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お母さんとの約束
忘れてくれて大丈夫だから
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電話の先。
微かになおちゃんの背後で、彼以外の人の息遣いと、衣擦れの音が聞こえた気がして――。
ほんのちょっと胸の奥がチクンと痛む。
(きっとなおちゃんの奥様はいつもこんな気持ちだったんだ)
なおちゃんと共に過ごした長い年月の中。彼と一緒にいる時に奥様から連絡が入ったことも、一度や二度じゃない。
そのたびに、私はなおちゃんのそばで息を殺して気配を消していたのだけれど。
(案外そういう空気感って伝わるものなのね)
そう気付いたら、私には痛みを感じる資格すらないんだって改めて自覚させられた。
「なおちゃん、さっき中断した話の続き、手短に伝えちゃうね。私、なおちゃんと別れたい。――ううん、別れるから」
『――おい、菜乃香。そんなの電話じゃ』
「電話で十分だよ、なおちゃん。私、もう二度となおちゃんには会わないって決めたの……。だからお願い。なおちゃんも……、もうこれ以上罪を重ねないで? 奥さんを……悲しませないで?」
奥さんと言う言葉を発した途端、私の隣でタツ兄がギュッと身体を固くしたのが分かった。
そりゃそうだよね。
不倫してる女なんて最低だもん。
だけどそれを隠したままタツ兄の優しさに付け込むなんてこと、私には出来そうになかったの。
きっと傷つけたよね。ごめんね、タツ兄。
貴方が好きだと思いを寄せてくれている女は、妻子ある男性と付き合えるような、そんな人間なんです。
それを踏まえた上で、もう一度私のことを見詰め直してもらえたら。
そう思っているの。
***
電話を切って小さく吐息を落としたと同時。
「なのちゃん、今の電話の相手って……」
すぐ隣からタツ兄の声がした。
「彼氏……だった、人……」
恐る恐る答えた私に、タツ兄の静かな視線が刺さる。
分かってる。タツ兄が聞きたいのはそこじゃないよね。
「……で、妻、帯者……」
観念したようにそう付け加えたら、喉の奥がヒリヒリと張り付いたように声が掠れた。
お母さんにはこちらの不注意でなおちゃんとのことに気付かれてしまったけれど、タツ兄は違う。
私はタツ兄にはわざと、なおちゃんとの関係は不倫だったのだと聞いてもらったんだもん。
「幻滅、した……よね」
タツ兄が黙り込んで口をきいてくれないことに耐え切れなくなった私は、自嘲気味につぶやいてタツ兄の様子をうかがった。
でも。
しばらく待ってみてもタツ兄はやっぱり何も言ってはくれなかったから。
「伝えなくてもいいことをあえてバラして……嫌な思いをさせて……ごめんね。でもね……私」
そういうのを隠したまま、何食わぬ顔でタツ兄の胸に飛び込むなんてこと、出来なかったの。
そう続けようとして。
(そんなことを彼に伝えて何になると言うんだろう?)
そう思ったら言葉が出てこなくて……。
私はタツ兄から視線を逸らさずにはいられなかった。
「あの……前に告白してくれたの、忘れてくれて大丈夫だから」
消え入りそうな声音でそう言うと、私はそっと席を立った。
そのままタツ兄に背中を向けてゆっくりと歩き出して。
ロビーの出口に差し掛かったところでポロリと涙が頬を伝ったことに自分自身で驚いた。
なおちゃんにサヨナラを告げた時には出なかった涙が、何で今頃あふれてきたんだろう。
ゆっくりと歩を進めながら、次から次に流れ落ちてくる涙に、私は自分の気持ちが全然分からなくて。
ただ頭の中でぼんやりと。
(お母さんごめんね。私、さっきしたお母さんとの約束、何ひとつ果たせそうにないよ)
そう思った――。
微かになおちゃんの背後で、彼以外の人の息遣いと、衣擦れの音が聞こえた気がして――。
ほんのちょっと胸の奥がチクンと痛む。
(きっとなおちゃんの奥様はいつもこんな気持ちだったんだ)
なおちゃんと共に過ごした長い年月の中。彼と一緒にいる時に奥様から連絡が入ったことも、一度や二度じゃない。
そのたびに、私はなおちゃんのそばで息を殺して気配を消していたのだけれど。
(案外そういう空気感って伝わるものなのね)
そう気付いたら、私には痛みを感じる資格すらないんだって改めて自覚させられた。
「なおちゃん、さっき中断した話の続き、手短に伝えちゃうね。私、なおちゃんと別れたい。――ううん、別れるから」
『――おい、菜乃香。そんなの電話じゃ』
「電話で十分だよ、なおちゃん。私、もう二度となおちゃんには会わないって決めたの……。だからお願い。なおちゃんも……、もうこれ以上罪を重ねないで? 奥さんを……悲しませないで?」
奥さんと言う言葉を発した途端、私の隣でタツ兄がギュッと身体を固くしたのが分かった。
そりゃそうだよね。
不倫してる女なんて最低だもん。
だけどそれを隠したままタツ兄の優しさに付け込むなんてこと、私には出来そうになかったの。
きっと傷つけたよね。ごめんね、タツ兄。
貴方が好きだと思いを寄せてくれている女は、妻子ある男性と付き合えるような、そんな人間なんです。
それを踏まえた上で、もう一度私のことを見詰め直してもらえたら。
そう思っているの。
***
電話を切って小さく吐息を落としたと同時。
「なのちゃん、今の電話の相手って……」
すぐ隣からタツ兄の声がした。
「彼氏……だった、人……」
恐る恐る答えた私に、タツ兄の静かな視線が刺さる。
分かってる。タツ兄が聞きたいのはそこじゃないよね。
「……で、妻、帯者……」
観念したようにそう付け加えたら、喉の奥がヒリヒリと張り付いたように声が掠れた。
お母さんにはこちらの不注意でなおちゃんとのことに気付かれてしまったけれど、タツ兄は違う。
私はタツ兄にはわざと、なおちゃんとの関係は不倫だったのだと聞いてもらったんだもん。
「幻滅、した……よね」
タツ兄が黙り込んで口をきいてくれないことに耐え切れなくなった私は、自嘲気味につぶやいてタツ兄の様子をうかがった。
でも。
しばらく待ってみてもタツ兄はやっぱり何も言ってはくれなかったから。
「伝えなくてもいいことをあえてバラして……嫌な思いをさせて……ごめんね。でもね……私」
そういうのを隠したまま、何食わぬ顔でタツ兄の胸に飛び込むなんてこと、出来なかったの。
そう続けようとして。
(そんなことを彼に伝えて何になると言うんだろう?)
そう思ったら言葉が出てこなくて……。
私はタツ兄から視線を逸らさずにはいられなかった。
「あの……前に告白してくれたの、忘れてくれて大丈夫だから」
消え入りそうな声音でそう言うと、私はそっと席を立った。
そのままタツ兄に背中を向けてゆっくりと歩き出して。
ロビーの出口に差し掛かったところでポロリと涙が頬を伝ったことに自分自身で驚いた。
なおちゃんにサヨナラを告げた時には出なかった涙が、何で今頃あふれてきたんだろう。
ゆっくりと歩を進めながら、次から次に流れ落ちてくる涙に、私は自分の気持ちが全然分からなくて。
ただ頭の中でぼんやりと。
(お母さんごめんね。私、さっきしたお母さんとの約束、何ひとつ果たせそうにないよ)
そう思った――。
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