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花ぞ昔の香に匂ひける
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◆ ◆ ◆ ◆
城から徒歩で十分程の所に、七代前から自分の家がお仕えしている須崎家の屋敷がある。そこの現当主は自分より六つ下の青年──名を八雲という。
彼は頭の回転が速く、様々な分野の知識を吸収することに長けている。その優秀さから、当代の帝の側近にという話が出たこともある。
が、その話は早晩に立ち消えとなってしまった。
当時はまだ春宮だった帝の側近になるには、彼はあまりにも弱すぎたのだ。
精神がではない。そちらの方は、良く言えば自信に満ち溢れた振る舞いができ、忖度抜きで言えば傲岸不遜な振る舞いが目立つ有り様。弱いどころか強すぎる。
問題は体調面、これ一択に尽きる。
天候など周囲の環境が多少変化しただけで寝込んでしまうのは日常茶飯事。咳に始まり熱を出し、布団から月に片手ほど起きられたら御の字なのだ。ここまで酷くはなかったが幼い頃からで、初めて自分が将来仕えることになる相手――彼に会ったのも病院の病室だった。
そんな常に健康面が心配される当主だが、最近は調子の良い日が続いていた。
床上げをしてから六日目。記録更新の祝膳を用意すべきかという話題が使用人達の間で口に上り始めた昼食後、突然ふらっとバランスを崩し、床に崩れ落ちた。
「すぐに医者を」
「いらん!」
いらんはずがないだろう。肩で息をしているのが丸分かりなのに、随分と見えすいたやせ我慢をする。
しかも、こんな状態だというのに、明日は予定通りついていくと言って譲らない。頭のよい主であるはずの彼に対し、お前は馬鹿かと言ってしまいそうだ。
「明日から三日間、屋敷を離れ、船上と島で過ごすことになる。今のうちに体調を整えておかないと辛い目にあうのは自分だぞ」
「うるさいっ! お前は黙って俺の命令に従っておけば……っ」
言っている傍から口元を押さえ、激しく咳込み始めた。
背を擦ってやればまだましになるかと、座る布団の傍までにじり寄り、その背へ手を伸ばす。
しかし、その手を背にあてるよりも先に手首を掴まれた。振り払おうと思えば簡単に振り払えるが、そうもいかない。伸びた前髪の隙間から覗く双眸が、手首を掴む力よりも遥かに強い力を宿し、こちらを鋭く睨みつけていた。
「お前、に……同情、さ、れ……なん、て……真っ平、御免、だっ」
「そういうつもりは」
「……ふーっ……ふーっ……」
こんな時、彼が唯一言うことを聞いていた先代夫妻がいればいいのだが、十年前に城で起きた事件で二人とも既に亡く、先祖代々仕えている自分でさえ小言を言うのがせいぜい。
つまり、成人して名実ともに当主となってから、彼の意思決定という名の我儘はもはや誰にも止められない。
「……もう休め。後で薬を持ってこさせる」
手をすっと引き抜き、その場から立ち上がる。早めに下がっておかなければ、また昂った感情のままに叫ばれて喉を余計痛めてしまうだろう。
背を向け、襖に手をかけた。背後でぶつぶつと繰り返し呟いている言葉が聞こえてくる。
「明日こそは……明日こそは必ずっ」
「……」
かける言葉が見つからず、ただ黙って部屋を出た。
薬を飲む時に白湯がいるだろうと台所へ行くと、女達が井炉端会議に花を咲かせている最中だった。
「えぇーっ! なにそれ!? こわーっ!」
「だよねだよね。しかもそれ、つい最近の話なんだよ」
「でも、確かもう誰も住んでいないんでしょ?」
「おい、話ばかりしてないで自分達の仕事をしたらどうだ?」
「あっ! も、申し訳ございません!」
「すぐに片づけます!」
「あの、何か御用でしたか?」
「少し早いが、寝室に白湯を持って行ってくれ。明日は出発の日だから、早めに薬を飲ませて休ませたい」
「承知しました」
一番年嵩の女が椅子から立ち上がり、手早く準備をしだす。
その様子を何とはなしに見ていると、残りの二人がこちらを見ていることに気づいた。
「なんだ」
「あの、明日行かれる島って例の島ですよね? 大丈夫なんですか?」
「……何が? 主ならば」
「あ、いえ、違くて。えっと、出入りの業者さんから聞いた話なんですけど、近くを通りかかった漁師がその島の浜辺で遊ぶ子供を見たそうなんです」
「子供?」
「はい。で、その子、漁師に気づくと、ニコッと笑っておいでおいでと手招いて。漁師もなんでこんなところでって思ったらしいんですけど、とりあえず島の近くまで船を寄せようとしたらしいんです。そしたら」
女は一度もったいつけたように口を閉じ、んんっと喉の調子を整えて声色を変え、真顔で「こいつらじゃない」と口にした。
「って、少年の声が聞こえて、気づいたら漁港で、船ごと戻ってきていたそうです。ただ、本人は無事だったらしいんですけど、船は一体何年手入れされていないんだってくらい傷んでいたんですって」
「一つ気になるのは、こいつらじゃないってことは、こいつらだった時、その人達はどうなってしまうんでしょうかね?」
「……ふん。無駄話ばかりしている暇があるのなら」
「わっ、ごめんなさい!」
「いま戻ります!」
残りの二人もバタバタと自分の持ち場に戻っていく。白湯もいつの間にか運ばれていったようだ。
台所にいるのは自分一人になった。
ふと、しまっておいたスマホが震えていたことを思い出し、取り出してロック画面を見る。やはり、着信があったことを示していた。その通知をタップし、耳にあてる。それほど待たずに相手が出た。
『あ、おとうさん!? おそいっ!』
『もう、無理言わないの。お父さんもお仕事で忙しいんだから』
『でもぉー』
電話に出たのは案の定、本人ではなく息子が先だった。後ろから声がしているから近くにはいるらしい。
そういえば、今日は早く帰ると約束していたんだったか。
『ごめんね。ほら、前話した仲良くしてる女の子に今日も遊べないって断られて、ちょっとご機嫌斜めなの』
『みやび、きのうもおとといもそのまえもあそべないっていった! もうずーっとあそんでない!』
『仕方ないでしょ? お家にはそれぞれ事情があるんだから。それよりもほら、お父さんにお仕事頑張ってって』
「いや、大丈夫だ。もう帰る」
『そう? じゃあまだ寒いから、車に乗るからって横着せずにちゃんとコート着て温かくして、気を付けて帰ってきてね』
「あぁ」
『はやくね!』
「分かってる。三十分くらいでつく」
『かえったらい』
息子──健が何か言いかけていたが、電話を切ったのは向こう側だ。きっと勢いで間違えて終話ボタンを押してしまったか、わざと切ってくれたんだろう。健の反応を想像すると、フッと笑みが漏れる。
スマホをもう一度ポケットにしまいなおして後ろを振り返ると、白湯を持って行った女が戻ってきていた。
「……なんだ?」
「いえ、別に。ふふっ」
「だからなんだ?」
「ですから、別に。……うふふっ」
普段は聞いてもいないことを口にするくせに、こういう時ばかり口が堅い。そのやり取りを何度か繰り返したが、とうとう最後まで知れず仕舞いだった。
さて、彼はもう寝ただろうか。そうでなくとも、明日の出発に彼は並々ならぬものを抱いている。せっかく休んでいるところを邪魔して機嫌を損ねても面倒なことになるだろう。
であればと、襖越しに帰宅することを伝え、屋敷を出た。
駐車場に止めている車まで向かう間、ビュッと冷たい風が頬を撫でる。
寒いからか、家に帰れるからか、そのどちらもか。
どれが正解かはっきりとはしないが、足がいつもより早く動いている自覚はある。
駐車場について車のドアを開け、屋敷の方に目をやった。
例の島のどこかにあるという、百年に一度咲き、願い事をたったひとつ叶えてくれるという花。
布団から身を起こすことすらままならぬ彼にとって、何か目標のようなものがあればいい。そう思っていたからこそ、その花を探すと言い始めた時にはそれも良しと思っていた。子供の宝探しの延長線上のようなものだと。
けれど、結果的に彼はその花を探すことにのみ心血を注ぎ始めた。
なまじっか資金面ではあの狩野家に匹敵するものがあるだけに、順番が回ってきた時は島に捜索隊を派遣することを一度も辞退しなかった。
こうなってしまったら、なんでもいい、誰でもいい。
止める手立てはないものかと考え続けてはいるが、今のところ、その考えが成功した試しがないのが現状である。
――おまえもどこかわるいの? おれも。
――こんど、移植?ってやつを受けるんだって! やっと元気になれるんだ!
――なんで……げほっ……おま、がっ!
ふと思い出すのは、彼と初めて会った日。
そして、一緒の病室で過ごした最後の日。
「……今回の捜索で終えられたら、どんなにいいか」
口から漏れ出た言葉は、だんだん強まる風の音に消えた。
城から徒歩で十分程の所に、七代前から自分の家がお仕えしている須崎家の屋敷がある。そこの現当主は自分より六つ下の青年──名を八雲という。
彼は頭の回転が速く、様々な分野の知識を吸収することに長けている。その優秀さから、当代の帝の側近にという話が出たこともある。
が、その話は早晩に立ち消えとなってしまった。
当時はまだ春宮だった帝の側近になるには、彼はあまりにも弱すぎたのだ。
精神がではない。そちらの方は、良く言えば自信に満ち溢れた振る舞いができ、忖度抜きで言えば傲岸不遜な振る舞いが目立つ有り様。弱いどころか強すぎる。
問題は体調面、これ一択に尽きる。
天候など周囲の環境が多少変化しただけで寝込んでしまうのは日常茶飯事。咳に始まり熱を出し、布団から月に片手ほど起きられたら御の字なのだ。ここまで酷くはなかったが幼い頃からで、初めて自分が将来仕えることになる相手――彼に会ったのも病院の病室だった。
そんな常に健康面が心配される当主だが、最近は調子の良い日が続いていた。
床上げをしてから六日目。記録更新の祝膳を用意すべきかという話題が使用人達の間で口に上り始めた昼食後、突然ふらっとバランスを崩し、床に崩れ落ちた。
「すぐに医者を」
「いらん!」
いらんはずがないだろう。肩で息をしているのが丸分かりなのに、随分と見えすいたやせ我慢をする。
しかも、こんな状態だというのに、明日は予定通りついていくと言って譲らない。頭のよい主であるはずの彼に対し、お前は馬鹿かと言ってしまいそうだ。
「明日から三日間、屋敷を離れ、船上と島で過ごすことになる。今のうちに体調を整えておかないと辛い目にあうのは自分だぞ」
「うるさいっ! お前は黙って俺の命令に従っておけば……っ」
言っている傍から口元を押さえ、激しく咳込み始めた。
背を擦ってやればまだましになるかと、座る布団の傍までにじり寄り、その背へ手を伸ばす。
しかし、その手を背にあてるよりも先に手首を掴まれた。振り払おうと思えば簡単に振り払えるが、そうもいかない。伸びた前髪の隙間から覗く双眸が、手首を掴む力よりも遥かに強い力を宿し、こちらを鋭く睨みつけていた。
「お前、に……同情、さ、れ……なん、て……真っ平、御免、だっ」
「そういうつもりは」
「……ふーっ……ふーっ……」
こんな時、彼が唯一言うことを聞いていた先代夫妻がいればいいのだが、十年前に城で起きた事件で二人とも既に亡く、先祖代々仕えている自分でさえ小言を言うのがせいぜい。
つまり、成人して名実ともに当主となってから、彼の意思決定という名の我儘はもはや誰にも止められない。
「……もう休め。後で薬を持ってこさせる」
手をすっと引き抜き、その場から立ち上がる。早めに下がっておかなければ、また昂った感情のままに叫ばれて喉を余計痛めてしまうだろう。
背を向け、襖に手をかけた。背後でぶつぶつと繰り返し呟いている言葉が聞こえてくる。
「明日こそは……明日こそは必ずっ」
「……」
かける言葉が見つからず、ただ黙って部屋を出た。
薬を飲む時に白湯がいるだろうと台所へ行くと、女達が井炉端会議に花を咲かせている最中だった。
「えぇーっ! なにそれ!? こわーっ!」
「だよねだよね。しかもそれ、つい最近の話なんだよ」
「でも、確かもう誰も住んでいないんでしょ?」
「おい、話ばかりしてないで自分達の仕事をしたらどうだ?」
「あっ! も、申し訳ございません!」
「すぐに片づけます!」
「あの、何か御用でしたか?」
「少し早いが、寝室に白湯を持って行ってくれ。明日は出発の日だから、早めに薬を飲ませて休ませたい」
「承知しました」
一番年嵩の女が椅子から立ち上がり、手早く準備をしだす。
その様子を何とはなしに見ていると、残りの二人がこちらを見ていることに気づいた。
「なんだ」
「あの、明日行かれる島って例の島ですよね? 大丈夫なんですか?」
「……何が? 主ならば」
「あ、いえ、違くて。えっと、出入りの業者さんから聞いた話なんですけど、近くを通りかかった漁師がその島の浜辺で遊ぶ子供を見たそうなんです」
「子供?」
「はい。で、その子、漁師に気づくと、ニコッと笑っておいでおいでと手招いて。漁師もなんでこんなところでって思ったらしいんですけど、とりあえず島の近くまで船を寄せようとしたらしいんです。そしたら」
女は一度もったいつけたように口を閉じ、んんっと喉の調子を整えて声色を変え、真顔で「こいつらじゃない」と口にした。
「って、少年の声が聞こえて、気づいたら漁港で、船ごと戻ってきていたそうです。ただ、本人は無事だったらしいんですけど、船は一体何年手入れされていないんだってくらい傷んでいたんですって」
「一つ気になるのは、こいつらじゃないってことは、こいつらだった時、その人達はどうなってしまうんでしょうかね?」
「……ふん。無駄話ばかりしている暇があるのなら」
「わっ、ごめんなさい!」
「いま戻ります!」
残りの二人もバタバタと自分の持ち場に戻っていく。白湯もいつの間にか運ばれていったようだ。
台所にいるのは自分一人になった。
ふと、しまっておいたスマホが震えていたことを思い出し、取り出してロック画面を見る。やはり、着信があったことを示していた。その通知をタップし、耳にあてる。それほど待たずに相手が出た。
『あ、おとうさん!? おそいっ!』
『もう、無理言わないの。お父さんもお仕事で忙しいんだから』
『でもぉー』
電話に出たのは案の定、本人ではなく息子が先だった。後ろから声がしているから近くにはいるらしい。
そういえば、今日は早く帰ると約束していたんだったか。
『ごめんね。ほら、前話した仲良くしてる女の子に今日も遊べないって断られて、ちょっとご機嫌斜めなの』
『みやび、きのうもおとといもそのまえもあそべないっていった! もうずーっとあそんでない!』
『仕方ないでしょ? お家にはそれぞれ事情があるんだから。それよりもほら、お父さんにお仕事頑張ってって』
「いや、大丈夫だ。もう帰る」
『そう? じゃあまだ寒いから、車に乗るからって横着せずにちゃんとコート着て温かくして、気を付けて帰ってきてね』
「あぁ」
『はやくね!』
「分かってる。三十分くらいでつく」
『かえったらい』
息子──健が何か言いかけていたが、電話を切ったのは向こう側だ。きっと勢いで間違えて終話ボタンを押してしまったか、わざと切ってくれたんだろう。健の反応を想像すると、フッと笑みが漏れる。
スマホをもう一度ポケットにしまいなおして後ろを振り返ると、白湯を持って行った女が戻ってきていた。
「……なんだ?」
「いえ、別に。ふふっ」
「だからなんだ?」
「ですから、別に。……うふふっ」
普段は聞いてもいないことを口にするくせに、こういう時ばかり口が堅い。そのやり取りを何度か繰り返したが、とうとう最後まで知れず仕舞いだった。
さて、彼はもう寝ただろうか。そうでなくとも、明日の出発に彼は並々ならぬものを抱いている。せっかく休んでいるところを邪魔して機嫌を損ねても面倒なことになるだろう。
であればと、襖越しに帰宅することを伝え、屋敷を出た。
駐車場に止めている車まで向かう間、ビュッと冷たい風が頬を撫でる。
寒いからか、家に帰れるからか、そのどちらもか。
どれが正解かはっきりとはしないが、足がいつもより早く動いている自覚はある。
駐車場について車のドアを開け、屋敷の方に目をやった。
例の島のどこかにあるという、百年に一度咲き、願い事をたったひとつ叶えてくれるという花。
布団から身を起こすことすらままならぬ彼にとって、何か目標のようなものがあればいい。そう思っていたからこそ、その花を探すと言い始めた時にはそれも良しと思っていた。子供の宝探しの延長線上のようなものだと。
けれど、結果的に彼はその花を探すことにのみ心血を注ぎ始めた。
なまじっか資金面ではあの狩野家に匹敵するものがあるだけに、順番が回ってきた時は島に捜索隊を派遣することを一度も辞退しなかった。
こうなってしまったら、なんでもいい、誰でもいい。
止める手立てはないものかと考え続けてはいるが、今のところ、その考えが成功した試しがないのが現状である。
――おまえもどこかわるいの? おれも。
――こんど、移植?ってやつを受けるんだって! やっと元気になれるんだ!
――なんで……げほっ……おま、がっ!
ふと思い出すのは、彼と初めて会った日。
そして、一緒の病室で過ごした最後の日。
「……今回の捜索で終えられたら、どんなにいいか」
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