66 / 105
13.好きなものを好きだと思うのは悪いことなの?
一箇所穴が余っているのは何故かしら?
しおりを挟む
「かなり少ないって……実際には何本くらい作っていらっしゃるのですか?」
純米吟醸波澄の出荷数が年間六千本。それでも市場に潤沢には卸せないのだと善蔵がこぼしていたのを思い出した日織だ。
それより少ない本数とは何本ぐらいなんだろう?と純粋に思ってしまった。
「年間二百いきません」
六千本でも限られた場所にしか卸せないらしいのに、二百本では流通自体無理だと言われても納得だ。
「あの、でも……どうしてそんな……」
「少ない数しか作れないのか?って思ったんでしょう? それはね、大吟醸の波澄が、〝雫取り〟にこだわった〝雫酒〟だからだよ」
雫取りは醪を酒袋に入れて吊るし、一切の力を加えずに長時間かけて一滴一滴重力で自然に落ちる雫酒を集めた希少なお酒のことだ。
日織はそれを以前懇意にしている酒屋さんで聞いたことがある。
雫取りをした雫酒は、香りの華やかさを追求した大吟醸の〝極み〟と言われているのだ、とも。
「いつか私も飲んでみたいのですっ」
フルーティーで華やかな吟醸香を想像して、日織は我知らずゴクリと喉を鳴らしてしまっていた。
「日織ちゃんは本当に日本酒が好きなんだね」
その音を聞きつけられたとは思いたくないけれど、そんなタイミングで一斗に眼鏡の奥の目を細めてニコッと微笑みかけられて、日織は愛する修太郎をふと思い出してドキドキしてしまう。
そのせいで脳がバグを起こしたみたいに
「好きですっ! 大好きなのですっ!」
そう思わず勢い込んで答えてしまってから、それが日本酒に対してなのか、修太郎を想ってのことなのか自分でも分からなくなって、日織はほわりと照れてしまった。
「僕のことじゃないって分かってても、こんな間近でこんな可愛い子から真っ直ぐに『好き』って言われちゃったらドキドキしちゃうね」
クスクス笑われて、日織は余計に頬が熱くなってしまった。
***
「で、ようやくこれの話が出来ます」
一通り波澄の大吟醸についてレクチャーを受けた日織に、一斗が小さなガラス製のお猪口が二つ並んだ木製トレイを持って出てくる。
お猪口の底には紺色の蛇の目模様が描かれていて、それが利き酒セットなのだと日織はすぐに分かった。
お猪口は丸い穴の空いた横長の木箱に一つずつキチッとはめられていて、木箱の方には「吟醸」「大吟醸」の札が付いていた。
(一箇所穴が余っているのは何故かしら?)
そんなことを思ってキョトンとする日織に、
「普段羽住酒造の利き酒は二種だけなんだけどね、秋の間だけ〝ひやおろし〟が入って三種になる。そこの穴はそのときに埋まるんだ」
そこまで言ってから「あ、ひやおろしは知ってる?」と問いかけてきた一斗に、日織は「もちろんなのですっ」とうなずいた。
「秋あがり」などとも呼ばれる「ひやおろし」は、冬から春に造った新酒に火入れして蔵内に寝かせておいたものを、秋頃に二度目の火入れをせず「冷や」のまま卸す日本酒のことだ。
時間を置くことで熟成されたひやおろしは、新酒に比べると角のとれた穏やかな香りとまろやかな味わいが特徴だと言われている。
波澄のひやおろしは毎年九月の下旬頃に出回り始め、十月の半ばには売り切れて市場から姿を消すらしい。
今はまだ肌寒い三月。
二月の終わりに出た新酒が店頭に少しだけ残っているけれど、さすがにひやおろしはもうないのだとか。
純米吟醸波澄の出荷数が年間六千本。それでも市場に潤沢には卸せないのだと善蔵がこぼしていたのを思い出した日織だ。
それより少ない本数とは何本ぐらいなんだろう?と純粋に思ってしまった。
「年間二百いきません」
六千本でも限られた場所にしか卸せないらしいのに、二百本では流通自体無理だと言われても納得だ。
「あの、でも……どうしてそんな……」
「少ない数しか作れないのか?って思ったんでしょう? それはね、大吟醸の波澄が、〝雫取り〟にこだわった〝雫酒〟だからだよ」
雫取りは醪を酒袋に入れて吊るし、一切の力を加えずに長時間かけて一滴一滴重力で自然に落ちる雫酒を集めた希少なお酒のことだ。
日織はそれを以前懇意にしている酒屋さんで聞いたことがある。
雫取りをした雫酒は、香りの華やかさを追求した大吟醸の〝極み〟と言われているのだ、とも。
「いつか私も飲んでみたいのですっ」
フルーティーで華やかな吟醸香を想像して、日織は我知らずゴクリと喉を鳴らしてしまっていた。
「日織ちゃんは本当に日本酒が好きなんだね」
その音を聞きつけられたとは思いたくないけれど、そんなタイミングで一斗に眼鏡の奥の目を細めてニコッと微笑みかけられて、日織は愛する修太郎をふと思い出してドキドキしてしまう。
そのせいで脳がバグを起こしたみたいに
「好きですっ! 大好きなのですっ!」
そう思わず勢い込んで答えてしまってから、それが日本酒に対してなのか、修太郎を想ってのことなのか自分でも分からなくなって、日織はほわりと照れてしまった。
「僕のことじゃないって分かってても、こんな間近でこんな可愛い子から真っ直ぐに『好き』って言われちゃったらドキドキしちゃうね」
クスクス笑われて、日織は余計に頬が熱くなってしまった。
***
「で、ようやくこれの話が出来ます」
一通り波澄の大吟醸についてレクチャーを受けた日織に、一斗が小さなガラス製のお猪口が二つ並んだ木製トレイを持って出てくる。
お猪口の底には紺色の蛇の目模様が描かれていて、それが利き酒セットなのだと日織はすぐに分かった。
お猪口は丸い穴の空いた横長の木箱に一つずつキチッとはめられていて、木箱の方には「吟醸」「大吟醸」の札が付いていた。
(一箇所穴が余っているのは何故かしら?)
そんなことを思ってキョトンとする日織に、
「普段羽住酒造の利き酒は二種だけなんだけどね、秋の間だけ〝ひやおろし〟が入って三種になる。そこの穴はそのときに埋まるんだ」
そこまで言ってから「あ、ひやおろしは知ってる?」と問いかけてきた一斗に、日織は「もちろんなのですっ」とうなずいた。
「秋あがり」などとも呼ばれる「ひやおろし」は、冬から春に造った新酒に火入れして蔵内に寝かせておいたものを、秋頃に二度目の火入れをせず「冷や」のまま卸す日本酒のことだ。
時間を置くことで熟成されたひやおろしは、新酒に比べると角のとれた穏やかな香りとまろやかな味わいが特徴だと言われている。
波澄のひやおろしは毎年九月の下旬頃に出回り始め、十月の半ばには売り切れて市場から姿を消すらしい。
今はまだ肌寒い三月。
二月の終わりに出た新酒が店頭に少しだけ残っているけれど、さすがにひやおろしはもうないのだとか。
0
お気に入りに追加
32
あなたにおすすめの小説
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
甘い束縛
はるきりょう
恋愛
今日こそは言う。そう心に決め、伊達優菜は拳を握りしめた。私には時間がないのだと。もう、気づけば、歳は27を数えるほどになっていた。人並みに結婚し、子どもを産みたい。それを思えば、「若い」なんて言葉はもうすぐ使えなくなる。このあたりが潮時だった。
※小説家なろうサイト様にも載せています。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。
海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。
ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。
「案外、本当に君以外いないかも」
「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」
「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」
そのドクターの甘さは手加減を知らない。
【登場人物】
末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。
恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる?
田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い?
【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
お見合いから始まる冷徹社長からの甘い執愛 〜政略結婚なのに毎日熱烈に追いかけられてます〜
Adria
恋愛
仕事ばかりをしている娘の将来を案じた両親に泣かれて、うっかり頷いてしまった瑞希はお見合いに行かなければならなくなった。
渋々お見合いの席に行くと、そこにいたのは瑞希の勤め先の社長だった!?
合理的で無駄が嫌いという噂がある冷徹社長を前にして、瑞希は「冗談じゃない!」と、その場から逃亡――
だが、ひょんなことから彼に瑞希が自社の社員であることがバレてしまうと、彼は結婚前提の同棲を迫ってくる。
「君の未来をくれないか?」と求愛してくる彼の強引さに翻弄されながらも、瑞希は次第に溺れていき……
《エブリスタ、ムーン、ベリカフェにも投稿しています》
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる