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前編
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皆が寝静まったころ、アイナは寝床にしている屋敷の屋根裏部屋の窓から外に躍り出て、屋根のてっぺんに座り息を吐く。
はぁ
吐いた真っ白な息が冷たい木枯らしの風に流されていく。
ここは、帝国北方の中規模な領地、アイゼンヘルム領。そして、座っている場所はその領主の屋敷の屋根。
人間には厳寒な真冬の夜。一面は銀世界。
しかし、獣人であるアイナにとっては、少し頬をぴりっとさせる程度のそよ風である。
栗毛のミディアムヘアーの頭に生える犬のような耳が、屋敷を囲む木々が風に揺れ枝葉を囀らせる音に反応して無意識にピクピクと動く。
風と共に木々の陰に潜む獣の存在を嗅ぎ取り、その狩猟本能が少し刺激され背骨がゾワゾワと心地よい緊張感を走らせる。
しかし、今のアイナは狩りには到底縁のない存在である。
三日月の照らす淡い光が、それを証明するようにアイナの着ている薄桃色のベビードールを妖しく輝かせた。
生地は薄く、生地の向こうにあるアイナの健康的な美しい肌をうっすらと透けさせているが、胸の先にあるものや女のそれを透けさせるほどではなく、絶妙な透け具合は多くの男達を性的に魅了する。
さらに、首につけられた黒い首輪の銀色の留め具が淡く魔法の光を放っていて、それがアイナの行動を制限する魔道具であり、奴隷の証でもあった。
獣人とはいえ、毛むくじゃらの獣が二足歩行しているのとは違い、犬のような耳と尻尾はあるものの、ほとんど人間と変わらない容姿である。そのため、好事家の収集として狙われやすく、奴隷として売買される半分近くがアイナの種族である。
アイナが視線を周囲に巡らせてみれば、深い深い闇に溶け込んだ屋敷の中、一か所だけ煌々と明かりが漏れ出る窓がある。
この屋敷の主、バルト・アイゼンハルトの部屋である。
数年前。
突如として重武装した兵隊が、アイナの故郷の村を蹂躙した。
突然の不意打ち。
そして、獣人達の戦い方を熟知した徹底した魔法攻撃に勇猛果敢な獣人達もなすすべもなく一人、また一人と殺されて行った。
その凄惨な様は、今でも夢に見るほどで、あの時に嗅いだ何とも言えない人の焼ける匂い、家々が焼け落ちた炭の匂い、鉄が焼けた匂い、そして、その後捕まって牢屋に入れられた時に嗅いだ生臭いなにかの匂いは、鼻の奥にこびりついているようで、時折ふと匂って、何度も吐いた。
男と老婆は殺されて、幼い男の子は兵隊に、女は徹底的に人間の奴隷になるべく教育を施された。
その教育もまた、あまりに凄惨で、日に日に数を減らしていく。
冷たい石造りの牢屋で、ごつごつとした石畳に雑魚寝して、朝起きると横で寝ていた同朋が冷たくなっているのである。
下り物のような何とも言えない淀んだ匂いと共に、冷たく空虚な瞳から流れた一筋の涙が、今も生きている自分の胸をしめつける。
3か月ほど教育を受けた後、キャラバンに連れられて、大きな町に着くたびに競売にかけられ、一人、また一人と仲間達は売られて行った。
売れ残るたび、お仕置きなのか、それとも腹いせなのか、これまた壮絶な教育が待っていて、体格が悪いもの、顔が整っていないものを中心に処分されていった。
アイナが売れたのは1年前、買った人間は、バルト・アイゼンハルト。
ここ、帝国の北部に位置するアイゼンヘルム領を治める伯爵である。
アイナは、胸辺りの布をぎゅっと握りしめて切なそうに空を仰いだ。
バルトに買われ、手かせを外され連れていかれるあの時、ふと後ろを振り返ると、傷だらけでぐったりと床に横たわりながら、無気力にアイナを見送る仲間の顔、その瞳には、なんでお前は……と少し恨めしそうな色が映っていた。
あの時の仲間からの恨みとも軽蔑とも哀れみともいえない、あの瞳の色がアイナの心を凍てつかせ身体をわずかに震わせる。今吹きつけている厳寒な風よりも、脳裏をよぎるあの光景ほど寒いものはない。
人間が若い女の獣人を買う理由など、それほど種類はない。
アイナは、バルトを、もしくは、バルトに仕える男達を慰める役目だと思って覚悟を決めた。
しかし、その役目は今日の今までついぞ訪れなかった。
買われたその日は、ヒーラーにこれでもかと小さな傷まで回復させられると、これまた、机一杯に広げられた豪華な食事の数々をふるまわれ、そして、暖かでふかふかなベッドでぐっすり眠った。
あれだけ仲間たちの瞳に胸を苦しめさせられたというのに、疲れ切っていたのか、ヒーラーの腕が良かったのか、はたまた、アイナの身体が生きたがっていたのか、罪悪感を覚えるほどにぐっすりと眠ってしまった。
それから、一週間。
なにも言いつけられることなく、ただ食べて、ただ眠った日々が続いたある日、メイド長に言われてバルトの部屋に連れられた。
何も準備をしていなかったのに、いきなりバルトに部屋に二人きりにさせられて、随分と狼狽してしまったのを今でもありありと思い出せる。
しかし、奴隷となった身でありながら、痛いことをせず傷を治してくれただけでなく、美味しい食事と暖かな寝床を与えてくれたのだから、身も心も尽くすしか生きる道はないと覚悟を決めた。
バルトの不機嫌そうな顔。
バルトの後ろにある窓から差す明るい日差しが後光のように見え、濃い青い貴族らしい服装も手伝って、侯爵という肩書以上に大きく見せる。
ぱっと見は、20代後半にも見える若々しい綺麗な容姿であるが、実際はもうすぐ40に届くと後で聞いた。
二人の間には簡素な実用性を重視した書き机が一つだけ。バルトはこれまた伯爵用にしては簡素な造りの背もたれ付きの椅子に座って、立っているアイナを見上げている。
それにしても、整っているから少しはニコリとすれば人気が出るだろうに、美しい切れ長な目はピクリとも暖かな色は浮かべず、薄い女の人のような唇は、無残にもへの字に曲げられてその魅力を損なっている。
しばらく沈黙が続いたので、意を決してブラウスのボタンを外し、するすると衣擦れの音を響かせながら、その身をバルトに晒そうとする。
アイナの愛嬌のある可愛い顔には少し不釣り合いなくらいプロポーションの良い大人の肢体が布の隙間からのぞけはじめ、普通よりは大きな胸の頂があとちょっとで晒されようというところで、バルトの声がそれを制止した。
「今はそんなことをしなくていい」
少しアルトな、そして、どこかほっとする大人の男の声が響く。
アイナはキョトンとして、可愛らしい鈴の音のようなソプラノの声で応えた。
「伯爵様は、私を性奴隷として買ったんじゃないんですか?」
目を丸くして理解ができず化け物でも見るような失礼な目をしていたのだろう、バルトがアイナの顔をみて笑うのをごまかすようにせき込んだ。
「……君がそれで食べていきたいというのなら止めはしないが、私としてはそういうつもりで買ったのではない」
「じゃあ、どうして仕事を与えないんですか?」
「君が衰弱していたからだ。回復を待っていた。どうだ? 身体の調子は?」
思わぬバルトの温かみのある言葉に、それこそ鳩が豆鉄砲を食ったよう表情でアイナは手を握ったり開いたり、その場で屈伸したり跳ねてみせたりする。
「伯爵様。ご配慮ありがとうございます。御覧の通り、私の身体は万全です。剣を与えてくだされば、伯爵様の敵を何百と葬ってご覧にいれましょう」
アイナがうやうやしく頭を垂れた礼をしながら言うと、バルトは切れ長な目を丸くして答えた。
「ほぅ。随分しっかりと教育を受けているのだな。予想外だ。しかし、君にはこの領地を明るく照らして欲しくて買ったのだ」
「どういうことでしょうか?」
「人間が人間の力だけで自らの過ちに気づくのはとても難しいことだ。だから、君のように人間の理とは違うもので生きてきた者に、この領地でおかしいと思うところを指摘して欲しい」
「私は、そんなに頭は良くありません」
「なに、そんな難しいことではない。この地で普通に暮らして、おかしいと思うことがあったら書にまとめて提出してくれれば良い」
アイナが訝し気な表情で肯定も否定もできずに立ち尽くしていると、バルトは不器用に少し微笑むと付け足すように言った。
「それと、息子のレオンハルトの相手をしてくれると嬉しい」
その言葉を言うと共に、バルトは少し寂し気な表情になる。
「息子は今年で5歳になる。1年前妻が亡くなってな。少し塞ぎこんだ様子ではあるのだが、誰かがずっと傍にいてやれるほどの余裕はなくてな……」
アイナはなるほどと思った。
小難しいことを頼まれたが、どうもこの子供の面倒の方がメインのように思える。
つまりは、息子であるレオンハルトの専属のメイドになれといわれている。そう解釈した。
「……かしこまりました。息子様。レオンハルト様の専属のメイドになれという解釈でよろしいでしょうか?」
アイナのその言葉を聞いたバルトは、ゆっくりと椅子から立ち上がると、アイナの目の前まで歩み寄った。
まるで山だ。
椅子から立ち上がる時、まるで山が動いたかのようだった。
身長は180㎝を超えているのではないだろうか。
身長160㎝のアイナからすれば、バルトに目の前に立たれると目を合わせるには顔をしっかりと上を向かなければならない。
座っていた時とはより違って見え、上から見下ろされるこの様は、さすがに圧迫感をひしひしと感じさせる。
「専属のメイド……。そうだな、そのようなものかもしれない。しかし……」
山のような男から、岩のようなゴツゴツとした男の手がアイナに伸びてくる。
バルトの圧迫感も相まって、伸びてくる手に、奴隷商に教育されたときの記憶がフラッシュバックする。
バシッ!
バシンッ!
何度も何度も叩かれた。
獣人の身体は頑丈だ。
筋肉隆々の男の岩のような拳で全力でたたかれ、普通の人間であれば皮膚が裂け、骨が砕かれるような攻撃であっても、獣人の身体は耐え抜く。いや、耐え抜いてしまう。
そのせいで、段々とエスカレートする教育。
処女の方が高く売れるからと、その女の繁みの中を貫かれたことはないが、他の穴という穴は汚された。
徹底的に人間を喜ばせる技術を叩きこまれ、少し覚えが悪いと拷問に次ぐ拷問。
そして、それが役得とばかりに自分に乗っかってくる無遠慮な男達……。
地獄の日々が、アイナの瞳の奥で広がって、息は荒く、身は硬く、やがて細かく痙攣のように震えあがる。
そんなアイナをバルトは優しく抱きしめた。
ゴツゴツとした男の身体に抱きしめられ、雄の匂いに包まれると、より震えあがり、ついには、はっ、はっ、と荒く荒く過呼吸のように息を荒げた。
殴られる!
痛いことをされる!
気持ち悪いことをされる!
しかし、何も起きない。
ただ優しく包まれ続け、身体に刻まれた恐怖の記憶は身構えろと警告を発し続けたが、何分もいや、何十分もそうであると、身体は何もされないという不気味さに、身の置き場の無いおぞましさを感じていたが、それでもさらに何もされず抱かれていると、やがて身体はなれて、息も整ってきた。
「侯爵様。失礼いたしました……」
バルトの腕の中でアイナが申し訳なさそうに囁くように言うと、バルトもまたアイナの耳元で囁いた。
「……お前は俺のものだ」
それは、小さな子供が助けを求める悲痛な叫びのようにアイナには聞こえた。
はぁ
吐いた真っ白な息が冷たい木枯らしの風に流されていく。
ここは、帝国北方の中規模な領地、アイゼンヘルム領。そして、座っている場所はその領主の屋敷の屋根。
人間には厳寒な真冬の夜。一面は銀世界。
しかし、獣人であるアイナにとっては、少し頬をぴりっとさせる程度のそよ風である。
栗毛のミディアムヘアーの頭に生える犬のような耳が、屋敷を囲む木々が風に揺れ枝葉を囀らせる音に反応して無意識にピクピクと動く。
風と共に木々の陰に潜む獣の存在を嗅ぎ取り、その狩猟本能が少し刺激され背骨がゾワゾワと心地よい緊張感を走らせる。
しかし、今のアイナは狩りには到底縁のない存在である。
三日月の照らす淡い光が、それを証明するようにアイナの着ている薄桃色のベビードールを妖しく輝かせた。
生地は薄く、生地の向こうにあるアイナの健康的な美しい肌をうっすらと透けさせているが、胸の先にあるものや女のそれを透けさせるほどではなく、絶妙な透け具合は多くの男達を性的に魅了する。
さらに、首につけられた黒い首輪の銀色の留め具が淡く魔法の光を放っていて、それがアイナの行動を制限する魔道具であり、奴隷の証でもあった。
獣人とはいえ、毛むくじゃらの獣が二足歩行しているのとは違い、犬のような耳と尻尾はあるものの、ほとんど人間と変わらない容姿である。そのため、好事家の収集として狙われやすく、奴隷として売買される半分近くがアイナの種族である。
アイナが視線を周囲に巡らせてみれば、深い深い闇に溶け込んだ屋敷の中、一か所だけ煌々と明かりが漏れ出る窓がある。
この屋敷の主、バルト・アイゼンハルトの部屋である。
数年前。
突如として重武装した兵隊が、アイナの故郷の村を蹂躙した。
突然の不意打ち。
そして、獣人達の戦い方を熟知した徹底した魔法攻撃に勇猛果敢な獣人達もなすすべもなく一人、また一人と殺されて行った。
その凄惨な様は、今でも夢に見るほどで、あの時に嗅いだ何とも言えない人の焼ける匂い、家々が焼け落ちた炭の匂い、鉄が焼けた匂い、そして、その後捕まって牢屋に入れられた時に嗅いだ生臭いなにかの匂いは、鼻の奥にこびりついているようで、時折ふと匂って、何度も吐いた。
男と老婆は殺されて、幼い男の子は兵隊に、女は徹底的に人間の奴隷になるべく教育を施された。
その教育もまた、あまりに凄惨で、日に日に数を減らしていく。
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下り物のような何とも言えない淀んだ匂いと共に、冷たく空虚な瞳から流れた一筋の涙が、今も生きている自分の胸をしめつける。
3か月ほど教育を受けた後、キャラバンに連れられて、大きな町に着くたびに競売にかけられ、一人、また一人と仲間達は売られて行った。
売れ残るたび、お仕置きなのか、それとも腹いせなのか、これまた壮絶な教育が待っていて、体格が悪いもの、顔が整っていないものを中心に処分されていった。
アイナが売れたのは1年前、買った人間は、バルト・アイゼンハルト。
ここ、帝国の北部に位置するアイゼンヘルム領を治める伯爵である。
アイナは、胸辺りの布をぎゅっと握りしめて切なそうに空を仰いだ。
バルトに買われ、手かせを外され連れていかれるあの時、ふと後ろを振り返ると、傷だらけでぐったりと床に横たわりながら、無気力にアイナを見送る仲間の顔、その瞳には、なんでお前は……と少し恨めしそうな色が映っていた。
あの時の仲間からの恨みとも軽蔑とも哀れみともいえない、あの瞳の色がアイナの心を凍てつかせ身体をわずかに震わせる。今吹きつけている厳寒な風よりも、脳裏をよぎるあの光景ほど寒いものはない。
人間が若い女の獣人を買う理由など、それほど種類はない。
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しかし、その役目は今日の今までついぞ訪れなかった。
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あれだけ仲間たちの瞳に胸を苦しめさせられたというのに、疲れ切っていたのか、ヒーラーの腕が良かったのか、はたまた、アイナの身体が生きたがっていたのか、罪悪感を覚えるほどにぐっすりと眠ってしまった。
それから、一週間。
なにも言いつけられることなく、ただ食べて、ただ眠った日々が続いたある日、メイド長に言われてバルトの部屋に連れられた。
何も準備をしていなかったのに、いきなりバルトに部屋に二人きりにさせられて、随分と狼狽してしまったのを今でもありありと思い出せる。
しかし、奴隷となった身でありながら、痛いことをせず傷を治してくれただけでなく、美味しい食事と暖かな寝床を与えてくれたのだから、身も心も尽くすしか生きる道はないと覚悟を決めた。
バルトの不機嫌そうな顔。
バルトの後ろにある窓から差す明るい日差しが後光のように見え、濃い青い貴族らしい服装も手伝って、侯爵という肩書以上に大きく見せる。
ぱっと見は、20代後半にも見える若々しい綺麗な容姿であるが、実際はもうすぐ40に届くと後で聞いた。
二人の間には簡素な実用性を重視した書き机が一つだけ。バルトはこれまた伯爵用にしては簡素な造りの背もたれ付きの椅子に座って、立っているアイナを見上げている。
それにしても、整っているから少しはニコリとすれば人気が出るだろうに、美しい切れ長な目はピクリとも暖かな色は浮かべず、薄い女の人のような唇は、無残にもへの字に曲げられてその魅力を損なっている。
しばらく沈黙が続いたので、意を決してブラウスのボタンを外し、するすると衣擦れの音を響かせながら、その身をバルトに晒そうとする。
アイナの愛嬌のある可愛い顔には少し不釣り合いなくらいプロポーションの良い大人の肢体が布の隙間からのぞけはじめ、普通よりは大きな胸の頂があとちょっとで晒されようというところで、バルトの声がそれを制止した。
「今はそんなことをしなくていい」
少しアルトな、そして、どこかほっとする大人の男の声が響く。
アイナはキョトンとして、可愛らしい鈴の音のようなソプラノの声で応えた。
「伯爵様は、私を性奴隷として買ったんじゃないんですか?」
目を丸くして理解ができず化け物でも見るような失礼な目をしていたのだろう、バルトがアイナの顔をみて笑うのをごまかすようにせき込んだ。
「……君がそれで食べていきたいというのなら止めはしないが、私としてはそういうつもりで買ったのではない」
「じゃあ、どうして仕事を与えないんですか?」
「君が衰弱していたからだ。回復を待っていた。どうだ? 身体の調子は?」
思わぬバルトの温かみのある言葉に、それこそ鳩が豆鉄砲を食ったよう表情でアイナは手を握ったり開いたり、その場で屈伸したり跳ねてみせたりする。
「伯爵様。ご配慮ありがとうございます。御覧の通り、私の身体は万全です。剣を与えてくだされば、伯爵様の敵を何百と葬ってご覧にいれましょう」
アイナがうやうやしく頭を垂れた礼をしながら言うと、バルトは切れ長な目を丸くして答えた。
「ほぅ。随分しっかりと教育を受けているのだな。予想外だ。しかし、君にはこの領地を明るく照らして欲しくて買ったのだ」
「どういうことでしょうか?」
「人間が人間の力だけで自らの過ちに気づくのはとても難しいことだ。だから、君のように人間の理とは違うもので生きてきた者に、この領地でおかしいと思うところを指摘して欲しい」
「私は、そんなに頭は良くありません」
「なに、そんな難しいことではない。この地で普通に暮らして、おかしいと思うことがあったら書にまとめて提出してくれれば良い」
アイナが訝し気な表情で肯定も否定もできずに立ち尽くしていると、バルトは不器用に少し微笑むと付け足すように言った。
「それと、息子のレオンハルトの相手をしてくれると嬉しい」
その言葉を言うと共に、バルトは少し寂し気な表情になる。
「息子は今年で5歳になる。1年前妻が亡くなってな。少し塞ぎこんだ様子ではあるのだが、誰かがずっと傍にいてやれるほどの余裕はなくてな……」
アイナはなるほどと思った。
小難しいことを頼まれたが、どうもこの子供の面倒の方がメインのように思える。
つまりは、息子であるレオンハルトの専属のメイドになれといわれている。そう解釈した。
「……かしこまりました。息子様。レオンハルト様の専属のメイドになれという解釈でよろしいでしょうか?」
アイナのその言葉を聞いたバルトは、ゆっくりと椅子から立ち上がると、アイナの目の前まで歩み寄った。
まるで山だ。
椅子から立ち上がる時、まるで山が動いたかのようだった。
身長は180㎝を超えているのではないだろうか。
身長160㎝のアイナからすれば、バルトに目の前に立たれると目を合わせるには顔をしっかりと上を向かなければならない。
座っていた時とはより違って見え、上から見下ろされるこの様は、さすがに圧迫感をひしひしと感じさせる。
「専属のメイド……。そうだな、そのようなものかもしれない。しかし……」
山のような男から、岩のようなゴツゴツとした男の手がアイナに伸びてくる。
バルトの圧迫感も相まって、伸びてくる手に、奴隷商に教育されたときの記憶がフラッシュバックする。
バシッ!
バシンッ!
何度も何度も叩かれた。
獣人の身体は頑丈だ。
筋肉隆々の男の岩のような拳で全力でたたかれ、普通の人間であれば皮膚が裂け、骨が砕かれるような攻撃であっても、獣人の身体は耐え抜く。いや、耐え抜いてしまう。
そのせいで、段々とエスカレートする教育。
処女の方が高く売れるからと、その女の繁みの中を貫かれたことはないが、他の穴という穴は汚された。
徹底的に人間を喜ばせる技術を叩きこまれ、少し覚えが悪いと拷問に次ぐ拷問。
そして、それが役得とばかりに自分に乗っかってくる無遠慮な男達……。
地獄の日々が、アイナの瞳の奥で広がって、息は荒く、身は硬く、やがて細かく痙攣のように震えあがる。
そんなアイナをバルトは優しく抱きしめた。
ゴツゴツとした男の身体に抱きしめられ、雄の匂いに包まれると、より震えあがり、ついには、はっ、はっ、と荒く荒く過呼吸のように息を荒げた。
殴られる!
痛いことをされる!
気持ち悪いことをされる!
しかし、何も起きない。
ただ優しく包まれ続け、身体に刻まれた恐怖の記憶は身構えろと警告を発し続けたが、何分もいや、何十分もそうであると、身体は何もされないという不気味さに、身の置き場の無いおぞましさを感じていたが、それでもさらに何もされず抱かれていると、やがて身体はなれて、息も整ってきた。
「侯爵様。失礼いたしました……」
バルトの腕の中でアイナが申し訳なさそうに囁くように言うと、バルトもまたアイナの耳元で囁いた。
「……お前は俺のものだ」
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