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プロローグ

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 草むらからヌッと姿を現したのは黒い毛並みが美しい一匹の豹だった。

 豹といえば、立派な肉食獣だ。しかも、足も速く、木にも登れる。

 さらによろしくないことに、お腹が空いているのか、グルルルという鳴き声とともに牙をむいている。

 まさしく絶対絶命な状況とはこのことを言うのだろう。


(……お父さん、お母さん。親不孝な娘でごめんなさい)


 逃げようという気すらスルスルと小さくなっていく。

 抱えていたドレスの裾も下に下ろした。それからもう会えないだろう二人を頭に思い浮かべ、目を瞑った。


(どうせあの時一度トラックに轢かれて死んだはずの命だし。……あぁ、やっぱりできればトラックの時みたいに即死がいいかも。生きたまま貪り食われるのは絶対に嫌)


 そんな悟りに似た心を持つしかなくなる。


 けれど、待てどくらせどその瞬間はいつまでも来なかった。

 近くまで来た気配はある。黒豹の鼻息がドレスの裾を揺らしているから間違いない。


 不審に思った琴葉は目をほんの少しだけ開いて黒豹の様子を窺った。

 するとどうしたことか、黒豹は琴葉の足元を包み込むようにして寝そべっていた。


(こ、これは一体どういう状況なんだろう?)


 下手に刺激すると気が変わった黒豹に襲いかかられるかもしれない。

 しばらく様子を見ていると、黒豹がしきりに前脚をペロペロと舐めているのに気付いた。

 そーっと身体を屈ませて覗き込んでみると、黒い毛並みだったから目立たなかったが、木か何かで傷つけたのか、それなりに深い傷を負っていた。


「……ダメよ。傷口から菌が入ればもっと悪化するわ」


 琴葉は傷口を触らないように脚と口の間に手を滑り込ませ、舐めるのを止めさせた。

 完全なる職業病だと分かってはいる。先程までその口で食べられるかもと覚悟もしていた。

 それでも、彼女は傷ついたものを放ってはおけない性質たちだった。


「とりあえず、まずは止血ね」


 傷口をよく見るためには今いる位置は少し薄暗い。


(月の光がより入ってくるのは湖の傍。そこまで行きたいけど、行けるかしら)


 黒豹はまだ大人にはなっていないようで、抱き上げて行く分にはなんとかなりそうだ。

 ただ、大人しく抱かれてくれるかというと、全く分からないわけで。


「今からその脚、なんとか応急処置まではしてあげたいから、あそこの湖まで大人しくしていてくれる?」


 なんて黒豹自身に言ってはみるものの、通じているわけがない。


 それでも手を滑り込ませた時に食いつかれなかったということを前向きに考えることにして、琴葉は恐る恐る黒豹の身体の下に手を差し込んだ。

 ゆっくりと抱き上げ、そこで初めて黒豹と目が合った。

 ふと昔飼っていた猫のことを思い出した。


(あの子、結局見つからなかったな)


 黒豹は暴れる素振りを見せなかったので、琴葉はできるだけ足早に湖の方へ歩を進めた。

 本当ならば綺麗な流水で傷口を洗い流したいところだけど、水道もなければペットボトルの水もない。火があれば煮沸消毒もできないこともないけれど、それもない。ないないづくしでは妥協も必要だった。


「朝になったらここを出て、人がいるところで綺麗な水をもらうから我慢してね」


 一応湖の水を両手に掬い、匂いを嗅いでみる。


(そう嫌な臭いはしないからまだマシ、と思いたいわね)


 黒豹の脚を湖に浸し、できる限りの洗浄を行う。

 歩けばどこかしらに水道がある街中が恋しい。


 時間をかけて洗浄を終えると、今度は傷口の圧迫だ。

 ここでようやくこの無意味に感じていた何枚も重なっているドレスが役に立った。

 ドレスの生地のうち、真ん中にある布を黒豹の爪を拝借して切り取り、その布を傷口の上から押える。


 黒豹を地面に寝そべらせ、脚は黒豹の隣に腰を下ろした琴葉の膝の上においた。

 これで前脚が心臓より高い位置にあることになり、血も直に止まるだろう。


「どうして怪我しちゃったのよ。木登りに失敗しちゃった?」


 グルルルルと低い唸り声を出され、琴葉は口を噤んだ。

 実にタイミングの良い鳴き声に、まるで“違う”と返事をもらったかのような錯覚すら生まれる。


「ごめんごめん。……ふあぁ」


 時計がないから今が何時なのかは分からないけれど、月の昇り具合からいってそれなりに夜は更けているはずだ。

 欠伸がでてくるのも無理はなかった。


「私、眠たくなっちゃたんだけど。寝てる間にパクッといかないでね?」


 とりあえず言っておいてみる。

 当然、それで食べられてもなんの文句も言えないのだが、それでも気休めというものだ。


「あなたも寝た方がいいよ。抵抗力落ちちゃうから」


(うわ。抱き上げた時もそうだったけど、毛が気持ちいーなー)


 艶があると同時に柔らかい毛並みを撫でていると、余計に睡魔が襲ってきた。

 うつらうつらと舟をこぎだしたかと思えば、五分も経たないうちに琴葉はすっかり夢の中の住人になっていた。


 それを黒豹は長い尾をパシンパシンと地面に軽く打ちつけながらジッと眺めていた。


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