時計台がある街の中で

山本 英生

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私は大きく息を吸い込み、一人海へ潜る。深く暗い海の中へ

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 あの街での日々は、とても規則的で、窮屈なものだった。日曜日以外に、広場にワッフルの屋台はこなかったし、12500時間もの教育で得られたのは、人間は同じ過ちを繰り返す生き物である、ということだけだった。莫大な時間をかけて、数十枚のワッフルと、その一つの教訓しか、獲得することができなかったのは、今思うと、実に悲しいことだ。

 しかし、その決まった大きさの檻の中でも、私は健闘した方だと思う。あの街で、私は、3回骨を折って、ジェントルな鶏ともデートをした。一度、若い男たちに、誘拐されたこともあった。それらを、合計しても、500時間にも満たないだろう。ただ、そこから得られたことは、総合すると、500時間を優に超えた。とても不思議なことだ。みかんを食べるとしても、最後には皮、魚では骨、飲み物なら容器、教育なら紙屑が、必ずといって残るのに、それは違う。何も残らない上に、そこから、新たな事象が起こる、あるいは、観察できるのだ。それが、私にとって有益なものであったかは別として。

 街を出て、はっきりわかった。あの街は、どこかおかしかった。あの街では、常に得体のしれない何かが、蠢きつつあった。そして、それらは、往々にして、私にとって都合のいいことではなかった。足元の影が、私の知らないところで、形を変えたり、私から離れていったりしまうような、そんな不安が、私そのものや、私の精神にも、作用していた。私は、私を保つので、精いっぱいだった。

 結果的に、あの街は、私を、私が今いるこの場所に辿り着かせたのだ。あそこには、魚とネズミの死骸と、細やかな花飾りと、可憐な愛と滂沱の涙があり、毎月の細やかな収入があった。そんなに悪いところではなかったかもしれない、そう思えてしまうのが恐いから、私は、あの街でのことは、普段はあまり思い返さないようにしていた。

 時間とは、とても恐ろしいものだ。多くのものを風化させ、そこに付随していた、あらゆる感情をも、取り除く。そして、それそのものがもつ、かけがえなさ、といった心に訴えかけてくるような、純粋的な嫌らしい輝きを私たちに見せる。それを目にする度に、当時の高い温度と強大な圧力が、こんなにも美しい宝石を形成していたのですよ、と見る者を騙し、喜ばせるペテン師の高笑いを想起するのは、私だけだろうか。

 悪かったことは、悪い。辛かったことは、辛い。苦しかったことは、苦しい。みっともなかったことは、みっともない。それでいい。自身の中に蓄積した時間に、現在に活かせるような光を、希望の兆しを、あるいは、喜びや懐かしさを、わざわざ探す、見出す必要はない。その時間を生きていた当時の私だって、それを望んでいるわけがなかった。そこにいた私たちは、それぞれの状況の中で、実際に悲しんでいたし、傷ついていたのだ。どの私も、未来の私に対して、この経験が糧になってほしいなんて、少しも願ってなんかいなかった。そんな暇がないほど、心に痛みを感じ、誰かに助けを求めていた。だからこそ、私は、それらに新たな発見や知恵を求めることはしない。だからといって、軽んじることもしない。それが、過去の私への敬意、尊重でもあるから。

 私は、強く言いたい。決して時間が見せる幻影に騙されてはならないと。光るべきものは、光るべくして光るし、そうでないものは、陽の下にも出てこないのだ。自身の中で、言語化不能の、堅牢な塊として永劫残り続けるのだ。ただ、そこに苔のようにこびりついた時間の断片の多くが、センシティブで悩ましいものである一方で、記録という言語的なものであることは、確かだった。

 私は大きく息を吸い込み、一人海へ潜る。深く暗い海の中へ。
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