ロマン・エイジ

葉桜藍

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第一章 新たな任務

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 クラウスたちが駅から出ると、そこは間違いなく王都・オデルンだった。
 天まで高く伸びた建築群。街の中を所狭しと走る馬車。その間を多くの人々が練り歩く。その中には貴族や市民。そして軍服姿の将校の姿もあった。
 その街並みはグラーセン国民の心象風景がそのまま形になったような印象を受けた。都市というのは、その国の国民性が出るものらしい。
 この前までクラウスたちがいたアンネルの首都・マールは『太陽の都』と呼ばれ、アンネル国民の性格が色濃く見受けられた。それに対比するようにオデルンは、グラーセン国民の生真面目な性格が滲み出ていた。
 クラウスにとっては久しぶりの王都である。クラウスはその場で大きく息を吸い込んで、王都の空気をしっかり味わった。
 マールも美しい都市であり、クラウスもマールの生活をそれなりに楽しんでいた。しかしやはり彼もグラーセンに生まれた人間であり、王都の空気は美味しく感じられた。
 そんな彼の様子をユリカがニマニマと笑って見ていた。
「どう? 久しぶりのオデルンの空気は? マールのワインとどっちが美味しいかしら?」
「……そうだな。やはりこの国の空気は美味しいな。久しぶりに自分がグラーセン国民であることを思い出したよ」
 どんな人間でも、一番美味しいのは母親の手料理である。生まれた祖国の水と空気とは、それと同じものなのかもしれない。
「王都も久しぶりで、色々と変わっているみたいだが、やはり本質的にはこの国の首都だな」
 感慨深くなるクラウス。するとユリカが街を見ながら呟いた。
「そうね。でも、ここはいずれ『王都』ではなくなるわ。いつかここは『帝都』と呼ばれる日が来るのよ」
 帝都。その言葉にクラウスの意識が切り替わった。
 オデルンが帝都に生まれ変わる日。それはユリカの願い。クロイツ帝国が復活する日なのだ。
 ユリカには貴族の娘という肩書とは他に、もう一つの顔があった。グラーセン参謀本部所属の諜報員。つまりスパイという身分である。
 クラウスが彼女と出会ったのは、留学先であるマールだった。そこで彼は偶然にも、諜報活動を行っていたユリカと出会ったのである。
 彼女はかつてこの大陸に存在した国、クロイツ帝国の復活を目指して活動していた。
 グラーセン王国は密かに帝国の復活を計画している。かつて帝国の一員だった諸国を統合し、グラーセン主導による帝国を復活させようとしていたのだ。
 ユリカはその計画を推進するためにグラーセン軍に所属し、諜報活動を行っていた。
 クラウスはマールで偶然彼女に出会い、そのまま彼女から協力を依頼された。あちらでは到底説明できないことが繰り広げられ、見事彼女の目的を達成することができた。
 そんな二人がここにいる理由。それはグラーセン参謀本部に向かうためだった。
「さ、そろそろ行きましょう。そろそろ馬車が出るわ」
 そう言って前を歩き出すユリカ。その後ろをクラウスが慣れた様子で続いた。
 オデルンの郊外にその建物はあった。グラーセン参謀本部。それはグラーセン軍の頭脳とも呼ぶべき場所だった。
 参謀本部は有事に備えて戦争計画を企画する組織であり、その職務内容は複雑だった。効率的な動員計画。無駄のない兵站計画。長期的な戦略構想など、軍事に関わることは全てここで計画されるのである。
 クラウスはその参謀本部の前に立っていた。まさにグラーセン軍を象徴するような、勇壮な威容を誇っていた。その門の前に衛兵が立っていた。
 思わず緊張するクラウス。するとユリカが散歩するような足取りで門に向かって歩いた。
「お、おい」
「ん? どうしたの? 早く行きましょう」
「いや、そうなんだが……」
 つい口ごもるクラウス。彼の動揺の理由を察したユリカは、安心させるように微笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。あそこは狼の巣じゃないわ。もっとも、あそこには狼よりも怖い人たちで溢れているけど」
 そんなユリカの冗談にも、クラウスは笑えなかった。実際門の前に立っている衛兵を見ると、素手で狼を殺せそうな雰囲気だった。
「大丈夫よ。皆いい人たちだから。ほら、ついてきて」
 そう言って再び歩き出すユリカ。そんな彼女の後を不安そうにクラウスが続いた。
 門の前まで来ると、クラウスより二回りくらい大柄な兵士が立っていた。その姿を前にクラウスの緊張も頂点に達した。
 するとユリカが慣れた様子で衛兵に近寄り、身分証を提示しながらいくらか話をした。話を聞いていた衛兵は詰め所に戻り、しばらくしてからクラウスたちの元へ戻ってきた。
「そちらの方はこの仮身分証を首に下げてください。どうぞお入りください」
 そう言って衛兵はクラウスたちに敬礼をしてくれた。その姿にユリカは微笑み、クラウスは小さく頭を下げるのだった。
「ね? いい人でしょう?」
「あ、ああ……そうだな」
 にっこりと笑いかけてくるユリカ。しかしクラウスの動揺したままだった。さっきとは別の意味で彼は動揺していた。
 慣れた様子で衛兵に話しかけ、身分証を提示し、最後には敬礼を受けるユリカ。わかってはいたが、やはり彼女は軍人なのだと、改めて思い知った。
 ここに来て、彼女が別世界の人間のような気がしたクラウスだった。
「どうしたの? まだ緊張しているの?」
「……そうだな。やはり自分には不相応な気がする」
 これまで文官になるための勉強をしてきたクラウスだが、そんな彼がここにいるのは、やはり気後れしてしまうのだ。さっきの衛兵と並べれば、自分がここに相応しくない気がしてならなかった。
 少しへこたれそうになるクラウス。しかしそんな彼の不安を吹き飛ばすようにユリカが笑った。
「しっかりしなさい。あなたはこれから私たちの『仲間』になるのよ。堂々としてればいいのよ」
 『仲間』という言葉にクラウスが顔を上げた。ユリカが満面の笑みで彼を見ていた。
 そう。彼は軍属になるためにここに来ているのだ。アンネルの活動の時、ユリカからの依頼で、自分を手伝ってほしいと言われたのだ。
 彼はその誘いを了承して、こうして軍属になるために参謀本部に来たのだ。彼はここで、ユリカたちの仲間になるのだ。
 そう考えた時、クラウスは不思議と不安が消えていた。何より、ユリカから『仲間』と言われたことが、とても心地よかった。
「……そうか。そうだな。私たちは仲間になるんだったな」
 クラウスはそう呟くと、その足取りは少し軽くなった。さっきまで縮こまっていた体も、胸を張って堂々とした態度になった。
 これから彼女と共に、オデルンを帝都にするために働くのだ。それはとても素敵な冒険になるに違いないのだと、クラウスの胸が躍った。
 そんな彼を嬉しそうに見つめるユリカ。すると彼女は最後にいつもの意地悪な笑みを浮かべた。
「あ、それとも、私とは伴侶になった方が嬉しかったりするのかしら?」
 ニヤニヤしながら言うものだから、実に意地悪そうな笑みになっていた。
 アンネルでは仕事の都合で、クラウスとユリカは偽りの恋人になっていた。その時のやりとりが面白かったのか、ユリカは今でもクラウスをからかう材料に使っていた。
「それ、頼むからここではあまり言わないでくれよ」
 さすがにクラウスも呆れるしかなかった。その様子が面白いのか、ユリカは余計に笑みを深めていた。 
 

 一言で言って、クラウスは疲れてしまった。案内された部屋で彼はぐったりと椅子に座っていた。
 彼は軍属になる手続きのために人事局に向かった。そこで書類を渡され、そこに必要事項を記入した。それから人事局の人間から、軍属になるにあたっての規則を事細かく説明された。
 相手は軍服を着た軍人。きれいにアイロンがけされた軍服を着た男が、軍属が守るべき規則を徹底的に説明するのだから、聞いていたクラウスは必要以上に緊張した。
 軍属と言えど、守るべき規則は当然あるわけで、その規則を守らせるのも軍にとっては大事な仕事だ。
 ただ、理解しているのとそれを叩きこまれるのは別問題だ。他にも軍人と軍属の違い。また持ち得る権限やできることの違いについても教えられた。
 そうして長い時間を経て、最後に軍属であることを証明する身分証を渡されて、やっと解放されたのだ。一人きりの部屋でぐったり椅子に座る。ベッドがあれば、横になっていたかもしれない。
 その時、彼は手元にある身分証を手に取った。自分が軍属になったことを、その身分証が教えてくれた。
 その時、がちゃりとドアが開いた。入ってきたのはユリカだった。彼女はクラウスの顔を見ると、面白そうに笑った。
「あら? どうしたの? 疲れているようだけど、何か訓練でも受けたのかしら?」
「ああ、そうだな。立派な軍属になるための指導をしっかり受けてきたよ」
 想像できた答えだったのか、クラウスの言葉にユリカの笑みがより強くなるのがわかった。
「頼もしいわね。いつかは元帥になれるかもしれないわね」
「銃の一発も撃ったことがないのに?」
 そんな軽口を叩けば、クラウスの疲れも幾分か癒された。彼は一回伸びをすると、ユリカに向き直った。
「そっちはもう終わったのか?」
「ええ。諜報部への報告は終わったわ。あなたの活躍ぶりを熱弁してあげたわ」
 ユリカの言葉に閉口するクラウス。さすがに自分のことを報告しないわけにはいかないのだろうが、一体どんな話をしたのか、気になるクラウスだった。
「変なことを言っていないだろうな? 事実を捻じ曲げたりしてないだろうな?」
 尾ひれを付けられて変な話になっていないか心配だった。変なイメージがついても困る一方である。
 すると、クラウスの一言を聞いたユリカが、またいつもの笑みを浮かべた。それを見たクラウスは嫌な予感がした。
「なんだ? 私は変なことを言ったか?」
「いえ。言っていないわ。だけど事実を伝えるとなると、警察署であなたが語った言葉をそのまま報告しないといけないから、どうしようか考えただけよ」
 その一言にクラウスが腰を浮かしかけた。やってしまったと顔が青くなるのを感じた。
 マールでユリカは警察署に連行され、そのまま人質にされるところだった。その時、クラウスはユリカの恋人であると偽って、彼女を救い出すことに成功した。その時、警察署の職員に対して、彼は思い出すのも恥ずかしい言葉を叫んでいた。
 クラウスの言うとおり、事実を全て話すとなれば、その時の言葉も報告しなければならないことになる。クラウスは自分の失言を後悔した。
「すまない。今のは私の失言だ。忘れてくれ」
「あら、嫌よ。あの時のあなたの言葉、今でも忘れられないわ。一生胸に刻むつもりよ」
 比喩でも何でもなく、彼女は一言一句、あの時の言葉を覚えているだろう。たぶんこの場ですぐに言葉にできるはずだ。そして、それがしたくてウズウズしているのが彼女の様子から見て取れた。
「報告書に書いて諜報部に提出しようかしら?」
「それだけは絶対にやめてくれ」
 クラウスにはそれだけしか言えなかった。困り果てている彼を見て満足したのか、ユリカはにっこりと笑った。
「さ、おしゃべりはここまでにして、そろそろ次の仕事の話をしましょう。新しい命令が受領されたわ」
 その一言にクラウスの意識が切り替わる。さっそく新たな任務が言い渡されたのだ。クラウスの顔色が変わる。ユリカも同じように目の色が変わった。
 彼女はクラウスの対面に座ると、机の上に地図を広げた。それはグラーセン王国を中心としたユースティア大陸の地図だった。彼女はそのきれいな指先を地図の上に置いた。彼女の人差し指が、王国の南を指していた。
「次の目的地はここ。ビュルテンに向かうわ」
 王国の南に位置する国・ビュルテン。かつてはここもクロイツ帝国の一部であり、グラーセンほどではないにしても、それなりに発展した地域だった。
「ビュルテンで何をするんだ?」
「そうね。それを説明するのに、参謀本部の部署について説明しないといけないわ。まずこの参謀本部には鉄道課があるのだけど、それは知っているかしら?」
「ああ。確か軍が鉄道敷設のために設置した部署だと聞いている。それが何か?」
「ビュルテンは今、グラーセンとの間に鉄道を繋げる計画が上がっているの。参謀本部はビュルテンに鉄道課の人間を派遣して、敷設計画を進めているの。私たちはそのお手伝いに行くことになるわ」
 グラーセンとビュルテンを鉄道で結ぶ。それが大きな事業であることは間違いない。鉄道が敷設されれば、流通が一気に加速し、両国に恩恵がもたらされることは間違いなかった。
 ただ、クラウスに疑問が生じる。鉄道課の手伝いなど、自分たちには畑違いなのではないか? 彼はその疑問をぶつけた。
「何を手伝うんだ? 私には鉄道の知識も技術もないぞ。手伝えることなどないと思うが?」
「そうね。私たちは線路を敷設しに行くのではないわ。ビュルテンとの交渉を成功させるための手伝いをしに行くの」
 ユリカの答えに益々首を傾げるクラウス。ビュルテンとの交渉とは一体どういうことなのか? ユリカはその疑問にすぐに答えを返した。
「軍と政府はビュルテンとの間に鉄道を繋げたいと考えているのだけど、ただビュルテンからはいい返事が返って来ていないらしいの。何か色々と複雑な事情があるらしいのだけど」
「それは……ビュルテンが鉄道敷設を拒否しているということか?」
 何かきな臭い感じがした。両国ともクロイツ帝国の一員であり、鉄道を繋げることに難色を示すというのは、あまり理解できなかった。
「一体どんな事情があるんだ? 断る理由があるようには思えないが」
「そこまではわからないわ。派遣されている調査員からは不明としか報告を受けていないの。だから私たちは、何故ビュルテンが敷設を拒否するのか。それを調べることが、今回の目的になるわ」
 なるほど、と思う。確かにこれは鉄道の技術屋にはできない仕事だ。彼らは鉄の心は知ることができても、人の心までは推し量れないのだろう。ユリカが派遣されるのも納得がいった。
 ここまで話して、クラウスはもう一つ疑問を抱いた。それは疑問というより、訊いておきたいことだった。
「ユリカ。軍と政府がビュルテンと鉄道で繋ぎたいと言っていたな? それはつまり、ビュルテンも同じようにクロイツ帝国に統一させることを狙っているということなのか?」
 クラウスの問いかけにユリカがニヤリと笑う。とても分かりやすい答えだった。
「その通りよ。ビュルテンも元はクロイツ帝国の構成国。帝国の再統一のためには欠かせない国。ビュルテンと繋がるのは、将来の統一のための第一歩。政府はそう考えているらしいわ」
 鉄道は都市と都市。国と国とをより強く結びつけることができる。将来ビュルテンを帝国に招き入れることを考えれば、ビュルテンと鉄道で繋がることは必要不可欠だった。
 逆に言えば、ここに鉄道を繋げることができなければ、帝国統一に大きな支障が生じることになる。そういう意味では、責任重大であった。
 グラーセンにとっては、是が非でも成功させたい計画なのだ。
「なるほど。大体事情は分かった。我々はビュルテンに向かって、現地の事情を探ること。それが目的となるわけだ」
「そうね。あわよくば、私たちで敷設の許可を取り付けること。そこまでできれば満点だわ」
 さすがにそこまで欲張ることはできないが、せめて交渉のお膳立てでもできれば十分だろう。
「すぐに準備しないといけないわね。色々と必要なものがあるから、そっちも準備しておいてね」
「ああ、わかった。それで、特別必要なものはあるのか?」
 クラウスが問いかける。するとユリカは少し考えてから笑みを零した。
「とりあえず旅費に余裕を持つこと。素敵なお洋服を一つは持って行くこと」
 ふんふんと頷くクラウス。そして最後にユリカはニンマリと笑って言った。
「いくつかの旅行ガイドブックを持つこと。旅をするには大事なことよ」
「……はあ?」
 予想していない言葉に変な声が出るクラウス。その反応が予想できていたのか、ニヤニヤ笑うユリカ。
「旅費は大目にね。でないとお土産を買って帰れなくなるわ」
「……私たちは軍の仕事で行くんだよな?」
 思わず訊き返すクラウス。するとユリカは当たり前だとばかりに答えた。
「ええ、そうよ。鉄道に乗って、『楽しく』仕事をしに行くの」
 ユリカの顔は、旅を前にはしゃいでいる少女そのものだった。クラウスはもう何も言わなかった。


 ビュルテンまで行くには、まずグラーセン領内の鉄道を使って南へ向かわないといけない。南のビュルテンとの境界線の駅まで行き、そこからまた馬車に乗り換えとなる。なのでまずは汽車の旅となる。
 グラーセンから南にある地域は、グラーセンとは一味違った世界だった。一番違うのは、南は山岳地帯であることだった。大陸の中央を横切るトール山脈は、世界的にも標高の高い山々が連なっている。
 天高くそびえる山の頂上には、夏でも溶けない雪が残っており、この土地でしか見られない牧歌的な光景が広がっていた。
 しかしそんな場所であっても、人々はここに鉄道を敷くのだ。山を遠目に走る汽車。その中にクラウスたちが乗っていた。クラウスの前では、そんな山々を楽しむユリカがいた。その目はキラキラと輝いていた。
「ほら、見て見て。あそこの山。雲の帽子をかぶっているわ。かわいいと思わない?」
 遠くの山を指差しながら、その光景を大いに楽しむユリカ。そんなユリカを呆れながら見つめるクラウス。普通に見れば旅行に出かける若い恋人に見えるのだろうが、本当はこれから諜報活動をするのだ。そんなこと、誰が信じられるだろうか?
 もしかしたら、周りに怪しまれないためのユリカの演技かも知れない。実際アンネルでは恋人であることを偽って活動をしていたのだ。あり得ない話ではなかった。
「あら? どうしたの? 座席が堅くて、お尻が痛くなった?」
「いや、そういうわけではないが、ずいぶん楽しそうだなと思ってな」 
 クラウスの何気ない言葉にユリカはキョトンとする。何を言っているのだろうと、顔が語っていた。
「だって、旅はいつでも楽しいものでしょう? あなたって子供の頃はピクニックも行ったことがないの?」
「そんなことはないが、しかし無邪気にはしゃぐというのも、少し気が引けるのだが……」
 少なくとも、ビュルテンへは弁当箱を広げるために行くのではないのだ。
 そんなクラウスの不安に気付いてか、ユリカがクスクス笑いだした。
「あなたって心配性なのね。男の子なんだから、もう少し冒険を楽しみなさいな」
 まるで母親みたいなことを呟くユリカ。自分より年下の少女に言われたことにクラウスは面食らった。そんな彼にユリカはにっこりと笑った。
「そうね。確かにこれは任務であり、重大な使命だわ。だけどね、仕事をするのはビュルテンに着いてからであって、今はそうではないわ。だったら、今は外を流れる光景を楽しむのが効率がいい。そうは思わない?」
「いや、確かにそうだが……」
「本当に心配性ね。マールで見せた大胆さはどこに行ったのかしら? 本当にあなたって不思議な人ね」
 そこでクスクス笑ってから、ユリカは荷物からある物を取り出した。
「でも、そうね。そんなに仕事の話がしたいなら、ビュルテンのことを話しましょうか?」
 彼女が取り出したのは、ビュルテンのことが書かれた書類だった。すでにユリカは目を通したのか、いくつか線が引かれていた。
「ビュルテンを帝国の一員にする理由は色々あるわ。その一つにビュルテンは豊かな鉱山地帯であることがあげられるわ」
「鉱山……確か良質な鉄鉱石が産出されるらしいな」
 ビュルテンは山に囲まれている地域であり、さらに鉄鉱石が取れる山が多かった。必然的にビュルテンは鉱山が主要産業になっていた。
「いずれ国を強くするためには、鉄が必要になるわ。ビュルテンを引き込むのは、その鉄鉱石が政府にとって手に入れたいという事情があるの」
「なるほど。両国を鉄道で繋げて、その鉄道を使って鉄を運び出したい。そういうわけか」
 近代化を迎えたこの時代。世界は鋼鉄に作り替えられようとしていた。木造船は海に浮かぶ鉄の塊に。馬車が走る道は汽車が走る鉄の道に。近代化を迎えたグラーセンにとって、鉄はどうしても必要なのだ。このビュルテンを帝国の一員にすることは、グラーセンの国家戦略を左右することになるのだ。
「そう。そして、軍にとっては別の意味でビュルテンが欲しいの。というより、仲間になってほしいの」
 ユリカは地図に描かれたビュルテンを指差す。そしてそのまま、その人差し指を西に動かした。すぐそこにアンネルがあった。
「ビュルテンは歴史上、戦争が起きた時に必ず戦火が広がった地域よ。先の皇帝戦争の時も、ここは戦略上重要な地域として戦場になったわ。軍にとってここを確保することは、戦略上の優位性を保つために必要なことなの」
 ビュルテンはその長い歴史において、何度も戦場となった場所だった。北はグラーセン。西はアンネル。さらに南にもいくつかの国が存在しており、結果ビュルテンは戦略上の重要な拠点になることが多かった。
 数十年前に起きた皇帝戦争でも、アンネルの将軍だったゲトリクスは、このビュルテンからグラーセンへと攻め込んだ。ビュルテンは大陸の中央に位置しており、ここから各方面へ軍を展開させることのできる重要な拠点なのだ。
 皇帝戦争の記憶が生々しい軍にとっては、歴史を繰り返さないためにもビュルテンを確保し、軍事的優位性を保持したい。それが軍の考えなのだ。
 しかし、ここでクラウスは気付く。そこからさらに奥。ビュルテンを重視する軍の真意を彼は見抜いた。彼はユリカに質問した。
「ユリカ。軍は将来、アンネルとの戦争を計画しているのか?」
 唐突なクラウスの質問にユリカは何も答えない。ただ微笑みを返すだけだった。構わずクラウスは質問を続けた。
「ビュルテンは戦略上大事な場所だ。グラーセンにとって、ここはアンネルから攻撃を受けるかもしれない場所であり、ここを確保することは防衛上、重要な問題だ。だが逆に言えば、ここを確保することで、ここからアンネルへ攻め込むことが可能になる。もしかしてここに鉄道を敷くのは、ビュルテンを通って軍を動員させる目的もあるんじゃないか?」
 視点を変えれば違う真実が見えてくる。見方を変えればビュルテンはグラーセンにとって、アンネルへ攻撃する際の進発地点になるのだ。それこそが軍と政府の目的なのではないか?
 その時、拍手の音が響いた。ユリカのきれいな手がダンスしていた。
「さすがね。このまま軍属にするのは本当にもったいないわ」
 そう言ってユリカは満足そうに笑った。
「確実にそうとは言えないけど、たぶん軍の上層部は同じように考えているはずよ。そしてそれは政府も同じのはず。将来のことを考えれば、今のうちにビュルテンを押さえておくのは大事なことよ」
 歴史を勉強すれば、ビュルテンがどれほど大事な場所なのか、すぐにわかることだ。ここを確保することは、帝国統一への足掛かりとなるのだ。
 しかし、と思う。クラウスは素朴な疑問を口にした。
「ユリカ。アンネルとの戦争なんて、本当に起きるのか?」
 率直な疑問を受けて、ユリカは小さく笑った。
「この大陸で戦争が起きなかった時代が、今までにどれくらいあったかしら?」
 百の理論を語るより、説得力のある一言だった。人々の血が流れ、大陸を軍靴が踏み荒らし、戦火が燃え尽きても、必ず次の戦争が起きてきたのだ。戦争が起きない方があり得なかった。それがこのユースティア大陸だ。
「戦争が起きないのなら、私もそれが一番いいわ。平和に議会を開くだけで帝国が復活できるなら、私もそれを願うわ。だけど、帝国の復活はどの国にとっても衝突の材料になるわ。それは隣国となるアンネルにとってはなおさらだわ。戦争が起きないなんて、そんな幸せな未来を夢見るほど、楽観的にはなれないわ」
 彼らはもう、サンタを信じるような子供には戻れない。現実を知る悲観的な大人なのだ。
「平和のために戦争の準備をする。矛盾しているようで、それが一番わかりやすい方法よ。私たち人間というのは、まだまだそこまでしかできないのよ」
 呆れるような、自嘲するようなユリカの笑い方だった。
 戦争が起こる時、一番使われる嘘がある。『これが歴史上最後の戦争になる』
 多くの者が同じことを言い、そして彼らが死んだ後、また別の誰かが戦争を起こしてきた。
 皇帝戦争から数十年。この間、大きな戦争が大陸では起きていない。そのこと自体が一つの奇跡だった。
 だが、それでも大陸の人々は忘れることはない。この大陸では、戦争は常に隣人であるということを。
「まあ、そうならないよう努力はしておきたいけどね」
 最後にユリカはそう締めくくった。彼女にとっても、あまり想像したくない未来のようだった。
「それより、来てほしくない明日のことより、これから向かうビュルテンについて話しましょう。あなたはビュルテンに行ったことはあるのかしら?」
「いや、行ったことはない。そちらは?」
「私は何回かあるわ。ビュルテンの領主をしているエーバーハルト家とハルトブルク家は懇意にしているから、よく家族で出かけたりしたわ。現当主様とは顔馴染みなの。あなたは会ったことはないのかしら?」
「父はあるかもしれないが、私はないな。どうもそういう交流は私には縁がないみたいでね」
 本当は人付き合いが苦手なだけなのだが、そこは隠しておいた。
「そう。それだったら今回の仕事で顔を覚えてもらうといいわ。今回もエーバーハルト家、当主の名前はシュライヤーさんというのだけど、彼の屋敷を拠点にさせてもらうことになるわ。これからもお世話になるかもしれないから、仲良くしてね」
「わかった。失礼のないようしておこう」
「それがいいわ。ところで、あらかじめ聞いておきたいことがあるのだけど」
 ユリカが一瞬真顔になる。何か大事な話だろうかとクラウスは身構えた。
「あなたって、食べ物の好き嫌いはあるかしら?」
「……はあ?」
 思わずそんな声が出てくるクラウス。それくらい彼女の質問は意外なものだった。
 そんな彼の反応に満足そうに笑うと、ユリカは手元から何かを取り出し、クラウスに手渡した。渡されたのは、ビュルテンについて書かれた旅行ガイドだった。
「ビュルテンは山に囲まれているから、山の幸が豊富よ。ジズーでは魚料理ばっかりで、お腹が潮風でパンパンになったから、今度は山の空気でお腹を満たしましょう」
 そう語るユリカの顔は、すでにどんな料理があるのか、楽しみで仕方ないという風に輝いていた。すでに彼女が目を通したのか、ガイドブックには付箋や赤ペンでチェックが入っていた。
「ねえ? 何か食べたいものはある?」
 身を乗り出すユリカ。彼女の言葉に呆れつつ、クラウスは答えてあげるのだった。
「山の空気に合う肉料理があれば」


 グラーセンとビュルテンとの境界線にある駅で二人は降りた。ここで入国審査をしなければならないのだ。
 いくつかの書類と審査を終えて駅から出ると、グラーセンでは見られない、山に囲まれた世界がそこにあった。
 ただ、そこはまだ目的地ではなく、ビュルテンの都市部はまだまだ先だった。
「そう言えば、ここからどうやって街まで行くんだ?」
「あれよ。駅と街を結ぶ馬車があるの。もうすぐ出るはずよ」
 ユリカの指差す方向に、何台か馬車が並んでいるのが見えた。その内の一つで、御者が鐘を鳴らすのが見えた。今から出発することを知らせていた。
「ちょうどいいわ。あれに乗りましょう」
 そう言って走り出すユリカに続くように、クラウスも彼女を追った。
「すいません。二人お願いします」
「あいよ。二人ね。準備ができたらすぐに出発するよ」
 ひげを蓄えた温和な御者が乗車を促す。二人が乗り込んだことを確認すると、御者が馬に指示を送った。二人を乗せて馬車が走り出した。
 

 二人を乗せた馬車は、山の麓に作られた道をゆっくり走り続けた。走ると言ってもスピードを出せるわけもなく、走るというより歩くという表現が似合っていた。それでも徒歩で行くよりは全然速いし、何より街まで行くのに山を越えないといけないのだ。そう考えると馬車に乗らないわけにはいかないのだ。
 ただ、舗装されてはいるが、砂利だらけの道を走っているのだ。その上を走る馬車の振動で、クラウスは腰が痛くなるのを感じていた。馬車に乗っているのがユリカとクラウスの二人だけなのが、不幸中の幸いだった。
 そんな彼の前では、ユリカが馬車の旅を楽しんでいるようだった。やはり彼女は目の前にある立派な山々を眺めて、その勇壮さを楽しんでいた。
「お客さん。腰は痛くないかい? 痛くなったら休憩するから、すぐに言っておくれよ」
 御者からそんな声がかかる。きっと他の客にも同じことを言っているのだろう。慣れた様子で気遣いを見せてくれた。
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
「お客さん初めて見るけど、グラーセンから来たのかい? 新婚さんかい?」
 御者の言葉に驚くクラウス。確かに若い男女が二人で旅をしていれば、そう見えるのだろう。しかしそう見えるという事実がクラウスを動揺させた。
「いえ、結婚はしておりませんわ。いずれそうなる可能性は残されておりますけど」
 ユリカが面白がってそんなことを言い出した。きっとクラウスの反応を見たかったのだろう。クラウスを横目でちらりと見ているのがわかった。
「ほっほ。それはいい。しかしすまないね。楽しい旅をこんな馬車で付き合わせて。グラーセンでは馬車なんてほとんどないんだろう?」
「そうですね。でも、あまり馬車に乗ったことがありませんので、これはこれで面白いですわ。それにこんな山に見下ろされて旅するのも初めてですから、とても気持ちがいいですわ」
「ほっほ。そう言ってくれると嬉しいね。私は馬車に乗り続けてきたけど、この山を見ながら走るのは、少ない自慢の一つだよ」
 そう言いながら笑顔を作る御者。きっとクラウスの倍の年月を、馬車とこの山と共に過ごしてきたのだろう。
「そちらはビュルテンにお住まいですの?」
「ここいらの田舎に暮らしているよ。昔は人だけじゃなく、ビュルテンで取れた鉄を満杯にして運んだこともあったな」
 貴重な話にクラウスが感心を示した。鉄道ができるまでは馬車は重要な輸送手段だった。人の力では運び出せない量を馬は運び続けてきた。人類の歴史と共に馬は彼らの隣にずっといてくれた。意外なところで歴史を感じることができた。
「でも鉄道ができて、みんなそっちに乗ることが多くなっただろう? 昔は街まで人を送ることが多かったが、今はビュルテンから外に人を運ぶことが多くなったよ。鉄道で馬車の数も減ったから、わしらみたいな御者も少なくなってきたよ」
「あら、そうなんですの……」
 御者の何気ない言葉にユリカもクラウスも顔を暗くした。事実グラーセンでも鉄道が走るようになって馬車の数が減り、今では乗合馬車くらいしか見ることがなかった。
「最近はビュルテンとグラーセンを鉄道で繋げようって話もあるんだろう? そうしたらお客さんみたいな人は便利で助かるんだろうけど、わしらみたいな古い人間は大変だろうね。何人失業者が出るか想像もできないよ」
 御者は笑って冗談を飛ばしてくるが、クラウスたちには笑えなかった。まさに自分たちがその鉄道を繋げるためにビュルテンに向かっているのだ。気持ちが暗くなった。
「ああ、悪いね。別に文句を言っているわけじゃないんだ。別に鉄道が繋がることに反対はしてないよ。どうせいつかはやらなきゃならない事なんだろうし、このまま不便なままでいられないだろうしね」
 グラーセン国民の機嫌を損ねてしまったと勘違いしたのだろう。御者が慌てて謝ってくれた。
 しかし、それより気になることがあった。
「そちらは鉄道ができることを反対していないのですか?」
 質問が意外だったのか、御者は不思議そうな顔をした。
「別に反対はしないさ。鉄道が便利なのは本当のことだしな。それに悪いことばっかりじゃないさ。鉄道でたくさんの商品が届くだろうし、たくさんの人がビュルテンに来てくれるだろうしな。お客さんたちみたいな人がたくさん来てくれれば、わしらも仕事がたくさんできるだろうしな。文句を言うだけじゃなくて、上手く利用すればいいのさ。わしはそう思うよ」
 御者の答えにクラウスは意外の念を覚えた。この御者は鉄道に反対していない。
 グラーセンで聞いた話では、ビュルテンでは鉄道を繋げることに必ずしも賛成しているわけではない。むしろ反対派がいるという。クラウスたちの任務は、その反対の理由を調査することにあるのだ。
 しかし目の前の御者は反対をするどころか、むしろ歓迎する気配すらあった。
 聞いていた話と現実との矛盾。ユリカを見ると同じ事実に気付いたのか、意外そうな顔を見せていた。
 都市部とでは考えが違うのだろうか? クラウスは色々な推測を思い浮かべていた。しかし答えが出るわけでもない。一旦この考えは保留にしておいた。
「なんにせよ、道がある限り馬車が必要であることに変わりはないさ。必要とされる限り、わしはここを走り続けるよ。お客さんみたいな人と会うのも、楽しみの一つだからね」
 そんな御者の言葉に同意するように、馬が大きく息を吐いた。

 
 しばらく走ること数時間。そろそろ腰に痛みを感じ始めた頃、馬車はビュルテンの首都・シュガルトに到着した。その光景にユリカは目を丸くしていた。
 グラーセンと違い山に囲まれたシュガルトでは、使えるスペースを最大限利用するためか、縦に長い建物が多かった。グラーセンでも高い建物がいくつもあるが、ここでは狭い場所をどれだけ利用できるかが重要な問題のようだった。
 グラーセンとも一味違った街の光景にクラウスも感心した。
 御者に別れを告げて、二人は街を見回す。やはり都市部なだけあって、活気に満ちていた。
「そういえば、これからどうするんだ? すぐにエーバーハルト家に向かうのか?」
「いえ、今日は迎えが来る手はずになっているわ。もう来ているはずだけど」
「失礼。ユリカ・フォン・ハルトブルク様ですか?」
 いきなり声をかけられて二人が振り向くと、一人のグラーセン人がそこにいた。
「はい。ユリカと申します」
「はじめまして。自分はグラーセンから派遣されたフェリックス・クラインと言います。どうぞよろしく」
 柔和な笑みを浮かべながら、フェリックスが手を差し出してくれた。参謀本部所属のはずだが、軍人というより学者のような印象の彼に、クラウスは面食らっていた。フェリックスはそんなクラウスにも手を差し出した。
「はじめまして。そちらがクラウスさんですね? ようこそシュガルトへ」
「あ、はじめまして。クラウス・フォン・シャルンストと言います。お見知りおきを」
 握り返した手は、やはり軍人のそれというより、学者のような感触があった。軍人より文官と言われた方が納得できるほどだった。
「馬車の長旅は疲れたでしょう? どこか体を痛めていませんか?」
「大丈夫ですわ。汽車での長旅も経験していますの。ちょっと堅い揺りかごのようなものですわ」
「ははは。それは頼もしい。まずは我々の仕事場に行きましょう。そちらで色々とお話をします」
 そう言って彼は近くに停めてあった馬車に向かった。クラウスたちも続いてその馬車に乗り込んだ。
 再びの馬車になったわけだが、やはり都市部だけあって、道の舗装は行き届いていた。砂利道の山とは違って、こちらも揺れはするが体に響くほどではなかった。
 クラウスが街を見回す。グラーセンとは一味違った光景に興味深く目を見張った。
「クラウスさんはビュルテンは初めてですか?」
「あ、はい。こちらの地方は来たことはありませんが、やっぱりグラーセンとは少し違いますね」
 思い起こすと、すれ違う人々の言葉も少し訛りがあった。聞き取れない程ではないが、やはりここは異国なのだと思い知った。
「そういえばシュライヤーおじ様はお元気ですか? 今日はいらっしゃらないので?」
「ああ、実は今日は所用で出かけているのです。ですので今日は私たちが間借りしている離れに来ていただきます」
 彼らはエーバーハルト家の別荘を間借りしているらしい。そこを拠点にして仕事をしているという。
「あら、そうですの。久しぶりにお会いしたかったですわ」
「シュライヤーさんも残念そうにしていましたよ。明日には帰ってきますので、その時お話をされるといいですよ」
 その時、街の中を歩く一団と出くわした。よく見ると、体が煤だらけで汚れていた。
「お。ちょうど鉱山から皆さんがお帰りみたいですよ」
 顔も体も煤で汚れていた。だというのにその顔は気持ちよさそうに笑っていた。狭い坑道の中で働いていたのだ。地上の空気が吸えることに幸福を感じているのだろう。彼らにしか味わえない幸せだ。
「あの人たちが鉱山で働いてるのですか?」
「ええ、そうです。日が昇って山に登り、鉄を掘り出しては運び出す。ビュルテンを支える男たちですよ」
 クラウスは労働者たちを見た。誰もが汚れてはいるが、その体は実に屈強だった。参謀本部で見た兵士たちも屈強な体つきだったが、こちらの男たちは違った意味で鍛えられた体をしていた。
 興味深そうに眺めるクラウス。その時、男たちの中心に一人の男が見えた。
 クラウスがその男を見ると、男もクラウスに視線を向けてきた。
 その視線に、クラウスは体を硬くした。
 目で人を殺せる。そんな言葉を思い出した。男の視線は眼光鋭く、クラウスを捉えて離さなかった。その身に纏う空気が、言い知れない強さを見せつけていた。
 何故男は、クラウスを睨んでいるのか? クラウスはわけもわからず、ただ視線を向けるだけだった。 しばらくそうしていると、男は興味を失ったのか、また自分の仕事に戻っていった。もしかしたら労働者たちのリーダーだったのかもしれない。
「どうしました? クラウスさん」
「……失礼。何でもありません」
 クラウスの様子に首を傾げるフェリックス。ユリカも不思議そうに彼を見ていた。
 さすがに気まずさを感じたのか、クラウスはもう一度労働者たちに目を向けた。
 帰ってきた労働者たちを家族が出迎えるのが見えた。汚れだらけの家族を、妻や恋人、子供が嬉しそうに迎えていた。鉱山労働というのは危険と隣り合わせだ。一日一日危険な日々が続く。昔ほどではないが、今でも危険であることに変わりないのだ。家族が帰ってくる喜びがどれほど貴重なものか、彼らは長い歴史の中で覚えているのだ。
 改めて、シュガルトという街を発見した瞬間だった。


 街から外れた場所にその建物はあった。元々別荘だったのか、屋敷と言っても差し支えない場所だった。
「元々はエーバーハルト家の私有地だったそうですが、今はたまにしか使わないそうで、シュライヤーさんから快く拝借させてもらってるんです」
「おじ様らしいですわ」
 そんなことを言いながら屋敷に入る三人。中では給仕と思われる女性が何人かと、おそらく同じ鉄道課と思われる人間がいた。フェリックスは何人かに頭を下げながら奥に歩いていく。クラウスたちもそれに続いた。
 そうして屋敷の一番奥に辿り着いた。おそらく書斎のような場所で、フェリックスの仕事場にしているようだった。
「さて、もういいでしょう」
 フェリックスがそう言うと、彼は胸元から何かを取り出す。身分証だった。
「改めて、参謀本部鉄道課所属、フェリックス・クライン大尉です」
 それに倣うようにユリカも自分の身分証を出した。
「同じく、参謀本部諜報部、ユリカ・フォン・ハルトブルク大尉です」
 改めて二人がそれぞれの所属と階級を伝えあった。ここでは諜報活動をすることになるので、人前では軍人であることを隠さなければならなかった。フェリックスもグラーセンの鉄道会社から派遣されたことになっている。
 お互いの身分を確認したことで、フェリックスはほっと一息ついた。
「いやはや、間違いはないと思ってましたが、やはり確認するまでは緊張しますね。偽物の可能性が否定できませんから」
「あら? 信じていいのかしら? もしかしたら悪魔が身分を偽っているかもしれませんわよ?」
「ははは。それは大変だ。悪魔がこんなにも美しいのなら、簡単に騙されてしまいそうです」
 そんな軽口が部屋にこだまする。疲れた体にはちょうどいい軽口だった。
「いやしかし、ハルトブルク家の人間が来ると聞いた時は驚きましたが、まさかそれが女性だったとは。世の中何があるかわかりませんね。軍に所属でもしていなければ、こうして会うことなどなかったでしょうね」
「神というのは、時に信じられない巡り合わせを与えてくれますわ。私もこちらのクラウスとの出会いは、神から授かったものと思っておりますから」
 フェリックスの視線がクラウスに注がれる。柔らかい笑みを浮かべてフェリックスが語り掛ける。
「なるほど。しかし恋人二人で軍務に就くとは、おとぎ話でもなさそうなことですね」
「いや、フェリックスさん。私たちはそういう関係ではありませんよ」
 恋人と言われてクラウスは慌てて否定する。その反応にフェリックスはキョトンとした顔を見せた。
「おや? そうなのですか? てっきりそういう関係なのかと思ってました。これは失礼」
 不思議そうな顔をするフェリックス。横でユリカが忍び笑いをしているのを見て、クラウスは小さくため息を吐いた。
「さて、さっそくですが仕事の話をしましょう。お二人はこの街の状況を知っておいでだと思いますが?」
 フェリックスが切り出す。彼の声に反応してユリカが一歩前に出た。その顔は軍人のそれに変わっていた。
「あちらで聞いたお話では、ビュルテンは必ずしもグラーセンと鉄道を繋げることに賛成していないと聞いています。私たちはその理由を探ることを命じられています。お間違いありませんか?」
「はい。その通りです。私たちはビュルテンを中心に鉄道の敷設計画を策定してきました。測量課と鉄道課合わせての任務であり、長い間ここで活動してきました。私はチームをまとめる傍ら、シュライヤーさんなど街の有力者の皆さんとも話をしてきました。ただ……」
 フェリックスの顔が曇る。言い出しにくそうにしている彼に変わり、ユリカがその答えを言葉にした。
「彼らの全てが鉄道敷設に賛成しているわけではない。ということですね」
「その通りです。どうにも何か理由があるとは思うのですが、はっきりとはわからないのです」
 参ったとばかりに首を横に振るフェリックス。これまで何回も話をしてきたのだろうが、その度に肩を落としてきたのだろう。責任者という立場もある中、精神的に参っているようだ。
「フェリックスさん。その理由については、何か心当たりはありませんか?」
「恥ずかしながら全く。自分は鉄道の専門ではありますが、人の心の機微を読めるほど、交渉には長けていません。何か理由があるとは思うのですが、それが何なのかわからないのです」
 なるほどと頷く。鉄道のことはわかっても人の心まではわからない。クラウスも人との付き合いが苦手なタイプだ。フェリックスの言うことが痛いほどわかった。
「我々が直接調査しようとすれば目立ちますし、逆にビュルテンにとって心象を悪くするかもしれません」
「なるほど。それで私たちが呼ばれたわけですね」
 人の心を探る。諜報部員であるユリカにとっての独壇場というわけだ。
「よくわかりました。お任せください。私とクラウス。二人で調査させていただきますわ」
「ありがとうございます。私も仕事が残っていますので、非常に助かります。何かあれば言ってください。できる限り協力します」
 ユリカの微笑みに安堵を見せるフェリックス。祖国から離れた地での任務。部下を率いるという立場もあり、今まで大変だったに違いない。やはり仲間というのは、それだけ重要なのだとクラウスは思った。
「安心してください。こちらのクラウスはローグ王国をも突き動かした大人物ですわ。きっと今回も活躍してくれますわ」
「お、おい」
 いきなり自分のことを言われてクラウスは驚いた。その言葉を真に受けたのか、フェリックスが感心したように唸った。
「なんと。ローグ王国をですか。これは頼もしい。やはり神から授かった巡り合わせ。感謝します」
「いや、フェリックスさん。さすがに過大評価だと思うのですが」
 否定するクラウスだが、そんな彼にユリカが微笑みを向けてきた。
「あら? でも事実でしょう? ローグ王国の大使からはスカウトまでされたじゃない」
「いや、それは……」
 口ごもるクラウス。確かに事実ではあるので否定はできないのだが、ユリカはそんな反応を見せるクラウスを面白そうに見ていた。
「これは明日から楽しみです。よろしくお願いします」
 全幅の信頼を寄せてくるフェリックス。信頼できる相手を得たことがとても嬉しそうだった。
 その喜びを奪うわけにもいかず、クラウスは何も言わなかった。
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