答えの出口

藤原雅倫

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【第3章】公園のベンチ

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 肌寒い空気に吹かれながら、
ゆるやかな坂を昇った上にある公園を目指す。
若い頃は何とも思わなかったこの坂も、
老いた身体にはすっかり辛い道のりとなった。
先年、病院で宣告されたパーキンソン病は確実に私を蝕み、
最近はアタマで思考するような動きが鈍くなり始めている。
この先あと何回あの公園を訪れる事が出来るだろうか。
それでも身体がこうして動く限りは
あのベンチに腰を下ろして過ごしたい。

 やっとのおもいで辿りついた公園は
今日も清々しい太陽の光りを存分に浴びた木々が
僅かに秋の到来とともに緑色から燃えるような紅色へと変わりつつある。
私はこの時期が一番好きだ。
四年前に亡くした妻もそうであったように。
息子と娘が家族を持ち家を出て行ってからの退屈な時間を、
私たちはこの公園のベンチで一日中過ごしたのだ。
僅かな年金暮らしで唯一の楽しみが、
妻と二人で過ごしたここでの時間。
私たちが出逢った頃のたわいもない恋話しから子供らが生まれ育てた頃の思い出など。
年老いてもなお、
短い未来への希望や夢も語り合ったりしたものだ。

 ゆるやかな丘を越えた先のそのベンチを目指したものの、
今日も先客が一人座っている。
この数ヶ月何度か同じような事もあり諦めて引き戻ったりもしたが、
今日だけは相席になろうが腰を下ろしたい。
何故なら、
私自身が己の身体に蔓延している
不治の病の進行を理解しているからこそなのだ。
それにこんな老人を気にする人もそうはいないだろう。


「こちらに座ってもよろしいかな?」


見れば若い女がハッとしたように顔を上げ
「どうぞ。」と答えた。
若い時分なら知らぬ女性に気軽に声でもかけようなもの。
そんな老いた時分の生態を気にする事もなく
土手の向こう側に広がる毅然たる川の流れを見下ろした。
時代とともに移り変わる町並みであっても、
こうして見渡す川の流れだけは今も変わらない。

何て素晴らしい眺めだろう。

妻と出逢い幾度となく私たちはこの公園で会い
そしてこのベンチで私は結婚を求めた。
今のように立派な指輪なども贈る事もできずに
ただ心意な言葉だけをもって。
あの頃、
私たちは若かった。
貧しい生活の中で僅かな給与をきりもりし
二人の子供をも立派に育ててくれた妻。
そんな子供らが家を出て行った後も贅沢を臨まず、
ただこの公園のベンチで私と二人の時間だけを
毎日のとりえとしてくれたのだ。
私が孤独を忘れさせてくれる場所、
それがこのベンチだけであり
今でも隣に妻がいてくれる感覚が蘇ってくるのだ。
実際に夢か現実さえも理解できぬような妻の温もりさえ感じた事もあった。
年をとり過ぎて知らぬ間に
コンコンと居眠りをしている事さへ気付かずにいるとは。

もう私も長くはない。

早く妻のもとへ
と思う日々だけが繰り返される毎日でもある。

 気がつくと、
隣の女性が不思議そうな顔で私を眺めている事に気付いた。
あぁ情けない、
私は自分でも知らないうちにこうして今日もまた涙を流していたのだ。
これも年をとった証しか。
きっとそれを見て彼女は驚いたのだろう。

「年をとると色んな事を思い出すんでね。つい知らぬうちに涙が出てしまうのだよ。スマンね。」

彼女はカバンから取り出したハンカチーフを
何も言わずに渡した。
私はその好意に感謝しながら、
ありがたく乏しい涙を拭いた。

「こんな綺麗なハンカチを老人の涙で汚してしまったね。本当に申し訳ない。」

「いいえ。気になさらないでください。」

「あんた、時々このベンチに座っておるじゃろ。私もここは思い出の場所でしてな。あんたが座っとる時は邪魔せんようにと引き返しておったのだが、何せ病もあって今日はこうして相席させていただいた次第だよ。もう明日は来れんかもしれんしな。」

しばらく顔をうつむけた女性が
やっと「達三」の顔を見ながら呟いた。

「私、美樹子といいます。」

その言葉を聞いて達三は驚きに目を見開いた。
なぜならそれは妻と同じ名前であったからだ。
単なる偶然であろうが
今日の私にとっては恥ずかしながら
素晴らしい出逢いででもあるかのように高揚した。

「あんた、ミキコさんっていうのかね。はぁ、それは驚いた。私の亡き妻も同じ名前だったんじゃよ。これは驚いた。そうかそうか、あんたはミキコさんて言うんじゃね。」

長い真っすぐな黒髪が
その若さと美貌を引き立たせた美樹子の顔を
いっそう輝かせているように達三は思った。

「私もここに色んな思い出があるんです。きっとおじいさんほどではありませんが。知らないうちにここを横取りしちゃってすいません、、。」

「そんなこといいんじゃよ。ここは誰のモノでもないしな。あんたもわしもたまたま居心地が良い場所なんだし、たまたまこうして妻と同じ名前のあんたとここで隣同士になるのもまた嬉しい事です。もうわしも老いぼれですからね。若い娘さんと話せただけでも幸せなことですよ。それにこのベンチももうわしと一緒で老いぼれてしまったから、近いうちに役場が撤去するとの事です。先日もあそこにあったジャングルジムが錆びてしもうて撤去してしまったんです。もう、どれもこれも年老いて使い物にならんのでしょう。あんたが次に訪れた時はもしかしてここもすっかり無くなってしまうかもしれんね。悲しい話しだけどね。仕方が無いことなんじゃろう。どれもこれも老いぼれたからな。」

 達三が気をきかせて立ち上がった瞬間、
向こうに移る川の流れがグラグラと揺れ動き、
早まる鼓動に目を見開いた時、
彼女の声が木霊した。


「おじいさん!、おじいさん!」



   ***



 達三がゆっくりと重いまぶたを開くと、
青い空が一面に広がっていた。
しばらくそれを眺めてからゆっくりと上半身を起き上がらせて
周囲を見渡した時、
その左側にそびえ立つ巨大な壁がある事に気付いた。
すると微かに何処からか音が聞こえてきた。
耳を澄ましその音が何なのか確かめる様に目を閉じた時、
壁の向こう側からすすり泣きのような音が聞こえる事に気付いた。
咄嗟に立ち上がり壁に耳を押し付けた時、
それは確かに女性のすすり泣きであった。

「ミキコ、ミキコなのかね?」

達三はそびえ立つ壁に向かって
声をあげ再び耳をあてた。
向こう側ではまだすすり泣きだけが聞こえる。

「ミキコ、ミキコなんじゃろ、わしじゃよ、達三じゃよ!」

壁に拳を叩き付けながら
何度も叫んでみるがただ自分の声だけが壁に反響する。

「ミキコ!ミキコ! 今そっちに行くからな、待っておれ。今すぐ行くからな!」

それにしても一体この壁は何なのだろう。
何処にもドアが見当たらない。
壁沿いにあちらこちらと探しまわっていると次第に空が曇り始めた。
見ると当たりには群衆が押し寄せ
あっと言う間に達三は人混みの中に紛れてしまった!

「なんじゃこれは?一体何なんじゃ! ミキコ!ミキコ!今すぐ行くから待っておれよ! 誰か、誰か、あっちに行く扉を教えてくれんか!」

群衆は目を見開き
パニックに陥ったかのような表情で奇声を発しぶつかり合い、
達三の存在にも目もくれずに渦を巻き続ける。
すると突然耳をつんざくようなサイレンの音が鳴り響いた。
その音を聞いた瞬間、
達三の顔が蒼白した。

「何てことだ、何て恐ろしい事だ。信じられん、信じられん、これは、これは空襲警報じゃ!」

空は真っ赤に燃え上がり、
鳴り響く警報の中でもみくちゃにされながらも
必死に扉を見つけようと群衆の中を掻き分けていくが、
次々と折り重なるような状態の中では、
ただひたすら叫ぶ事だけで精一杯であった。

「ミキコ! 待っておれ! 待っておれ!」

恐ろしい事じゃ、何て恐ろしい事じゃ。
人々の声が木霊する中、
群衆は急に向きを変えてみな同じ方向へと走り去っていく事に気付いた時、
すぐそこに銃を手にした軍人達が
厳かに足並みを揃えてこちらへ向かって来ていた。

逃げねば。今すぐここを逃げねば!

止まない警報と軍隊の足音が恐ろしい雪崩のようにふりかかり
必死に逃げようとするが、
この壁の向こうにいる妻を助けねばという思いで、
いつしか達三もパニックに陥っていった。
じりじりと近づいて来る恐ろしい軍隊を目の前に、
達三はただその壁の向こうにいるミキコへ大声をあげ
血だらけになった拳を何度も何度も叩きつけた。

「あぁ、誰か助けておくれ。助けておくれ、、。ミキコや、ミキコや、、。」

荒れ狂う群集の中、
意識が朦朧としたその時、
かすかに自分を呼ぶ声が聞こえた。
誰かがわしを呼んでおる。

誰かが、、。
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