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(3)異形の男と、人間の女*

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 しんと迎えた七度目の夏――。
 灼熱の太陽が招くのか、今夏も例年通りびょうびょうとたけり狂う強風を引き連れて、大雨が大地を叩く台風ぐふうの季節が到来した。

 だが今年は例年と違って、まだ一度も心配するような大きな颶風ぐふうに見舞われてはいなかった。


 最初の内こそ一人ではほこらから続く屋敷の外へ出られなかった山女やまめだけれど、ここに住み始めて程なくして、辰から爪の先程の小さな銀色のうろこを一枚手渡された。
 角度を変えると虹色にも輝くそれを、首に下げる巾着とともに小さなてのひらへ握らされて。
 その鱗を身に着けてさえいれば、一人で土間の先にある扉を抜けて外へ出ても、祠を通じてここへ戻って 来られると辰から申し添えられた。

 それは、同時にこの鱗を身に着けず外へ出てしまえば、山女は自力では二度とここへ戻ってくることは叶わない事を意味していた。

 鱗を手渡されて以来、天候の良い日は辰が留守をしていても、日中は彼と食べるために川で魚を獲ったりして過ごす事が出来るようになった山女だ。

 けれど、いつも大荒れの日ともなると、決して屋敷の外へ出てはいけないよ?と辰からきつく申し渡されてしまう。

 その癖そんな台風おおかぜの時にはいつも、辰は山女を残して必ず外へ出て行くのだ。

 ここ数年、それが心配で堪らなくなってしまった山女にとって、穏やかな天候が続く今夏は、自然と心をがせてくれた。


 颶風ぐふうが来ると、風だけではなく雨も強まるから、当然川の水嵩みずかさも増す。

 辰はここら一帯を統べる龍神様だから、台風のわきの際に屋敷をあけるのは当然なのだが、実は数年間一緒にいても尚、山女には辰が人にしか見えていない。
 だからだろうか。一人だだっ広い屋敷の中、辰の帰りをまんじりともせず待っていると、辰が大水に呑まれて死んでしまう想像ばかりしてしまう。

 もちろんにえとしてここへ来たばかりの頃は、山女だって確かに辰を異形の者として認識していたし、畏怖いふの念さえ抱いていた。

 だが、年々その思いは薄れる一方なのだ。

 目の前でいくら人智の及ばぬ事をされても、それが余りに日常になり過ぎたからだろうか。
 只人ただびとではそんな事出来ようはずもないと思う感覚ですら、どこか麻痺してしまった山女だ。

 それは、辰が山女の前では一度も本来の姿になった事がないからに他ならないのだが、そんな山女が強いて辰に自分と違う所を見出すとすれば、それは辰が男でおのれが女と言う事くらい。

 山女の中、長い年月を掛けて自分を庇護し、甘やかしてくれた辰に対して、子が親に抱くしたわしい気持ちばかりが育っていった。

 家族愛に似たその感情は、六年の歳月を経て、今では恐らく――。


***


 山女やまめと過ごす七度目の夏は、珍しく本格的な荒れ模様もないままに晩夏の頃を迎えた。

 そうしてとうとう今日。
 今年初めてになる一際ひときわ大きな野分のわきが到来して――。

 常のように、「俺は出てくるからお前は決して外に出ぬように」と告げて土間に立った辰だったのだが。

「嫌です!」

 即座に山女にそんなことを言われて、背後からギュッと抱き付かれてしまった。

 六年余りの歳月を経て、一四〇センチ4尺6寸あまりから一五四センチ5尺ちょっとまで背丈が伸びた山女だったけれど。
 辰との身長差は未だに二〇センチ7寸ばかりひらいている。

 いつもならばもっと低い位置に来るはずの山女の身体が、しかし、今は上がりかまちの段差で高低差を埋められていて。
 ギュッとしがみつかれた背中に、山女の温かな体温と柔らかな乳房の膨らみを感じた辰は、グッと唇を噛んだ。

我儘わがままを申すな。野分のわきの日に俺が外に出ねばならん理由は、お前にも分かっておろう?」

 いつの間にか少女から大人の女性へと成長してしまった山女の身体つきの変化に、辰は戸惑うことが増えた。
 それを気取られないよう声を低めてみたけれど、背後の山女は一向に自分から離れる気配がなくて。

 子供にとっての六年が、自分にとってのそれとは流れ方が違うと言う事をすっかり失念してしまっていたのを心底後悔した辰だ。

 これは取り返しがつかなくなる前に、彼女を手放さなければいけない、と思って。

 山女が郷里から辰への供物くもつ――花嫁――として贈られて来た事は重々承知しているけれど……それでも尚その上で。
 辰は自分の欲望で山女の未来しあわせを奪う様な真似だけはしたくないと常々思ってきた。


「でもっ。辰様に何かあったらって思ったら……私、気が気じゃないんです! だからお願いします。――行かないで下さい」

 なるべく穏やかな声音で――だがしっかりとさとしたつもりだったのに、一向に引こうとしない山女に、辰は小さく吐息を落とすと、腰に回された彼女の細い腕を力づくでほどいた。

 そうしてそのまま山女の方を向き直ったら、存外近くから涙の溜ったうるみ目で自分を見上げる山女と目が合ってしまった。
 その瞳は、今まで自分を父親のように慕って見上げてきた雛鳥ひなどりの表情とは違って、紛れもなく〝女〟のそれだったから。
 しんは思わず山女やまめを腕の中に掻きいだきそうになって、グッと両手に力を入れてその衝動を堪える。


「なぁ山女。何故今日に限ってそんなに聞き分けがない」

 天が荒れるたび、辰は幾度も幾度も今みたいに山女を置いて外へ出てきた。

 今までならば寂しそうな顔をしながらも、山女はちゃんと辰の言いつけを守ってきたのに。
 今回それが出来ないと言うからにはきっと、山女なりの理由があるに違いない。

「理由はさっきお話した通りです。こんな大荒れの日に外へお出になられるとか。狂気の沙汰としか思えません。私は……辰様が心配で仕方がないのです」

 言いながらポロリと涙をこぼした所を見ると、それは偽りではないらしい。

 だが――。

「お前、何か失念しておらんか? 俺はこのほこらを守る者ぞ?」

 人ならざる力を持つ者が、山女の言う様に嵐の日に外へ出たからと言って、危険な目に遭おうはずがない。

 そう含ませてみたものの――。

「私には辰様が、何ら私と違って見えないのです!」

 ぎゅぅっと腕にしがみ付かれてハラハラと涙を落とされた辰は、小さく吐息を落とした。

 山女はここへ来たばかりの頃、辰のことを「ただの人にしか見えない」と言ってくれた事がある。
 辰は山女が来るまでの約十年間、人とまともに交わってこなかったから、久々にやって来た小さな少女の事を怖がらせたくないと思って。

 以来、ずっと自分の人ならざる部分を、彼女には敢えて見せないように過ごしてきたのだ。
 だが、どうやらそれがあだになってしまったらしい。
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