上 下
5 / 12

第5話 チバロの翁

しおりを挟む
ゆかりがセダンの車内から、あるマンションの窓を見つめている。
時刻は夜の21時30分。
夜空には満月がこうこうと輝いている。
斎藤大地と人間の姿で出逢う夜。

「ゆかり。お前は、獣だ。今となっては身体は大人の女性のものと遜色ないが、それでも獣だ。獣は、人間を傷つけてはならない。わかっているな?」

外の街灯の明かりだけ差し込む薄暗い車内で、後部座席に白無垢姿で座っているゆかりに、運転席の男が低い声で話しかけた。
ゆかりには男の本当の名前もわからない。
周りの者から時折、チバロの翁と呼ばれているのを聞いただけだ。
2カ月にわたる人間社会で生きるための最低限の教育の中で、この男が公安という組織にいる人間だということは知った。
この翁と呼ばれる男の一派が、獣達の管理をしているようだった。

「存じております。翁、今まで優しくしてくださってありがとうございました」
「なに。お前が孫娘になんとなく似ていたから……ちょっと情が乗ってしまった。だからといって、人間を傷つければ容赦はしない。そうはならないことを願っている」
「はい」
「調べてみたが、あの男は随分と恋人がいないようだ。現実に押しつぶされそうになっていて、癒してくれる女に飢えている。きっと、可愛くて男に都合の良い女が現れれば、夢中になることだろう」

ゆかりは翁のその言葉には沈黙で返したので、翁はそのまま言葉をつづけた。

「お前がどんな気持ちで、あの男と相対するのかは知らない。しかしな。ここまできたら俺はお前に幸せになって欲しいと思っているよ」
「心配しないで翁。うまくやるわ」
「そうか。収まるところに収まったら連絡をくれ」
「はい」

しばしの静寂。そして。

「あっ」

ゆかりの見つめる先で、暗闇に閉ざされていた窓がぱっと明るくなった。

「ふむ。帰ってきたな。いいか。あの男は珍しく泥酔しているようだ。あとは、わかるな?」
「はい……」

ガチャっと車のドアが開いて、白無垢姿のゆかりが降りてくる。
張り詰めた表情をしていて、口は堅く横に結ばれている。

「ゆかり」

いつもは「お前」と呼ぶ翁が、初めて名前で呼んだことにびっくりして、ゆかりは目を丸くしながら運転席に振り返った。
まるで岩と錯覚するようなコート越しでも鍛え上げられていることがうかがいしれる体、髪型は角刈りで顔は深いしわが刻まれながらも、若い頃はさぞ女にもてたことが容易に想像できる整った顔立ち。その翁が、にやりと笑って言った。

「ゆかりは、笑っていれば良い女だ。お前に意中の男がいなければ、俺が口説きたかったくらいだ」

場を和ますため、そして、ゆかりを励ますために、精一杯考えを尽くしたであろう、普段はぶっきらぼうな老人の意外な言葉に、ゆかりは思わず、横一文字に固く結んでいた口端をわずかに歪めて微笑んだ。

「ふっ。まだ固いが。まぁいいだろう。行ってこい」
「はい」

ゆかりは静かにマンションに入っていくと、目当ての部屋を目指して階段を登っていく。
階段を登りながら、ぶつぶつと何かを呟き続けた。

「斎藤大地。31歳。身長180㎝。体重70㎏。正確は真面目だが、現実にうちのめされてからは仕事をうまくサボるくせが出てきた。大学の時の恋人と別れてからは、ずっと一人。周りから新しい出会いを勧められながらふんぎりがつかない。好みの女性は、癒し系でいながら時折押しの強さを見せる人。甘えてくる女性に弱い。毎日の激務で家の雑事は何一つ進んでいない……」

ゆかりは、ぶつぶつと大地のプロフィールをおさらいしていく。
おさらいしながら、目当ての部屋の前までたどり着くと、深く息を吐き出す。
白無垢は想像以上に歩きづらかった。
なぜ白無垢なのか? そう翁に問うたら「異類婚姻譚は白無垢じゃないと」と言われた。
だが、はて?
鶴の恩返しも、雪女も、白無垢姿で男の前に現れただろうか?
なんだか、翁の趣味に付き合わされている気がする。
ただ、泥酔している男の目の前にいきなり猫耳の白無垢女が現れたら、全てが夢だと思うかもしれない。
いや、思ってくれないと困る。

ゆかりは、意を決してインターホンのボタンを押す。

ドア越しにピンポーンと音が聞こえてくる。

「さぁ、ゆかり。セリフを思い出すのよ。噛まないようにね」

ゆかりは、猫だった時、そして人間の体になったこの2か月のうちの嬉しかったことを一生懸命思い出して、微笑みを作った。



ガチャリ

ドアノブがまわった。

さぁ、愛しの旦那様。
今宵は身も心も捧げましょう。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

保健室の秘密...

とんすけ
大衆娯楽
僕のクラスには、保健室に登校している「吉田さん」という女の子がいた。 吉田さんは目が大きくてとても可愛らしく、いつも艶々な髪をなびかせていた。 吉田さんはクラスにあまりなじめておらず、朝のHRが終わると帰りの時間まで保健室で過ごしていた。 僕は吉田さんと話したことはなかったけれど、大人っぽさと綺麗な容姿を持つ吉田さんに密かに惹かれていた。 そんな吉田さんには、ある噂があった。 「授業中に保健室に行けば、性処理をしてくれる子がいる」 それが吉田さんだと、男子の間で噂になっていた。

彼氏が完璧すぎるから別れたい

しおだだ
恋愛
月奈(ユエナ)は恋人と別れたいと思っている。 なぜなら彼はイケメンでやさしくて有能だから。そんな相手は荷が重い。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

ダブル シークレットベビー ~御曹司の献身~ その後

菱沼あゆ
恋愛
その後のみんなの日記です。

鐘ヶ岡学園女子バレー部の秘密

フロイライン
青春
名門復活を目指し厳しい練習を続ける鐘ヶ岡学園の女子バレー部 キャプテンを務める新田まどかは、身体能力を飛躍的に伸ばすため、ある行動に出るが…

獣人の里の仕置き小屋

真木
恋愛
ある狼獣人の里には、仕置き小屋というところがある。 獣人は愛情深く、その執着ゆえに伴侶が逃げ出すとき、獣人の夫が伴侶に仕置きをするところだ。 今夜もまた一人、里から出ようとして仕置き小屋に連れられてきた少女がいた。 仕置き小屋にあるものを見て、彼女は……。

ぽっちゃりOLが幼馴染みにマッサージと称してエロいことをされる話

よしゆき
恋愛
純粋にマッサージをしてくれていると思っているぽっちゃりOLが、下心しかない幼馴染みにマッサージをしてもらう話。

王女、騎士と結婚させられイかされまくる

ぺこ
恋愛
髪の色と出自から差別されてきた騎士さまにベタ惚れされて愛されまくる王女のお話。 性描写激しめですが、甘々の溺愛です。 ※原文(♡乱舞淫語まみれバージョン)はpixivの方で見られます。

処理中です...