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第四章―それぞれの覚悟
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しおりを挟む白の陣幕が張られた陣の内部。
畳床机に座る男の横顔が篝火に照らしだされ、時を経るごとに焦りを帯びていく。
「何故だ! 何故報せが届かぬのだっ! このままでは織田の耳に入ってしまうではないかっ」
親指の爪を食み、ついには立ち上がって陣中をうろうろと歩き回り始めた。落ち着きを失くした男の傍には、他にも男が二人控えている。一人は総大将である男に策を助言する軍奉行を務める老年の男、もう一人は総大将の護衛役を務める馬廻衆の壮年の男だ。二人は男とは違い、努めて冷静に大局を見据えようとしている。
総大将である男が喚き叫ぶ声だけが陣中に響いていた。
「殿。ここは一度退却し、策を練り直す方がよろしいかと」
「そんなこと、できるわけがなかろう!」
「しかし、数に任せて包囲する策は既に打ち破られている様子」
「……なにか、なにか他に策はないのかっ!?」
軍奉行に、陣扇を持った総大将が食ってかかる。軍奉行は表情を強張らせた。今の時点で考えられる最善策を進言したというのに、それを跳ねのけられたのだから無理もない。
今年、古希を迎えた軍奉行は、辛うじて手に入れた里の地図を見下ろす。
ここは本来、決して攻めるべきではない地形。攻めるに難く、護るに易き土地。さすがは古より続く忍び里よと、この地図を手に入れた時、数多の死地を掻い潜ってきた男自身も思わず唸ってしまったほど。
その上、忍びとは侍同様幼い頃より厳しく育てられ、否、侍よりも遥かに厳しく育てられると聞く。特に、この八咫烏は公ではないが、皇家に仕える一派。その矜持は、一大名のそれよりも高いものを持ち合わせていることであろう。そんな彼らが実効支配している土地で、この地を落とされるという後世に残るような醜態をさらすはずがない。
辛うじて彼らよりも勝っていると言えるのが、雑兵や砲、火薬の数。だからこそ、兵法に基づき、八咫烏の本拠地である館があるとされる場所の周囲を囲むことにした。が、やはり、烏合の衆はどこまでいっても烏合の衆にしか過ぎないようである。
山を登っていく時間を抜きにしても、一刻経ち、一刻半、二刻と、どんなに時を重ねても館を落としたという報は届かない。
(……やれ。やはり、ここが儂の最期の地になりそうだ)
軍奉行が前に仕えていた総大将の父君、かつての主君はとても賢い男であった。決して前に出ず、さりとて無視もできないよう自分の立ち位置をきちんと見極め、配下の者を采配することができる男であった。惜しむらくは、その賢さが家督を譲られた嫡男――総大将には受け継がれなかったことであろう。
そして、それが今回の事態を招いた。
情報戦、そして実戦にも強い八咫烏を配下におき、織田に代わって天下を取るという夢。それは軍奉行の半分も年下の若造には過ぎた夢であったらしい。なにより、皇家筋ですら扱える者が限られるというのに、どうして里ごと配下におけると思ったのか。軍奉行にはそれが不思議でならなかった。
しかし、どんな愚行をもしでかす主とはいえ、主君は主君。先代亡き今、仕えるべきなのはこの目の前の男なのである。
「殿。このままでは、じきにここまで敵が来るでしょう。やはり、このまま安全な地までお戻りを」
「しかしっ!」
「退き時を誤れば、それこそ御命にかかわります。それに、たとえ前右府殿のお耳に入ったとしても、公にはこの里は忍び里ではないただの里。織田家所領でもない以上、そこに侵攻したとしても、それだけで織田家に攻められるに値する事柄にはなり得ません。知らぬ存ぜぬでかわせばよろしいのです」
「……そ、そうか。なるほど。……そうだな。よし! 皆の者、撤退だ!」
「ただし、決して城まで直接お戻りになってはなりません。どこかで追っ手がかかるやもしれませんので」
「ならば、ここから一番近くは……」
「こんな時刻ではありますが、寺院に参詣しに参った遠地の武将を装われるのがよろしいかと」
「う、うむ」
準備を整え、馬に跨った総大将は、陣幕の前から動かない軍奉行を訝し気に見つめた。
「どうした? 参るぞ」
「殿。私はここで、殿の影武者を務めようと思うております」
「なに? 其方が影武者と?」
総大将の眉がさらに寄る。
一方、軍奉行は奇襲が決まった時から、半ばこの時が来るのを覚悟していた。もちろん、首尾よくいって成功すれば御の字だが、現実はそう甘くもないだろう。
「戻ってくる兵に指示を出す者も必要でしょう。……いれば、の話でしょうが」
共に行こうと言い募る総大将を上手く言いくるめ、護衛役の馬廻衆と共に一番近い寺院を指定して向かわせた。
「おい、しっかりしろ! もうすぐだからな!」
陣中に負傷兵が三人戻ってきたのは、総大将達が戦線を離脱してから四半刻も経たない頃であった。
なるべく軍奉行の目に入れないようにと、陣中の端の方で手当をする足軽二人。寝かされているのは、装束からして槍足軽の者だろう。その槍足軽の目元には、すでに布が当てられていた。
足軽二人のうち、一人がどこかで水を汲んでくると立ち上がった。その背を軍奉行は視線で追いかける。男が陣幕を出ていくと、軍奉行の視線が再び手当をしている男に戻された。
「目をやられたのか?」
眉を寄せた軍奉行が、手当をする者に声をかける。
「そのようです」
「憐れな」
「……えぇ。そうですね」
軍奉行からは背を向けられているせいで、手当をしている者の手元や表情が見えない。
「もう、楽にしてさしあげましょうね」
「え? ……っ」
男が発した言葉の意味を、手当を受けている槍部隊の男が理解する前に、男が小刀を抜き、瞬時に首を刎ねた。血が、噴き出したばかりの湯水のように溢れ出る。至近距離でそれを浴びることになる男は、先に目元を手で覆っていたために血で目が見えなくなるということを防いでいた。
それと同時に、軍奉行の背後に外に出ていたはずのもう一人の男が回り込み、首元に苦無を押し当てる。手当をしていた男が立ちあがり、振り向いて二人がいる方まで近寄ってくる。軍奉行が護身用にと腰に下げている刀を鞘ごと抜き、遠くに放った。
「……八咫烏、か」
「我々と一緒に来ていただきますね。大丈夫。まだ死なせはしません」
「ふん。元より命が惜しくてここに留まっていられるか」
「そうですか。それは良かった」
人の良さそうな笑みを浮かべたまま、男――吾妻はさらに目を細めた。
「散った同胞の命が、吹けば飛ぶような軽い覚悟の上に犠牲になったようでは困ります」
首元に押し当てられた苦無がさらに押し当てられ、つぅっと一筋血の雫が首筋を流れ落ちる。
「まだ駄目ですよ」
「分かってる!」
苛立ったような声で反論した男――彦四郎は、再び紙一枚置いたくらいの隙間で苦無を軍奉行の首に向けてきた。
本音を言えば今すぐこの首掻き斬りたいが、それを吾妻は許さない。伊織からの指示は賊の頭を捕えること。上からの命を違えることは、忍びとしてあるまじきことである。そんな愚行を、吾妻が目の前で友に犯させるはずもない。
「……はっ。烏でも仇討ちをするか」
「おや。御存知ない? 烏というのは、存外義理堅いものですよ。仲間を傷つけたものを決して赦しはしない。たとえどれだけ離れようと、時が経とうと、覚えているものです。……だから、ここから逃げ出そうなんて愚かなこと、考えない方がよろしかったのですよ。どこまでも追いかけますから。えぇ、ずっと、ね」
皮肉を口にする軍奉行に、吾妻も鳥の烏になぞらえて答える。
吾妻の視線が陣幕の外に向けられているのに、軍奉行は努めて平静を装いつつ、内心、諦観の念がほとんどであった。
今日この時この瞬間が来るよう誘い込まれた気すらしてくる。そう考えると、退却させた者達も彼らの手から逃げきることは叶わないだろう。その瞬間が早いか遅いかの差があるだけで。
「楽に死ねるなんて、思わないでくださいね?」
月を背後に背負って立つ吾妻は、身に翳りを帯びている。それは軍奉行の背後でその影と同化している彦四郎も同じこと。
化生ものと巷で噂される京の烏天狗達の正体が、軍奉行には分かった気がした。
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