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第九章―織田木瓜と三つ葉葵
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しおりを挟む伊織達が安土城を訪れた数日後。
前右府――信長が伊織から話を聞き及んでいたとおり、岡崎の信康の元へ嫁にやった娘――五徳から、まこと恨み辛みのこもった文が届けられた。姑との関係の悪さを思わせる言葉に始まり、夫の素行の悪さ、彼らが武田側との密通している等の項目が全部で十二か条。
信長にしてみれば、中には気にせず適当にあしらっておけばよいものをと思うものもある。本来ならば捨て置けぬ武田との密通の話も、八咫烏の調略にはまってのことであると承知しているので、正直なところ、どうしたものかという思いの方が強い。
それに、信長としては、娘を嫁に出した身。いうなればこれは他家の内情である。婿とその母親相手とはいえ、早々干渉すべきではない。
しかし、一方で信長は伊織が言っていた言葉も気になってくる。家康の腹の内。同盟を結ぶ相手にそう何度も裏切られてはかなわない。
そこで、信長はこの件について家康に申し開きをしにくるよう、浜松へと遣いを出した。
そして、天正七年七月十六日。
二人の男が安土城へと登城してきた。
家康が信長への使者として遣わしたのは、徳川家の重臣であり家康の信任厚い酒井忠次と、信康の実妹を正室にもち長篠城主でもある奥平信昌であった。同時に、家康を合わせて三人からそれぞれ信長へ馬が贈られた。
信長は先日の伊織同様、先に待たせておき、些か性急ぎみに部屋へと入ってきて、平伏している二人へ顔を上げるように言う。そして、挨拶もそこそこに、本題へと切り込んだ。
信長に五徳が書いて寄越してきた書状のうち、一条ずつ読み上げられ、その真否を問われる。常であれば、投げて寄越され、その真否を合わせて問われそうなものが、一つずつ聞かれるものだから、二人は真綿で首を絞められているような心持となった。
「これは真か?」
「……真にござりまする」
「これはどうじゃ?」
「……」
「これは真かと申しておる!」
「……も、申し訳ござりませぬ! 我らの口からは申せませぬ」
全て否、誤解か偽言であると即答できれば楽なのだが、なまじっか本当のことの方が多いだけに問題である。目の前の男相手に嘘はつけない。
特に、忠次は岡崎にいる国人衆達に家康からの指示を伝える立場。必然的に信康と五徳、築山殿との関係性を見ることも多かろうと、信長に攻め立てられる。忠次は戦場では経験したことのない居心地の悪さに、背中を冷や汗が伝っていくのを感じた。
自分の剣幕にすっかり委縮してしまっている二人を見て、信長はふんっと鼻を鳴らした。しかし、決して二人の態度を不快に思っているわけではない。何から何まで伊織の思う通りに進んでおり、それが信長としては少々面白くないのである。
平伏し続ける二人に、信長はその鋭い視線を下げて寄越した。
「徳川殿はこの件について、なんと申しておったか」
「はっ。この件、諸々筋の通った道をとりますゆえ、こちらに一任していただきたく、と」
「……このように父にも臣下にも見限られるようであれば、是非もなし。徳川殿の良きように計らうよう申しつけておけ」
「「はっ」」
信長の言質を取り、二人がさらに深く頭を下げると、信長はそのまま小姓を伴って部屋を出ていった。
遠ざかる足音を聞きながら、二人は顔をゆっくりと上げていく。
「某、お二人に自害させるよう申しつけられるのかと思うておりました」
「あぁ。あの方ならば、そう申されても不思議ではない」
「では、何故?」
「分からぬ。とにかく、前右府様からの干渉は免れたのだ。このことを早く殿にお伝えせねば」
「そうですな。疾く、参りましょうぞ」
安土城を辞去した二人は、一度自らの居城に戻ることはせず、そのまま浜松城にいる家康の元へと馬を走らせた。
遣いの帰りを待っていた家康は、二人から信長の返答を聞き、意気消沈してしまった。その家康の心情を読み取った忠次が、膝をついたまま家康に詰め寄っていく。
「殿、家臣団の分裂を避けるためでございます。今は北条との同盟も控えており、武田との戦に備え、一丸となるべき時。このままでは他所との戦どころではなく、内部から瓦解しかねませぬ」
「分かっておる。分かっておるが……」
家康も覚悟の上とはいえ、やはり実力のある嫡男を失うのは惜しい。
――あの時、八咫烏から届けられた文が、かように大事になろうとは思ってもいなかった。家臣の一部が決して触れてはならぬところに手を出したためと、捨て置いたのがいけなかったらしい。
だが、それを後悔したところでもう遅い。それに、岡崎殿が前右府殿に出した文の内容は大半が正しい。いくらその一部が誤りで、信康は嵌められたのだと訴えても彼の人の耳には届かぬだろう。
――それにつけても。
「腹立たしいのは、十二のうち半分までがあれに関する内容である点よ! しかも、よりにもよって、あの武田との密通などっ!」
「……恐れながら、築山殿と岡崎殿の諍いがなければ、このような大事にはならなんだやもしれませぬ」
「まこと……あれは徳川を潰すつもりかっ?」
家康は確かに自身の正室である築山殿に恨まれる覚えがいくつもあった。だが、それはこの戦の世では致し方ないことであったとも言える。
――自分はこの家を守らねばならない身。そして、ゆくゆくは……。
家康は傍に控える者全てを人払いさせた。そして、常であれば相談をもちかける忠次にも皆と同様下がっているように言う。
「少し、一人で考えたい」
「……承知しました」
それからしばらくの間、家康はなんとか徳川家の活路を見出そうとするが、事はもはやどうにもならない所にまでやって来ていた。
全ては、信康配下の者がとある忍び里に手を出したがため。そこに信康が加担していたかどうかは定かではないが、代わりに支払う代償は大きすぎるものとなるに違いない。
家康は大きく深い溜息をつき、疲れの見える顔を両手で覆い隠した。
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