答えの出口

藤原雅倫

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【第24章】異なる二つの住所

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 目の前の机の上に、異なる二つの住所が記されたメモ紙がある。
どちらも『美樹子』のものだ。
一つは先日、『完璧な金髪ボブヘアー』こと『陽子』が
知人の刑事に依頼して調べてくれたもの。
そしてもう一つは『エリ』が以前、
『美樹子』と直接、連絡先交換した時のもの。
恐らく一九八九年頃だろうと推測した。
六年も前のものだ。
住所が変わっている事に然程の驚きもしなかったが、
間違いなく『陽子』が調べてくれた住所が最新のものである事は言うまでもない。
地図もあったので、僕は『エリ』が聞いたと言う住所を調べてみる事とした。
すると驚いた事に、
その住所が示した場所は、このホテルだった、、!?。

一体、どう言う事だ!?。


 住所に続けられた部屋番号は『五〇〇』だった。
僕は直ぐに自分の部屋番号が『五〇一』である事を思い出し、扉を開けて部屋番号を確認した。
間違いない、此処は『五〇一』だ。
部屋を出てフロアの全てを歩き一つ一つの部屋番号を確認して回った。
しかし、何処をどう探しても『五〇〇』の部屋は見当たらなかった。
間違っても他の階にある訳もない事は承知していたが、僕はエレベーターで全館を歩き回り調べた。
しかし何処にもその部屋番号は無かった。
『五』から始まる番号だ。
間違いなく僕が宿泊している五階以外は考え難い。
それに引越し先の住所がホテルなんてあり得ない。
だが、一時的にその部屋に滞在しようと思えばあり得ない事もないかもしれない。
今の僕の様に。


 部屋に戻り、僕はフロントに電話をかけると『陽子』の父が応答した。

「フロントでございます。いかがなさいましたでしょうか?。」
僕は息を整えて冷静に伝えた。

「調べて頂きたい事があるんです。過去の滞在履歴ですが可能でしょうか?。」

「はい。可能でございます。個人情報まではお教えできませんが、滞在の有無でしたら問題ありません。」

「ありがとうございます。今からそちらに向かいます。」
電話を切り直ぐにエレベーターでフロントへ向かった。

 カウンターの向こうには『陽子』の父が皺一つ無い真っ黒なスーツ姿で待っていた。

「お待ちしておりました。」
僕は直ぐにメモ紙に『時田美樹子』とフリガナを記し彼に渡した。

「恐らく、一九八九年の十一月以降だと思いますが、調べていただけるでしょうか?。よろしくお願いします。」
彼はメモ紙を眺めながら言った。

「ほう、それは『ベルリンの壁』が崩壊した年、まさにその月ですな。直ぐにお調べいたします。」
僕はその言葉を聞いて少し違和感を覚えた。

彼が奥の事務所に入り調べている間、ソファーに座りデカンタのコーヒーを注いで飲んだ。
レストランを眺めると『赤毛ピアスだらけ』の『麻理子』の姿は確認出来なかった。すると間もなく彼はカウンターに姿を現した。

「大変、お待たせいたしました。」
彼はプリントした用紙を手にしていた。

「分かりましたか?。」
僕は生唾を飲み込んだ。

「はい、お調べいたしました。しかしながら、一九八九年十一月以降、その前後数年の間に、その方がお泊まりになった履歴はございませんでした。」
僕はガックリし意気消沈した。

「しかしですね、一九九三年の十二月に二日ほど宿泊されておりました。」
僕は驚いた。約二年前に彼女はこのホテルに泊まっていたのだ。

「ちなみに何号室か分かりますか?。」
彼はプリントした用紙に目をやった。

「五〇一でございます。澤村様と同じ部屋の様でございます。」
僕は的外れの結果に肩を落とした。

「ありがとうございます。助かりました。」
そうお礼を告げ戻ろうとしたが、一つだけ質問をした。

「ついでで申し訳ありませんが、このホテルには『五〇〇』と言う部屋があったんでしょうか?。」
すると彼は暫くの間、瞬きをせずに考え込んだ。

「いいえ、その様な客室はございません。全階の部屋は一号室からとなっておりますので。」
僕はその答えに納得した。すると彼は奇妙な事を語り出した。

「五〇〇と言う番号の意味をお分かりですか?。」
番号の意味?。

「数字の持つ意味です。それには神秘的なエネルギーなども含まれます。」
僕はその言葉に興味を抱いた。

「つまり、数字には意味や力があると言う事なのでしょうか?。」
彼は大きく頷いた。

「そうです。五〇〇と言う数字はとても素晴らしいナンバーです。今後の行動や変化、そしてそれらに付随する計画に対して最も良いタイミングを表します。なおかつ、完璧に進行している、と言う意味がございます。」
僕はその雄弁な『完璧な金髪ボブヘアー』の父親に驚き、感心した。

「数字に意味があるなんて今まで知りませんでした。それにしてもよくご存知で、、。」
彼は照れくさそうに頭を撫でた。

「いえいえ、若い頃にスピリチュアルに興味がありまして、よく仲間らとそんな話をしておりました。」
なるほど、確かに七〇年代ヒッピーらの間には有りそうな話題だ。
僕は丁寧にお礼を伝え部屋に戻った。


 結局、『美樹子』が伝えていた住所は間違いだった。
恐らく、、。先ずは現住所を訪れてみよう。
平日の昼という事もあり一般的に考えれば会える可能性は低かったが、とにかく訪れてみる事とした。

 ホテルを出ると間もなく空車のタクシーが客待ちをしていた。
直ぐにそれに乗り込み運転手に住所が記されたメモ紙を渡した。
タクシーが進むにつれ、僕の緊張は高まり鼓動が急速に早まった。
遂にここまで来た。
もしかしたら会えるかもしれない。
僕は渇き切った唇を噛み締めた。
それにしても、数字に意味があったなんて驚いた。僕は雄弁な『陽子』の父が益々気に入ってしまった。
そう言えば『美樹子』の宿泊履歴を調べてもらう時に、
彼は『ベルリンの壁』が崩壊した月だと言っていた。
一九八九年十一月。
僕はずっとそれが気になり考えていた。
何かを思い出せそうで思い出せない。
再び諦めた僕は何気なく運転手さんに聞いた。

「ベルリンの壁が崩壊した日って憶えていますか?。」
すると驚いた事に直ぐに教えてくれた。

「一九八九年十一月一〇日でしたね。」
僕は自分が無知だと言うことを思い知らされ恥ずかしくなった。
すると間もなくタクシーは目的の場所に到着した。

「恐らく、この辺りだと思います。よろしいでしょうか?。」
僕は料金を支払い急いで降りた。

 閑静な住宅街は静まり返り、ただ穏やかに雪が周辺の木々や道路に降り注いでいた。
マンション等の高層ビルは見当たらず、殆どが一戸建ての家屋ばかりだった。
僕は近くの電柱に近寄り住所のプレートを確認した。間違いなく目の前のエリアが丁目と一緒だ。
カバンから地図を取り出し彼女の家の番地を確認しながら周辺を歩いてみた。
おおよそ半周したところで、遂に目的の家を見つけることが出来た。
僕はその門の前で生唾をごクリと音を出して飲み込んだ。

 表札には『石塚』と記されてある。僕はその名字について考えてみた。
きっと男性の名字だろう。記憶に無いそこに記された表札は僕に威圧感を与えた。
家は木造の二階建てで、とても落ち着いた雰囲気だった。
僕はかつて通った『谷中』にある彼女の家を思い出した。

 玄関の前まで足を運び、思い切ってドアホンを鳴らした。
磨りガラスの内側からピンポンっと言うチャイムが僅かに響いた。
氷点下の外気の中、立ち尽くす僕の額から汗が滲んでいる。やはり留守か、、。
すると中から男性の声が聞こえ玄関のガラスの向こうに現れた。
やばい!。凄まじい緊張感で声を出せないかもしれない。
間もなく開いた扉の向こうに、その男性が現れた。



 リヴィングのダイニングテーブルで待っていると『石塚』と言う男は温かいコーヒーと共に僕の向かいに腰掛けた。

「澤村さんがいらっしゃるなんて驚きました。」
その言葉に僕はかしこまって頷いた。

「でもいつか訪れてくれるんじゃないか、とも思っていました。あなたの事は聞いていましたし『美樹子』もきっと喜んでいます。」
僕はその過去形の言葉に違和感を覚えながら質問をした。

「彼女は、元気でしょうか?。」
すると『石塚』は驚いた表情で凍りつき僕を見つめた。

「澤村さん、、、わざわざ知っていてこんな遠くまでいらっしゃったんじゃないんですか!?。」
僕は彼が話している事の意味を理解できなかった。
しかし、彼女からのメールは黙っておいた方が良さそうだった。
見ると彼は悲しそうな表情でぼんやりと僕を見つめながら続けた。



「美樹子は昨年、死にました、、。自殺したんです、、。」



僕はその言葉を聞いて驚愕した!!!!!。
美樹子が死んだ!?。
死んだ!?。
どういう事だ!?。
自殺しただと、、!!!?。


頭が混乱し目の前が真っ暗になった。
この現実をどう受け止めろと言うのだ!。
どうして自殺を!?。
壊れるくらい固く握った僕の拳はその感情の行き場を見つけられず、ただ波打つ脈と共により強く握る事しか出来無かった。
顔をあげることが出来ない!。
まして、この男の前で涙を流して泣く事など許されないのだ!。
それだけは絶対にしてはいけない!。
僕は歯が割れるほど噛み締めた。目を閉じ、長い時間をかけてゆっくりと呼吸を整え、やっと顔を上げる事が出来た。しかし身体の震えだけは止める事が出来なかった。


美樹子が死んだ!?。


 彼は二階にある『美樹子』の部屋へ案内してくれた。
恐らく当時のままなのだろう。
彼女が着ていたコートや帽子、綺麗に整頓された机の上。
僕はその中で僅かに柔らかい彼女の香りを感じる事が出来た。

「澤村さん、お時間ございますか? もし良ければお話ししたい事があるんです。」
僕は大丈夫だと伝えた。

「実は、どうも彼女には何か秘密めいたところがありました。」
僕は驚いた。美樹子の秘密!?

「澤村さんと別れた『美樹子』はかなり取り乱していました。勿論、私は何も知らずに北海道に越す少し前に電話したんですが、、。どうも、一緒に引っ越したい理由が他にあった様な。」
僕は言葉を選びながら聞いた。

「それはつまり、、いや、、僕が言うのも失礼だと分かっていますが、寂しさから現実逃避したい、と言う思いとは別に、と言う事なんでしょうか?。」
彼は頷いた。

「澤村さんの事を私は決して悪く思ったりしていません。安心してください。」
彼は笑顔で続けた。

「帯広に越してからの『美樹子』は何かにとても警戒していました。それが何だったのかは分かりません。勿論、普通に楽しく一緒に暮らしていましたが、確かに彼女は何かを警戒していました。しばらく経つと、私も何となく周囲や屋内に違和感を覚える様になったんです。雰囲気みたいなものです。そんなある日、私の部屋が誰かに探られている事に気が付きました。」
僕は眉間に皺を寄せながら考えた。

「警察には連絡したんですか?。」

「いえ、しませんでした。その時は思い違いかなとも思いました。何も盗まれた物も無いし、壊された物などもありませんでした。でも、毎日過ごす部屋なので直ぐに分かりました。『美樹子』以外の誰かが侵入したと。」
『石塚』は暫く考え、再び話し始めた。

「その後、私は仕事帰りの裏通りで突然、誰かに叩きつけられて大怪我をし、二週間ほど入院しました。」
僕は突然の展開に驚きを隠せなかった!。すると彼は前髪を掌で上げ額の縫い傷を見せた。

「私自身、それは通り魔による犯行だとは思えませんでした。恐らく『美樹子』に纏わる何かによる犯行じゃないかと直感しました。その事件をキッカケに彼女はやっと打ち明けてくれました。」

「打ち明けた?。 あなたが襲われた理由ですか?。」
『石塚』は大きく何度も頷いた。

「そうです。『美樹子』の秘密です。勿論、ざっくりとした話です。彼女も全てを私に伝える事は危険だと思っていた様でした。」
僕は咄嗟に質問した。

「その『秘密』が彼女を追い詰めた、と言う事ですか!?。」
『石塚』は両腕を組んで頭を軽く振った。

「恐らくそうだと思います、、。でも全く分かりません。それが何なのか私には理解出来ないんです。でも、ある時思ったんですよ。澤村さんなら、もしかして解明出来るんじゃないかと。」
僕は腰が浮くほど驚いた!。

「僕にですか、、!?」
一瞬、部屋の時空が揺らぐのを感じた。
気配? 誰かが居る? 『美樹子』か?。

「そうです。残された私がやらなくてはいけない事は、あなたにそれを伝える事です。澤村さんが何も知らずに此処を訪れた理由も必ずある筈です。今日、確信しました。それに、どうして澤村さんが『美樹子』の死を知らなかった事に私が驚いたかご存知ですか?。」
僕は首を振った。全く思い当たる節が無い、、。

「『美樹子』の葬儀です。東京の実家で執り行いましたが、その供花の中に、あなたからの物がありました。」
僕は驚愕した! 僕が贈った供花!? 一体どういう事だ!?
『石塚』は戸棚から数枚の写真を並べて見せた。するとその葬儀で飾られた供花の中に、確かに僕の名前が記された物があった!?。

 僕は完全に混乱し動揺していた、、。
一体どういう事だ、、!。
何故、僕が贈った供花がそこに、、?。
『石塚』は冷静に話を進めた。

「つまりこれは、誰かが贈った物でしょう。でも悪意は感じられません。」
悪意? もし悪戯だとしたら相当悪質だ。自殺した女性の元彼の名前で花を贈るなどあり得ない。きっと僕に対しての嫌がらせとしか考えられなかった。しかし『石塚』は悪意を感じられないと言った。

「一体、誰がそんな事をしたか心当たりはあるんでしょうか?。」
僕は写真を手にとって見つめた。

「分かりません、、。でも、澤村さんでない事は確かです。」
僕は彼女を追い詰めた人間について考え続けた。

 気がつくと『石塚』は一階に降り、煎れ直した熱いコーヒーを持って再び僕の前に座った。

「実は、三年前、一九九二年に『美樹子』は一度、東京に戻りました。約一年半程だったと思います。度重なる不穏な出来事で私にそれ以上の迷惑をかけたくなかったからでしょう。私も一緒に戻る事を告げましたが、彼女は一人の方が安全だと言って聞きませんでした。そして必ず帯広に戻ると、私を安心させてくれたんですよ。その時期に『澤村』さんに連絡などはしておりませんでしょうか?。」
僕は首を振った。

「そうですか、、。恐らく彼女は谷中の実家では無く、何処かのアパートを借りていたと思います。これはあくまで私の予想です。電話も、盗聴を気にして月に一度程度しかありませんでした。短い現状報告のようなものです。私の方から連絡する事は一切拒絶されていましたので、、。ある時から仕事を始めた様で、私は少し安心をしました。多分、一年位は働いていたと思います。」
僕はその時期を考えていると、ハッ!っと思い当たる事に気が付いた。
『杉森舞』だ!。
確か高校生の頃に彼女からCDを貰ったと言っていた。時期的にも重なる。
しかし同時に初めて彼女が東京に戻っていた事を改めて気が付いた。
『舞』が話していた『美樹子』が死んだと言う事ばかりに囚われていたのだろう、、。

「『美樹子』の変化を感じるようになったのは、その仕事を辞めてからでした。日に日に衰弱して行く様子が電話越しの声からも伝わりました。しかしやっと一九九三年の暮れに此処へ戻って来たんです。」

「一九九三年の十二月って事ですか?。」
僕は驚いた。確か彼女が『ホテル・ニュー・カリフォルニア』に宿泊した月だったからだ。何故、彼女は真っ直ぐ此処に戻らず、二日間もホテルに泊まったりしたのだろう?。追手が迫っていたからだろうか、、。

「『美樹子』が戻ってからは、再び不穏な何かに怯える生活が始まりました。それは以前とは異なり、悪意に満ち溢れた危険なものでした。そしてとてつもなく巨大な何か、、。彼女の精神は既にボロボロでした。私には何もしてやれる事もなく、見えない何かから『美樹子』を守ってあげられる手立ては一切ありませんでした。頑なにそれが何なのか、秘密を打ち明ける事もなく、昨年、遂に、薬を飲んで自殺してしまいました、、。」
僕はその結末に愕然とし必死に涙を堪えた。
目の前の『石塚』も暫くの間、身体を震わせながら下を向いたままだった。
冷んやりとした空気が僕達の間をすり抜け、やがて穏やかな彼女の香りと交差した。

 涙を拭いながら『石塚』は大きく深呼吸し、キッパリとした表情で僕を見つめた。

「私が知っている『美樹子』のおおよその秘密をお話しします。」
僕の緊張感は一気に高まった。

「『美樹子』は祖父、正確には義の祖父から遺言状を受け取ったそうです。どうやら彼女はその祖父母については幼い頃から面識も無く、亡くなった時に初めてお母様から聞かされたらしいのです。そして葬儀を終え東京に戻ってからその遺言状を受け取った。その内容はどうも、その義祖父が生前に守り続けた秘密らしく、それを知った彼女は直ぐに燃やしてしまったそうです。勿論、重要な手がかりですから、頭にはしっかり焼き付けたのでしょう。その直後から不穏な出来事が始まったとの事でした。それが『美樹子』の持つ秘密でした。」
僕は大きな溜息をつき、彼女が知る事となった秘密について考えた。。

「その内容までは知らされていないんですね。」
彼は静かに頷きながら再び話し出した。

「推測ですが、彼女が知った何かの手がかりを得る為に追われていたのだろうと思います。恐らくとても重大で重要な何か。でも彼女は結局それを明かす事もなく死んでしまった、、。自殺するなんて! 許せない! どうして『美樹子』が死ななければならなかったんでしょうか! 許せません!。」
取り乱した彼に対し、僕は何も伝える事も慰める事も出来なかった。
当然だが、僕よりも『石塚』の方が何百倍も悔しいに決まっている。
僕は沈黙のまま落胆した。


 帰り際、『石塚』から一枚の写真を渡された。

「色々と彼女の部屋で手がかりを探っている時に出て来た物です。とても大事に仕舞われていました。私にはその景色が何処かは見当も付きませんが、もしかしたら『澤村』さんならご存知ではないかと思って。どうぞ、受け取って下さい。」
手にしたその写真は懐かしい静岡にあった公園の風景だった。
忘れもしない、あの真夏の日、通りの向こうから歩いてくる陽炎に揺れた彼女の真っ黒いストレートヘアーを思い出し胸が締め付けられた。
綺麗だった。
本当に綺麗だった。



 「美樹子」が死んだ。



 僕は一人になり、更にその事実を目の当たりに痛感させられた。
その巨大な悲しみと悔しさは僕を貪り絶望の果てに追いやった。
溢れ出た涙は止まる事なく流れ、疲弊しきった身体中から水分を奪っていった。

もう一歩も歩けない。
もう、歩けないよ、、『美樹子』。

雪が積もったアスファルトに膝ま付き、夜空に向かって嗚咽を吐きながら泣き叫んだ!。
叫び声は声にならず、ただ乾き切った喉から荒々しい呻きに似た息が吐き出されるばかりだった。
するとその時、僕の頭の中が激しくフラッシュバックした。
意思とは無関係に映し出される映画フィルムの様な光景は激しい痛みと共に更に僕を痛めつけた。
そして全ての音が消えブラックアウトした一瞬、懐かしい声が耳元でした。


「好むと好まざる事とは無関係な事なのよ。」


僕は目を大きく見開くと、煌びやかな夜空の向こうに神々しい満月が輝いていた。
何て美しいんだろう!。
そして思い出した。
一九八九年十一月一〇日。
『ベルリンの壁』が崩壊された歴史的なその日、
誰よりも信頼し、大好きだった『浅葱瑠璃子』により音楽業界から追放された事を。

 やがて満月は少しずつ輝きを増し、目を開けていられない程の強さと変わっていった。
すると急に誰かが僕の肩を掴み揺らした。

「英司さん! 大丈夫! 英司さん!。」
目を開くとそこに、ヘッドライトで逆光した影があった。

完璧だ。
君はいつだって完璧だよ。
僕は『陽子』の腕の中で力尽きた。
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