにほっとする。
このあたたかな想いは何だろう。
8回目
彼女を見たときに感じたことを一言で言い表すことはできない。
愛しさ、恋しさ、切なさ、さみしさ、悲しさ、焦燥感、そして言葉に出来ないごちゃごちゃと混ざり合ったなにか。
様々な感情を爆発的に感じて、それらは幼い僕の心の中で一点に集約した。
――アビーがいないといやだ。
++++++
「いやだ! いやだ! ぜったいにいやだ! ぜったいにはなれないよ! もうぜったい放さないから!」
「うええ?」
私をぎゅうぎゅうに抱きしめる王子は少しだけ抱擁をゆるめて、顔をちょっとだけ離した場所で首をかしげて言う。
「アビー、アビーが僕のお嫁さんになるんだよね? そうだよね?」
「う、うん」
「へへ、よかった!」
ぎゅっとまた抱きつこうとした王子は、大人たちにひき離されて「なんだよー」と文句を言っている。
なおも私を諦めようとしない王子は、邪魔をする大人たちの存在でしぶしぶ、しぶしぶというように諦めた。
ちょっと離れた私の隣の椅子に腰掛けて、じっと私をみてくる。
視線がびしびし刺さりすぎて居心地が悪い。
王子が体をかたむけて、ちゅっと私の頬にキスをした。
びっくりして見れば、色っぽさのない無邪気な笑顔がある。
「殿下!」
まわりの大人たちがまた王子と私をひきはなした。
そんなやりとりを何回か繰り返して、王子も私の手を握ることで妥協するようになると、やっと二人だけで話が出来るようになった。
お城の庭園のかたすみを流れる小川に、二人で足をつけてぱしゃぱしゃして遊ぶ。
手は握られたままだ。
護衛と見張りの大人たちが、小声なら声が聞こえない距離にいるのを確認して、私はやっと王子に聞いた。
「あの、殿下は、前のことを覚えてらっしゃるんですか?」
「前?」
「えーと、修道院にいったときとか、結婚したこととか」
「結婚? アビーは僕じゃない人と結婚したの?」
子供だというのに、嫉妬もあらわな低く重い声。
私は勢いよく首を横にふる。
「いえ! していません!」
今世は当然ながら、前世を含めてもしていない。
アドリアンヌの過去の人生は王子と結婚するか修道院かの二択だった。
というか他の男性と結ばれるという選択肢を考えなかった私もすごいわ。
自分でびっくりの一途さだわ。
「ふうん? ならいいよ」
よく分かっていないようだが、とりあえず納得したらしい王子は、またつま先で水をぱしゃりと蹴り上げる。
この様子では王子は前世のことは覚えていないだろう。
そうよね、だって覚えていて大人の意識を持っていたら、あんな手加減なしにぎゅうぎゅうに抱きしめるなんてしないもの。
よじよじと王子が横からにじりよってくる。これ以上無理だよというほどぴったりと私にくっついた。
「へへ、アビー、アビー、だいすきだよ」
「あ、ありがとうございます」
「アビーを見たとき、この子だって思ったんだ。もうぜったいぜったいぜったいにはなれちゃダメだ! って思ったんだ」
「そうなのですか」
「うん。アビー。君がいると心がぽかぽか、ふわふわする。アビーだいすき」
「あ、ありがとうございます」
「へへへ」
私はもう何度も人生を送りなおした年上のような精神年齢だけれど、王子はアドリアンヌの人生全てにいた人だから、子供なのに子供とは思えない。
ただただ私の大切な人。
るんるんと私のとなりに陣取って、あれやこれやお城の話や好きな食べ物の話なんかをする王子様。
そんな中、彼がふと妙にだまりこんで「うーん」とうなった。
「どうしました?」
「うーん。あのね、アビー、聞いてくれる? なんだか意味がよく分からないんだけど、君に言いたくてたまらない言葉がずっと頭の中をぐるぐるしているんだよね」
「言いたいこと? なんですか?」
小さな王子はあどけない声で、言葉の意味を分かっていない無邪気な笑顔で、でも真剣な目で言った。
「ずっと君が好きだった」
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