答えの出口

藤原雅倫

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【第21章】喫茶ルノアール

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 大粒のゲリラ豪雨の中、私は殆ど役に立たない傘を向かい
風に向けて会社へ戻ろうとしていた。
よりによって社用車は別のスタッフによって乗り去られてしまったと言う訳だ。
代々木駅から僅か十分足らずの距離をやっとの思いで歩き、
会社に到着した時は全身がずぶ濡れになっていた。

 じっとりと湿った服のせいで身体の震えが止まらないままデスクに着くと間もなく内線が鳴った。

「お疲れ様です。」
すぐに対応すると受話器の向こうでタバコの煙を吐いた社長が気怠そうに続けた。

「吉田くんに紹介したい娘がいるんだけど、今、空いてる?。」
私はいつも急な社長に若干嫌気がさした。

「ずぶ濡れですが大丈夫でしょうか!?。」
彼はケラケラと笑った。

 会議室に入ると、若い娘と『柳沢』が向かい合って座っていた。
恐らく新入社員の教育か何かの話だろう。
すると社長はすぐに私を呼びつけ彼女を紹介した。

「こちらは『杉森舞』ちゃん。君が彼女のマネージメント担当だから。」
余りに唐突な紹介に私は驚いた。

新人のアーティスト?

すると彼は続けた。

「今度、この子デビューするからヨロシク。」
私は呆気に取られ呆然としていると、
彼女は立ち上がり私の方を向いて会釈した。

「杉森舞です。よろしくお願いします。」
私はその流れのペースに完全に飲み込まれてしまい、
諦めて自己紹介をした。

「初めまして。吉田真利江と申します。こちらこそ、よろしくお願い致します。」
柳沢は満足そうな笑みを浮かべた。

 以来私は『杉森舞』との仕事が始まった。
彼女は何の変哲も無い本当に普通な女子だった。
しかし、そんな普通な子だったりする人間がある日突然スターになったりもする物なのだ。
私はそんな可能性を信じ彼女の未来を共に歩む楽しささえ感じ始めていた。

 初めてスタジオで聴いた彼女の歌唱力はまずまずな上手さだった。
ボイストレーナーを付ければ最近の若いシンガーには引けを取らない位にはなるだろう。
しかし何というか、
彼女はどう引け目に見ても全体的に地味なのだ。
底抜けた明るさも無ければ際立った個性のカケラも持ち合わせてはいない。
『柳沢』は彼女をどのようなコンセプトでデビューさせようとしているのだろうか?

 ある日、私は戦略会議やら何も進展しない苛立ちで社長室を訪れた。

「一体、どうなってるんですか! 楽曲もコンセプトも何も決まっていないじゃ無いですか!。」
社長は仰天した顔つきで私の剣幕を宥めた。

「まぁ、まぁ、、。もうちょっと待ってくれ。俺も色々と考えているから、、。」
私は更に頭に血が上った。

「まぁ、まぁ、じゃ無いですよ! 仕事なんですよ! 何も決めずによくデビューさせようと思ってますよね! 彼女だって不安で一杯なんですから!。」
彼は苦笑いをしながら私をソファーに座らせた。

「舞ちゃんに関しては別のプロデューサーを付けようと思ってるんだよ。作詞、作曲も出来て、プログラミングも出来る所謂コンポーザーが一人いるんだ。ま、俺の古い友人なんだけど。」
私はその話を聞いてやっと少し気持ちが落ち着いた。

「で、誰なんですか? そのご友人とは?。」
すると彼は得意そうなドヤ顔で私を見つめながら答えた。

「澤村だよ。澤村英司。」
私はその名前を聞き驚いた。
『さわむらえいじ』まさか彼と一緒に仕事ができるなんて。
しかし彼は現役を引退して以来、
一体何処で何をしているのだろうか?
私は彼のミステリアスな突然の引退劇を想像せずにはいられなかった。
次第に私の鼓動は速さを増し身体中の血液が溢れ出しそうな感覚に陥った。

 『舞』との距離は一向に縮む感じもなく、
ただ事務的に日々の作業が行われた。
もっとも顔を合わせるのも時々な事で
彼女が事務所を訪れた時にスケジュールの調整を行い帰りは私が運転する車で家まで送って行った。
それ以外の彼女は母親と二人暮らしで、
普段はアルバイトを行なっていた。
帰りの車内でも彼女から話す事は殆どなかった。

『柳沢』からの進捗によれば、
八月に『澤村』氏を交えた顔合わせを行い本格的に楽曲制作に取り掛かるとの事である。
早ければ十月くらいにはレコーディングに入れるだろう。
きっとゆっくり過ごせるのも今だけかもしれない。
私は忙しくなるであろう近い未来を心待ちし、
パソコンの電源を切っていつもより早めに会社を出た。

 夕方の新宿駅は恐ろしいまでの人混みで、
田舎育ちの私にとってはいつまで経っても慣れない都会生活の一つだった。
西新宿へ向かいお気に入りの『新宿レコード』を訪れた。
店内に隙間なく並べられたアナログレコードやCDの中に居るだけで幸せを感じる。
古いアルバムは勿論の事、
この店ならではのブートレッグ盤やインディーズ盤など、
その数には圧倒されずにはいられない。
私はすぐに国内インディーズ・パンクバンドのアルバムを漁った。
すると突然、背後から声をかけられた。

「吉田さんですよね? 吉田真利江さん。」
私が振り向くと、
スーツ姿の男がサングラス越しに私を見つめた。
咄嗟に同業の関係者かとも思ったが全く面識の無い男だった。
男は内ポケットから名刺を取り出した。

「突然で大変申し訳ありません。私、株式会社ジミー・ミュージック・エンタテイメント代表取締役の秘書をしている牛嶋と申します。」
私は名刺を受け取り反射的に会釈した。

「いつも大変お世話になっております。」
その『牛嶋』という男は静かに近寄り耳元で囁いた。

「あなたをお探ししておりました。これは偶然ではありません。少しお時間を頂けますでしょうか?」
私は男が言っている意味が分からず動揺しその場で硬直した。


 喫茶ルノアールの一番奥にあるテーブル。
店内には静かにジャズが流れていた。
私は嫌な予感で心臓が爆発しそうだった。

私を探していた!? なぜ!?

私はありとあらゆる過ちを思い出そうとした。
何よりも、
この男があの冷酷な女社長の秘書である事が私を更に混乱させた。

一体どうなっているんだろう、、?

間も無く運ばれてきた珈琲を一口飲み、
男はやっと口を開いた。

「本当に驚きました。まさか、あなたがホテル・ニューホライズンのご家族だったとは。」
私は全く想像もしていなかった話題に驚き、
同時に緊張も少しだけ和らいだ。

「え、、? うちの実家のホテルでしょうか、、?。」
彼は柔らかい笑顔で続けた。

「そうなんですよ。とある事がきっかけで偶然お邪魔致しましたところ、色々と気になる事がございまして。」
気になる事?
私はその意味を考えてみたが長い間実家も出ている身としては何も思い当たる事はなかった。

「うちのホテルと御社に一体どのような関係があるのでしょうか?。」
牛嶋は少し首を傾げ話題を変えた。

「ところで、マーズさんの新人アーティストの進捗はいかがな感じでしょうか?。」
私はその質問に更に驚いた。

「杉森舞の事でしょうか?」
牛嶋はコクリと頷いた。

「勿論、そうです。彼女のプロデュースはどなたが担当されるのでしょうか?。」
私は少し考えてから答えた。

「澤村英司さんです。と言っても、社長の話によればですが、、。」
牛嶋は手応えを感じたかのように頷きながら微笑んだ。

「なるほど。そうでしたか。それは素晴らしい!。きっと弊社の浅葱も喜ぶ事でしょう。」
私はその名前を聞き僅かに背筋がゾッとした。
すると牛嶋はカバンからタバコを取り出し私に一本差し出した。

「そろそろ本題に入りましょう。どうぞ、お吸いになって下さい。セーラム・メンソールでよろしかったですよね?。」
私はそのタバコを見つめ、
この男には私の全てを知られていると言う事にやっと気が付いた。
でも、何故、私なのだろうか、、?

「お願いしたい事がございます。勿論、仕事の話ですので報酬もございますが、当然、そちらの仕事を続けながらと言う事となります。お忙しいかとは存じますが是非お受けして頂きたい。」
私はしばらく考え込んでから質問をした。

「どのような仕事なんでしょうか、、?」
牛嶋は僅かに目を細め左手で顎先を撫でた。

「メールとか簡単な仕事です。勿論、アイディアも必要かとは思いますが。きっとあなたの能力であればスムーズに進むかと考えております。」

私の能力?

やはりこの男は知っている、、。

「事務的な仕事なら大丈夫だと思いますが、少しお時間を頂いて考えさせて頂きます。」
そう返答すると牛嶋は冷ややかな声のトーンで答えた。

「返答の余地はございません。」
私は完全に強大な業界組織に巻き込まれ始めている事を実感した。
断ることの出来ない仕事。
恐らく何らかの極秘業務なのだろうか、、。
それはもしかして犯罪に加担する事なのだろうか?
私は諦めてセーラムに火を付けゆっくりと肺へ煙を吸い込んだ。


   ***


 幼い頃、私は姉と二人でよく実家の「ホテル・ニューホライズン」で遊んだ。
私達にとっては最高の遊び場だった事は言うまでもない。
五歳か六歳くらいのある日、
いつものように空いている部屋に忍び込んでいると
私は知らない女の子と出会った。
同じくらいの年の子で妹が一人時々一緒にいる事もあった。
姉にその事を伝え何度も一緒に部屋を訪れてみたが
その部屋番号を見つける事は出来なかった。
いつしか信用をしなくなった姉は諦め、
私は一人で部屋を訪れては彼女と一緒に遊んだ。
先に彼女が部屋に居る事もあれば私が先に訪れる事もあった。
勿論、一日中待っていても彼女が来ない日もあった。
ある時、彼女の話し方が少し変わっている事に気が付き私は質問をした。

「ヨウコちゃんの家はどこなの?。」
すると彼女はクスクスと笑いながら答えた。

「ここだよ。マリエちゃんの家は近くなの?。」
私は何だか嬉しくなって答えた。

「わたしもここだよ! じゃ、一緒なんだね!。」
私達の絆は一層深まり、
彼女との遊びは誰にも知られる事もなくその部屋で続いた。

 今思えば、それが子供の頃の夢だったのか現実だったのかは定かではない。
常識的に考えればそんな話を信じる人など何処にもいないだろう。
そして七年前、
久しぶりに訪れたホテルで起こった不思議な出来事。
あれも実際の出来事かどうかでさえ確かめようのない夢?
だったに違いない。
しかし今、
再び私の周りで何か未知な出来事が巻き起ころうとしている事は確かだ。
私には分かる。
そして再びフラッシュバックされる遠い記憶や夢の様な出来事が何かを語ろうとしている。
私しか知らないあの部屋は今も存在するのだろうか?
そこでまた「ヨウコ」ちゃんに再会できるのだろうか?
壁に飾られていた近くの公園を描いた水彩画。
そこに描かれたベンチをぼんやりと思い出していた。


   ***


 『牛嶋哲朗』から連絡が来たのは二日後の朝だった。
簡潔な詳細だけを伝え電話はすぐに切れた。
私はいつものように身支度をし会社へ向かった。
気分が重い。
カーラジオのニュースは、
今年三月に『宗教団体オウム真理教』がサリンを使用した他殺テロ事件の進捗や、
ミャンマー軍事政権が一九八九年以来続いていた
『アウンサンスーチー』の自宅軟禁を解除した事などを報じていた。
私はそんなニュースを聞いているうちに益々気が滅入ってきた。
一体何のつもりで訳の分からないカルト宗教団体が
罪のない人々を殺したりするのだろうか?

完全に狂っている。

ミャンマーの問題にしても
民主主義を訴える人間を軟禁してまで独裁しようとする国家が目指す世界とは一体何なのだろうか?
ラジオを切りCDを再生すると、
スピーカーから『デズリー』の「ユー・ガッタ・ビー」が心地よく流れた。
彼女の歌声で幾分、
私の気持ちは持ち直された。


 午前中に『柳沢』とスケジュールの調整を行い
予定通り八月中旬には『澤村』氏との初見、及び打ち合わせが決まった。
週一度だった『杉森舞』のボイストレーニングを二日に増やし、
午後には彼女のデビューまでのスケジュールの作成に入った。
リハーサル期間~レコーディング。
まずはメーカーのプレゼン突破が何よりも重要な登竜門ではあるが、
先日の『牛嶋』による話の様子だと恐らく問題はなさそうだ。
何故、彼女に拘るかは未だに定かではないが、
恐らく今回の(極秘な)仕事の件に関わっている事は間違いない。
そして社長である『柳沢』でさえも知らない。
きっと『澤村』氏との連携の中で何かが分かってくるのだろうと私は推測した。


 会社を出た時、既に二十二時を過ぎていた。
指定された新宿のビルまではそう遠くもなさそうだが、
念の為サングラスをかけ私は足早に向かった。
それはまるで犯罪者のようだった。
歌舞伎町の裏道をすり抜け、
いくつかの道を曲がったところで『牛嶋』が待っていた。
なる程、こんな場所なら人目にも付きづらい。
彼はサングラスを取り「お待ちしておりました。」と会釈した。

 案内された事務所は薄暗く間接照明だけが灯り、
最新のデスクトップのパソコンやノートパソコンがデスクの上に並べられている。
生活感が全く無いところから想像するに
きっと秘密の部屋なのかもしれない。
しかし何でまた大企業の秘書がこんな部屋を使ってまで行う仕事とは一体何なのだろうか?
私は一人でソファに座りながらますます気が重くなった。
しばらくすると扉が開いた。

女性!?。

 彼の後ろに女性が一人いる。
男が傍に移動するとその女が私の前に仁王立ちした。


「あなたが吉田真利江さんですね。」


私はその顔を見て蒼白しやっとの思いで生唾を飲み込んだ。

「私、株式会社ジミー・ミュージック・エンタテイメント代表取締役の浅葱と申します。」
知っている、、勿論、知っている!。
私の身体は恐怖で金縛りにあったように身じろぎひとつ出来ないでいた。

「あら、あなた何か怖がっていらっしゃるのかしら?」
女は上から私の目をしっかり見つめたままクスリと微笑んだ。
すると『牛嶋』がスコッチの入ったグラスを彼女へ、
そしてもう一つを私に渡しテーブルにガラスの灰皿を静かに置いた。

『浅葱』がゆっくりと一口飲み
細長いタバコを取り出すと『牛嶋』がそれに火をつけた。
私はその二人の所作を瞬きすら出来ない緊張感と共に渇いた眼球で見つめる事しか出来なかった。

「あなた、お酒好きでしょう? まずは飲みながらお話ししましょう。」
私はその言葉で幾分緊張が解れ、
静かにスコッチを一口飲むと、
焼けるような熱いアルコールが喉から胃袋へゆっくりと流れ込んだ。

「あなたにお願いしたい仕事があります。」
私は『浅葱』の視線を逸らせずに頷いた。

「いくつかの仕事になりますが、まずは、ある人物にメールを送って誘導する事。その後、タイミングを見計らって接触して頂きます。」
私はその仕事の意味を考えた。

誘導? 接触?
そしてやっとの思いで質問した。

「その相手とは一体どなたなのでしょうか、、?。」
『浅葱』はしばらく考えてからグラスの氷を軽く回しキッパリと答えた。

「澤村英司です。」
私はその名前を聞いて凍りついた、、。

「ど、どうして澤村さんなのでしょうか?」
足を組み直しながら『浅葱』は冷たい口調で告げた。

「あなたは何も知らなくていいのよ。」
私は巨人に踏みつけられる小さな虫になった様な居心地だった。

「メールアドレスは準備してあります。署名なしで送って頂ければ結構。送信文や返信については、私と牛嶋から指示します。作業はあなたの出来る日程、及び時間で問題ありません。何か質問はあるかしら?」
私はしばらく考えたが、
やはり断る事は出来そうに無いと実感し腹を決めるしかなかった。

「接触とはどういう事なのでしょうか、、?。」
私は直ぐにその質問をした事を後悔した。
『浅葱』は腕を組んでゆっくりとタバコの煙を斜め上に向けて吐いた。

「あなた、不思議な能力をお持ちのようね。それに、澤村にも興味をお持ちじゃないのかしら?。」
私は完全に見透かされている。
何もかも知られているのだ。

「あなたを傷つける事はありません。それとあなた方ご兄弟やご両親にも。勿論、あなた次第と言う事によりますが。それと、今回の仕事はトップシークレットではありますが犯罪とは関係ありません。むしろ人助けだと思って頂いた方がよろしいかと。」
私は大きく深呼吸をしてスコッチを一気に飲み干し全てを受け入れた。


 『浅葱』が部屋を後にすると私は全身の力が一気に緩みグッタリとソファに沈み込んだ。
『牛嶋』は冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出しグラスに注いだ。
私はそれを一気に喉に流し込むとやっと幾分、
普通に戻ったような気がした。
彼は二本目を注ぎながらポケットからセーラム・メンソールをテーブルに置いた。

「どうぞ。このタバコ、思ったより美味しいですね。私、サムタイム派だったんですが、お陰様でこちらに変えました。」
そう言うとお互いのタバコに火をつけゆっくりと灰に吸い込んで勢いよく煙を天井に向け吐いた。
私は緊張のあまりタバコを吸う事すら忘れていた事に気が付いた。
こうして向かい合いながらお酒を飲んでいると
幾分、『牛嶋』とも距離が縮まった様な気にもなれた。
すると彼は私の目の前に細長い紙を置いた。

「前金となります。領収書は必要ございません。これであなたも同僚です。」
その小切手に記された金額を見て私は驚愕した!。

「悪く無いでしょう? ようこそ『R・S・D』へ。」
彼は軽く会釈をして新型の携帯電話を渡した。
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