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第8話 水族館

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丑三つ時。
洗面台の鏡の前にゆかりが立っている。
ゆかりは鏡の前で、表情を様々に変化させる。
喜怒哀楽。
あの男は、私のどんな表情が好きだろうか。
男に媚びたような笑顔を見せ続けたが、あざとい笑顔が続くと男は引いてしまうだろうか?

ゆかりは指で自分の頬や目尻を押したり引っ張ったりして、色々な笑顔を作り出していく。
鏡の中の自分を、何度も何度も微笑ませる。
しばらく続けたところで、これだというものが見つかり、無表情に戻してからその笑顔をすぐに浮かべる、そんなことを何度も繰り返した。

明日は、あの男は水族館へ連れて行ってくれるという。
初デートだ。

(もう少し、控えめな笑顔がいいかしら? それとも、もっと女を前面に出した笑顔がいいかしら?)

あの男の心が欲しい。
自分しか考えられないくらい盲目にさせたい。

ゆかりは、ふぅとため息一つついて、洗面台に両手をついてうなだれる。
しばらく、うなだれ、もう一度鏡を向いたとき、自分でも酷いと思えるくらい冷たい能面のような顔が現れる。
冷たい氷のようなまなざしの奥で、何かがゆらめいている。
現実で何かがゆらめいているわけではない。しかし、確かにそれは自分の中でゆらめいていた。
ゆかりは右手の親指の爪を噛んだ。




江の島にある遊園地と水族館を兼ねたアミューズメントパーク。
大地から見ても、ゆかりは自分に気に入られようと肩肘を張っているのはわかっていた。
昨夜、テレビを見ていると、江の島にあるアミューズメントパークのCMが映った。
イルカがお客とバレーボールでキャッチボールをしている。
大地がふと横目にゆかりの顔をみると、ゆかりは目をキラキラさせてその映像を食い入るように見ていた。

(猫だったし、こういうの珍しいんだろうな)

大地はいつもと違った雰囲気で目をキラキラさせているゆかりが微笑ましくて、じっと見つめていた。
ゆかりが大地の視線に気づいて、ばっと振り向くと恥ずかしそうに顔を赤くする。

「今度の日曜日ここに行こうか」

大地の提案に再び瞳を輝かせると嬉しそうに言った。

「え!? よろしいんですか?」

可愛い穏やかなソプラノの声が、より高音となって発せられる。
自分でも自分の声色にびっくりしたのか、ゆかりはゴホンと咳払い一つしてから急に落ち着いた大人の女性のような雰囲気を醸し出した。

「旦那様。お仕事でお疲れではありませんか? 無理しなくても構いませんよ」
「でも、行きたいんだろう?」

ゆかりは、ぐっと何かを耐えるような苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら俯く。

「……行きたいです……」

そして、蚊の鳴くような小さな声でぼそりと言った。

(別に悪いことじゃないのに。そんなに大人ぶらなくても。猫だったんだから)

そんなやりとりをした次の日、天気は快晴。
風は冷たいが例年に比べて穏やかで暖かな陽気だった。

アミューズメントパーク内の水族館に入るまでは、ゆかりは翁に叩き込まれたのだろうか、昔の大和撫子のように大地の一歩後ろを歩いていて、大地から歩きづらいんだけどと言われても頑なに固辞していたにも関わらず、中に入って、視界がまるで海の中にいるような錯覚に陥る一面の水槽が目に入ると、大地を置いて前に駆けだして水槽に張り付いた。

「だ、旦那様! お魚がいっぱいです!」

日の光に照らされて、様々な魚たちが鱗をキラキラと輝かせながら、右へ左へと泳いでいる。

「上を見てみなよ」

大地に促されてゆかりが顔を天井に向けると、頭上をイルカがゆったりと泳いでいるのが目に入った。

「ふぇぇ……」

その様子に間の抜けた声を出してぽけーっとイルカを見つめるゆかり。
白いコートにベージュのチェック柄のペンシルスカート。
頭の上には、万が一耳が出てしまっても構わないように被ったベレー帽様デザインの帽子。
しかし、その帽子がぽろっと落ちて、にょきっと猫耳が生えているのが目に入る。

「おわっ!?」

大地が慌てて帽子を拾って頭にかぶせるが、周りで見かけてしまってであろう子供が母親に「ママ―。あの人耳が生えているよー」と言って「そりゃ、生えてるでしょうよ」と返されていた。

それからは、大地は魚よりゆかりを見つめ続けることになる。
まるで猫のように目に入ったものに俊敏に反応し、小さな子供のように駆けて行って目をキラキラとさせたまま展示された水槽を見つめるゆかり。

「旦那様! ここにこんな変なやつが!」

そう言って、大地の手をひっぱっていくゆかり。

人間になってからまだそんなに日も経たないゆかり。これから目に入る全てのものが新鮮で、全てが明るく輝いているのだろうと思うと、大地は羨ましい気持ちになる。
一つのことに夢中になって、他が目に入らないなんて、いつが最後だっただろうか?

「凄い! ボールをくれましたよ!? 旦那様!?」

イルカと触れ合えるコーナーでは、水槽の端でぴくりとも動かなかったイルカたちが、大地とゆかりの接近を感知すると、悠々と泳ぎ出し、バレーボールを口にくわえてグルグルと泳いだかと思ったら、ヘディングでゆかりにボールをパスしてきた。

(凄いな。頭が良いとは知っていたけど、もう完全に接客がわかってるじゃないか)

ゆかりが興奮した様子でボールを持ったまま、大地にキラキラした視線を向けている。

「投げ返して」

大地が言うと、「そーれ」と掛け声一つと共に、ゆかりがイルカにボールを投げ返した。
それをまた、ヘディングでゆかりにパスするイルカ。
その度に、キャッキャと喜び明るい笑顔で応じるゆかり。

その様子を見て、大地はなんだかほんわかとする。
この気持ちは、まるで小さな子供に感じる父性だろうか。

(うーん。普段は無理してるのかな?)

ゆかりの無邪気な笑顔を眺めながら、大地は今後もっとリラックスして過ごせるように何か考えなきゃなと思いをはせる。

一通り、アミューズメントパークを楽しんだ後、適当に食事をとって帰りの車に乗り込む。
助手席に座ったゆかりが、疲れたのかうつらうつらと頭を揺らしている。
胸にはお土産に買ったイルカのぬいぐるみを大切そうに両腕で抱えている。

「着いたら起こすから寝てていいぞ」
「うぅ、ごめん……な……さい」

そのままカクっと眠りに落ちるゆかり。

「ふふ。妻というより、なんだか子供が出来たみたいだな」

大地はいつか失ってしまった、一つのことに、ワクワクして、他のことを忘れる夢中な気持ち、ゆかりを見てそんな気持ちを取り戻せるような想いがした。




家に帰ってからゆかりは自己嫌悪に陥っていた。
完璧な妻を成し遂げようとしていたというのに、大地を翻弄する余裕ある大人な女性を演出しようとしていたのに、子供のようにはしゃいで、あの男を子供のようにに振り回してしまった。

「あぁ……失敗した……。あんなにはしゃいでしまっては、もしかしたら引かれてしまったんじゃないかしら……」

しかし、初めて訪れた水族館。
想像以上に賢いイルカ。
見たこともない生物、可愛らしいペンギン。

(あぁ、興奮するなというのが無理な話なのよ。ゆかり)

お風呂を済ませ寝室へ赴くゆかり。
あの男は、まだ入浴中だ。

(ゆかり。今日を挽回するにはこれしかないわ……!)

自分の教育係のうちのひとりの女性から、必殺の武器としてここぞの時に使いなさいと渡されたもの――。

「こ、こ、こんな……透け透けの……ネグリジェを……。いや、やるしかないのよ。ゆかり」

それからしばらくして、大地がガウン姿で寝室に入ると、そこにはかけ布団にくるまってベッドの上で座っているゆかりの姿。
顔を真っ赤にして、緊張で強張っているその姿に、大地も緊張が伝染して何事かと恐る恐るゆかりの横に座った。

「どうかした?」

ゆかりは、ジト目で大地を見つめると、くるまっていたかけ布団をゆっくりと身体からめくりながら言った。

「にゃぁ……」

露になった妖しいネグリジェに包まれた美しい肢体と、恥ずかしそうに顔を真っ赤にしながら自分の気を引こうと必死になっている、そのいじらしい様子に大地は喉をごくりと鳴らせた。

きっと、熱い夜になることだろう。
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