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第四章 繋がり
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ラコルトとの会談から数日経った。クラウスたちは屋敷に閉じこもっていた。あの日から降り続いている雨が今も続き、しかもその勢いを増していて、誰も外に出ることができなかったのだ。フェリックスたちも安全を考慮して測量などの調査は一旦中止していた。今はユリカも含めて、書類整理に勤しんでいた。
「雨がひどいですわね」
「そうですね。山は天気が変わりやすいと言いますが、これほど雨が続くのは初めてです。川も増水しているらしいので、少し危ないですね」
山から流れ落ちる川は、当然のことながら雨の影響が一番大きい。小雨だと思っていても、山全体に降る量は多くなるので、必然的に川の増水量が大きくなる。少しの増水でも油断はできないのだ。
外に出られないからか、ユリカは退屈そうに溜息を吐いた。
「グラーセンは今頃、どんな話をしているのかしら?」
ラコルトとの会談の内容をグラーセンに報告したところ、政府からは了解したことと、ビュルテンとの取引材料を用意すると返答があった。政府や軍部では今頃、話し合いが行われているはずだ。
一体どんな話をしているのだろうか。ユリカはやきもきした。それを横で見ていたクラウスは、正直不安を感じていた。
ラコルトがグラーセンと繋がることを拒否しているのは、このビュルテンを想ってのことだ。この国を守るために考えたことなのだ。
言い換えれば愛国心から起こしたものだ。その愛国心に見合う条件とは何か? 何を提示したところで、彼の心を変えることができるだろうか?
経済的、政治的な条件で彼の心を変えることはできない。クラウスはそう思った。何かもっと別のことでないと、彼を変えることはできないと。
問題はそれが何なのか。それがわからないのだ。
クラウスも小さく溜息を吐いた。それを見ていたユリカが笑った。
「この部屋は溜息に溢れているわね」
「ははは。悩みは誰も尽きませんね」
釣られてフェリックスも笑った。同じようにクラウスも笑う。まだ笑える力が残っている。やはり仲間がいるというのは、それだけで素晴らしいのだ。
「ねえ。そろそろ食事にしない? 溜息ばかり吐いていたから、お腹が空いたわ」
その言葉には同意した。そろそろ食事の時間だった。
「そうですね。そろそろ行きましょうか」
そう言ってフェリックスが立ち上がろうとした時だった。
カタタ……カタタ……と、机の上のグラスが音を立てて揺れていた。
三人ともグラスを見た。あまりに不自然な、不吉な揺れ方だった。
グラスの揺れが収まる。静寂が部屋を、いや世界を包んだ。
そして、世界が大きく揺れた。
「きゃあ!」
ユリカの悲鳴が上がる。クラウスはすぐに彼女の元に走り寄り、彼女を守るように抱きかかえた。フェリックスはすぐに机の下に潜り込み、その身を守った。
永遠だったかもしれないし、ほんの一瞬だったかもしれない。何もわからなくなるくらい大地は揺れ動いた。
しばらくすると、またも世界に静寂が満ちた。周りを見ると、机や本棚の本が床に転げ落ちていた。彼の腕の中でユリカが視線を泳がせる。フェリックスもゆっくりと体を起こした。
「大丈夫か?」
「え、ええ……大丈夫」
「今のは、地震でしょうか?」
お互い小さな呟きを口にする。彼らがそうしていると、静かだった世界が一気に動き出した。外から轟音が響いてきた。
「なんだ!?」
その時、ドアが勢いよく開いた。フェリックスの部下の一人が入り込んできた。
「大尉! みなさんも大丈夫ですか!」
「ああ、大丈夫だ。みんなは?」
「こっちは大丈夫です! 屋敷の人たちも無事を確認しています!」
あの揺れの直後にすぐに行動を起こせるあたり、さすがは軍人と言うべきだった。クラウスが感心していると、外の騒ぎが大きくなっていた。
「外では何が起きている?」
「わかりません。すでに何人か外に出していますが、まだ何も把握できていません」
その時、もう一人部下が入り込んできた。彼の青ざめた顔が、嫌な報告であることを告げていた。
「大尉! 今の地震で街でいくつかの建物が倒壊しました! 多くの負傷者が出ています!」
あの規模の地震だ。全く被害が出ていないはずがない。あの騒ぎは倒壊した建物を前にした人々の、断末魔の叫びなのだ。
「他のみんなも連れて、救援に行ってくれ! 他にも助けられることは助けてやるんだ! 早く行ってくれ!」
「わかりました!」
状況を把握したフェリックスは大尉としてやるべきことをやっていた。部下たちに指示を出し、被害者の救援に向かわせた。
その声に反応するようにユリカがコートを手に取った。
「私たちも行きましょう!」
すぐに走り出そうとするユリカ。クラウスたちは言われるまでもないとばかりに、彼女の後に続いた。
美術に感心のないクラウスも、何回か美術館に行ったことがある。そこでは神話や歴史の中で起きた悲劇を題材にした悲惨な作品を見たことがある。傑作と呼ばれるそれら作品を前にして、クラウスも心を痛めたことがあった。
今目の前で起きていることは、悲劇では足りない現実だった。
街に瓦礫の山が出来上がっていた。昨日まであった背の高い建物が姿を消し、かわりに瓦礫の山がそこに誕生していた。その山を前にして、悲鳴や叫びが轟いていた。
阿鼻叫喚。この言葉を形にするなら、今この場にある現実のことなのだろう。
横にいたユリカも言葉を失っていた。ここだけでなく、街のいたるところで悲鳴が上がっていた。今も懸命に救助活動が行われており、中には頭から血を流している人間が、瓦礫を掘り起こそうとしていた。
動けるのなら怪我人も動いている。街の惨劇はそれほどひどいものなのだと思い知らされた。
何より恐ろしいのは、目の前の瓦礫の中に、埋もれている人がたくさんいるということなのだ。
その時、この場に大勢の男が駆けつけてくるのが見えた。その先頭に立っているのはラコルトだった。
「お前たちはここを担当するんだ! まず被害者の救援が最優先だ! 山で鍛えた体をここで使うんだ!」
ラコルトの怒号に男たちは雄叫びを上げ、一目散に瓦礫の山に向かった。彼らを見送った後、こちらに気付いたラコルトが近寄ってきた。
「あんたたちか。無事だったんだな」
「はい。なんとか……彼らは鉱山の人たちですか?」
「ああ。山と共に生きてきた男たちだ。無駄に鍛えた体だ。役に立つだろう」
ここ以外にも事故が起きた場所には労働者たちが派遣されているという。すごい男たちだ。
しかし、そんな彼らをユリカが暗い顔で見つめていた。
「ラコルト様。あの人たちの家族は大丈夫ですの?」
クラウスがハッとする。彼らの家族もこの街に暮らしている。もしかしたら、目の前のがれきの下に、彼らの家族がいるのかもしれない。彼らは家族の安否を確認できているのだろうか?
その問いかけにラコルトは静かに返した。
「これがこの街の、山で生きるということだ」
山で生きるという覚悟。その気迫に二人は圧倒された。きっと瓦礫に立ち向かう男たちの胸中は穏やかではないだろう。すぐにでも家族を探しに行きたいはずだ。だが、男たちは鋼の体で迷いを抑えつけて、今こうやって瓦礫に立ち向かっているのだ。
彼らの在り方にクラウスは言葉を失った。
「さ、あんたたちは安全な場所に行くんだ。これ以上被害を出すわけにはいかないからな」
「待ってください」
避難を促すラコルトを制して、ユリカが前に出た。
「私も救援に参加します。何かできることはありませんか?」
ユリカの申し出にラコルトが驚く。予想もしていなかったことにラコルトは戸惑いしかなかった。
「……軍の人間だったな。医術の心得は?」
「簡単な応急処置なら訓練を受けています」
彼女は軍医ではない。本当に必要最低限の応急処置しか訓練を受けていないはずだ。
それでも十分だった。ラコルトは満足したように頷いた。
「わかった。あっちで女たちが集まって怪我人の治療をしている。手伝ってやってくれ」
「わかりました」
ユリカが歩き出す。すると横にいたクラウスとフェリックスも声を上げた。
「ラコルトさん。自分たちも救援に参加します。何か手伝えることは?」
ラコルトの目が彼らを射抜く。ラコルトも彼らを参加させるべきか迷っているようだが、二人の顔を見るとすぐに指示を出した。
「瓦礫を撤去するのを手伝ってやってくれ。邪魔にならないようにな」
ラコルトが言うや否や、クラウスたちはすぐに瓦礫に向かった。
街のあちこちで上がる悲鳴や叫び。それに負けまいと男たちが、いや街の人々が立ち向かっていた。
雨が降り続く中、懸命の作業が続いた。動ける男たちは瓦礫の撤去作業や、けが人を運び出すなど、
その身が倒れるまで働いた。クラウスたちも瓦礫の撤去を手伝った。
救護所では女たちに混じってユリカがけが人の手当てをしていた。さすがに本格的な治療はできないが、応急処置でもやるのとやらないのとでは大きく違う。それだけで救える命も増えるのだ。
雨が降る中、彼らの戦いは夕刻まで続いた。
陽が沈む前に作業は一旦終了となった。まだまだ瓦礫は残っているが、夜の作業は危険が伴うとのことで、この日は終了となった。
クラウスはその場でへたり込んだ。体中泥だらけで、いくつか傷ができていた。さすがに疲労困憊といった様子だった。
「大丈夫ですか? クラウスさん」
フェリックスが声をかける。やはり軍人だからか、クラウスよりは余裕があるようだった。
「ええ、なんとか。失礼、お恥ずかしいところをお見せして」
「仕方ありません。この悪条件でここまで働いたのです。よく持った方ですよ」
お互い笑みを交わす二人。その時、よく知ってる声が聞こえてきた。
「あら。泥だらけになって、だいぶ色男になったわね」
そんなことを言いながら、ユリカがニタニタ笑っていた。クラウスたちが見ると、彼女も体中汚れていた。泥だったりホコリだったり。それに治療中についたのか、軽く返り血を浴びていた。
「それはどうも。お嬢さんもいつも以上に美しくなられたようだ。一瞬誰かわからなかったよ」
「あらそう? 次から潜入捜査の時は、この手を使おうかしら?」
そんな軽口を叩き合ってから、お互いの口から笑い声が響いた。
「ユリカ様!」
その時、彼らの元にシュライヤーが走り寄ってきた。彼もこの地震で一日走り回ったのか、ヘトヘトの様子だった。
「みなさん、ご無事でしたか!? よかった」
「ありがとうございます。おじ様もご無事で何よりです。街の状況はどうなっていますか?」
ユリカがそう言うと、シュライヤーは落ち着いて話そうと言って、近くの休憩所に連れて行った。そこにはラコルトの姿もあった。
「お疲れさん。今日は良く働いてくれたな」
「ラコルト様もご無事で」
お互いの無事を確認し合った後で、シュライヤーが口を開いた。
「まず街の状況ですが、だいぶひどいです。建物が多く倒壊しており、それに巻き込まれて怪我人が多く出ています。街のみなさんで作業をしていますが、人手が圧倒的に足りていません」
この規模の災害だ。人手など足りなくて当たり前とも言えた。
「シュライヤーさん。どこかに救援を要請できませんか?」
「すでにビュルテン軍に救援要請を出しているのですが、一番近い駐屯地からでもかなり時間がかかります。それにこの雨ですので、余計に時間がかかると連絡がありました」
弱り切った様子のシュライヤー。彼もできる限りのことをしているのだろう。それでもできることには限界があるのだ。
「しかし、それでは余計に手間取ることになりますね」
フェリックスの言葉に一同の顔が暗くなる。その時、ユリカが手を挙げた。
「おじ様。それでは、国境線近くにいるグラーセン軍に救援を求めてはいかがですか?」
全員の視線がユリカの集まった。シュライヤーとラコルトが驚きの顔で。クラウスとフェリックスは戸惑いの顔で彼女を見た。
「グラーセン軍にですか?」
「はい。国境の近くにグラーセン軍が駐屯しています。彼らにも救援を要請するのも一つの手かと思います。私たちにはグラーセン本国と連絡を取ることもできます。いかがでしょう?」
フェリックス大尉からグラーセンに連絡を取ってもらえれば、救援要請が出せる。距離的にも比較的早く救援に駆けつけてくれるはずだ。
ただ、ラコルトがどう思うか。それが気になっていた。ユリカは彼を見た。
「……こんな時に迷っている暇はない。来れるのなら呼んでくれ。人手は多いに越したことはない」
ラコルトの言葉にユリカはほっと胸を撫で下ろした。
「わかりました。それではすぐにグラーセンに連絡を取ります」
ユリカがそう言った瞬間、何者かが部屋に入ってきた。
「大変です! シュライヤーさん!」
入ってきた男は大慌てで走り込んできた。さすがにユリカたちも驚きを隠せなかった。
「落ち着きなさい。何があったのですか?」
瞬間、クラウスは嫌な予感がした。こういう時は必ず、嫌なことが重なるものだ。そして、それは今回も同じだった。
「グラーセン側に繋がっている道が土砂崩れで塞がれています! 救援物資が届きません!」
不運とは重なるものだ。まるでミルフィーユみたいに。
ビュルテン軍の救援は遅れる。そればかりかグラーセンと繋がっている道が土砂崩れで塞がれてしまい、グラーセン軍も救援物資も届かないという状況だった。
さすがの不運を前に誰もが暗い顔をしていた。
「一応グラーセンに連絡を取りました。軍の派遣は決定しましたが、道路が塞がれている以上、どうやっても遅れてしまうだろう、と」
予測できていた答えでも、言葉にされるとやはり辛いものがあった。フェリックスもそれがわかっているのか、辛そうな顔をしていた。
時間がなかった。怪我人は多く出ており、街に備蓄してあった医療品や食料は底をつく可能性があった。すぐに救援物資が必要なのだが、そのための道が塞がれている。致命的だった。
街ではかがり火が焚かれており、街を照らしている。作業に明け暮れていた男たちに食事が振舞われ、誰もが疲れながらも気を張っていた。
だが、それもいつまで続くか。今はまだ精神的に強くいられるが、人間いつまでも強くいられるほど丈夫にできてはいない。
何よりこの場で一番辛そうなのは、ラコルトとシュライヤーの二人だった。二人ともこの街で育ってきたのだ。故郷の惨状を前に辛くないはずがない。彼らの沈黙は、まるで苦悩の叫びに思えた。
だからだろう。ユリカが唐突に立ち上がった。
「フェリックス大尉。今まで測量してきたビュルテンの地図を持ってきてください」
あまりに唐突な言葉にフェリックスが戸惑った。彼女が何を考えているのか、クラウスも怪訝な顔になった。
「一体、どうなさるおつもりですか?」
「通れそうなルートを教えてください。私がそこを使って、グラーセン軍を連れてきます」
クラウスが思わず叫びそうになる。そんなバカな! と。それはフェリックスも同じ気持ちだった。
「お嬢様。それは無理です。この雨で山を越えるのは危険です」
ただでさえ数日続いた雨なのだ。土砂崩れが起きるほどに危険な状態だ。そんな山を越えるのは、いくらなんでも不可能だった。
「大尉の言うとおり危険すぎる。せめて明るくなるのを待つべきだ」
クラウスも宥めるように言葉をかける。その言葉が逆にユリカに火をつけた。
「危険は百も承知です。ですが、このまま座することはできません。行かせてください」
クラウスが頭を抱えた。こうなった時の彼女を止めることはできない。それは彼が一番わかっていた。かと言って彼女を行かせるわけにはいかない。あまりに危険すぎる。
彼女の気持ちは痛いほどわかる。すぐにでも駆け出したいのはクラウスも同じだった。
歯がゆかった。数日前まで晴天で、ユリカたちを迎えてくれたビュルテンの山は、今は何人たりとも受け入れてはくれないのだ。
「とにかく行かせてください。どんなことをしてでも、私は行きます」
もう待ってられない。そんなユリカを前に困り果てるクラウス。どうするべきか、迷っていた。
「お嬢さん。本当に何でもするかね?」
その時、ラコルトが声を上げた。ユリカたちの視線が彼に集まる。
「お嬢さん。あんたは本当にこの街のために走ってくれるのか? 命の危険があっても?」
いきなりの問いかけ。しかしユリカはためらうことなく、即答した。
「友が苦しんでいるなら、友の元へ駆けつけよ。たとえそこが煉獄であっても」
それはグラーセン軍の標語の一つ。戦友を助け、共に戦うことを誓い合う。それがグラーセン軍の在り方。彼女は今、それを実践しようとしていた。
その言葉を受け止めたラコルトが少し考えた後、意を決したように口を開いた。
「お嬢さん。あんたが命を懸けてくれるのなら、一つだけ山を越える方法がある」
重々しい言葉を吐くラコルト。誰もが彼の言葉に耳を傾けた。
ラコルトを先頭にクラウスたちが山を歩いていく。クラウスとユリカは登山用の作業着に着替えており、雨で濡れた山を登っていた。
「ここだ」
ラコルトが立ち止まる。彼の目の前には、木の板で閉じられた洞窟が姿を現した。
「こんなとこに洞窟が……」
フェリックスが驚きの声を上げた。洞窟は巧妙に隠されており、ラコルトに案内されなければ、その洞窟の存在には誰も気づかなかっただろう。これまで測量を続けてきたフェリックスも初めて目にしているようだった。。
「ここは昔、ビュルテンと帝国を繋げるために作られた、秘密の坑道だ」
「秘密の坑道?」
洞窟を閉じている板をこじ開けながら、ラコルトが静かに語りだす。
「まだクロイツ帝国だった頃、ビュルテンと帝国との間を行き来するために、自分たちの先祖が作った道なんだ。戦争の時代には特に重宝されたらしい」
秘密の坑道。なるほど、それなら巧妙に隠されていたのも納得できる。ここは軍事的に重要な連絡路なのだ。
「こんなものがあったなんて……知らなかったです」
「そうだろうな。知っていたのは一部の人間だけだったし、それに閉じられてから何十年と経っているんだ。こんな事態でもなければ、自分も思い出すことはなかったと思う」
そう言って彼は坑道の入り口を開いた。奥には暗闇しか見えず、地獄の窯が口を開いているような、そんな印象を受けた。クラウスは身震いをした。
「ここを通れば山を越えてグラーセン側に行けるはずだ。一本道になっているはずだから、迷うことはないはずだ」
「……なるほど。この坑道を使って、グラーセン軍を連れてくる。そういうことですね」
ユリカが頷く。ユリカとクラウスは登山用の衣服に着替えており、いつでも行ける準備をしていた。
ただ言うは易し。ラコルトが言った。
「さっきも言ったが、この坑道は何十年も前に閉鎖したまま、今まで誰も使っていない。もしかしたら、中で崩落しているかもしれない。そうでなくてもこの雨だ。事故が起きてもおかしくない。仮に向こうまで行けても、出口がどこにあるかは自分にもわからない」
実際山では土砂崩れが起きているのだ。坑道の中で事故が起きる可能性があった。ただでさえ危険な状態だ。
「どうする? それでも行くのかね?」
それは最後の確認だった。ラコルトの視線がユリカたちに突き刺さる。
ここで引き返しても、きっとラコルトは非難はしないだろう。もしかしたら、本当はそこで引き返してほしかったのかもしれない。ユリカたちを危険な目に合わせたくないから。
だが、その問いかけに意味はなかった。ユリカは笑みを浮かべるだけだった。
「ありがたく、使わせていただきますわ」
もう答えは決まっていた。ユリカはもう一度荷物を背負いなおして、坑道へと顔を向けた。
その様子をラコルトは溜息を吐きながら見ていた。
そのユリカにフェリックスが言葉をかけた。
「お嬢様。決して無理はなさらないでください。もし危険だと判断したら、すぐに引き返してください」
「ありがとうございます」
一緒に行くことになるクラウスにもフェリックスから声をかけられた。
「クラウスさん。どうかご無事で。無理はなさらないよう、お気を付けください」
「ありがとうございます。そちらも気を付けて」
お互いに握手を交わす。まるで戦場に向かう戦友を見送るような、そんな感傷。
握手を交わして、ユリカとクラウスが坑道の前に立つ。目の前には大きく開いた坑道の入り口と、その奥に広がる暗闇。
クラウスに緊張が走る。何が起きるかわからない。きっとその先には想像できない世界がある。クラウスはもう一度身震いした。
「あら? どうしたの?」
すると、そんな彼にユリカがいつもの笑みを向けてきた。
「もしかして、夜が怖くて震えているのかしら? 怖いのなら、家に帰ってベッドに潜り込んでもいいのよ?」
悪戯な笑みで意地悪なことを言うユリカ。馬鹿にされているとわかっているのだが、しかしクラウスは彼女の笑みを見て、むしろホッとしていた。
「大丈夫だ。君と一緒に行ったハイキングの続きなんだろう? 今度は負けないからな」
そんな軽口を受けてユリカは面白いとばかりに微笑んだ。
一人では無理かもしれないが、二人でなら絶対にいける。不思議と二人には同じ想いで繋がっていた。
「それでは、行ってきます」
そう言ってユリカたちは坑道へと入っていった。そんな彼らを心配そうにフェリックスたちは見送るのだった。
不思議な世界だった。外では身を切るような寒さが二人を包んでいたのに、坑道の中は寒くもなく、暖かくもなかった。外の世界と隔絶された世界で、空気は一定に保たれているのだ。
ただ、長い年月がそうさせているのか、坑道の足場はかなり荒れていた。ランプだけが頼りなので、慎重に歩かないといけなかった
さすがに足場が不安定なのか、ユリカの体がふらついていた。
「大丈夫か?」
心配になってクラウスが手を差し伸べる。その手を取りながらユリカが笑った。
「ありがとう」
ふふ、とユリカが笑う。
「どうした? 何かおかしいか?」
「だって、この前のハイキングでは、ヘトヘトに疲れていた人とは思えないもの」
一緒に山を登った時、軽い足取りのユリカと違い、クラウスは慣れない登山に疲れを見せていた。事実ではあるのだが、やはり面白くないクラウスはこうつぶやいた。
「私だって、一応は武門の一族に生まれたんだ。シャルンスト家の健在ぶりを見せないといけないからな」
「あら、頼もしいわ」
そんなことを言い合って、二人はまた歩き出した。
「しかし、何十年も前に作られたにしては、だいぶ頑丈にできているな。さすがに荒れているのは仕方ないが、崩落した感じはないし、当たり前だがすごい技術だな」
クラウスが感心したように唸った。彼らが歩いてきた坑道は何十年も前に作ったというが、実に頑丈に作られていた。
「そうね。やっぱり鉱山で生きてきた、長い歴史の結晶なんでしょうね。当時の技術の全てが、ここに集められたんだと思うわ」
鉱山と共に発展してきたビュルテン。長い歴史の中で彼らは発展と挫折を繰り返してきた。そんな彼らが受け継いできた歴史は結晶として残り、こうして世界でも有数の鉱山として名を馳せている。
クラウスたちが歩いている坑道も、ビュルテンの父たちが残した歴史なのだ。
それを思うと、こうして自分たちが歩くことに特別な想いが沸き起こる。今歩くこの道は、特別な道なのだと。
「でも、なんだか不思議ね」
そんな中、ユリカが呟く。彼女にしては珍しく、静かな呟きだった。
「不思議とは、何がだ?」
「ここって、昔は帝国と繋げるために作られた道なんでしょう? 昔は帝国軍やビュルテン軍も使っていたってことなのよね。かつてここをクロイツ帝国が使っていたなんて、不思議だわ」
ラコルトの話では、ここを通って帝国軍がビュルテンに駆けつけたことがあったらしい。そう言う意味では、この坑道はかつての帝国の遺産なのだ。
「もしかして、昔の人たちも、私と同じ気持ちだったのかしら?」
「同じ気持ち?」
「ほら、山で言ったじゃない? 国境を自由に飛び越える鳥たちが羨ましいって。もしかしたら昔の人たちも、鳥たちみたいに自由に行き来したくて、この道を作ったんじゃないかしら?」
ユリカはビュルテンの青空を飛んでいた鳥たちが羨ましいと言っていた。自分たちが苦労して行き来する二つの国を、鳥は関係なく国境を越えている。彼女にはその姿が羨ましかった。
この道を作った人たちも、自由に行き来できる道を作りたかったのかもしれない。自分たちに空を飛ぶための翼はないけれど、道を作ることはできるのだと。
ユリカにとっては何気ない言葉だったのかもしれない。しかし、それを聞いていたクラウスは、彼女の言葉が真実であるように思えた。
戦争が起きても、苦しいことが起きても、彼らは繋がりを捨てることなく、お互いの道を行き来してきた。それは当時の人々がそれを望んでいたからだ。
この道は、そんな人々の願いが形となったものなのだ。
今、クラウスたちはその願いの道を歩いている。そのことにクラウスは不思議な感情が沸き起こるのを感じていた。
そんな彼の顔をじっと見つめ、ユリカが微笑んでいた。きっと彼女も、同じ気持ちになっていたに違いない。彼女はクラウスに声をかけた。
「さ、行きましょう」
まだまだ道は続く。早く先へ進もうと微笑みかけた。その微笑みにクラウスも笑みを返した。
「ああ、行こう」
二人の笑みが交差する。彼らは再び、目の前に続く道を歩き出そうとした。
その時、またも世界が揺れた。
「きゃ!」
「余震か!?」
坑道の中も大きく揺れた。その時、ユリカが倒れこんだ。
少しして揺れも収まった。何とか坑道も崩落だけは免れた。
「大丈夫か!」
クラウスが駆け寄る。ユリカは足を押さえてうずくまっていた。
「いたた……」
「どうした? 足が痛むのか?」
彼女の顔が苦痛で歪んでいた。
「ちょっとくじいたみたい」
それほど大きな怪我ではないみたいだが、動くのが辛そうだった。
「少し休むか?」
心配そうに覗き込むクラウス。しかしユリカは立ち上がろうとした。
「そんな時間はないわ。大丈夫だから、早く行きましょう」
そうは言うが、明らかに辛そうだった。立ち上がるのもゆっくりだった。
すると、クラウスが手を差し出した。
「ほら」
その手をユリカはまじまじと見つめた。
「どうした?」
ユリカは少し戸惑っていたが、すぐにその手を握った。クラウスは彼女の手を握ると、彼女の肩を抱えて一緒に歩き出した。
「行こう。一緒に山の向こうまで」
そう言って二人は歩き出した。ゆっくりとした足取りだが、しっかりと前へ歩き出した。
「大丈夫? 辛かったらすぐに言ってね」
「大丈夫さ。シャルンスト家を過小評価しないでくれよ」
そう言って自分を奮い立たせるクラウス。お姫様を守る騎士のような気持ちで、彼は彼女を守るように歩いた。
「君はあの鳥が羨ましいと言っていたな」
その時、クラウスが話し始めた。ユリカは何も言わず、じっと聞いていた。
「君にも私にも、国境を自由に行き来する翼はない。私は君の翼になってやることはできない」
ユリカは空を飛ぶ鳥を羨ましいと言った。国境など関係なく、自由に世界を行き来できる鳥を羨ましそうに見ていた。
「確かに私も羨ましい。だけど、こうして君と一緒に歩くことはできる。私も君と一緒なら、どこへだって行ける気がするんだ」
今までユリカはクラウスの手を引いて前を歩いてくれた。彼女の手に引かれたら、どこへだって行ける気がした。クラウスはわくわくしていた。
だから今度は、彼が彼女の手を引く番だ。
「いつか帝国が統一されたら、一緒にどこへでも行こう。君が疲れたら、こうして手伝ってやるから」
フェリックスは言っていた。いつか帝国の地図を作って、その地図を持って恋人と国を旅行したいと。
彼にはそれが羨ましかった。だから、彼もフェリックスの地図を持って、帝国を旅行してみたかった。不思議なのは、その隣にはユリカがいる。そんな想像が彼の中にあった。
だから、こんなとこで立ち止まってはいられない。一緒に帝国を旅するのだから。
そんな彼の言葉を聞いていたユリカは、彼の体を力強く抱きしめた。
「……ありがとう。あなた」
それ以上何も言わなかった。たださすがにクラウスも彼女を抱えるのは体力がきつかった。
やはり国に帰ったら鍛え直そう。改めてそう決意するクラウスだった。
「……なんてことだ」
クラウスは愕然として呟いた。二人の前で道が閉ざされていた。土砂が流れ込んでおり、出口が塞がれていたのだ。
長い間閉鎖されていた坑道だ。こんなことがあってもおかしくはない。だけど、起きては欲しくなかった事態だった。
ユリカも同じように立ち尽くしていた。二人とも長い間歩き通しだったのだ。目の前の現実を目の当たりにして、一気に疲労が二人を襲った。
ここまで来て目の前の絶望を見て、彼らは今までの歩みが無意味だったのだと思い知らされていた。
「……引き返しましょう」
ユリカはそれだけ言うのがやっとだった。クラウスは何も答えなかった。彼女の言うことが正しいことはわかっていても、簡単に同意できなかった。
自分たちを信じて送り出したラコルトたちを思うと、引き返したくなかった。
しかしどうしようもない現実が彼らの前に立ちふさがっているのだ。
「行きましょう」
ユリカが力なく引き返そうとした。クラウスもそれに続くように振り返ろうとした。
その時、土砂の向こうから聞いたことのある音が聞こえてきた。
「……おい。何か聞こえなかったか?」
「え?」
ユリカが立ち止まる。二人はその場に留まり、耳を傾けた。
それは汽車の汽笛の音だった。音は土砂の向こう側から聞こえてきた。
「おい。今のって」
「汽笛のようね。それもかなり近いわ」
汽笛の音が近い。それが意味するところは、この土砂の向こうに汽車が通っている!
「もしかして、この土砂って意外と薄いのかしら」
「きっとそうだ! おい! 誰かそこにいないか!」
クラウスが叫ぶ。しかし返事はない。
一度は聞こえた汽笛。それは彼らに希望をもたらした。
「おい。この土砂をどかすぞ!」
「わかったわ」
そう言って二人は土砂に向かった。二人はその場に落ちていた木材などを手に取り、スコップ代わりにして土砂を取り除こうとした。
少しずつ、少しずつ土砂を取り除く。泥だらけになり、雨でびちゃびちゃになっていたが、二人はお構いなしに目の前の土砂に立ち向かう。
こんなことならスコップでも持ってくるべきだった。だがそんな愚痴を言う暇もなかった。彼らは一心不乱に掘り続けた。
「痛!」
ユリカが叫んだ。スコップ代わりの木材でけがをしたのか、手から血が流れていた。
「おい。大丈夫か?」
クラウスが声をかける。見れば赤い血が彼女の手を染めていた。
「一旦休め。あとは私がやる」
「……いやよ」
クラウスの声にユリカが首を振る。彼女はけがしたままの手でもう一度木材を手に取り、また土砂を掘り始めた。しかし、力が入らないのか、見るからに弱々しかった。
「やめるんだ。その手では力が入らないだろう」
「いやよ。絶対にここを突破するのよ」
意地でも止めないとユリカは土砂を掘り続ける。心配するクラウスにユリカが言った。
「だって悔しいじゃない。ここまで来て引き返すなんて。あと少しで向こうに行けるのよ」
ユリカの手は止まらなかった。どうしても彼女はここを離れなかった。
「私には国境を超えるための翼もない。まだ鉄道だって通っていない。だけど、私たちは一つの道で繋がることができるのよ。こんな土砂一つで通れないなんて、そんなのあってはならないわ」
少しずつ、少しずつ掘り進める。彼女の手にもう一度力が込められた。
「いつかここは帝国になるのよ! 統一された国を自由に行き来できないなんて、そんなの意味がないじゃない!」
彼女は帝国の統一を夢見ている。そして、統一された祖国を自由に歩きたいと願っていた。それはフェリックスも抱いていた夢。いつか統一された祖国を、自分が作った地図を持って、家族と旅行するという夢。
「せっかく取り戻した繋がりなのよ! ここで止まってはいけないわ!」
そう叫ぶユリカ。泥だらけになり、手は傷だらけ。だけど、彼女の尊さと美しさは、損なわれてはいなかった。
そんな彼女を前にして、クラウスにも力が沸き起こった。
「……そうだな。そうだよな」
彼はそれだけ言って、また土砂を掘り始めた。
かつて昔の人たちも、こうして穴を掘り進めたのだろう。数十年後の自分たちが同じことをするとは、彼らは夢にも思っていなかっただろう。
今は彼らに感謝したかった。こうして自分たちに繋がりを残してくれたことに。
その感謝を胸に二人が掘り進めると、向こうから光が差し込んできた。
「雨がひどいですわね」
「そうですね。山は天気が変わりやすいと言いますが、これほど雨が続くのは初めてです。川も増水しているらしいので、少し危ないですね」
山から流れ落ちる川は、当然のことながら雨の影響が一番大きい。小雨だと思っていても、山全体に降る量は多くなるので、必然的に川の増水量が大きくなる。少しの増水でも油断はできないのだ。
外に出られないからか、ユリカは退屈そうに溜息を吐いた。
「グラーセンは今頃、どんな話をしているのかしら?」
ラコルトとの会談の内容をグラーセンに報告したところ、政府からは了解したことと、ビュルテンとの取引材料を用意すると返答があった。政府や軍部では今頃、話し合いが行われているはずだ。
一体どんな話をしているのだろうか。ユリカはやきもきした。それを横で見ていたクラウスは、正直不安を感じていた。
ラコルトがグラーセンと繋がることを拒否しているのは、このビュルテンを想ってのことだ。この国を守るために考えたことなのだ。
言い換えれば愛国心から起こしたものだ。その愛国心に見合う条件とは何か? 何を提示したところで、彼の心を変えることができるだろうか?
経済的、政治的な条件で彼の心を変えることはできない。クラウスはそう思った。何かもっと別のことでないと、彼を変えることはできないと。
問題はそれが何なのか。それがわからないのだ。
クラウスも小さく溜息を吐いた。それを見ていたユリカが笑った。
「この部屋は溜息に溢れているわね」
「ははは。悩みは誰も尽きませんね」
釣られてフェリックスも笑った。同じようにクラウスも笑う。まだ笑える力が残っている。やはり仲間がいるというのは、それだけで素晴らしいのだ。
「ねえ。そろそろ食事にしない? 溜息ばかり吐いていたから、お腹が空いたわ」
その言葉には同意した。そろそろ食事の時間だった。
「そうですね。そろそろ行きましょうか」
そう言ってフェリックスが立ち上がろうとした時だった。
カタタ……カタタ……と、机の上のグラスが音を立てて揺れていた。
三人ともグラスを見た。あまりに不自然な、不吉な揺れ方だった。
グラスの揺れが収まる。静寂が部屋を、いや世界を包んだ。
そして、世界が大きく揺れた。
「きゃあ!」
ユリカの悲鳴が上がる。クラウスはすぐに彼女の元に走り寄り、彼女を守るように抱きかかえた。フェリックスはすぐに机の下に潜り込み、その身を守った。
永遠だったかもしれないし、ほんの一瞬だったかもしれない。何もわからなくなるくらい大地は揺れ動いた。
しばらくすると、またも世界に静寂が満ちた。周りを見ると、机や本棚の本が床に転げ落ちていた。彼の腕の中でユリカが視線を泳がせる。フェリックスもゆっくりと体を起こした。
「大丈夫か?」
「え、ええ……大丈夫」
「今のは、地震でしょうか?」
お互い小さな呟きを口にする。彼らがそうしていると、静かだった世界が一気に動き出した。外から轟音が響いてきた。
「なんだ!?」
その時、ドアが勢いよく開いた。フェリックスの部下の一人が入り込んできた。
「大尉! みなさんも大丈夫ですか!」
「ああ、大丈夫だ。みんなは?」
「こっちは大丈夫です! 屋敷の人たちも無事を確認しています!」
あの揺れの直後にすぐに行動を起こせるあたり、さすがは軍人と言うべきだった。クラウスが感心していると、外の騒ぎが大きくなっていた。
「外では何が起きている?」
「わかりません。すでに何人か外に出していますが、まだ何も把握できていません」
その時、もう一人部下が入り込んできた。彼の青ざめた顔が、嫌な報告であることを告げていた。
「大尉! 今の地震で街でいくつかの建物が倒壊しました! 多くの負傷者が出ています!」
あの規模の地震だ。全く被害が出ていないはずがない。あの騒ぎは倒壊した建物を前にした人々の、断末魔の叫びなのだ。
「他のみんなも連れて、救援に行ってくれ! 他にも助けられることは助けてやるんだ! 早く行ってくれ!」
「わかりました!」
状況を把握したフェリックスは大尉としてやるべきことをやっていた。部下たちに指示を出し、被害者の救援に向かわせた。
その声に反応するようにユリカがコートを手に取った。
「私たちも行きましょう!」
すぐに走り出そうとするユリカ。クラウスたちは言われるまでもないとばかりに、彼女の後に続いた。
美術に感心のないクラウスも、何回か美術館に行ったことがある。そこでは神話や歴史の中で起きた悲劇を題材にした悲惨な作品を見たことがある。傑作と呼ばれるそれら作品を前にして、クラウスも心を痛めたことがあった。
今目の前で起きていることは、悲劇では足りない現実だった。
街に瓦礫の山が出来上がっていた。昨日まであった背の高い建物が姿を消し、かわりに瓦礫の山がそこに誕生していた。その山を前にして、悲鳴や叫びが轟いていた。
阿鼻叫喚。この言葉を形にするなら、今この場にある現実のことなのだろう。
横にいたユリカも言葉を失っていた。ここだけでなく、街のいたるところで悲鳴が上がっていた。今も懸命に救助活動が行われており、中には頭から血を流している人間が、瓦礫を掘り起こそうとしていた。
動けるのなら怪我人も動いている。街の惨劇はそれほどひどいものなのだと思い知らされた。
何より恐ろしいのは、目の前の瓦礫の中に、埋もれている人がたくさんいるということなのだ。
その時、この場に大勢の男が駆けつけてくるのが見えた。その先頭に立っているのはラコルトだった。
「お前たちはここを担当するんだ! まず被害者の救援が最優先だ! 山で鍛えた体をここで使うんだ!」
ラコルトの怒号に男たちは雄叫びを上げ、一目散に瓦礫の山に向かった。彼らを見送った後、こちらに気付いたラコルトが近寄ってきた。
「あんたたちか。無事だったんだな」
「はい。なんとか……彼らは鉱山の人たちですか?」
「ああ。山と共に生きてきた男たちだ。無駄に鍛えた体だ。役に立つだろう」
ここ以外にも事故が起きた場所には労働者たちが派遣されているという。すごい男たちだ。
しかし、そんな彼らをユリカが暗い顔で見つめていた。
「ラコルト様。あの人たちの家族は大丈夫ですの?」
クラウスがハッとする。彼らの家族もこの街に暮らしている。もしかしたら、目の前のがれきの下に、彼らの家族がいるのかもしれない。彼らは家族の安否を確認できているのだろうか?
その問いかけにラコルトは静かに返した。
「これがこの街の、山で生きるということだ」
山で生きるという覚悟。その気迫に二人は圧倒された。きっと瓦礫に立ち向かう男たちの胸中は穏やかではないだろう。すぐにでも家族を探しに行きたいはずだ。だが、男たちは鋼の体で迷いを抑えつけて、今こうやって瓦礫に立ち向かっているのだ。
彼らの在り方にクラウスは言葉を失った。
「さ、あんたたちは安全な場所に行くんだ。これ以上被害を出すわけにはいかないからな」
「待ってください」
避難を促すラコルトを制して、ユリカが前に出た。
「私も救援に参加します。何かできることはありませんか?」
ユリカの申し出にラコルトが驚く。予想もしていなかったことにラコルトは戸惑いしかなかった。
「……軍の人間だったな。医術の心得は?」
「簡単な応急処置なら訓練を受けています」
彼女は軍医ではない。本当に必要最低限の応急処置しか訓練を受けていないはずだ。
それでも十分だった。ラコルトは満足したように頷いた。
「わかった。あっちで女たちが集まって怪我人の治療をしている。手伝ってやってくれ」
「わかりました」
ユリカが歩き出す。すると横にいたクラウスとフェリックスも声を上げた。
「ラコルトさん。自分たちも救援に参加します。何か手伝えることは?」
ラコルトの目が彼らを射抜く。ラコルトも彼らを参加させるべきか迷っているようだが、二人の顔を見るとすぐに指示を出した。
「瓦礫を撤去するのを手伝ってやってくれ。邪魔にならないようにな」
ラコルトが言うや否や、クラウスたちはすぐに瓦礫に向かった。
街のあちこちで上がる悲鳴や叫び。それに負けまいと男たちが、いや街の人々が立ち向かっていた。
雨が降り続く中、懸命の作業が続いた。動ける男たちは瓦礫の撤去作業や、けが人を運び出すなど、
その身が倒れるまで働いた。クラウスたちも瓦礫の撤去を手伝った。
救護所では女たちに混じってユリカがけが人の手当てをしていた。さすがに本格的な治療はできないが、応急処置でもやるのとやらないのとでは大きく違う。それだけで救える命も増えるのだ。
雨が降る中、彼らの戦いは夕刻まで続いた。
陽が沈む前に作業は一旦終了となった。まだまだ瓦礫は残っているが、夜の作業は危険が伴うとのことで、この日は終了となった。
クラウスはその場でへたり込んだ。体中泥だらけで、いくつか傷ができていた。さすがに疲労困憊といった様子だった。
「大丈夫ですか? クラウスさん」
フェリックスが声をかける。やはり軍人だからか、クラウスよりは余裕があるようだった。
「ええ、なんとか。失礼、お恥ずかしいところをお見せして」
「仕方ありません。この悪条件でここまで働いたのです。よく持った方ですよ」
お互い笑みを交わす二人。その時、よく知ってる声が聞こえてきた。
「あら。泥だらけになって、だいぶ色男になったわね」
そんなことを言いながら、ユリカがニタニタ笑っていた。クラウスたちが見ると、彼女も体中汚れていた。泥だったりホコリだったり。それに治療中についたのか、軽く返り血を浴びていた。
「それはどうも。お嬢さんもいつも以上に美しくなられたようだ。一瞬誰かわからなかったよ」
「あらそう? 次から潜入捜査の時は、この手を使おうかしら?」
そんな軽口を叩き合ってから、お互いの口から笑い声が響いた。
「ユリカ様!」
その時、彼らの元にシュライヤーが走り寄ってきた。彼もこの地震で一日走り回ったのか、ヘトヘトの様子だった。
「みなさん、ご無事でしたか!? よかった」
「ありがとうございます。おじ様もご無事で何よりです。街の状況はどうなっていますか?」
ユリカがそう言うと、シュライヤーは落ち着いて話そうと言って、近くの休憩所に連れて行った。そこにはラコルトの姿もあった。
「お疲れさん。今日は良く働いてくれたな」
「ラコルト様もご無事で」
お互いの無事を確認し合った後で、シュライヤーが口を開いた。
「まず街の状況ですが、だいぶひどいです。建物が多く倒壊しており、それに巻き込まれて怪我人が多く出ています。街のみなさんで作業をしていますが、人手が圧倒的に足りていません」
この規模の災害だ。人手など足りなくて当たり前とも言えた。
「シュライヤーさん。どこかに救援を要請できませんか?」
「すでにビュルテン軍に救援要請を出しているのですが、一番近い駐屯地からでもかなり時間がかかります。それにこの雨ですので、余計に時間がかかると連絡がありました」
弱り切った様子のシュライヤー。彼もできる限りのことをしているのだろう。それでもできることには限界があるのだ。
「しかし、それでは余計に手間取ることになりますね」
フェリックスの言葉に一同の顔が暗くなる。その時、ユリカが手を挙げた。
「おじ様。それでは、国境線近くにいるグラーセン軍に救援を求めてはいかがですか?」
全員の視線がユリカの集まった。シュライヤーとラコルトが驚きの顔で。クラウスとフェリックスは戸惑いの顔で彼女を見た。
「グラーセン軍にですか?」
「はい。国境の近くにグラーセン軍が駐屯しています。彼らにも救援を要請するのも一つの手かと思います。私たちにはグラーセン本国と連絡を取ることもできます。いかがでしょう?」
フェリックス大尉からグラーセンに連絡を取ってもらえれば、救援要請が出せる。距離的にも比較的早く救援に駆けつけてくれるはずだ。
ただ、ラコルトがどう思うか。それが気になっていた。ユリカは彼を見た。
「……こんな時に迷っている暇はない。来れるのなら呼んでくれ。人手は多いに越したことはない」
ラコルトの言葉にユリカはほっと胸を撫で下ろした。
「わかりました。それではすぐにグラーセンに連絡を取ります」
ユリカがそう言った瞬間、何者かが部屋に入ってきた。
「大変です! シュライヤーさん!」
入ってきた男は大慌てで走り込んできた。さすがにユリカたちも驚きを隠せなかった。
「落ち着きなさい。何があったのですか?」
瞬間、クラウスは嫌な予感がした。こういう時は必ず、嫌なことが重なるものだ。そして、それは今回も同じだった。
「グラーセン側に繋がっている道が土砂崩れで塞がれています! 救援物資が届きません!」
不運とは重なるものだ。まるでミルフィーユみたいに。
ビュルテン軍の救援は遅れる。そればかりかグラーセンと繋がっている道が土砂崩れで塞がれてしまい、グラーセン軍も救援物資も届かないという状況だった。
さすがの不運を前に誰もが暗い顔をしていた。
「一応グラーセンに連絡を取りました。軍の派遣は決定しましたが、道路が塞がれている以上、どうやっても遅れてしまうだろう、と」
予測できていた答えでも、言葉にされるとやはり辛いものがあった。フェリックスもそれがわかっているのか、辛そうな顔をしていた。
時間がなかった。怪我人は多く出ており、街に備蓄してあった医療品や食料は底をつく可能性があった。すぐに救援物資が必要なのだが、そのための道が塞がれている。致命的だった。
街ではかがり火が焚かれており、街を照らしている。作業に明け暮れていた男たちに食事が振舞われ、誰もが疲れながらも気を張っていた。
だが、それもいつまで続くか。今はまだ精神的に強くいられるが、人間いつまでも強くいられるほど丈夫にできてはいない。
何よりこの場で一番辛そうなのは、ラコルトとシュライヤーの二人だった。二人ともこの街で育ってきたのだ。故郷の惨状を前に辛くないはずがない。彼らの沈黙は、まるで苦悩の叫びに思えた。
だからだろう。ユリカが唐突に立ち上がった。
「フェリックス大尉。今まで測量してきたビュルテンの地図を持ってきてください」
あまりに唐突な言葉にフェリックスが戸惑った。彼女が何を考えているのか、クラウスも怪訝な顔になった。
「一体、どうなさるおつもりですか?」
「通れそうなルートを教えてください。私がそこを使って、グラーセン軍を連れてきます」
クラウスが思わず叫びそうになる。そんなバカな! と。それはフェリックスも同じ気持ちだった。
「お嬢様。それは無理です。この雨で山を越えるのは危険です」
ただでさえ数日続いた雨なのだ。土砂崩れが起きるほどに危険な状態だ。そんな山を越えるのは、いくらなんでも不可能だった。
「大尉の言うとおり危険すぎる。せめて明るくなるのを待つべきだ」
クラウスも宥めるように言葉をかける。その言葉が逆にユリカに火をつけた。
「危険は百も承知です。ですが、このまま座することはできません。行かせてください」
クラウスが頭を抱えた。こうなった時の彼女を止めることはできない。それは彼が一番わかっていた。かと言って彼女を行かせるわけにはいかない。あまりに危険すぎる。
彼女の気持ちは痛いほどわかる。すぐにでも駆け出したいのはクラウスも同じだった。
歯がゆかった。数日前まで晴天で、ユリカたちを迎えてくれたビュルテンの山は、今は何人たりとも受け入れてはくれないのだ。
「とにかく行かせてください。どんなことをしてでも、私は行きます」
もう待ってられない。そんなユリカを前に困り果てるクラウス。どうするべきか、迷っていた。
「お嬢さん。本当に何でもするかね?」
その時、ラコルトが声を上げた。ユリカたちの視線が彼に集まる。
「お嬢さん。あんたは本当にこの街のために走ってくれるのか? 命の危険があっても?」
いきなりの問いかけ。しかしユリカはためらうことなく、即答した。
「友が苦しんでいるなら、友の元へ駆けつけよ。たとえそこが煉獄であっても」
それはグラーセン軍の標語の一つ。戦友を助け、共に戦うことを誓い合う。それがグラーセン軍の在り方。彼女は今、それを実践しようとしていた。
その言葉を受け止めたラコルトが少し考えた後、意を決したように口を開いた。
「お嬢さん。あんたが命を懸けてくれるのなら、一つだけ山を越える方法がある」
重々しい言葉を吐くラコルト。誰もが彼の言葉に耳を傾けた。
ラコルトを先頭にクラウスたちが山を歩いていく。クラウスとユリカは登山用の作業着に着替えており、雨で濡れた山を登っていた。
「ここだ」
ラコルトが立ち止まる。彼の目の前には、木の板で閉じられた洞窟が姿を現した。
「こんなとこに洞窟が……」
フェリックスが驚きの声を上げた。洞窟は巧妙に隠されており、ラコルトに案内されなければ、その洞窟の存在には誰も気づかなかっただろう。これまで測量を続けてきたフェリックスも初めて目にしているようだった。。
「ここは昔、ビュルテンと帝国を繋げるために作られた、秘密の坑道だ」
「秘密の坑道?」
洞窟を閉じている板をこじ開けながら、ラコルトが静かに語りだす。
「まだクロイツ帝国だった頃、ビュルテンと帝国との間を行き来するために、自分たちの先祖が作った道なんだ。戦争の時代には特に重宝されたらしい」
秘密の坑道。なるほど、それなら巧妙に隠されていたのも納得できる。ここは軍事的に重要な連絡路なのだ。
「こんなものがあったなんて……知らなかったです」
「そうだろうな。知っていたのは一部の人間だけだったし、それに閉じられてから何十年と経っているんだ。こんな事態でもなければ、自分も思い出すことはなかったと思う」
そう言って彼は坑道の入り口を開いた。奥には暗闇しか見えず、地獄の窯が口を開いているような、そんな印象を受けた。クラウスは身震いをした。
「ここを通れば山を越えてグラーセン側に行けるはずだ。一本道になっているはずだから、迷うことはないはずだ」
「……なるほど。この坑道を使って、グラーセン軍を連れてくる。そういうことですね」
ユリカが頷く。ユリカとクラウスは登山用の衣服に着替えており、いつでも行ける準備をしていた。
ただ言うは易し。ラコルトが言った。
「さっきも言ったが、この坑道は何十年も前に閉鎖したまま、今まで誰も使っていない。もしかしたら、中で崩落しているかもしれない。そうでなくてもこの雨だ。事故が起きてもおかしくない。仮に向こうまで行けても、出口がどこにあるかは自分にもわからない」
実際山では土砂崩れが起きているのだ。坑道の中で事故が起きる可能性があった。ただでさえ危険な状態だ。
「どうする? それでも行くのかね?」
それは最後の確認だった。ラコルトの視線がユリカたちに突き刺さる。
ここで引き返しても、きっとラコルトは非難はしないだろう。もしかしたら、本当はそこで引き返してほしかったのかもしれない。ユリカたちを危険な目に合わせたくないから。
だが、その問いかけに意味はなかった。ユリカは笑みを浮かべるだけだった。
「ありがたく、使わせていただきますわ」
もう答えは決まっていた。ユリカはもう一度荷物を背負いなおして、坑道へと顔を向けた。
その様子をラコルトは溜息を吐きながら見ていた。
そのユリカにフェリックスが言葉をかけた。
「お嬢様。決して無理はなさらないでください。もし危険だと判断したら、すぐに引き返してください」
「ありがとうございます」
一緒に行くことになるクラウスにもフェリックスから声をかけられた。
「クラウスさん。どうかご無事で。無理はなさらないよう、お気を付けください」
「ありがとうございます。そちらも気を付けて」
お互いに握手を交わす。まるで戦場に向かう戦友を見送るような、そんな感傷。
握手を交わして、ユリカとクラウスが坑道の前に立つ。目の前には大きく開いた坑道の入り口と、その奥に広がる暗闇。
クラウスに緊張が走る。何が起きるかわからない。きっとその先には想像できない世界がある。クラウスはもう一度身震いした。
「あら? どうしたの?」
すると、そんな彼にユリカがいつもの笑みを向けてきた。
「もしかして、夜が怖くて震えているのかしら? 怖いのなら、家に帰ってベッドに潜り込んでもいいのよ?」
悪戯な笑みで意地悪なことを言うユリカ。馬鹿にされているとわかっているのだが、しかしクラウスは彼女の笑みを見て、むしろホッとしていた。
「大丈夫だ。君と一緒に行ったハイキングの続きなんだろう? 今度は負けないからな」
そんな軽口を受けてユリカは面白いとばかりに微笑んだ。
一人では無理かもしれないが、二人でなら絶対にいける。不思議と二人には同じ想いで繋がっていた。
「それでは、行ってきます」
そう言ってユリカたちは坑道へと入っていった。そんな彼らを心配そうにフェリックスたちは見送るのだった。
不思議な世界だった。外では身を切るような寒さが二人を包んでいたのに、坑道の中は寒くもなく、暖かくもなかった。外の世界と隔絶された世界で、空気は一定に保たれているのだ。
ただ、長い年月がそうさせているのか、坑道の足場はかなり荒れていた。ランプだけが頼りなので、慎重に歩かないといけなかった
さすがに足場が不安定なのか、ユリカの体がふらついていた。
「大丈夫か?」
心配になってクラウスが手を差し伸べる。その手を取りながらユリカが笑った。
「ありがとう」
ふふ、とユリカが笑う。
「どうした? 何かおかしいか?」
「だって、この前のハイキングでは、ヘトヘトに疲れていた人とは思えないもの」
一緒に山を登った時、軽い足取りのユリカと違い、クラウスは慣れない登山に疲れを見せていた。事実ではあるのだが、やはり面白くないクラウスはこうつぶやいた。
「私だって、一応は武門の一族に生まれたんだ。シャルンスト家の健在ぶりを見せないといけないからな」
「あら、頼もしいわ」
そんなことを言い合って、二人はまた歩き出した。
「しかし、何十年も前に作られたにしては、だいぶ頑丈にできているな。さすがに荒れているのは仕方ないが、崩落した感じはないし、当たり前だがすごい技術だな」
クラウスが感心したように唸った。彼らが歩いてきた坑道は何十年も前に作ったというが、実に頑丈に作られていた。
「そうね。やっぱり鉱山で生きてきた、長い歴史の結晶なんでしょうね。当時の技術の全てが、ここに集められたんだと思うわ」
鉱山と共に発展してきたビュルテン。長い歴史の中で彼らは発展と挫折を繰り返してきた。そんな彼らが受け継いできた歴史は結晶として残り、こうして世界でも有数の鉱山として名を馳せている。
クラウスたちが歩いている坑道も、ビュルテンの父たちが残した歴史なのだ。
それを思うと、こうして自分たちが歩くことに特別な想いが沸き起こる。今歩くこの道は、特別な道なのだと。
「でも、なんだか不思議ね」
そんな中、ユリカが呟く。彼女にしては珍しく、静かな呟きだった。
「不思議とは、何がだ?」
「ここって、昔は帝国と繋げるために作られた道なんでしょう? 昔は帝国軍やビュルテン軍も使っていたってことなのよね。かつてここをクロイツ帝国が使っていたなんて、不思議だわ」
ラコルトの話では、ここを通って帝国軍がビュルテンに駆けつけたことがあったらしい。そう言う意味では、この坑道はかつての帝国の遺産なのだ。
「もしかして、昔の人たちも、私と同じ気持ちだったのかしら?」
「同じ気持ち?」
「ほら、山で言ったじゃない? 国境を自由に飛び越える鳥たちが羨ましいって。もしかしたら昔の人たちも、鳥たちみたいに自由に行き来したくて、この道を作ったんじゃないかしら?」
ユリカはビュルテンの青空を飛んでいた鳥たちが羨ましいと言っていた。自分たちが苦労して行き来する二つの国を、鳥は関係なく国境を越えている。彼女にはその姿が羨ましかった。
この道を作った人たちも、自由に行き来できる道を作りたかったのかもしれない。自分たちに空を飛ぶための翼はないけれど、道を作ることはできるのだと。
ユリカにとっては何気ない言葉だったのかもしれない。しかし、それを聞いていたクラウスは、彼女の言葉が真実であるように思えた。
戦争が起きても、苦しいことが起きても、彼らは繋がりを捨てることなく、お互いの道を行き来してきた。それは当時の人々がそれを望んでいたからだ。
この道は、そんな人々の願いが形となったものなのだ。
今、クラウスたちはその願いの道を歩いている。そのことにクラウスは不思議な感情が沸き起こるのを感じていた。
そんな彼の顔をじっと見つめ、ユリカが微笑んでいた。きっと彼女も、同じ気持ちになっていたに違いない。彼女はクラウスに声をかけた。
「さ、行きましょう」
まだまだ道は続く。早く先へ進もうと微笑みかけた。その微笑みにクラウスも笑みを返した。
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二人の笑みが交差する。彼らは再び、目の前に続く道を歩き出そうとした。
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「きゃ!」
「余震か!?」
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少しして揺れも収まった。何とか坑道も崩落だけは免れた。
「大丈夫か!」
クラウスが駆け寄る。ユリカは足を押さえてうずくまっていた。
「いたた……」
「どうした? 足が痛むのか?」
彼女の顔が苦痛で歪んでいた。
「ちょっとくじいたみたい」
それほど大きな怪我ではないみたいだが、動くのが辛そうだった。
「少し休むか?」
心配そうに覗き込むクラウス。しかしユリカは立ち上がろうとした。
「そんな時間はないわ。大丈夫だから、早く行きましょう」
そうは言うが、明らかに辛そうだった。立ち上がるのもゆっくりだった。
すると、クラウスが手を差し出した。
「ほら」
その手をユリカはまじまじと見つめた。
「どうした?」
ユリカは少し戸惑っていたが、すぐにその手を握った。クラウスは彼女の手を握ると、彼女の肩を抱えて一緒に歩き出した。
「行こう。一緒に山の向こうまで」
そう言って二人は歩き出した。ゆっくりとした足取りだが、しっかりと前へ歩き出した。
「大丈夫? 辛かったらすぐに言ってね」
「大丈夫さ。シャルンスト家を過小評価しないでくれよ」
そう言って自分を奮い立たせるクラウス。お姫様を守る騎士のような気持ちで、彼は彼女を守るように歩いた。
「君はあの鳥が羨ましいと言っていたな」
その時、クラウスが話し始めた。ユリカは何も言わず、じっと聞いていた。
「君にも私にも、国境を自由に行き来する翼はない。私は君の翼になってやることはできない」
ユリカは空を飛ぶ鳥を羨ましいと言った。国境など関係なく、自由に世界を行き来できる鳥を羨ましそうに見ていた。
「確かに私も羨ましい。だけど、こうして君と一緒に歩くことはできる。私も君と一緒なら、どこへだって行ける気がするんだ」
今までユリカはクラウスの手を引いて前を歩いてくれた。彼女の手に引かれたら、どこへだって行ける気がした。クラウスはわくわくしていた。
だから今度は、彼が彼女の手を引く番だ。
「いつか帝国が統一されたら、一緒にどこへでも行こう。君が疲れたら、こうして手伝ってやるから」
フェリックスは言っていた。いつか帝国の地図を作って、その地図を持って恋人と国を旅行したいと。
彼にはそれが羨ましかった。だから、彼もフェリックスの地図を持って、帝国を旅行してみたかった。不思議なのは、その隣にはユリカがいる。そんな想像が彼の中にあった。
だから、こんなとこで立ち止まってはいられない。一緒に帝国を旅するのだから。
そんな彼の言葉を聞いていたユリカは、彼の体を力強く抱きしめた。
「……ありがとう。あなた」
それ以上何も言わなかった。たださすがにクラウスも彼女を抱えるのは体力がきつかった。
やはり国に帰ったら鍛え直そう。改めてそう決意するクラウスだった。
「……なんてことだ」
クラウスは愕然として呟いた。二人の前で道が閉ざされていた。土砂が流れ込んでおり、出口が塞がれていたのだ。
長い間閉鎖されていた坑道だ。こんなことがあってもおかしくはない。だけど、起きては欲しくなかった事態だった。
ユリカも同じように立ち尽くしていた。二人とも長い間歩き通しだったのだ。目の前の現実を目の当たりにして、一気に疲労が二人を襲った。
ここまで来て目の前の絶望を見て、彼らは今までの歩みが無意味だったのだと思い知らされていた。
「……引き返しましょう」
ユリカはそれだけ言うのがやっとだった。クラウスは何も答えなかった。彼女の言うことが正しいことはわかっていても、簡単に同意できなかった。
自分たちを信じて送り出したラコルトたちを思うと、引き返したくなかった。
しかしどうしようもない現実が彼らの前に立ちふさがっているのだ。
「行きましょう」
ユリカが力なく引き返そうとした。クラウスもそれに続くように振り返ろうとした。
その時、土砂の向こうから聞いたことのある音が聞こえてきた。
「……おい。何か聞こえなかったか?」
「え?」
ユリカが立ち止まる。二人はその場に留まり、耳を傾けた。
それは汽車の汽笛の音だった。音は土砂の向こう側から聞こえてきた。
「おい。今のって」
「汽笛のようね。それもかなり近いわ」
汽笛の音が近い。それが意味するところは、この土砂の向こうに汽車が通っている!
「もしかして、この土砂って意外と薄いのかしら」
「きっとそうだ! おい! 誰かそこにいないか!」
クラウスが叫ぶ。しかし返事はない。
一度は聞こえた汽笛。それは彼らに希望をもたらした。
「おい。この土砂をどかすぞ!」
「わかったわ」
そう言って二人は土砂に向かった。二人はその場に落ちていた木材などを手に取り、スコップ代わりにして土砂を取り除こうとした。
少しずつ、少しずつ土砂を取り除く。泥だらけになり、雨でびちゃびちゃになっていたが、二人はお構いなしに目の前の土砂に立ち向かう。
こんなことならスコップでも持ってくるべきだった。だがそんな愚痴を言う暇もなかった。彼らは一心不乱に掘り続けた。
「痛!」
ユリカが叫んだ。スコップ代わりの木材でけがをしたのか、手から血が流れていた。
「おい。大丈夫か?」
クラウスが声をかける。見れば赤い血が彼女の手を染めていた。
「一旦休め。あとは私がやる」
「……いやよ」
クラウスの声にユリカが首を振る。彼女はけがしたままの手でもう一度木材を手に取り、また土砂を掘り始めた。しかし、力が入らないのか、見るからに弱々しかった。
「やめるんだ。その手では力が入らないだろう」
「いやよ。絶対にここを突破するのよ」
意地でも止めないとユリカは土砂を掘り続ける。心配するクラウスにユリカが言った。
「だって悔しいじゃない。ここまで来て引き返すなんて。あと少しで向こうに行けるのよ」
ユリカの手は止まらなかった。どうしても彼女はここを離れなかった。
「私には国境を超えるための翼もない。まだ鉄道だって通っていない。だけど、私たちは一つの道で繋がることができるのよ。こんな土砂一つで通れないなんて、そんなのあってはならないわ」
少しずつ、少しずつ掘り進める。彼女の手にもう一度力が込められた。
「いつかここは帝国になるのよ! 統一された国を自由に行き来できないなんて、そんなの意味がないじゃない!」
彼女は帝国の統一を夢見ている。そして、統一された祖国を自由に歩きたいと願っていた。それはフェリックスも抱いていた夢。いつか統一された祖国を、自分が作った地図を持って、家族と旅行するという夢。
「せっかく取り戻した繋がりなのよ! ここで止まってはいけないわ!」
そう叫ぶユリカ。泥だらけになり、手は傷だらけ。だけど、彼女の尊さと美しさは、損なわれてはいなかった。
そんな彼女を前にして、クラウスにも力が沸き起こった。
「……そうだな。そうだよな」
彼はそれだけ言って、また土砂を掘り始めた。
かつて昔の人たちも、こうして穴を掘り進めたのだろう。数十年後の自分たちが同じことをするとは、彼らは夢にも思っていなかっただろう。
今は彼らに感謝したかった。こうして自分たちに繋がりを残してくれたことに。
その感謝を胸に二人が掘り進めると、向こうから光が差し込んできた。
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取り敢えず、明日は退職届けを出そう。
目指せ、快適異世界生活。
ぽちぽち更新します。
作者、うっかりなのでこれも買わないと!というのがあれば教えて下さい。
脳内の空想を、つらつら書いているのでお目汚しな際はごめんなさい。
劇ではいつも『木』の役だったわたしの異世界転生後の職業が『木』だった件……それでも大好きな王子様のために庶民から頑張って成り上がるもん!
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