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色褪せた世界に色を取り戻す方法

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 ある日、気が付いてしまった。

 世界が色褪せていることに。

 まるで曇りガラス越しに見ているかのように、恐らく鮮烈なまでに紅いであろう薔薇ですら、透き通るように青い快晴の空でさえも、一枚上のレイヤーでごく薄い灰色のなにかをぶちまけられているかのようにくすんで感じる。

 はて?
 これは、いつからだろうか?

 過去の記憶に想いを巡らせる。
 幼いころは、理由もなくわくわくして、毎日世界が輝いていたように思える。
 大学生の頃も友達とのバカ騒ぎやバイトの愚痴一つも楽しくて仕方がなかくて、世界は濃い色で溢れていた。
 その後、新卒で入社した商社では、先輩からのパワハラじみたご指導の数々に心が折れそうになったが、どんなに折れそうになっても無限に心の奥から何かが湧き上がっていて、気怠い身体を引きずりながら、重い一歩を確かに踏んで歩いて来た。

 それから、5年。
 自分で後輩を指導するようになり、誰かから怒られることが滅多になくなった今、昔より遥かに楽なはずなのに、この淀んだ色褪せた世界はどうしたことだろうか。
 給料だってずっと増えて、独身貴族の自分では生活に困ることはなくなった。

 子供の頃、どんなに親にせがんでも買ってもらえなかったものが、まぁいいかの一言で、簡単に買えてしまう今。
 一体何が不満なのだろうか?

 いつものように満員電車に揺られる。
 ぎゅうぎゅうに押し込められたむさくるしい空間の中で、誰かが香水を強めにかけているのか、甘ったるい香りと、これまた誰かがつけたのだろう、男性らしい清涼さを売りにしつつも実際は胸焼けする香りが混じり合ったものが鼻腔をつきさす。さらに、自分の全方位からかけられる圧力。
 苦しいはずなのに、その苦しさも曇りガラスの向こうに置いてきたようで、なんだか他人事のようだ。

 苦しい想いをしながら、会社につくと、受付で事務の綺麗なお姉さんが笑顔でお出迎えする。

「おはようございます」

 爽やかな愛くるしい表情を向けて、自分に綺麗なソプラノを響かせるが、まるで朝の鳥の鳴き声と同じで何も感じ入るものはない。

「おはようございます」

 自分も同じように挨拶する。
 同じように?
 ごめん。嘘をついた。
 自分でもわかる。酷く億劫そうに挨拶をしていることを。
 その証拠に、自分が通り過ぎたあと、後ろでひそひそ声が聞こえる。

「あの人の挨拶、なんだかこっちの気がめいっちゃうわね」

 うん。
 そうだろう。
 自分でもそう思う。ごめんね。

 目まぐるしく仕事をこなして、気が付けば帰りの電車で行きと同じように揺られている。
 毎日変わらないルーチンで、家に帰り、雑務を済ませて床に就く。

 うつ病だろうか?

 一瞬、そういう考えが浮かんだが、気が付けばぐっすり眠りに落ちていて、朝6時にすっきりと目覚めた。
 疲労感はまるでなく、身体は健康そのもの。
 会社に行きたくないという想いが湧くわけでもなく、いつものルーチンで再び電車に揺られ会社に行く。

 世界が色褪せていることに気づいてから数日後。
 自分は、何かを取り戻さないといけないような気がした。

 気づけばおもちゃ売り場にいた。
 そうはいっても、昔のような玩具屋を見なくなった今、大型家電量販店の一コーナーでしかないそこで、辺りを見回す。
 少子化の影響か、オンラインショップの充実のためか、申し訳なさそうにあるだけのわずかな面積の中で、幼い時自分が夢中になっていた玩具の最新版を見つけたので買ってみた。
 家に帰って開けてみると、最新の技術でリバイバルされたそのおもちゃは、昔遊んだ頃よりずっとスタイリッシュで格好良くなっていて、面影はあるが別物だった。
 白銀の騎士の鎧を身に着けたロボット。
 一通り、武装をつけたり、ポージングさせたりしてみる。

(ふーん)

 しかし、自分の心に湧いて出た思いは「ふーん」ただそれだけ。
 幼いあの時、あんなにワクワクしたのはなぜなのか。
 あのワクワクした気持ちを取り戻すにはどうしたらいいのか。
 当時の想いを思い出したくて、ネットオークションで当時そのままの玩具を購入した。
 当時そのままの玩具はそれはそれで格好良かったが、最新版に比べればちょっとずんぐりむっくりである。

「俺は、何故これに夢中になれたのだろう?」

 目の前にある白銀の騎士の玩具に語りかけるが、玩具は答えてくれない。
 今、自分の目の前にあるのは、白銀の騎士であるはずだが、どうあがいても銀色をしたプラスチックの塊にしか見えない。

「あーあ。1万円もしたのに」

 当時700円で買えた玩具を、適当に本棚の空きスペースに飾る。
 しかし、1日もしないうちに、目には入らなくなった。

 次は、サッカーに夢中だった時があることを思い出して、サッカーボールを買ってみた。
 今さらサッカーチームに入る気も起きない。
 適当に高架橋の下にある薄暗い公園に言って、橋脚の壁に向かってボールを蹴ってみた。
 跳ね返ってくるボールを追いかけて、ひたすら蹴り続けてみる。
 いい運動にはなりそうだ。
 このところ、少し体が鈍っていたように思える。

 30分ほど蹴っただろうか?
 気がついたら、自分の後ろに数人の男たちが立っていて、ニタニタと笑っていた。

「おにーさん~。一人でサッカーの練習っすか?」

 坊主にしていかにもストリートファッションといったいで立ちの男が話しかけてくる。

「そういうわけじゃないんだけどね」
「えー? じゃあなんすか? まぁ、どうでもいいっすけど。財布置いていってくれないっすか?」

 うーん。まるで雑な漫画の悪役だ。
 漫画だったら主人公にあっさり撃退されるか、主人公を颯爽と助ける存在が現れてくれるが、現実は無情である。

「嫌だよ」

 自分が明確に拒否すると、男たちは目をギラリと輝かせて、距離を詰めた。

「あっそうっすか。まぁ、でももらうんですけどね」

 自分の胸倉をつかもうと、男の手が伸びたところで、一目散に走る。

「こらっ! てめぇ! まて!!」

 火事場の馬鹿力だろうか。
 少しチリチリとした何かが首筋を走っていて、灰色の世界をほんの少しだけ輝かせた。
 それが、少しだけ嬉しくて。
 思わず身体を反転させ、走るスピードの違いのせいでバラバラになった男たちのうち、先頭の男にタックルした。
 逃げている男が突然タックルをしてくるとは思わなかったようで、驚いてびくっと一瞬身体を硬直させていたところに思いっきり肩からつっこんだ。
 普段ジムに通っているというわけでもなく、家で最低限の筋トレしかしていなかったが、そうはいっても60㎏以上の塊が全力でダイブしてくれば、心の準備ができていない男のバランスを崩すには十分だったようだ。
 そのまま、男の片足を抱きかかえて地面に倒れこんだ。

 そういう音がしたわけではないけれど、頭の中でゴスっ! といった音が聞こえた。

 固いコンクリートの道路と自分の身体に挟まれた男は、後頭部を叩きつけられたようで、白目をむいてピクピクしていた。男のズボンの右ポケットに固いものが手に触れて、形状からしてナイフのようだったから、そのまま取り出す。
 追いついてきた男が怒鳴りながら向かってきたので、あるアニメのキャラクターを頭に浮かべながら、ナイフを投げてみた。
 刃を先頭に、まっすぐ飛んでいくイメージであったが、現実はブンブンと円を描いて回転しながら男に向かっていく。
 相手が反射神経だけでそれを避けて、自分に走りこんでくると思いっきり蹴り飛ばしてきた。
 まともに頭を蹴られた自分は、横に身体を投げ出されて、そのまま数人に囲まれてボコボコにけられたり、殴られたりするが、やはり変だ。痛いのだが、その痛さと恐怖もリミッターがかかっているかのように、何か他人事のように感じる。

(作業のような毎日が続くならば、このまま死んでしまおうか?)

 しかし、自分の身体はどうやら生きたいようである。
 適当に振り回した拳が誰かの顎にクリーンヒットしたようで、そのまま一人崩れ落ちた。
 それと共に、カチャンと金属音。
 どうやら、ナイフを取り出していたようだ。
 素早くそれを拾い上げると、周りにいた男達の腹を次々と刺してみた。

 色とりどりの服装をした男たちのお腹に、1点紅の円模様が現れる。
 途端に男たちは、泣きべそをかいてお腹を押さえてうずくまった。

 自分が握っているナイフを見て見れば、刃渡りは5㎝程度。
 おもちゃだ。
 情けない。
 こんなので刺したところで死ぬわけがない。
 いや、刺しどころによっては死ぬか?

 まぁ、どうでもいいか。

 狩ることになれすぎた者は、狩られる側にまわると脆いらしい。
 ナイフのつかの部分で、男たちの頭をぶっ叩いて、スマホを全部壊してから立ち去った。

 それからしばらくは、警察が家にくるかとドキドキしたが、そのドキドキもまるで他人事のようで楽しめなかった。
 全てが曇りガラスの向こうにある。
 結局、警察がくることもなく、ニュースで男が死亡したというものもなかった。

 この件もあったが、心を一新するために、引っ越した。
 会社には、階段から落ちたといって休んだ。
 どれくらいの怪我なんだ? と上司からラインが来たので、全身を映した画像を送ると、10日くらい休んで来いと暖かいメッセージが返ってきた。
 割とホワイト企業で助かる。

 連休の初日は、ハイキングに出かけた。
 今は亡き両親と妹と一緒に行った思い出の地。
 難易度的には東京にある高尾山程度の緩い山である。
 そうは言っても、運動不足と怪我の影響で少し登っては、はぁはぁと息切れをおこす。
 頭の中では、笑顔の両親と妹と見た、美しい流れのはやい小川、小さな湖のような場所と、その周りを咲き乱れる白い花、そして、満天の星空。
 当時の自分には、心が震えるほどの感動が全身を駆け巡った覚えがある。

 きっと、あそこに行けば取り戻せる。

 場所はなんとなく覚えていたが、久々に行ったそこは、思い出とは少し道や風景が変わっていて、思い出の場所にどうやったらたどり着けるのかがよくわからなかった。
 どれくらい山の中をウロウロしていたのか、気がついたらもう辺りは暗かった。

 歩き疲れて休憩しようと思った頃、急に木々が開けて星空が眺められる場所に出たので、適当にシートを引いて寝転がった。
 春とはいっても、山は肌寒い。もっと上着を持ってくれば良かったかと思ったところで、あらためて夜空を見上げる。
 寝転がって見上げた星空は、それこそ満天の星空に相応しく宝石箱をひっくり返したような光景だった。

 なんとなく既視感に襲われて、慌てて上体を起こし、冷静に辺りを見渡す。
 視線の先には、直径5m程度の池のような水たまりに、その周りに白い名前も知らない花々が咲き乱れている。

「あぁ……ここだったのか」

 湖と思ったのは子供の思い出だったからか。
 思い出と同じ花の甘ったるい香りが鼻をつき、そして、思い出の中から父親のタバコの匂いが、今本当にしているかのように香った。

 そして、絶望した。

「あぁ、なんということだ。これだけ美しいはずのものを目の当たりにしても、俺は何も感じないのか」

 何も感じなかった。
 美しいはずの星々は、ただの夜空で、心を彩った白い花々は、ただの名前も知らぬ花である。
 全てが曇りガラスの向こうの出来事で、自分には関係ない古い古いフィルムの映画でも見ているかのようだった。
 自分のうちから湧いてくるものはなにもない。

 自分はロボットになってしまったのか?

 このまま何も感じないまま、人生という作業を全うして死ぬのか?

 どうやって下山して、どうやって家に帰ったのかも覚えていない。
 気がついたら、寝ていた。
 連休2日目は、泥のようにベッドで眠って、そのまま消えてなくなる感覚があったが、しっかりとお腹が空いて、宅配で頼んで、しっかり腹を満たした。
 身体は至極元気である。
 それが、余計に奇怪だった。

 連休3日目は、精神科の門戸を叩いてみた。
 優しそうな女の看護師が、事前アンケートに答えて欲しいと紙を渡してきたのでそれに応えて返す。
 待合室はびっくりするくらい人で埋め尽くされていて、自分の順番になったのは寝落ちしてもまだ足りないほどの時間がかかってからだった。

「じゃあ、お薬出しておきますね」

 精神科の医師の説明は、不安を和らげる薬を飲んでみてくださいとの話であったが、自分としては不安は全く感じていないので腑に落ちなかった。
 処方箋は、薬局に出すことなく家に帰った。

「結局、自分で助かるしかないか」

 自分を助けられるのは自分だけ、そう思ったら謎の納得感が身体を満たした。
 相変わらず、寝つきは良くて、ぐっすり8時間以上の睡眠をとって、朝7時に起きたら、朝食をしっかり食べて街へ繰り出した。

 連休3日目は、今まで関東近郊の知ってはいるのに、行ったことはなかった場所へ観光をしてまわった。
 東京タワー、スカイタワー、築地、秋葉原、池袋、新宿歌舞伎町……。
 色々歩いて回ったが、全てが無味無臭で、酷くつまらなくて、常に「ふーん」……そういう感想しか出てこなかった。

「ねぇ、お兄さん。新川さんですか?」

 歩いていると不意に女の子に声をかけらえて、声の方へ振り向く。
 辺りは暗くなろうとしていて、多くの女性が道沿いに立っている。
 あぁ、立ちんぼのゾーンなのかとすぐにわかったが、はて? 自分の名前は新川なんて名前じゃない。
 上品な栗毛色のミディアムボブヘアーで毛先にいくにつれ緩やかなウェーブがかかっている髪型、可愛い狸顔、スレンダーな体つきだけど、胸はブラウス越しにも大きさがうかがえて、下はスカートをはいている。
 いつもならば、違いますといって過ぎ去るところだったが、なんだか悪戯心が湧いた。

「うん。そうだよ。ねぇ、お腹空いてる?」

 自分のうちから何かが湧いてきたのが、なんだか嬉しくてニコニコしながら女の子に問いかけたと思う。

「え? 奢ってくれるの? やったー!」

 女の子があざとく顔の前で両手を合わせて、身体をくねらせた。

「もちろん。何が食べたい?」
「肉!」

 年齢は二十を過ぎていると信じたいし、実際後で聞いたら女の子もそう答えた。
 それが、本当か? と疑いたくなるくらいこの時の女の子の表情は、あどけなかった。
 それもなんだかおもしろくて、それなりにお高い鉄板焼きに連れて行った。
 鉄板焼きを前に隣同士で座ると、ちょっと女の子からすえた匂いが漂ってくる。
 お風呂はあまり入っていなさそうだ。
 鉄板焼きの肉やにんにくの匂いでごまかされているが、ホテルで二人きりになったら抱かずにギブアップしそうである。

「やっばー! 肉うっまぁーー!!!」

 女の子が肉に舌鼓を打っているのを横で眺めながら、ふと何か胸に湧いてくるものがあることに気が付く。
 この女の子は、貴重なヒントに違いない。
 そう思った自分は、好きなだけ肉を食べさせ、好きなだけ酒を飲ませると、酔いつぶれた女の子を自宅に連れ帰った。
 自宅で二人きりになると、元々香っていたすえた匂いに、ニンニクとアルコールの匂いが混ざって耐えがたい悪臭となっていたが、それすらも、「耐えがたい悪臭」という情報を他人事に書物で読んでいるような感覚で、鼻をつまんで逃げ出すといった衝動は訪れることなく、一緒にベッドで寝た。
 ベッドで寝たというが、性的なものは何もない。
 ただ、本当に物理的にベッドで一緒に寝ただけである。

 翌朝、女の子がお風呂に入りたいというので、何回も洗ってこいと行って好きなだけお風呂を使わせた。
 洋服も腐ったような匂いがしたので、塩素につけてから洗濯機を何度もまわす。
 引っ越してきてまだ新品のような輝きをしていた浴槽は、女の子が身体を清め終わると、どす黒い垢だろうか? なにかがべったりとくっついていて、目も当てられなかったが、それに対して酷く申し訳なさそうな表情をしていたので、笑ってやり過ごした。

「で、結局やるの? やるなら……」

 ダイニングのテーブルを挟んで、二人で朝食を摂っていると、唐突に女の子が切り出して、右手の指を3本立てた。
 ようは、3万円でセックスさせてやるということだろう。
 新川という人物は、スマホのアプリでそういう交渉をしていたようだし、そもそもが女の子もそれが目的だ。

「3万円で何時間なんだ?」
「時間? いや、一発出したら終わりだけど?」
「それは、随分高いな。知らんけど」
「高いかなぁ? こんな可愛くて胸の大きな女の子とエッチなことできるんだよ?」
「セックスなしで、ただ一緒に過ごす場合はいくらするんだ?」
「その場合は、ディナー1回で1万円くらいかな」
「そうか。決して説教ではないんだけどさ、なんでこんなことしてるの?」

 自分がそう言うと、女の子は表情を暗く曇らせて、1分ほど押し黙る。

「まぁ、肉奢ってもらったしいいか。あたしね。ボーダーなんだってさ。普通の子が簡単にわかることがわからないの。それが気に喰わないみたいで、両親から毎日のようにぶん殴られるからさ、家出したんだ。一文無しで出てきたし、住所もないからバイトもできないの。てか、働くのだりーし」
「つまり、日々の生活費のためか」
「そういうこと! 服も欲しいしね」
「泊るところはどうするんだ?」
「そりゃ、やるときそのままホテルで一泊よ」
「なるほど」
「で、どうするの?」
「じゃあ、100万円あげるから、100万円分俺と過ごしてよ」

 自分がそう言うと、女の子が目を点にして何秒かフリーズした。

「ひゃ、百万円!? 何発やる気!?」
「いやいや、100万円分セックスするわけじゃないから」
「え!? じゃあなにするの!?」
「ただ、一緒に過ごすだけ」
「はぁ? ……まぁ、100万円くれるっていうなら、別に構わないけど」
「100万円だと何日すごしてくれるんだ?」
「えっと、1回3万で、あれ? でも本番の回数が決まってなくて、いや、ご飯は1万円で……」

 女の子は頭を両手で抱えてうなだれてウンウン唸っている。
 そして。

「あぁあー! 頭がごちゃごちゃするぅ!! よくわかんないから、10日! 10日で帰る!」
「あぁ、それでいい」
「なんなんあんた?」

 女の子は疑う表情でこちらを見てきたので、その場で前払いで100万円払った。

「あたしがこれもって逃げると思わないの?」

 女の子がニヤリと笑う。

「別にそれならそれでいい」
「なにそれ、こわっ」

 なんだか納得がいかない様子でブツブツと言っていたが、それから女の子との共同生活が始まった。
 ただ、特別何かがあるわけじゃない。
 毎日、3食一緒にご飯を食べて、ベッドは一つしかないから一緒に寝た。
 性的に興奮しなかったか? と言われればしたというのが本音である。
 ただ、なんだか本当に手を出す気には全くなれなくて、本当に物理的に一緒に寝ただけだった。
 女の子自身のことを色々聞き出す気にもなれなくて、無言で二人でTVを見ているだけという時間も結構あった。

 女の子と過ごすようになって3日目の朝、洋服を買いに行こうと買い物に誘い出す。
 その時に、名前を聞いてなかったと思い至った。

「なぁ。君、なんて名前なの?」
「はぁ? 今聞く?」
「聞くの忘れてた」
「……澪(みお)でいいよ」
「みお? 本当の名前?」
「どうだっていいだろう!」
「まぁ、いいけど」

 自分が興味なさげにしていると、澪はそれはそれで腹が立つらしく、ブツブツと何かを呟き始める。

「え? なに?」
「ばかな親共がキラキラネームつけやがったから、本当の名前が嫌いなんだ!」
「そうか」
「はぁ?」
「別に、澪のことを指す言葉であればなんでもいい」
「あっ、そう」

 機嫌が悪くなった澪は、そのまま買い物でも荒れ狂うように欲しいものを買いあさって、もちろん会計はこちらにまわしてきた。特段それを拒否することなく買って上げたが、今日1日だけで100万円くらい使った気がする。
 自分では名前もわからない、色々な服や、靴、化粧品や香水等を車一杯に詰めて家に帰ると、もう窓から夜空が見えた。

「なぁ」
「え?」
「澪は、この荷物、今後どこに置くんだ?」
「へ?」
「家ないんだろ? 俺から離れた後、どこにこんなに置くんだ?」

 澪は、しまった! といった表情で固まった。

「レンタル倉庫を借りるにしても、住所ないしな」
「えっと、えっと……」

 心底困ったという表情で身体をもじもじさせている。
 なぜだか、その様子に自分の心が温まる気持ちがした。

「ばかだなぁ。でも、まぁいいや。ここ置いてていいよ。好きな時に取りに来いよ」
「え?」

 気がつけば少し涙をためていて、瞳がきらきらと輝いている澪。

「いいの?」
「いいよ」
「ただで?」
「ただで」
「セックスする?」
「しない」
「たたないの?」
「たつよ」

 馬鹿みたいな会話だなと思っていると、澪は真剣だったらしくてキョトンとして首をかしげていた。

 その日の夕食時。

「延長でいい」

 澪がまっすぐこちらの瞳を見つめて言った。

「延長?」
「うん。もう100万円もらったようなもんだし、買ったものおかせてくれるし」
「そういって、ここが快適なだけじゃないのか?」

 自分がそういうと、少し恥ずかしそうに顔を赤くしてうつむくと、聞こえるかぎりぎりの囁き声で言う。

「ちょっとね……」

 その日、ベッドでぐっすり眠る澪が寝ぼけているのか、隣で寝ている自分に抱きついてきた。
 初日のすえた匂いはもうなく、澪の首元からは、ふわりと甘い眠たくなる優しい匂いがした。

 それからは、まるで兄妹のようなお互い遠慮のない、それでいて事件もイベントもない、他愛もない日々が続いた。

「ねぇ。なんともなかった」
「そう。よかったね」

 ある日、澪が家に帰ってきて紙を自分に渡しながら言った。
 紙には検査結果の文字が入っている。
 性病の検査一回しておけば? という自分の提案にえらく素直にしたがって病院に行ってきた澪は、その結果を今日持ち帰ってきたのだった。

「ねぇ。健康保険がないと、お金すごいかかるんでしょ?」
「いや、大丈夫だよ」
「え!? だいじょばないでしょ!?」
「そもそも、症状のない性病検査に保険効かないし」
「そうなの!? なんで知ってるの!?」
「それは、聞いちゃだめだ」
「へー」

 澪がにやにやと笑いながら自分の肩をポンポンと叩く。

「なんだ。ちゃんと男の子なんだ」
「男だよ」

 夜になって一緒にベッドに入ると、澪がにやにやとしながら自分の上に馬乗りになりながら抱きついてきた。

「一回くらいしとく?」
「いや、いいよ」

 澪の甘い匂いと共に、豊かな胸の弾力が自分の胸を押している。
 しっとりとした瑞々しい肌の感触もあいまって、自分のものを反応させるけど、やはりそう言う気にはなれなかった。その様子を見て、澪がいよいよ奇妙と首をかしげている。
 キョトンとした澪の様子が、なんだか可愛かったので、今までのいきさつを話して聞かせた。

「全てが他人事で、綺麗なものが綺麗に感じない。曇りガラスの向こう……」
「うん」

 すると、澪はきらきらと目を輝かせて、嬉しそうに微笑む。

「それ、あたしも感じてたの! やったー! 仲間だね!」
「そうか」
「嬉しくないの?」
「自分の問題だからね」
「あたしは、嬉しいよ。今、急に世界が輝きを取り戻したみたい」
「そうか」
「でも、あたしになんだか感情が湧いたんでしょ?」
「そうだな。ちょっと湧いた」

 澪がにやりと悪戯っ子のような微笑みを見せる。

「それって、もしかして? あたしのことが好きってこと? いやぁ、困っちゃうなぁ」
「たぶん、違うと思う」
「えー!? 今の流れは、愛に目覚めてハッピーエンドのところでしょ!?」
「そういうのと違うんだよなぁ」
「酷い! あたしとは遊びだったのね!」
「初めから遊びだろうが」
「せやった」

 澪は会話の途中で、わざとらしく泣き真似をしてみたり、急にはしゃいだりと忙しい。
 それを見て、なんだかほっとするような小さな温かみを感じた。

「これは……」
「ん? なになに?」
「たぶん、父性のようなものだな」
「なにそれ!! なんか腹立つ!」
「なんで、腹立つんだよ」

 自分の言葉に、澪がそういえばなんでだろう? と自分で不思議がっている。
 なんとなく、澪の頭を撫でてやる。
 上等なシャンプーとコンディショナーのお陰か、ボサボサだった澪の髪の毛は、シルクを撫でるかのようになめらかに指を滑らせていく。

「えへへ。頭撫でてくれるの嬉しい」

 しばらく澪の頭を撫でる。
 そして、撫でながら考える。
 この違いはなんだろうか? と。

 何も感じない時の自分と、今わずかに胸が温まる心持の自分、何が違うのだろうか?
 そして、今までの記憶を整理しながら振り返ると、ある共通点に気が付いた。

 それは、矢印の向きである。

 何も感じなかったとき、それは自分の興味や気持ちが自分にしか向いていない時だ。
 最初に何かが湧いたとき、それは敵視とはいえ、自分の気持ちや興味が敵という外に向いた時だった。

 そして、今、自分の胸に温かさが湧くとき、それは、自分の興味や気持ちの矢印が澪に向いている時だ。

 そうか。

 そういうことか。

「ありがとう。澪」
「へ?」
「澪のお陰で、大いなるヒントがつかめたよ」
「大いなるヒント?」

 澪がわけもわからないと目を丸くして、そのちいさな可愛い口をぽかんとあけている。

 自分は。

 いや、俺は。

 俺は、その澪の唇に自分の唇を重ね、そして舌を絡ませた。

 明日、試してみよう。

 澪は、俺との口づけに顔を上気させたが、そのまま俺が寝ようとすると。

「え? うそでしょ!? これで終わらせるつもり!?」

 と怒気をはらませたが、俺は大型犬をあやすように、全身を撫でたうえで、ぎゅっと力強く抱きしめてそのまま寝入った。

 何かがありそうで、何もなかった男女の夜が明けて、カーテン越しに朝日が輝く。
 俺は、ベッドから澪を起こさないようにそっと抜け出すと、窓のカーテンをさっと開いて、まばゆいばかりの光を部屋の中に招き入れる。
 それから、一人で簡単に朝食をとって、クローゼットを開けて久しぶりにスーツを取り出す。

 ひんやりとしたスーツの感触を感じながら、すっと袖を通し、びしっと決める。
 玄関のドアに向かう頃、澪がぼわっとした様子で眠りまなこを手で擦りながら、ベッドから上体を起こす。

「どっかいくの?」
「今日から会社行ってくるわ」
「……そう……晩御飯楽しみにしてるからね」

 澪は状況がわかっていないようで、それだけ言うとまた眠そうに布団の中にもぐりこんだ。
 俺は、それを横目に玄関のドアをくぐる。

 そして、今自分の会社の受付の前にいる。
 受付の女の子が、ちょっと驚いた様子を見せる。

「あれ? まだお休みなんじゃないんですか?」

 驚きながらも、丁寧で穏やかな口調で問いかける受付嬢に、俺は腹の底に力をこめていった。

「おはようございます! 長くお休みをいただいて申し訳ございませんでした。今日から復帰致します!」

 そう言って、自分なりに爽やかにニコリと微笑む。
 受付嬢が驚いた顔のまま固まって、やがてわずかに顔を赤くする。

 そして、確信した。

 そうか。こういうことだったのかと。

 つまりは、俺は本当の意味で大人になったということだ。

 モラトリアム

 敢えて病名をつけるならば、そうなるだろう。

 自分にしか矢印が向かない、自分本位な子供時代は終わった。

 終わった時代を懐かしんで、昔のようにふるまおうとしてもうまくはいかない。
 だって、終わってしまったのだから。
 人生というクソゲーは、絶対に巻き戻ることはない。
 終わったのならば、永遠に終わるのだ。
 ならば、新しいものを受け入れるしかない。

 そうさ。
 自分の足で歩いて来たじゃないか。

 今、子供時代に感じた強い感情は湧き上がってはこないが、緩やかでそれでいて暖かく力強いなにかがジワジワと湧き上がっている。

 帰ったら澪に何を食べさせてあげようかな。

 俺は、後輩にお詫びをし、仕事の指示をしながら考える。
 ただ、仕事の指示をするだけではなく、なるべく相手の成長に繋がるように意識しながら指示した。

 今、世界は輝き始めた。
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