月とガーネット[上]

雨音 礼韻

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■Ⅱ■IN BANGKOK■

[8]◇壁の向こう側 *

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 ネイは「一緒に来て」と席を立ち、先程電流を流したフロントへ通じる扉を抜け、正面扉も開いて屋外へ出た。周りにある木々や草むらが雨露を含み、宵闇にしっとりとした青い匂いを漂わせている。

 ついて行った小さな影が、ホテル敷地の境界ギリギリで左に折れ、ピンクロージィトランペット──タイ語ではチョンプーパンティップと呼ばれるノウゼンカズラ科の木立に歩み寄った。日本が春の頃に桜同様桃色の花を枝一杯に付けるため「タイ桜」と称されるが、実際にはペチュニアのようなラッパ型の花だ。だが今は七月、豊かな葉群れだけが元気そうに繁っている。



「ネイ、どうかしたのか?」

 クウヤは立ち止まって、木のいただきを見つめるよう反らせたネイの背中に疑問を投げた。

「クウたん、この木の幹、思いっきり蹴っ飛ばしてくれる? 思いっきりだよ!」

「はぁ? ……まぁいいけど」

 ネイは振り向くと同時に不思議なお願いをし、クウヤに道を開けるようにそこから離れた。

「んじゃ行くぞ? うぉりゃあああっ!」

 少しばかり距離の離れた場所から走り込み、クウヤは両足を揃えて飛び蹴りを喰らわせた。

 幹のしなりはブルブルと上空へ伝播して、途端何かがドサリと落ちてくる。慌てて身をひるがえし、クウヤは危うく下敷きになることを免れた。

「あっぶねっ! ……って、あれ? おい、これって……」

「うん、人間だね」

 ネイは分かっていたように、その落ちてきた人型の傍でしゃがみ込んだ。この宿の敷地全てを取り仕切るマザー・コンピュータなのだ。もちろんこの人物の侵入にも気付いて、それを阻む「処置」をしたまでだった。

「大丈夫だよー殺してなんかいないから。ちょっとフェンス上にさっきみたいな電流流して失神させただけ。その内には目が覚めちゃうから、クウたん悪いけどこれで縛って?」

 どこから出してきたのやら、いつの間にか握っていた捕縛用チェーンを手渡し、ニッコリ笑ってみせた。

「容赦がねぇな……お陰で助かったけど」

 おそらくは自分を狙う誰かなのだろう。うつ伏せで動かない男の手首を後ろ手に拘束し、その顔が見えるようにこちらへ向かせてみた。けれど闇夜の中、顔までは判別出来ない。

「はい。これで見える?」

 ネイが自分の掌を男にかざした。そこから光が照射され、気絶したその顔を照らす。

「すっげ! あ? この男……」

 クウヤの微かな記憶が今日一日の時間を巻き戻していった。ホテル・マイペンライ、カオサン・ロード、『ムーン・タクシー』、チャトゥチャック・ウィークエンド・マーケット……?

「あー! 市場の出口でメリルに蹴っ飛ばされた奴だ!!」

 クウヤは刹那あの華麗な美脚キックと、背面跳びで倒れ伏したこのスーツ男を思い出した。

「まったく懲りない奴らだな……」

「マーケットと同じ人なら良かったんじゃない? そんなに沢山の組織には、まだ、、知られてないって証拠でしょ?」

まだ、、っていうのは余計だ」

 ネイのあっけらかんとした返答に、クウヤは相変わらず苦笑いをしてみせた。しかし一体どこからやって来た刺客なのか?

「あら~また掛かったみたい。ちょっとその人放っといてクウたん来てー」

「此処はアリジゴクか!?」

 そうぼやきながらもネイに続き、今度はホテルの裏手、高い塀の手前までやって来た。こちらはネイが指差したずっと上方に、男の後頭部と上半身の背中だけが見える。その姿は両腕を脱力したように垂らし、まるで塀の上部に引っ掛かった状態だった。

「あれを降ろすのは俺には無理だぞ?」

「やっぱり?」

 ネイは予想通りという顔で笑って、何を思ったかクウヤに肩車をおねだりした。

「おい、どうするつもりだよ? あいつの顔でも拝むのか?」

「違うよ~引っ張り降ろすの。あ! クウたん、スカートの中見ないでよ~! それからもっと背伸びして!」

 ネイはクウヤの首後ろで立ち上がり、限界まで腕を伸ばしたが、あと僅かというところで男の垂れ下がった指先には届かなかった。

「誰が見るかっ!? お前もメリルと同じで馬鹿力なのかよ? んじゃあジャンプしてやるから、その瞬間に必ずつかめ!」

「はーい! クウたん、それじゃカウントするよー、3・2・1・ジャンプ!」

 愉しそうな掛け声と共に、クウヤはネイの足首をしっかり握りしめて、自分の出来る跳躍に臨んだ。案の定あのメリル程の高さには至らないが、男を引き下ろすために必要な位置には、ネイの手元も届いたようだ。

「おお~やったねー!」

「やったはいいが、死んだんじゃないか……?」

 四メートルは下へ落とされたに違いない。更に先の木から落ちた男と違い、地面は硬いコンクリートだった。

「だいじょぶだいじょぶ。この人、人じゃないから」

「え?」

 倒れて横倒しとなった身体は、先程の人物よりも大きく、戦闘服といった服装をしている。

「あれ!? こいつも?」

 すっとんきょうな声を上げ、まじまじとその横顔を覗き込む。記憶は更にさかのぼる必要があった。──ドコだ? ダレだ? ほんの少しだが、絶対見たことのある顔だ──

「そうだっ! 思い出した!!」

 大人しく待っていてくれたネイに、クウヤは喉につかえた『エレメント』が抜けたような、スッキリとした笑顔を見せた。が、同時にいぶかしくも思う。そんなクウヤの表情の変化に、ネイが無言で首をかしげた。

「ああ……こいつは東京の『グランド・ムーン』って店のトイレで会ったんだ。あの時はさすがにスーツを着ていたが……やたらジロジロ見られたから覚えていた。でもその時俺はまだ『エレメント』を口にしていない……こいつは何で、まだ『エレメント』に関わっていない俺に注目してたんだ?」

「ふうむ~?」

 足元で動かない大男を見下ろしたまま、クウヤは腕を組んで仁王立ちした。それを真似して唸り声を上げるネイ。その瞬間、男がピクリと指先を動かしたことに、二人は気付くことが出来なかった。

「それってクウたんをさ~──え!?」 

 いきなり男の左腕が伸び、手先にあったクウヤの右足首を掴んで引き倒そうとした。後ろに落ちていく背中と地面の間に、咄嗟にネイが挟まって支える。男は足首を握り締めたまま身体を起こし、クウヤをマグロのように宙吊り状態で捕獲しようとした。

「ココはアタシの領域テリトリーなんだから! 勝手はさせない!!」

 ネイがクウヤの持ち上げられた足首に飛びついた。男の指を引きはがそうと格闘し、やがて自由になったクウヤの身は、すぐ真下の地面に倒れた。ネイはクウヤが男から離れたことを確認するや、その手から一気に電流を放出し、ほんの一瞬だがショートを起こしたように大男の身体がグラリと揺れた。

「キサラギ クウヤ。この一件から早急に手を引け」

「なに!?」

 男は指に溜めた電流をバチバチと光らせながら、苦しそうにわらってみせた。その手から電気を飛び散らせるように大きく真一文字に振り、一歩を跳びすさる。低く腰を下げてメリルのように跳躍し、高い塀の向こうへ瞬く間に去ってしまった。

「な、なんなんだよ~あいつ!」

 この数分の怒涛の展開に、クウヤは目を白黒させながら地面に尻もちをついた。あの男の目的は何なのか。「この一件」とは何なのか。そしてあの男自身は何者なのか──辺りにはまだ電気の残骸のような光がパチパチと宙に舞い散っている。大柄ながたいの通り、足首を締めつける力は尋常ではなく、今でも掴まれた部分がジンジンと痺れていた。更に俊敏な動きとあのジャンプ力! 人間とは思えない──あ、いや? ネイが「人」じゃないって言ってたか?

「あのデッカイの、人間じゃないよ。でもアンドロイドってほどでもない。アタシに似たハリボテロボットだね」

「ホログラムを投影してるってことか」

 やれやれまたホログラムかと辟易へきえきしながら立ち上がり、クウヤはネイの説明に補足を入れた。フィッシャーマンズパンツについた土埃を払い、手をはたく。

「さて~こっちは諦めて、あっちへ戻ろうよ。そろそろ目を覚ました頃なんじゃない? あっちも逃げられちゃっても困るしー」

「ああ、そうだな」

 もう一匹ネズミを捕獲していたことを思い出し、二人はホテルの東側へ向かった。案の定意識を取り戻した黒い影が、チェーンと格闘しながら地べたを這いずり回っている。

「おい、あんた。一体何者なんだ?」

 頭上から降ってきた質問に突如として静止する男。見上げた顔はそれでも平然とした様子だった。

「訊かれて答えるバカがどこにいる? 殺すのなら早くやれ」

 ついでにそう言い捨てた唇の端はあざけるように歪んでいた。

「何で俺が人殺しにならなくちゃいけないんだよ! 早く吐いちゃえって~スッキリするぞー」

 クウヤは拘束出来ているのを良いことに、目の前にしゃがみ込んでニヤニヤ顔で降服を促した。そう言いながらも相手が安直に白状するとは、さすがに思ってもいないのだが。

「お宅は一人か? あのウィークエンド・マーケットで俺を襲った男と仲間か? だったらあいつは今どこにいるんだ?」

 真顔に戻り更に疑問を投げかけたが、相手もまるで答える気はないことを主張するように、鋭い睨みを利かせて口元を引き締めてしまった。

「クウた~ん! これでお喋りしてもらおーよ!」

 そこへいつの間にかどこかへ消えていたネイが、何かを掲げながら走り寄ってきた。手にしているのは? ──小さなスプレー缶に見えた。

「クウたん、ちょっとこの霧吸わないように下がっててくれる?」

 途端男の表情が一変し小さく舌打ちをする。彼はそれが何なのかにいち早く気付いたらしかった。クウヤがネイのお願いに応え、直ちにスプレーから噴射された煙が男を包み込んだ。やがてあのいきり立っていた眼差しはとろけるように半開きとなり、口元も締まりなくヨダレを垂らして草の上に落ちた。

「何しちゃったんだ!?」

「自白剤だよーなかなか便利だよね、コレ」

 そう「自白」したネイの無害な笑顔が、啓太のそれと重なって見えた。「こいつ、チビッ子啓太だな」なんて心の中でおののきつつ、その効果が現れるのを待ち詫びた。そして数分後──。

「あんたはどこの組織の人間だ?」

 完全に身体を地面に預け、軟体動物のように力なくうつ伏せになった男は、のたりと顔を声の方へ逸らした。にへらと笑うその姿はもはや麻薬中毒患者のようだ。

「ソシキ、ソシキ……ああ~ロシアのこと?」

「ロシア……国家レベルってことか?」

 驚愕で引きつった顔を、クウヤは苦笑するネイに合わせた。

「コッカ、コッカ~? あーそうそう、ロシアはコッカ」

「この自白剤、ちょっと難アリ、だな。ラリってる感がハンパない」

「うーん、ポーが安売りしてたのを買ってきたみたいだからね」

 ネイは今にも眠りそうな男の頬を、一緒に落ちてきた小枝でつついた。何とか押し留めてはいるが時間の問題のようだ。クウヤは仕方なく胸ぐらをつかんで男の上半身を引き起こした。首を振られて目を覚ました男は、その腕の先をだるげに見上げた。

「おい、起きろ! ウィークエンド・マーケットでお前の前に俺を襲ったのは、お前の仲間か!?」

 ブンブンと振り回された男の口からヨダレが飛び散り、クウヤは逃げ出すように男を放してしまった。後ろへ倒れた男は後頭部をしたたか地面に打ちつけたが、そのお陰でやや正気を取り戻したようだ。

「ああ……あいつは仲間だ」

「あいつは今どこだ?」

 続けた質問に、倒れたままの男は先程とは打って変わり、流暢に話を始める。

「あいつは埠頭に停めたロシア船籍の中だ。そこでさらったソムチャーイ=ブンナークから、お前が探している『ツール』の在りかを聞き出している」

「ポーの名前だよ!」

 一旦終わった男の答えに、ネイが慌てて説明を入れた。埠頭の船内に誘拐なんて、自分が生まれるずっと前に流行ったという、陳腐なドラマのようだと一瞬わらいが零れそうになる。それを我慢してクウヤは表情を引き締め、何かを決意するようにすっくと立ち上がった。

「クウたん?」

「俺が助けに行ってくる。ネイ、何でもいいから『ムーン・ウォーカ―』を貸してくれ」

「またぁ~? 要らないよーその熱血漢。メリたんに任せておけば大丈夫だからさ~」

「そんな場合か! 大体あいつがやられちまったら、それこそ俺が困るんだよ!」

 呆れたネイのクレームに、「今度こそは引き下がらないぞ」とクウヤは背を向けホテルの敷地出口を目指した。おそらくその境界を過ぎる時、ネイは微量の電流を流して阻止するのだろう。それでも何とか突破してみせようと、クウヤはいかり肩でその意志を示しながらズンズンと歩いていった。

 だがそんなクウヤのやっと来た出番も、あえなく不発に終わることになる。

「あー! 帰ってきた~!!」

「え?」

 振り向いた後ろに、両手を伸ばして駆け寄るネイの喜ぶ姿があった。それはクウヤの横を通り過ぎ、クウヤが出ていく筈だった出口に向かっていく。

「ポー!!」

 暗い通りから現れた影は、小太りの男を片手で軽々と小脇に抱えるメリルだった。

「ただいま戻りました、ネイ様」

 この数時間前、買い物から帰ってきた時と同じ台詞で戻ってきた彼女に、クウヤはガックリと肩を落とした。これでも彼なりにメリルとソムチャーイを心配していたのだ。なのに彼女はまるで何事もなかったように、相変わらず落ち着いた佇まいだった。

「まったく、全部メリルにおんぶに抱っこかよ……」

 だがそんな嘆きの言葉もかき消すように、刹那頭上にヘリの回転するローター音が鳴り響く。

「あいたたた……やっばい、ゴメン!」

 チョンプーパンティップの大木へ振り返り、ネイが珍しく動揺を見せた。失神したソムチャーイ以外の視線が、倒れたスーツの男へ集中する。いきなり現れたヘリから、一気に垂れ下がってくるクレーンのフック。それは瞬く間に男のベルトを引っ掛け、ネイの回路が混乱を治める前に、男を空へ連れ去ってしまった。

「申し訳ございません、ネイ様。わたくしが戻らなければ……」

「違うよー、アタシが油断してシールド解いちゃったままだったから。こっちこそゴメンーせっかく敵を一つ潰せるイイチャンスだったのに」

 ソムチャーイをお姫様抱っこに抱え直し、メリルが申し訳なさそうに頭を垂れた。

 ネイはホテル全域を囲む防御シールドを張り巡らせていたのだ。メリルとソムチャーイが戻ったことに気付いてそれを一旦解除したのだが、喜びに我を忘れて開放したままだったという訳だ。その一瞬の隙を突かれてしまったのだろう。

「とにかくポーをオフィスへ。メリたん、そこまで宜しく~」

「かしこまりました、ネイ様」

 ホテルのエントランスを開いたネイに、ソムチャーイをいだいたメリルと、疲れたようなクウヤが続いた──。


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