答えの出口

藤原雅倫

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【第5章】三角関係

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 上野駅は以前の陰気な雰囲気から一変し
明るくお洒落な容姿へと変貌していた。
久しぶりに訪れたせいで出口も分からないまま
気がついたらパンダ橋出口の改札に辿り着いていた。

こんな改札があっただろうか?

半信半疑で外へ出た瞬間に
懐かしいジャイアントパンダがそびえ立っていた。
その脇から上野公園へと以前は無かった橋が造られてある。
なるほど、これがパンダ橋か。
そこから見える風景を眺めて
やっと自分が何処にいるのかを理解しエスカレーターにのって一階へと下っていった。

待ち合わせの仲町商店街は
夕方と言う事もあり既に賑わっている。
携帯を取り出した時、
懐かしい後ろ姿を見つけ駆け寄った。

「英司!」軽く肩を叩いた瞬間に振り返った表情があまりにも驚いていたので可笑しくなった。

「なに笑ってんだよ!ビックリしたじゃないかよ。ホントにもう、、。」

「ごめん、ごめん。だってあんまり驚くからさ。」

 それにしてもまるで変わっていない男の容姿に驚いた。
きっと今でも毎晩酒を飲んでいる筈にも関わらず体形も相変わらずスリムだ。
表情も老けた感じもしないし一体どうなっているのだろうか?
不思議なその存在感も健在で
こんな人混みの中においてもすぐに見つけ出す事ができるのだ。
私たちは何度か訪れた事のある少し奥まったバーへ向かった。


「英司ってすぐ分かるんだよね」

「なんだそりゃ?」薄暗い階段を降りながら彼は振り向きもせずにアタマを傾けた。

 テーブルに腰を下ろすなり私たちは、
まるで儀式の始まりのようにすぐにビールを注文した。
それがテーブルに運ばれてくるまでの僅かな沈黙の時間が妙に長く感じられた。
彼は店内に流れる音楽に耳を傾けながら軽くリズムをとっていた。


 英司と出逢ったのは十一年前。
当時、度々訪れていたカジュアルショップで彼は働いていた。

何度か接客もしてもらい少しずつお互いの話しもする様になった。
彼はバンドでボーカルをやっていて友達と何度か観に行ったりもした。
私が好む音楽とはかけ離れたロックではあったが
次第に彼に魅了されていった。

 ある日、
私が美容部員を勤める店にひょっこりと彼は現れた。
丁度閉店まぎわだったので、
彼に外で待っていてもらい私たちは郊外のレストランで食事をした。
見た目とは違った彼の話しや私の知らない世界。
アパートまで送ってもらった別れ際、
彼はキスをした。
それ以来、
時間を見つけては会うようになり自然に私たちは付き合う様になった。
彼には事後報告となったが、
それまで付き合っていた男ともキッパリ別れ
新たな恋のスタートに胸を躍らせた。

 仕事が終わってから毎晩のように彼のアパートを訪れ
ほとんど同棲しているも一緒だった。
彼が早く仕事を終えた時は車で迎えに来てくれたし、
私が早い時は彼のアパートで夕食の仕度をして待っている。

バンド活動にも一生懸命なその姿を支えている喜びも感じたりしていた。
付き合って二年が経った頃、
彼のバンドはメジャーデビューしそれまで働いていた店も退職した。
その時の彼の喜んだ顔が
今も自分の事のように忘れる事ができない。
私は彼の嬉しそうな表情が大好きだった。

 ある時期から生活は一変し、
それまでのプライベートな時間も以前より大分減っていった。
新しいアルバムのレコーディングや練習で何週間も会えない時もあったりしたが、
時間のある日や休日は変わらず食卓を共にし何度もセックスをした。
そんな生活に不安も抱かずただ私は側でギターを弾きながら曲を作っている彼の姿を応援した。

人気も沸騰し随分若いファンの子達も多かったが、
彼は私に心配をかけぬようにと必ず電話をくれたり、
関係者や最近知り合ったミュージシャンとの交流などを話してくれた。
そんな悪気の無い彼の語る世界を知るほど、
次第に私は何のとりとめもない自分を卑屈に感じ始めていた。
私と音楽のどっちが大切なの?
などとよくある事には全く興味もなかったが、
ただ少しずつ彼との関係に距離を感じずにはいらっれなかったのだ。
それでも彼は

「心配する事はない。」

と抱いてくれた。


 一九八九年の秋、
ツアー中の彼のアパートの窓を開け放し
新鮮な空気を入れてあげようと訪れていた私は、
間もなく帰ってくる部屋の掃除をしたり
溜まっていた洗濯ものを片付けたりしていた。
夕方になりそろそろ戻ろうと思った時、
玄関のベルが鳴った。

ドアを開けた向こうには
ホッソリとした長い黒髪の女性が立っていた。
あの時の不思議そうな顔で私を覗き込んだ表情が今も忘れられない。
私たちは僅かに開いた扉を境にただ
お互いの言葉を待ち続けていた。

扉の向こうに立つ女を目の前に
私は咄嗟に出過ぎた行動に後悔をした。
きっとこの女は英司のファンか何かでつい訪れてしまったに違いない!

ヤバい、、。

それにしても何て綺麗な女だろうか。
女はしばらく考え込んでからゆっくりとした口調で言った。

「もしかして、木下さん?」

「え? はい、そうですけど、、。」

「なんだビックリした。部屋の電気が点いていたからてっきり戻ってるのかと思って。」

一体この女は誰なんだろうか?
どうして私の名前を知っているのだろう?

「あのぅ、失礼ですがどなたですか?」

「私? 美樹子といいます。はじめまして、英司の彼女です。いつもエリさんにはお世話になってるの聞いてました。入ってもいい?」

私はその言葉を聞いて愕然とした!

英司の彼女?

一体どういう事だ!
しかも何故この女はずかずかとこの部屋に入ろうとしているのだろうか。
私は彼女の言っている意味が理解出来ずにただ呆然とした。
そんな様子を気にする事も無く部屋に入り込んだ彼女は
手慣れた感じで冷蔵庫を開け買い込んで来た食品を詰め込み始めた。

「あの、英司の彼女ってどういう事ですか? 言っている意味が分からないし、どうしてあなた私の名前を知ってるの?」

女は振り返り私をまともに見ずに驚く発言をした。

「マネージャーさんでしょ? 英司がいつも家の事までお世話になっているって聞いていたし。私も滅多に自分から勝手に訪れたりはしないけど、今回のツアー長丁場だから片付けておいてあげようかなって思って。それに栄養もつけてあげないとね。」

マネージャー?
私が?
一体どういう事だ!

体中の血液が沸き上がるのを感じた瞬間この状況を理解し始めた。

「マネージャーじゃありません! 私は、私は英司の彼女です! 一体、英司があなたに何て言っているか分からないけど、あなたおかしいんじゃないですか! ほら、合鍵だって持ってるし。」

私は咄嗟に部屋の鍵を目の前にかざした。
すると女は驚いて目を見開き、
愕然とした様子で俯いた。
そして私が手にしたモノと色違いの鍵をカバンから取り出した。

同じ鍵!?


私たちはしばらくの間無言で立ちすくんでいた。

一体どういう事だ!?
この女は誰なんだ!?

しばらくして彼女は玄関に向かい靴を履き始めた。

「ごめんなさい。私、帰ります。」それだけ言って女は出て行った。

ガタンと閉じた扉を見つめていると
急に怒りが込み上げて来た私は冷蔵庫の中身を部屋中に投げ付けた。
壁に叩き付けたトマトが真っ赤な飛沫をあげ、
床にはありとあらゆる食材がこなごなに散った。
感情を押さえ切れない私は英司の机に置いてある煙草に火をつけ一気に吸った。
五年振りに吸ったせいでアタマがクラクラになった私はただこらえ切れない涙を流して叫んだ。


「英司、早く帰って来てよ!」


 翌朝、目を覚ました時、
私はソファで横になっていた。
夕べの出来事にこらえ切れずラムをストレートで何杯も飲んだせいでアタマがガンガンする。
血しぶきが着いたような壁を眺めながらいつしか怒りは不安へと変わっていた。

それでも自分に課せられた仕事の為に準備をしなくてはならない。
熱いシャワーを浴びて仕度を整え彼のアパートを後にした。
地下鉄の中、
あの女を思い出しながら悔しさが込み上げてきた。
私の知らないところで英司は他の女と付き合っていたのだ。
しかも合鍵まで渡しているなんて。
どう考えたってあの部屋で会ってしまうのはあたり前な筈なのに。
それでもエリの英司に対する気持ちは怒りでは無くなっていた。


 携帯には英司からの着信が残っている事も気付かずにただ職場へ向かった。
英司が戻ってきてから三日間、
私は携帯に出る事もなかった。
家の電話にまで彼は何度も連絡をくれていたが留守電にしたまま放置していたのだ。
そんな時、
珍しく久しぶりに彼は私の店を訪れた。

「やめてよ。あなた目立つんだからさ。昔とは違うのよ」彼が運転する車内で私は意気消沈していた。

「だって全然、電話しても出ないじゃないか。心配して行っちゃったよ。元気ないんじゃないか、、。飯でも喰いに行こうか?」

私は数日前の出来事を思い出しながら溜息をついた。

何て鈍感な男なのだろうか?

きっとあの部屋の様子を見て驚いただろうに。
きちんと掃除したのだろうか?
やっぱりB型の男は相性が悪いのかもしれないと今更後悔さえ感じた。

「どうする? それとも家に帰ろうか。」食欲の無い私は無言で頷いた。


 忌々しい合鍵で彼は部屋の玄関を開けた。
室内はきちんと整頓されてあり、
壁に叩き付けたトマトの血しぶきも綺麗に拭かれていた。
私はソファに掛けしばらく無言で壁を見つめていた。
英司は気まずそうに冷蔵庫から冷えたハイネケンを私に渡した。
そのプルタブを開け私は一気に喉に流し込んだ時、
彼はやっと重い口を開いた。

「いつかきちんと話そうと思っていた。」

私は聞こえないフリをしてビールを飲み続けていたが、
英司のもどかしさに嫌気をさして口を開いた。

「あの人誰なの? 私の事、マネージャーって言ってたよ。アタマにきたけどさ、別にどうでもいいよ。でも好きな人がいるんだったら私たちこうして付き合っている意味ないじゃん。だったら何でもっと早く言ってくれないの? あなたの優しさの意味が分かんないよ。合鍵だって何で渡してるわけ? 絶対いつか必ず会っちゃうじゃん!」

英司はビールを一口流し込んで沈黙を続けた。

「私はあなたが好きだし、あれこれと言うつもりは無いの。バンドだって人気あるから多少の女付き合いだって理解してきたつもりよ。あなたがコソコソ陰で嘘ついていた事にムカついてるのよ。他に付き合っている女がいるとしても気持ちは変わらないから。でもね、マネージャーって何よ? だから、あなたの私に対する気持ちが変わらないんだったら戻ってきて欲しい。」

彼は私の顔を見ずに答えた。

「正直、俺も分からない。エリとの付合いに飽きた訳でもないけど、美樹子の事も好きなんだよ、、。自分でもどうしていいか分からない。でもいつかきっとこうなると思っていたよ。だから合鍵も渡したのかもしれない。どうしていいか分かんないんだよ、、。」

一体この男は
いつからこんな優柔不断に成り下がったのだろう。
いつでもハッキリとした答えを出して来たはずなのに。
私は思い切って決定打を口にした。

「私とあの女を選べないって事? それって都合良すぎだよ。どっちかにしてよ、もう、、。」

英司は目を瞑ったまま開こうとしなかった。
五年間付き合ってきた彼のそんな弱々しい姿を見たのは初めてだっったかもしれない。

「だったら私のところへ戻ってきて。もう一度やり直そうよ。私はいつでもあなたと一緒よ。」

彼は目を瞑ったまま私に抱きついて言った。

「分からない、どうしていいか分からないんだよ、、。」

私たちは互いに服を剥ぎ合いソファで抱き合った。
彼の固くなったペニスに股がり私の深いところへといざなってあげた。

「ねぇ、目を開けてよ。開けて! きちんと私を見てよ!」

その時、
私は今まで感じた事がないくらいの興奮をおぼえた。
自分を失いそうになりながら上下し続ける子宮に激しくあたるそれは
オルガスムスを迎えいつしか彼の白い精液は私の入口へ鏤められた。


「私たちって、セックスしてる時が一番相性がいいのかもね、、。」


 冷蔵庫から二本の冷えたビールを取り出し彼に渡した。
それをゆっくりと飲みながら英司と美樹子のセックスを思い描いていた。
私はこの男を本当に愛しているのだろうか。
英司は未だ目を瞑ったままビールを静かに飲み続けた。


   ***


 間もなく注文したビールを手にした私たちは再会を祝い乾杯した。
キンキンに冷えたキリンビールは最高に旨い。
英司もそれを飲んで「うめぇ~」と声をあげた。
半分ほど飲み干したジョッキをテーブルに置いた後、
彼はマジマジと私の顔を覗き込んだ。

「エリはいつ会っても変わらないな。」

「あなただって変わらないじゃん。何でそんなに痩せてられるのよ?」

英司はTシャツをかるく捲ってお腹を見せたが、
全く余分な肉がある気配もなかった。

「それ、嫌み? 私なんて随分太っちゃったからさ~」

「そんな事ないだろ。それにそんな事言ったら周りの女から非難ごうごうだぜ。エリはいつでもそのままでいいよ。」

変わらない英司の言葉に私は何だか穏やかな気分になった。
あの時も、
それまでもいつでも彼は「エリはそのままでいいよ」っと言ってくれた事を思い出していた。

「忙しいんでしょ? 急に誘ったりしてゴメンね。」

「いいんだよ、そんな事。たまにオマエの顔みないとダメみたいだしさ、俺。だから連絡くれて感謝してるよ。」彼は旨そうにビールを飲み干した。

店内に流れた『ドゥービー・ブラザース』を聞きながら二人でよく泳ぎに行った海岸を思い出していた。
彼は二杯目のビールを注文した。

「英司さ、もうバンドはやってないの?」

「あぁ、やってないな。足洗った訳じゃないけど、人の曲ばっかり作ったりいじったりしてるよ。」

「ふぅん、そうなんだ。最近、久しぶりにあなたの歌が聞きたくなっちゃってさ。昔のアルバム引っ張り出して聞いてたんだよね。」

英司は驚いて咽せた。

「なに? オマエまだ持ってんのかよ! てっきり全部捨てちまったもんだと思ってた。」

「あら、どうして? 確かにほとんどの思い出の品はすぐに捨てちゃったけどね。音楽って特別じゃない。」

「ま、そりゃそうだけど、ちょっと複雑だな、、。」

私たちはお互いに笑った。
不思議なものでいつの頃からかそんな昔話さえ笑い合えるようになった。
まるで付き合う前かのように。
私はカバンからコンパクトCDプレイヤーを取り出してを見せつけた。
それを見て彼は声をあげて笑った。

「ねぇ、歌えばいいじゃん!」

「歌えばいいじゃんって、オマエ、、? 忙しいんだよ、俺。今更何処で誰に向かって歌えっつんだか?」

「じゃぁ、私に歌ってよ。ウフフ。」

「ウフフじゃないだろうが。酔ってんだろ~? まったく。」

程よい酔いがまわってきた私たちは沢山のビールを飲み、
話し、笑い合った。



 人気のない不忍池は無風で
ただ真夜中の空に満月がぽっかりと浮かんでいた。
ベンチに腰を下ろしてそれを眺めながら私は英司の肩にアタマを寄せていた。
雲もない夜空は月を覆うこともなく光り輝き私たちを照らし続けていた。

「気がついたら、今まで沢山のものを失ったなぁって思うよ」珍しく彼はそんな事を呟いた。

「そうね、たしかに、、。」

「そういうのって取り戻せるものなんだろうかって最近考えるよ。結局、今でも答えの出口みたいなもんを探し続けてるんだろうな。」私は彼の顔を覗きこんで優しく言った。

「大丈夫よ。いつかきっと取り戻せるんじゃない。あなたらしく生きればね。」

そう言って唇をかさね私たちは長い間キスをした。

英司の言う出口とは何だろうか?

満月は私の入口をじっとりと濡らし
池の深い所へと流れはじめた。
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