シアンの記憶

夢見なよ

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1 穏やかな一日

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 爽やかな風が鼻をかすめ、なんともいい匂いを運んでくる。これはフローラルというべきだろうか。たぶんそういう類の香りだ。
「いい……におい」
 ニヤつきながら机に突っ伏している俺を曇りなき眼で横からじっと見つめるその匂いの主は「どうしたの?」と呟いている。可愛いという言葉では言い表せない程の彼の愛らしさは山の麓の子供より格段に研ぎ澄まされているだろう。ずっと横から俺を見つめている彼は、少し前髪をいじり始めたのだが、これは何かを思案している時の彼の癖である。
「おなかすいたの?」
「いや、何もしたくないだけだよ、シアン」
 その言葉を聞いた瞬間、シアンは「えー?」と言いながら、机から離れて俺の後ろに回り込んだ。そのまま俺の髪をいきなり引っ張り出している。かなり頭皮がイカれた気がして、俺はハゲになる未来から脱却するため、すぐにシアンを捕まえることにした。
「おい!! 俺の頭皮が物理的に逃避しちゃうところだっただろ!?」
「だって、テオにい、畑仕事したくないって言うから」
 純粋な笑顔が降り注ぐ。まず仕事というものは子供には理解しがたいものである。仕事イコール遊びのような認識なのだろう。困った。仕事はやれば終わると思っているし、それに俺が満足すると思っているらしい。シアンに対して「大人になれば仕事の大変さがわかるよ」なんて言ってもきっと「なんで?」と繰り返し根掘り葉掘り聞かれるに違いない。それはかなり面倒だ。まったく、人間ってのはこっちが説明なんてしても、聞いていないし、質問する事に価値を置いているのだから意味がないのだ。ここはスルースキルだな。話題を変えよう。
「……そうだ、シアン。今日は剣の修練をしようか」
「え!? いいの!?」
 シアンはとても興奮した様子でドタバタと足を暴れさせて俺に抱き着いてきた。定期的に剣を学びたいと騒いでいるので予想はしていたが、この様子ではよっぽど剣を触りたかったらしい。既に畑仕事やりたくなくて俺がだらけていたことについてはすっかり忘れているようだ。「やった~!!」と何度も叫びながら、家のドアを開け放ち、外で走り回っている。元気すぎる。こちとらまだ23歳の若者だっていうのに、シアンの様子を見ていると気持ちはもうおじいちゃんである。
 
 太陽が自分たちの頭のてっぺんに移動したので、シアンは昼ご飯を口に駆け込み、急いで着替えていた。剣の修練は午後からと言ってしまったがために、俺も準備に急かされる事になった。修練では汗を沢山かくために、麻の服に着替えている。今は夏らしく太陽光が素晴らしい輝きを放っているせいでとても暑い。マジ。
「はーやーくー!!」
 シアンはこんな暑さでも元気に剣を持ち上げてジャンプしている。
「……若いな~」
「テオ兄、はい! 前にやったの見せて!」
「わかった、わかった! やるから待ってくれ!」
 急かすシアンを落ち着かせ、鞘から剣を抜きだす。
「危ないから、あの木まで離れろ」
 シアンが畑の方にある一本の木の側へと離れたのを確認してから、剣を構えた。イメージではあるが、敵がいる方向に向け、剣をゆっくりと頭上辺りまで持ち上げる。想像の敵と数秒見合った後、遂に耐えきれなくなった相手がこちらに走ってくるのに合わせ、数秒早く剣を振り下ろし、振り下ろした際の力を使い、縦に身体を回転させる。うまく相手の刃先を下にはじき、その隙に身体を捻じって、横にまっすぐ剣を動かすだけだ。イメージの敵は首に横線が入っている。この後きっと首から上が地面に落ちているだろうが、そこはイメージしない事にする。イメージだけでも平和的にいかないとな。
「わぁ~!! やっぱりすごい!!」
「そうか?」
 鞘に剣を納めると離れて見ていたシアンがニコニコとしながら駆け寄ってきた。
「うん、なんでそんなことできるの?」
「え、うーん、なんでだろうな?」
 俺のハッキリとしない返答にシアンは「わからないの?」と不思議そうにしていた。
「あぁ、分からない……何も」
「ふぅん」
「ま、そんなことよりやるぞ! まずは素振り100回から!」
 剣をシアンに渡し、構えさせる。まだシアンには重いだろうが、前に鍛錬した時よりはしっかりと構えができている。これも彼の成長を感じる大事なポイントの一つだ。知らぬうちに日に日に大きくなっているらしい。あの日から確実に大きくなっているシアンは、今自分の目の前で必死に剣を上下に振り下ろしている。

 〇●〇

 シアンは三年前に突然、俺の目の前に現れた子供だった。あの日は雨で、俺は何もすることが無くて、一日ベッドで横になっていた。夕方になって、急に甲高い何かの声が玄関の方からした気がして俺は驚きながら目を覚ました。気になって少し早足で玄関の横に立てかけていた剣を握ってから、ゆっくりとドアを開けたんだ。
「「……。」」
 そこには泥にまみれた幼子が座り込んでいた。こちらに驚いたのか、目を見開いていたと思う。髪がとても長く、表情が読み取れないが、何かから逃げてきたかのようで、肘や膝などにかすり傷があった。
「……どうした?」
「……。」
 その後も一切口を開かないから、「今は事情を聞き出すのは無理だな」と諦めた。無視して後で風邪をひかれても(罪悪感で)困るし、怪我もしているので、とにかく一旦保護しなければならないだろう。その時はそんな軽い気持ちだった。
「…ほら、剣は置いたぞ。お前に危害は加えないから、こっち来いよ」
 剣を足元に置き、手を幼子に差し出した。彼はためらいを見せながらも、ゆっくりと立ち上がり、俺の手を握ってくれた。小さい手を握ったのはあの時が初めてだった。

 〇●〇

「三年……か」
 三年も経っているというのに、俺は何も変わっていない。
 素振りが50回に到達したらしいシアンに「休憩しろ~!」と声をかけ、木陰の中で横になる。はぁ、暑すぎる。暑すぎて思考が止まってしまう。なんだっけか。そうそう、俺は何も変わっていないんだよな。
 シアンに出会う前の19歳の頃だ。残暑で恐ろしく汗が額を流れて気持ち悪かった。ある日、目が醒めたら俺は記憶をなくしていた。俺以外に誰も家にはいないし、情報の少ない環境だったからかなり当時は困ったものだ。自分の名前も分からず、ここが何処なのかも一切見当がつかなかった。何故突然記憶をなくしたのかすら一切分からずじまいだが、今は適当に生きているし、不自由はないと感じている。まぁ、シアンに過去を聞かれたら困る事はあるが。
「……ぇ……ねぇ、終わったよ!!」
「お、もう終わったのか?」
「さっきね!」
「偉いな、一旦着替えようか」
 いつの間にか素振り100回を終えたシアンと共に水浴びをし、汗を流した。家の中に入り、着替えて水分補給のため椅子に座った。
「シアン、明日は筋肉痛だな?」
 ニヤニヤしながら「よかったな~?」と問いかけてみた。
「うん、動けなくなるかも」
 俺の脳筋トークを適当に退けるシアンの呆れた顔も何となくだが俺に似てきた気がする。変なとこまで似なけりゃいいけど。
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