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花ぞ昔の香に匂ひける

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◇ ◇ ◇ ◇


「おい、分かってるな?」


 さる御方の目を盗み、夏生さんに耳元でささやかれる。


「ひゅぅぅぅっ。……あ、あい」
よだれ垂らしながら返事されてもなぁ」


 綾芽が私の口元にハンカチを押し当てようとすると、反対隣にいた櫻宮様がそのハンカチを引ったくった。そして、代わりにゴシゴシと拭ってくれる。
 兄弟の見事な連携プレーだね!なんて言ってる余裕、今の私にはない。

 だって、目の前にとびきり美味しそうな料理がのった皿が所狭しと並べられているのだ。しかも、どこから聞きつけたのか、私の好物が端から端まで。これで涎を垂らすなと言う方が土台無理なお話というものでしょう?

 それでも、ちゃんと返事はしたのに、食べ物に関することではいつもながらに私の信用度は地に落ちる。海斗さん曰く、「ゼロ? 馬鹿言え。ゼロの底を突き破ってマイナスだ、マイナス」なんだとか。

 普段は味方であるはずの劉さんも、私の背後に回り、私の手を後ろに回してそのままキュッと握ってきた。確かに、こうしていれば、無意識のうちに手が料理に伸びて、皆が止める間もなく口にいれるということもない。

 もはや、私にとって拷問ごうもんに等しい。


 こんな半ば泣きたくなってくる羽目になるまで、さかのぼる事、数十分。

 朝一で例の島に向けて出港した私達は、昼前には無事到着することができた。天気も良く、途中で波が荒れることもなく、順調そのものだった。
 ただ、今まで長時間の船旅はもちろんのこと、船に乗ってどこかに行った試しがなかったから、船酔いしたらヤダなぁーって思っておにぎりだけ食べてたら、やっぱりですよ。船を降りた瞬間、止まらぬお腹の虫の大合唱。もう、虫だけに一匹では無視されると仲間を集めて数で訴えてきた。


「かおるおにーちゃまぁー、おなかすいたぁ」
「お腹空いたなんて今言われたって……すぐ食べられるような物はもうないし。携帯用コンロで簡単に作るから、ちょっと待ってて」
「なるはやでね? すぐよんでね? ……あっ」
「なに?」
「おなかとせなかがくっつきそう」
「よし、だいぶ待たせても大丈夫そうだね」
「うそうそ! いや、うそじゃないけど、うそなの! ちがうのっ!」
「あーはいはい、分かったから」


 船から降ろした荷物のうち調理器具が入ったものをあさりつつ、薫くんは他にも何人か来ている調理人のお兄さん達と話し込んでしまった。
 荷物の整理を手伝ったらもっと早く作ってくれるかなって思ったけど、邪魔だから目の届く範囲で遊んでなさい、だって。ちょっと悲しみ。

 仕方ないから、櫻宮様と一緒にそこら辺を見て回ることにした。相変わらずお腹の虫は煩いけど、ないものはないんだし、諦めと我慢を覚えてもらわなきゃ。

 さらさらとした砂浜に足跡をつけて遊びながら、底まで見える透明度の高い海へと目をやる。足を止め、どこまでも続く青をながめていると、自然と溜息が出た。


「うみってほんとにきれいだねぇ」
「他に海を見たことは?」
「うみはない、かな。みずうみとかはあるけど」
「ふーん。もう少し暖かくなったら泳げるから、また一緒に来ましょうね」
「うん! あ、すいかわり! すいかわりやりたい!」


 それか、潮干狩りでも可!っと言おうとして櫻宮様の方へ顔を向けると、さっきまで乗っていた船をつけている桟橋さんばしに、いつの間にか女の人が立っているのが見えた。すごくヒラヒラした服を着てて、まるでほら、天女様が着ているような、奈良時代とかその辺りの女の人が着ているようなやつ。

 その女の人が私達の傍までスススッと滑らかに寄ってきた。桟橋は木でできているから足音が響くはずなのに、その女の人の足音は全くしない。


「……えぇっと、しつれいかもしれなくて、さきにあやまります。ごめんなさい。それであの、いきて、いらっしゃる?」
「主様がお待ちです。共に参られませ」
「はい、か、うなずくか、ってこたえがほしかった。……あるじさまって?」
「さぁ、お早く」
「あっ、ちょっと!」


 ぐいぐいと手を引っ張られ、空いた片手が咄嗟とっさに掴んだのは隣にいた櫻宮様の服だった。皆からそう離れていなかったことが幸いしたのか、綾芽達もすぐに駆け寄ってきてくれた。
 そして、櫻宮様の腕やら腰やらを帝様と綾芽がつかみ、帝様のもう片方の手を橘さんが、そして橘さんの手を夏生さんが……という風にあれよあれよと繋がっていき。


「あら? 予定よりも」
「多くはない!」
「主様とやらも、招待客が多い方が楽しんでいただけるのでは?」
「……なるほど。では、全員お連れいたしましょう」


 結局、その近辺にいた皆が一緒くたに巻き込まれた。


 そして、今に至るわけですが。


「いやぁ、この間は本当に助かったよ。まさか数百年ぶりに会いに行った友神があんなことになってるなんて思わなくって」
「……」


 迎えにきてくれた女の人が主と呼んでいたのは、温泉郷の事件の時、友神のためにと私達に頼みにきたあの少年の姿をした神様だった。

 その神様から豪華なもてなしを受け、皆も少し居心地が悪そうにしている。


「でも驚いたよ。今度はここ・・までやって来るなんて」
「……」
「あれ? 食べないの?」
「たべ、るぅわぁない」
「え? なんて? ……あ、そっか。あれがないね」


 神様はそう言って席を立ち、どこかへ行ってしまった。
 姿が完全に見えなくなると、海斗さんが深くて大きな溜息をついた。


「美味そうなのに食えないって、ほんと辛ぇな」
「みぎにおなじく。……めしてろ。そうよぶのですらなまぬるい。このあと、のこったりょうりはすたっふのみなでおいしくいただきましたのすたっふ、そういうものにわたしはなりたい」

 
 熱心に勧誘してくれている奏様には悪いけど、私の将来の夢が現在進行形で揺らいでる。まぁ、そんな夢のような職業は実際にはないだろうから、夢は夢に過ぎないのがまた悲しいところ。

 さらなる現実逃避に、海斗さんと一緒になって斜め上の遠くを見つめた。こうでもしないと目に毒だ。だって、何度も言うけれど、並べられた料理はどれもこれも美味しそうな、というか美味しいに決まっているものばかり。

 だというのに、大皿から誰も料理を取り分けようとしない。
 分かっているからだ。皆、このような場で出される食べ物の危うさを。


「帰ったら完全に再現は無理だけど、作ってあげるから我慢しな」
「がんば、る……うん、がんばる」


 すると、綾芽が一皿持ち上げ、すぃーっと私の目の前を横切らせる。もちろん、私の目もそれを追った。


「あかん。劉、手ぇ離したらあかんよ。でないと食べるわ、この子」
「なっ! いぎあり! いまのはゆうどうじんもんだったとしゅちょうするっ!」
「尋問って、えらい言われようやなぁ。テストしてみただけですー」
「もっかい! もっかいテストして!」
「あかんあかん。こういうんは抜き打ちやから意味があるんや」
「なちゅきさん! あやめが!」
「だぁーっ! もう! うるせぇぞ、おめぇら! 綾芽! こんな時までチビで遊ぶな!」
「そうだそうだ! あそぶ……な……えっ?」


 こんな時なのに遊ばれてた?って疑問は、戻ってきた神様が持ってきたモノによって霧散した。


「ごめんごめん。お待たせ。はい、これもお食べ」
「これは?」
「あぁ、橘の実だよ」
「……へ、へぇ」


 戻ってきた神様が手に持っているのはざる。その上にかぐわしい匂いをさせた小さな橙色の実が丁度人数分。しかも、橘の実ときた。

 ――海の向こう、少年の姿をした神様、橘の実。

 ここがどこなのか、ようやく分かった気がする。
 神様に日々奉仕する神職の家系か、そうでなくとも多少神道の知識がある人ならピンと来るかもしれない。現に、私以外の皆も気づいたみたい。


「……非時香菓ときじくのかくのこのみ


 私と同じ神職の家出身の巳鶴さんが、橘の実に関する別の呼ばれ方を口にする。

 その昔、とある人物が常世の国まで行き、求めたという不老長寿の実。それが橘の実だと言われているのだ。もちろん、普通の橘の実もあまり食用には向いてないけどあるわけで、そっちならばいいけれど、差し出してくる相手が相手だ。
 その相手――目の前でニコニコと笑う少年の姿をした神様も、その昔、常世の国に渡った、医薬や穀物、酒や禁厭まじないその他諸々と様々な神徳を持つ神様──少彦名命すくなひこなのみこと

 ということはつまり、この実が不老長寿の実である可能性がある以上、まかり間違っても、この料理の中で一番手を出しちゃいけないやつということになる。


「なぁんだ、バレちゃったか」


 神話に書かれていることに違わず、悪戯っ子の神様はニヤリと笑い、その笊を引っ込めた。
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