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第7話 主人

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ゆかりは大地が仕事へ行き、一人残った家の中で悶えていた。
ソファにうつ伏せにつっぷして、クッションに顔を沈めながら、手足をバタバタと動かしたかと思えば、数分静かになり、また、思い出したかのようにバタつかせる。

やがて、息が苦しくなってきて、顔を上げてプハァと大きく息を吸い込む。
まだ胸がドキドキしている。
なんでこんなことでこんな想いをしなくてはいけないのか……。
ほんの数分前の出来事に思いをはせた。

数分前――。
大地がスーツを着こんだ途端、まるで出会ってから過ごした休日とは別人に豹変したかのように空気が変わる、
その姿に、心臓が一瞬高鳴るが、そうじゃないだろと否定して落ち着かせる。

(そうよ。私がドキッとしてどうするの。私がこの人をドキッとさせなくてはいけないのに)

しかし、どうしてこうも男のスーツ姿は魅力的に映るのか。
戦衣装に身を包んで、戦いに行く男の顔になった斎藤大地に見惚れてしまう。
スーツはオーダーメイドなのだろうか、身体によく合っていて、大地の男の身体のライン、特に広い肩から腰への緩やかな男らしい逆三角形のラインに胸が熱くなる。

別人のような少しピリついた乾いた雰囲気に、昨日まで見せていた穏やかな顔をまた向けて欲しい想いに駆られながらも、肩のあたりを見つめながら玄関まで見送る。
大地が靴を履いて、ゆかりの方へゆっくりと振り返る。

(どんな顔をしているのかしら。昨日までのような穏やかな顔を向けてくれるのかしら)

だが、ゆかりに向けられた大地の顔は、戦いに行く男の顔だった。
眉が少し緊張しているようにピリッとしていて、頬が、口が、引き締まっている。

(ちょっと怖いかも……)

そう思いながらも、ゆかりは精一杯、散々鏡の前で練習してきた男が好きそうな笑顔を作る。

「行ってらっしゃいませ。旦那様」

(どう? 可愛く笑えているかな?)

すると、引き締まった大地の口元が少し綻び、目が暖かく微笑んでいる。

(あっ)

少し怖いと思えた表情が、ゆかりのためだけに綻んだのを見て、ほっとした安堵の感情と共に自分でもわからない温かみのようなものが胸に広がっていく。

「今夜は遅くなるかもしれないから、無理せずに先に寝ていてくれ」
「かしこまりました」

ゆかりは作った笑顔を張り付かせながら答えたが、次の大地の言葉にあっさり崩れた。

「可愛いな」

可愛い、とても単純で短い言葉。
しかし、自分でも聞いた瞬間、びっくりするくらい心臓がバクバクと脈打つ。
かぁっと、体中の血が顔にのぼっていくのがわかる。

「あっ、へい!?」

自分でもびっくりするくらい間抜けな声をあげると、大地の手が頭を優しく撫でた。

「じゃあ、行ってくる」

大地は再び戦う顔になると、玄関のドアを開けて、もう振り返ることなく出て行った。
残されたゆかりは、よろよろとリビングまで行くと、ソファにバタンと倒れこんで悶えた。


(なによなによなによ。なんでこんなことでこんなに動揺しているのよ!! あぁ、もう! ちっがうでしょぉお!! 私がドキッとさせられてどうするの!? 私があの男をドキッとさせるのよ!!)

――かわいい――

(あぁぁあああ。もぉぉおおお。失敗したぁぁああ。大人な女で心を溶かしてやろうと思ったのにぃ。なにあの醜態はぁああ)

スーツがずるい。
体にフィットしたスーツは、なぜかどきっとさせられるし、スーツを着た途端、まるで別の生き物になったかのように変わる空気は、自分に少しでも不手際があれば怒られそうな、そんなピリついた怖さを纏うのに、そんな空気の中で、ふっと緩む自分に向けられた優しいまなざしは……。

(ずるい。あれはずるい。吊り橋のようなものだ。ドキドキさせられて、ふっと安堵させられる。なにもかもがずるい。なのに、かわいいだなんて……)

男を虜にするために練習した笑顔、しかし、他意がないであろうその単純な言葉は、まるで自分の努力を誉めてもらえたようで、嬉しいと共に、なんて力強い言葉なんだろう。
単純な言葉だからこそ、単純に嬉しい。

(いやいやいや。違う。違う。私が惚れさせるの。私が惚れてどうするの)

「仕返しするんだから……」

ゆかりは、一しきり悶え終わると、すっと立ち上がった。
まずは気に入られなければ……。

洗濯、掃除、夕飯の準備……など、やることは盛りだくさんだ。
あの男が泣いて喜ぶほど完璧にこなして、油断したところを、あざとい可愛さで心を刺して……。

洗濯をすれば、男のシャツを手に取った時に、大地の顔が浮かび、掃除をすれば、今頃どんな顔で仕事をしているのかと思いをはせ、夕食の準備をすれば、あの男の口に合うだろうかと顔が浮かぶ。

(だからぁ! これじゃあ、私が恋する乙女みたいじゃないの!)

掃除機を振り回しながら、頭に浮かぶ男の顔を振り払う。
そのまま、寝室へ行き、掃除機をかけ始めたところで、ふわりと匂うあの男の匂いと自分の匂いが混じった香り。

(あぁ……お日様のようなぽかぽかする匂い……)

ゆかりは掃除機を止めて、ベッドに寝っ転がる。

(あぁ……あの時、この匂いで包んでくれたら……それで良かったのに……)




会社の会議室で恰幅の良い老人と会議室用の細長いテーブルを挟んで大地は向かい合っていた。
仕事をしていたら、突然、事務員より来客だと呼び出されてきてみれば、そこには見知らぬ70代くらいの老人がいたのだ。
しかし、大地はその姿をみたとき、この人間が翁であるとすぐにわかった。
タイミング的にもそうでしかないと思ったからだ。

「あなたが翁という方ですよね?」
「そうだ」

決して目が笑わない、そして、スーツ越しでもわかる年齢に不釣り合いな隆々とした筋肉。
岩。
まるで岩のように感じる男が、大地を殺意も好意もなく、ただ ”見ている”
ただでさえ圧を感じるその佇まいなのに、開いた口から出てくる低い低い声は威圧されるには十分だった。

「公安なんですよね?」
「そうだな」
「公安がどのようなご用件で?」
「わかっているだろう。猫がそちらに行っているはずだ。具合はいいかね?」

(具合? いきなり下ネタかよ)

「ゆかりの心配をされてきたんですか?」
「ふっ。まぁな。君とうまくやれそうになければ、売り払わうか処分しなければならない」
「そんな、本当なんですか?」
「嘘を言っているように見えるか?」
「見えませんが、漫画みたいな話で今一ちょっと」
「そうだろうな。だけど、君がゆかりを選ばないのなら、ゆかりは無残な最期を遂げるのは間違いないだろうな」
「人間と変わらない姿をしているのに、そんなことができるんですか?」
「あれは獣だよ。獣なんだ。猛獣と変わりはしない。まぁ、猫だからまだ可愛いものだけどな」
「他にも?」
「ふっ。君は、会ったばかりでもうゆかりと添い遂げる覚悟を決めたのかね? なら話すものだが」
「いきなり現れて、覚悟を決めろといって決まるものですか。でも、あんな可愛い子を見捨てたいとは思いませんけどね」
「犬、猫、狼、猿、狐、狸」
「え?」
「色々いるぞ。特に猿は厄介だな」
「猿? 人になった猿って、それはただの人間では?」
「人間そっくりなだけに厄介だ。だからな。ゆかりが君のところから出て行くようなら盾に使おうかとも思っている」
「なんだか、五体満足というわけにはいかなそうないいぶりですね。ゆかりはあなたに優しくされたと言っていましたよ」
「したさ。孫娘に似ていたしな。しかし、所詮は獣だからな。君は、保健所に送られた野良犬を可愛いとも可哀そうとも思うだろうが、だからといって全てを救い出そうとは思わないだろう。なんたって、コストがかかるからな。膨大な」
「……」
「コストがかかるなら、回収しなくてはならない」
「そうですね」
「でだ。必要だろう?」
「何がです?」
「ゆかりの戸籍」
「用意できるんですか?」
「もちろん。ただ、そうだな。1000万ほどいただこうか」
「はぁ?」
「政府公認の正式な戸籍だぞ。偽物ではない、本物を獣に与えようというのだ。これでも安いくらいだ」
「……」
「君ならギリギリ払えるはずだぞ」
「……そうですね」
「どうする? ゆかりを捨てるなら回収する。ゆかりと添い遂げるなら、これは必要なはずだ」
「このタイミングですか?」
「やや同情はするよ。しかし、選択肢があるだけ良いと思わないか? 世の中なんて選択肢なんてない理不尽ばかりだ」
「それは、本当にそうですね」
「君には必要なんじゃないか? 新しい主人が」
「主人? ゆかりが?」
「君が今くすぶっているのは、主人を失ったからだろう」
「なんの話ですか?」
「世界が変わると思っただろう? やれITだ、AIだ、しかし、蓋を開けてみれば、大昔から続くピラミッド構造が続くだけ。君は、理想という主人に従順な犬だったのさ。だが、ご主人様は君を飼ってくれなかった」
「それで?」
「君のその心の穴は、新たな主人を迎えなければ埋まることはない。"理想" に変わる新しい主人だ」
「驚いた。公安の方は、カウンセリングもしてくれるんですね」
「イキがるなよガキが。お前のようなイジケてるようなガキにゆかりは勿体ねぇって言ってるんだ」
「……なんだ。安心した。ゆかりのこと愛してるんですね」
「黙れ」
「しかし、主人ですか。ゆかりが。ゆかりに尽くせということですか?」
「お前は自分で自分の道を決めてきたつもりだろうが、流され続けてきただけだ。いつも何かに心を支配されていないと歩けない」
「……」
「だったら、ゆかりでもいいだろう」
「ふふふふふ」
「なんだ?」
「なんて、不器用な親心だ。見たまんまですね。古き良き昭和の頑固じじいだ」
「ガキが」
「可愛いですよね」
「はぁ?」
「ゆかりですよ。いきなり、猫耳の女の子が現れたんですよ。買い物に一緒に行けば、男心をわかりきっていて、くすぐるように挑発してくると思えば、急に子供っぽくなるんですよね。今日も玄関であどけない子供のようでした」
「もうノロけられるとは結構」
「まだ数日なのに、今までで一番世界が色付いている」

そう、色付いているんだ。
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