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許婚からの申し出

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 私には許婚いいなずけがいるのだと幼い頃から聞かされて育ってきた。
 何でもお父様の会社が経営難だったときに助けて下さった方の御子息らしい。
 私より四つ年上で、今現在二十四歳だという彼とは、幼い頃に何度かお会いしたことがある程度。余りにも昔すぎて、その人といずれは結婚するのだと言われても、私にはいまいちピンときていなかった。
 第一顔すら思い出せない人なのだ。

日織ひおり、聞いているのか?」
 お父様に呼ばれて短大卒業後の身の振り方を聞かされていた私は、その話で出た許婚の方のお名前に、ぼんやりと考え事にふけってしまっていた。
 幼い頃から空想や物語が大好きで……油断するとつい心ここに在らずになってしまう。それが私のいいところでもあり、悪い癖でもあるのだと、母にはいつも笑われている。

「ごめんなさい、お父様。健二さんが……何て?」

「お前はずっと箱入り娘で、余りにも世間ずれしていないから、このまま嫁にもらってしまうのは不安なんだそうだ。それで、半年ほど市役所で臨時職員として働いて、少しだけでも世間の荒波に揉まれて欲しいとのことだ」
「市役所……?」
 公務員試験も受けていない私が入れるものなのかしら?
 そう思って父の言葉をつぶやくように繰り返すと、
「試験を受けずとも臨時職員にはなれる。働き先が市役所なだけで……扱い的にはバイトみたいなものだから安心しなさい。それに――」
 もう、話はつけてあるのだ、と父は言った。

「明日、施設管理公社の事務所に連れて行くから、お前はそこで面接だけ受けてきなさい」
 父の口ぶりから、どうも形だけの面接を受けて市役所に入庁しなさい、ということらしかった。

「私でも務まりますか?」
 今年で二十歳はたちになったけれど、恥ずかしい話、私は生まれてからこの方、一度も外へ働きに出たことがない。
 人並みにパソコンは扱えるけれど、それを実践で生かせるか?と聞かれると、途端に不安になってしまう。そんな有様で――。

「そこはそれ、ちゃんと市役所の方々が教えて下さるはずだ。行く前からあれこれ気にしすぎるのはお前の悪い癖だぞ」
 そういう、心配性なところは父親譲りらしい。お母様が、前に「自分と似たところは気になるものなのよ」と教えて下さったことがある。

 ちなみに空想好きは……記憶にないくらい昔に、見知らぬお兄さんに本の楽しさを教えて頂いた時からだと記憶している。
 健二さん同様、お顔を思い出そうとすると霞がかかってしまって無理だけれど……大きな手の、穏やかな声の人だった。
 あの方が読んでくださった物語は、とても心地よく空気を震わせて……私はあっという間に物語の中に入り込めたのだ。
 本の世界は何て楽しいんだろう、って目の前が一気にキラキラと輝くような気持ちになったことを、私は今でも鮮明に思い出せる。

 いつどこで出会った、どなただったのかしら?

 彼が物語を読み聞かせて下さったお声は思い出すことが出来るのに、その他のことはほとんど思い出せないなんて……何だかとっても情けない。

 健二さんもあんなお声だったらいいのに。
 ふと、そんなことを思ってしまった。

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