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闇が深いほど光は輝く
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しおりを挟む「あなた、とぉっても美味しそうね」
誰もいないはずの、狩野瀬里の背後。
その背後から、白く細い両腕があの女の顔を上下で挟むようにして現れた。それも、不穏な言葉を告げる声とほぼ同時に。
まともなことを言っているとは思えない。けれど、それを正常なことだと誤認してしまいそうになる。そんな、とても耳触りの良い声音。
その声の主は、息を呑むほど綺麗な女の人だった。
そして、その美貌に見惚れていたのは私だけじゃない。
「菊市!?」
「……あ、あぁ。ただいま」
「ただいまって、貴方」
橘さんが呆れるのも無理ない。私の伝手を求めてでも彼を助け出そうとしていたっていうのに。
菊市さんってば、よろよろとした足取りで女の人の背後から出てきたかと思えば、そのまま女の人のすぐ傍でしゃがみこみ、ボーッとした表情で女の人を見上げてる。
そんな熱視線を受けても、女の人は菊市さんの方は顧みず、あの女の頭に頬ずりをし始めた。
「な、なに!? 私をどうするつもりっ!?」
「あなたは美味しそうだけど……その子は嫌。私の大嫌いな奴の手がついてるんだもの」
女の人が片手を離し、すいっと指で何かを払うような仕草をする。すると、あの女の戒めが解かれ、櫻宮様が宙に浮いた。
「わ、わわっ!」
「あらぁ、上手上手」
東のお屋敷の屋根からほどではないけれど、宙に浮かされ飛ばされるという二度目の経験は大層恐ろしいものだったに違いない。
声にならない悲鳴をあげてこっちに飛んでくる櫻宮様をなんとかキャッチした。
もう離れたくないと言わんばかりにギュッと私の肩に手を回すせいで、危うく首まで締まるところだった。でも、怖い思いをしたばかりなのに引きはがすのも可哀想だ。代わりに背を優しくトントンと叩いてやる。いつもだったらこれで割と早めに宥められるけど、今回はそうもいかないみたい。そりゃそうだ。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。もうこわくないから、ね」
押し潰されそうな私を見て、男の子が代わりに抱っこしようと両手を伸ばしたけれど、一瞬だけその手を見た櫻宮様はプイっと反対側を向いてしまった。
残念そうな、不服そうな、なんとも言えない顔をしている男の子には悪いけど……今のこの仕草ったら。
今じゃなきゃ、ほんとに今じゃなきゃ、綾芽や劉さんにお願いしてカメラで撮ってもらいたい。いや、撮ってもらってる。Take2ものだ。
子供の成長を記録に残したがる親の気持ちって、たぶんこんなのなんだろう。
そのまま櫻宮様を宥めすかしながらも、女の人の方を見る。
「つまみ食いしたら怒られるかしら。……あぁ、あなた」
「菊市です」
「そう、菊市さん。どうもありがとう」
「え?」
「だって、あなたのおかげでこの間は久々に人間達で遊べたし、今日はこんなに素敵なご飯が用意されてるんだもの」
この女の人、一体誰なんだろう? 菊市さんと一緒だし、こんなに綺麗な人、まずもって人間じゃあないし、きっと元老院の人なんだろうけど。しかも、本人を前にしてご飯と言ってのける辺り、倫理観が食欲に負けてる御様子。
……それにしても、唇をほんの少し緩めただけなのに、まるで大輪の薔薇が咲いたみたい。間近でその笑みを見た菊市さんはポッと顔を赤らめている。
「ちょっと待って!」
先程までとは一転、どこか間の抜けた空気になっていた部屋の中に、あの女の甲高い声が響いた。
「ご飯って。ご飯ってどういうことですの? 私は」
「他人の命を奪い、生き永らえている。同じ人間の命すら生きる糧にしてるんだもの。違う種族の、人外の私の糧になるなんて、なんら問題ないでしょう?」
「ふざけないでっ!」
すると、女の人は目を数度瞬きしてみせた。キョトンとした青い瞳は見た目よりもずっと幼さを感じさせる。
「ふざけないで? ふざけてて良かったの? そう。そうなの」
そう呟いたかと思えば、櫻宮様の時みたいにあの女を宙に浮かせた。その上、さっきと違い、まるでジェットコースターみたいな速さで部屋の中をブンブンと飛び回らせ始める。
「きゃあぁあぁぁあぁぁぁっ」
悲鳴を上げるあの女を見上げ、女の人はくふくふと笑う。
「今日はね、奏は来ないのよ。来れないの。仕事が忙しいんですって。カミーユが捕物で大暴れしたから、治療しなきゃいけないのがいっぱいだって。もう一人、守役がいるんだけれど、彼も別件で手が離せないから」
子供のように無邪気そうに笑っていたかと思いきや、ニンマリと口元に弧を描き笑っている。
奏様も、もう一人の守役さんも来られない。その事実に、橘さんがゴクリと喉を鳴らした。
でも、元老院の人って、人外が関係しない限り人間に干渉しないんじゃなかったっけ? 思いっきりやらかしちゃってるし、食事とかもっとやらかそうとしてるけど、大丈夫……じゃないよね。
最近、元老院の人達が交代でこっちに来てるみたいだけど、誰も気づかないのかなぁ。
私の視線に気づいたのか、女の人がクイクイっと手招きしてきた。
「……あぁ、その子は駄目。置いてきて」
「んっと、じゃあ」
「あーっ、や、やっ!」
「えぇーっとぉ」
櫻宮様が離れていこうとする私の服を握りしめ、イヤイヤと顔を振る。女の人と櫻宮様を交互に見るけど、どちらも譲りそうにない。
「おろしてっ! 誰か、誰か助けてっ! 助けてったらぁ!」
「私、賑やかなのは好きだけど、騒がしいのは嫌いなの。楽しいかと思ったけど、つまんない。もっと別の遊びに誘えば良かったわ」
「んーっ! んんーっ! んーっ!」
縫い付けられたわけでもないのに、あの女の口が閉じた。もごもごとしているからには自分の意思ではないんだろう。
そのまま女の人はこちらにやって来て、人差し指で私の顎をくいっと持ち上げた。
「ねぇ、雅ちゃん。私、お腹が空いたの。あなたならこの気持ち、分かってくれるわよね」
「うん」
「雅さん!」
ご、ごめん、橘さん。つい。
だって、お腹空いた時になんでも食べたくなっちゃうその気持ち、すっごく分かるもの。
バツが悪くて余所を見ると、菊市さんがスッと手を挙げたので、誤魔化しも含めて当ててあげた。
「一つ、いいかな?」
「なぁに?」
「食べるって、その、どういった」
女の人へのその問いは、皆が答えを欲しがるものだった。当然、女の人に皆の視線がいく。
答え次第では櫻宮様の目を塞がなきゃ。というか、もう自由なんだから、外に連れて行ってもいいかもしれない。
女の人は口元をその細い指で覆い隠し、ころころと笑い声をあげた。
「人間の肉など食べたりしないわ。もしそうなら、今頃人間は滅びてるもの。私達の一族が食べるのは、生物の生気や感情。強ければ強いほど濃厚な味わいで、同じ個体のものでも全く違う味になるの。普通の食事もできるけど、大好物ってわけじゃないのよねぇ」
そう言って、息も絶え絶えになったあの女の脇腹に両腕を回し、女の人が舌なめずりをする。
「だからね、おねがぁい。味見でいいから」
女の人が脇腹からスススッと手を動かし、腕をとり、唇を這わせる。そして、ピタリと動きを止め、笑みを深めた。
あの女の顔が恐怖に歪んだ瞬間。
「守役さんの登場は無理やけど、委任状なら、こうしてもろぉとります」
「……あ、あやめ!」
一通の手紙を掲げた綾芽が開かれた障子の向こう、廊下に一人立っていた。
その手紙には青い薔薇になにかの文様が施された印璽が捺されている。それを見た女の人は目をすっと細め、あの女から名残惜し気に身をひいた。
櫻宮様の手を引いたまま駆け寄る私に、綾芽が櫻宮様ごと抱き上げる。
「ほんもの!?」
「ほんものてなんなん。しかも、なんや、見ぃひん間に重なったな」
「あやめだぁー!」
このデリカシーのなさは綾芽に違いない。
迎えにきてくれたのは嬉しいけど、その一言は余計だ。二、三日しか経ってないのにさぁ、重くなるわけないじゃん。
……んんっ?
視線を感じて振り返ると、すごい形相のあの女。そして、ご馳走を前にした私みたいな表情であの女を見つめる女の人。
駄目押ししとこ。
私がその委任状とやらを綾芽の手から受け取り、女の人に見せに行く。
すると、女の人はつまらなさそうに口を尖らせ、スイッと指を振ってあの女を下に降ろした。
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