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大寒波の夜・1

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 シャルルは打ち棄てられた子供だった。

 無造作に放られ、屑籠の縁に当たって零れ落ちた紙屑のように。
 人の目の届かない部屋の片隅の、いつの間にか張られた綿みたいな蜘蛛の巣の下に溜まった埃のように。
 箒の一拭きでさっと取り去られる小さな蜘蛛の巣よりもひっそりと。
 ただじっと息を殺して、辛うじて生きている。
 そんな子どもだった。

 冬が近付くとすぐ、シャルルの住む暗く淀みを押し込めた部屋は、冷たく凍える夜を迎えるようになった。
 シャルルはこのところ、常に飢えてひもじい思いをしていたが、それと同じくらい、寒さを辛く感じていた。
 何もしなければ凍えるだけ。シャルルはかじかむ手で、放置された洗濯物の山から、引き出した布類を身に纏うと、少しだけましになることを発見した。
 お腹が減って腹が鳴ると、父親は煩わしそうに顔を顰めるか、機嫌が悪いとモノを投げるので、これも、どうしたら良いか考えた。最近のシャルルの食事は、学校の給食だけ。給食時に出されたパンを全部は食べずにおいて、こっそり持ち帰ったり、父親の食べ残しを取っておき、腹が鳴る前に口に含んで飢えを凌ぐことにした。

 空腹と寒さでなかなか寝付けないが、酔った父親が正体なく眠る頃になると、眠気が勝ってくる。
 暖を取れるものが何もない狭い部屋の片隅で、薄汚れた衣類と、骨の浮いた細い身体の間に生まれた温もりを逃がさないように、掻き抱いた布に身をうずめて凍える夜を過ごし、空腹と寒さに苛まれながら浅い眠りを繰り返して朝を迎える。
 早朝、ぱちりと目を覚ますと、手放せば儚く冷める温もりが残る衣類の中から、ほつれの少ない、出来るだけましなものを選んで着替え、音を立てないように注意を払いながら家を出る。
 どんなに慎重に押しても、ギィ、と錆びた金具と建具が立てる耳障りな音に怯えながらパタリと戸を閉め、額を冷たい戸板に当て、抜け出したばかりの中の気配を探る。はたとも動く空気を感じない事に細く息を吐いて、少しだけ肩の力を抜く。そろりそろりと後退し、キィキィと事切れる寸前の甲高い音を力なく立てる錆びた鉄階段を一段飛ばしに降り、早朝の街を幽鬼のように彷徨う。

 頬も耳も鼻先も指先も赤く腫れ、カサカサに乾きひび割れた肌のあちこちから滲んだ血が赤黒くこびりつき、風が吹くたびに小さく鋭い痛みがシャルルを苛む。それでも、モノをぶつけられたり殴られるよりはずっとマシなので、シャルルは毎朝寒空の下へ彷徨い出る。
 先日、ふらりと立ち寄った公園で、焚火をしている大人たちを見掛けて近付くと、幾人かがちらりと淀んだ目を向けただけで、追い払われる事もなかった。ここ数日は、暖の取れるぎりぎりの距離で学校の門が開く時間まで身を屈めて待っている。
 今朝は、良い事があった。きゅう、と腹から出た音を聞いた大人の一人が、パンを一かけら投げて寄越した。震える指先でカビをこそげ落とし、小さく千切ってゆっくりゆっくり噛み、こくりこくりと飲み込んだ。

 そろそろ門の開く時間だと、シャルルは公園の時計を確認した。時計はまだ読めないが、長い針と短い針の形を覚えた。
 シャルルは、口の中に残っていたパンの成れの果てを喉につかえつかえ飲み込んで立ち上がった。

 学校は、シャルルにとって生と死だ。
 シャルルは、今年、小学校へ入学した。そして、どうやら早々に失敗したらしかった。

 同じ年頃の子どもたちがたくさん同じ教室にいて、一緒に遊べるのではと期待でドキドキしたのは最初の数日だけだった。恥ずかしがり屋で、人見知りのシャルルが、どうしたら仲良く出来るだろうかとまごまごしている内、やがて何人かの子供が、シャルルを見ては顔を顰めて遠巻きにし、近付こうとしなくなった。自分からは話し掛ける勇気もなく、自分の席か教室の隅でじっとしている内、誰からも距離を置かれ、今は恐らく、避けられている。

 学校へ通い始めてどのくらい経った頃だろうか。気が付くと母親が姿を見せなくなった。元々夜毎酒を飲んで荒れる父親を厭って帰ってこない事の多い母親だったが、父親とシャルルに対する愚痴を零し、煩わし気にだが、シャルルの世話をしてくれてはいた。それも絶え、家の中はますます荒れて行き、シャルルの様相も家の中の様子に比例していった。母親は、言っていた通り、もう嫌になって、世話をするのをやめたので、家には帰ってこなくなったのだとシャルルは理解した。シャルルはじわりと胸に広がる痛みに耐えた。

 同級生たちは、シャルルが視界に入ると顔を顰め、鼻を覆い、離れる。シャルルはぼんやりと、どうやら自分に原因があるのだと察したが、それ以上は分からなかった。もし分かっても、その原因を取り除く術は思い浮かびそうもなかった。
 シャルルが独りなのはいつもの事なので、それはそれとして疑問にも思わなかったが、他の子どもたちは様々に言葉を交わし、手を合わせたり体をぶつけ合ったりしているのを不思議に感じた。
 こんなにたくさんいるのに、自分にだけは誰も構わない。
 その事実にどうしてか胸が苦しくなった。最近は特に胸に刺さる棘のようなものが増えた。はしゃいで遊ぶ子どもたちの声に、教室の隅で耳をそばだて、シャルル以外となら、特に何の意味も持たないように思える会話を繰り返すのに、何故みんなは自分とは話してくれないのかしらと、閉じた眼の奥で考える。
 まだ答えは見つからない。
 きっと自分は、母親がよく言ったように頭が悪いのだろう、シャルルはそう考えて、また胸がじくりと痛んだ。

 教室の片隅で沈黙の海に沈む事は、家でも息を潜めて時を過ごす日常を送るシャルルにとってはいつもの事だ。しかし、笑い合い、楽し気に遊ぶ子どもたちの喧騒の輪の外にいるのは、喧騒は同じでも、外からの雑多な音から取り残されたような、狭く淀んだ自宅の部屋の片隅で過ごす時間よりも苦痛に感じて、シャルルは何故だろうとよく考える。
 身体の痛みと心の痛みの区別を、シャルルは持たなかったが、それらはそれぞれに違うものだと感じていた。
 胸の辺りに滲む心の痛みは、傷口や叩かれたところからくる痛み程、衝撃的で強くはないが、より辛い。身体の痛みはいずれ消えるが、心の痛みは消えていかない。一時忘れる事はあっても、気が付けばまた痛い。
 常に苦痛に囚われているが、それに耐える事が出来るのが、シャルルに出来る唯一だった。
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