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第三章 エロール・ガーナー「ミスティ」

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 どうしてこんなことになったのか。

 2年の建築科の教室。カーテンに遮られた薄暗い教室の一角で、テーブルについた俺は、ぼんやりとそんなことを考えていた。

 4号館の裏で住吉に見つかって裏門でつかまって……結局、コヨミの相手を待って、ミスティのレコードを流すことになった。

 だがコヨミとその相手を俺の教室で待つわけにはいかなかった。

 俺が戻れば騒ぎになってしまう。

 だから、住吉たちの教室にコヨミを呼ぶことにした。

 有栖川とかいう女が呼びにいったから、そろそろ現れるだろう。

 しかし、どうしてこんなことになったのか。

 改めて俺は思う。

 教室から持ち出したレコードはコヨミが帰った後で「袋を間違えた」だの適当な理由をつけて戻すつもりだった。

 本当のことは、クラスの連中にも住吉にも話すつもりはなかった。

 話したところで誰も信じてもらえない。

 前にクラスで起きた財布の盗難事件のときもそうだった。

 友人以外のクラスの誰もが俺が犯人だと信じて疑わなかった。

 あいつらは、それを間違いだと思ってない。

 だから、財布をなくしたと騒いでいたヤツの勘違いだとわかっても、誰ひとりとして俺に謝ろうともしなかった。

 だが、あいつらの言い分はよくわかる。

 俺はクラスの規律を乱す人間で、和を乱して問題を持ち込む害悪な存在。

 だから、疑われて当然で、そんな人間に謝る必要なんてない。

 そういう立場にいることは、もう慣れた。

 中学時代から何かが起これば俺のせいにされてきた。

 クラスの連中も担任も、親でさえも俺の敵だった。

 俺の味方になってくれたのは、ツレの連中と──コヨミだけだった。

 だから、コヨミの力になりたいと思った。

 同じような家庭環境だったからこそ、あいつにはちゃんとした相手と一緒になってもらいたいと思った。


『絶対に成功させたい恋があるんだけど』


 2ヶ月くらい前に、そんな相談をされた。

 またかと話半分で聞いていたが、今回はこれまでとは違い「絶対に成功させる方法がある」と言った。

 その方法というのが、ミスティというレコードだった。

 なんでも、そのレコードを一緒に聞いた男女は結ばれるらしい。

 そんなことがあるかと笑ってしまったが、ツレの連中の中にもレコードのおかげで女とうまく行った人間がいるらしい。

 半信半疑で電話して聞いてみたが、マジだった。

 コヨミの話だけだと信憑性に欠けるが、何人もうまく行った人間がいるのなら本当に効果があるのかもしれない。

 そして、そのレコードを意中の相手に聴かせれば、コヨミの恋もうまくいくかもしれない。

 だから、工業祭でジャズ喫茶をやろうと提案した。

 ツレの連中の賛同もあって俺のジャズ喫茶案が通り、コヨミを呼ぶことになった。

 機材を調達し、レコードも準備した。

 万事が滞りなく進んでいた。

 ──コヨミが、ひとりで現れるまでは。


「おかげでライブが見られなかったじゃない。この埋め合わせは、絶っ対してもらうからね」

「すみません……」


 音楽に乗って、なにやら遺恨の色が伺える声が運ばれてきた。

 教室の入り口で、住吉が女子生徒に怒られている。

 生徒手帳に書いてある校則を具現化したような女。

 そんな女を怒らせるなんて、一体何をしでかしたのか。

 右往左往している住吉を見ていると、むねがすっとした。

 いいぞもっとやれ。

 女を応援していると、彼女の後ろの扉が開いた。

 現れたのは、有栖川と、コヨミ。

 コヨミが入り口で有栖川と何かを話しはじめた。

 そこに住吉もまざる。

 さっさと席に案内しろと言いたくなった。

 相手の男がいつ現れるかわからない。

 そもそも、コヨミは男に連絡しているのだろうか。

 ここにいると知らないまま機械科の教室に行って、すれ違いで終わるなんて最悪の結末を迎えやしないか。

 有栖川がレコードプレイヤーの近くへ行く。

 同時に、住吉とコヨミがこちらへ歩き出す。

 席に案内するつもりなのだろう。

 コヨミのことが心配で客に紛れているのだが、見つかってしまえば面倒なことになる。

 できるだけ俺とは離れた席に案内しろ。

 そう心の中で住吉に忠告したのだが──。


「……冗談だろ」


 思わず口に出してしまった。

 あろうことか、住吉が案内したのは俺の席だった。


「お前、どういうつもりだ」


 睨みつけて、住吉に問う。

 だが、住吉は何も返してこない。

 言い訳をするどころか、住吉はコヨミを置いて立ち去っていった。

 殴りたくなったが、コヨミの手前、そんなことをするわけにもいかない。

 しばらく俺とコヨミの間に気まずい沈黙が流れる。


「言っとくけど、別に覗き見しようなんて思ってたわけじゃねえからな?」

「わかってるよ」


 コヨミは即座に返す。


「なんつーか、コヨミのことが心配だっただけだ」

「だから、わかってるって」 

「わかってるんだったら別の席にしろよ。相手の男が来るかもしれないだろ」


 俺と一緒の席にいたら、いらぬ疑いをかけられるかもしれない。


「嫌だね」


 だが、コヨミは吐き捨てて、目の前の椅子に腰掛けた。

 俺の口から出かけた小言を遮るように、コヨミは続ける。


「ていうか、またクラスで問題をおこしたんだって? レコードをパクったって聞いたけど?」

「……は?」


 なんでそのことをお前が知ってんだ。


「髪の長いあの子が教えてくれたよ」

「長い髪……有栖川の野郎か」 


 じろりと有栖川をにらみつける。

 小さな悲鳴が聞こえたような気がした。


「それで? なんでレコードを?」

「うるせぇな。お前に話すようなことじゃねえ。というか、早くほかの席に行けよバカ」


 教室に流れていたジャズが溶けていくように消えていった。

 どうやらレコードが終わったらしい。余韻がしばらく漂ったあと、次のレコードの曲が始まった。


 思わず有栖川を見てしまった。

 あろうことか、流れてきたのがミスティだったからだ。

 繊細で切ないピアノのメロディ。

 どこか霧がかったような旋律。

 聴き間違いかとおもって、記憶と何度がすり合わせたが間違いない。

 自宅でレコードのかけかたを練習したときに聴いたから、よく覚えている。

 音楽を止めようと席を立った瞬間、コヨミが腕を掴んできた。


「……なんだよ、離せ。相手はまだ来てないのに流す必要ねえだろ」

「相手は、来てるよ」


 視線をそらしたまま、コヨミは言う。

 あたりを見渡したが、それらしき男はいない。


「どこだよ。誰もいねえぞ」

「いるでしょ」

「あ? どこにだよ?」

「あたしの目の前」

「…………は?」


 すっと、まわりから音が消えた気がした。


「だから、あんただよ」 


 意味がわからない。

 どうして相手の男が俺になるのか。

 相手はあたしの目の前にいる。

 その言葉をもう一度反芻した。

 何度考えても、その言葉はそういう意味しかないように思える。

 疑問が浮かんでは消えていく。


「とにかく、座りなよ」

「……お、おう」


 言われるがまま、席に座る。

 正面から見たコヨミは、不自然に目を泳がせていた。

 なんだよ、その乙女チックな反応は。


「まぁ、そうだろうなぁって思ってたけど……本当になんにも気づいてなかったんだね?」


 呆れたように、コヨミは言う。


「今までの話、全部ウソだったんだ」

「嘘? なんの話だ?」

「タケヒロ」

「……確か、この前フラれたっていう相手だよな?」

「ジュンイチ」

「その前にフラれた男……だったか」

「ケンジ、ヒロシ、タカシ」

「……おいおいおい、ちょっと待て」

 
 コヨミが口にしていく男の名前。

 途中からわからなくなったが、これまでコヨミをフッたゴミ男たちの名前だ。


「フラれたっていう話、全部ウソ」

「は? は? マジで? え、っつーか、なんで?」

「あんたの気を引くためにきまってるでしょ。言わせんな恥ずかしい」


 コヨミは視線をそらして咳払いをした。

 色々と信じられなかった。

 というかそもそも──。


「なんでお前が、俺なんかを?」

「簡単に言えば、あんたがレコードを持ち出した理由と同じだよ」

「理由? なんだそりゃ」

「しらばっくれんなよ面倒くさい。あの子から聞いたんだから」


 あの女、マジでペラペラとしゃべりやがって。


「本っ当に、あんたってバカで不器用だよね。後先考えないっていうかさ。中学んときからずっとかわらない」

「あ? 何のことを言ってんだ」

「中学校の頃、あたしのクラスに殴り込みしてきたことがあったでしょ? ムカつく先輩がいたとかなんとかって言ってさ。あれって……あたしが家庭環境を理由にいじめられていたのを聞いたからでしょ?」


 ぎゅっと心臓を掴まれたような感じがした。

 図星だった。


「ち、違ぇよ。あ、あいつが影で俺のことを悪く言っていたからムカついて殴りに行っただけだ」

「あたし、知ってるんだから。あいつとあんたに面識はないって。知らない人間の陰口なんてたたけるわけないでしょ」

「じゃあ、俺の聞き間違いだな。てか、そんなことはどうでもいいだろ」

「よくない。ひとつ間違えば、あんたの高校進学が難しくなってたんだから。向こうが警察沙汰にしようとしていたのを聞いて、あたしがいじめられていたことを担任に話したんだ。それで穏便に済ませることになった」


 それは知らなかった。

 学校内とはいえ、あんな騒ぎを起こしているのに大きな問題にならなかったのは不思議だなと思っていたが。


「あんたのそういう後先考えずに行動するところ、本当にムカつく」

「あ? お前だって、同じようなモンじゃねえか。そのセンコーにチクった件だって、仕返しされたらどうするつもりだったんだよ?」

「そんときは、またあんたが助けてくれるんでしょ」

「……お前、俺のことを正義の味方かなにかと勘違いしてないか?」 

「昔から助けてもらってたよ。あたしを助けてくれるのは、いつもあんただった」


 公園でひとりで遊んでいたときに話しかけたきたコヨミ。

 俺は菓子を分けてもらう見返りに、コヨミを野山にある俺の秘密の場所へ連れていった。

 遊んでやったのは、家では口にすることのできないような菓子がほしかったからだ。

 だが、うまい菓子も食べ続ければ飽きてくる。

 それでも菓子を持ってくるコヨミと遊んでいたのは、なぜだろう。

 口にできない菓子を食べられるのはいまだけだと考えていたからだろうか。

 それとも、何か別の理由があったからだろうか。 

 その理由の正体はわからない。

 いや、わからないようにごまかしているのかもしれない。

 流れていた霧のような曲が終わり、余韻が混じった静寂がはじまる。

 ここで俺が首を横に振ったなら、ジンクスにはじめて汚点がつくことになる。

 それはよくないことなのか、わからない。

 ただ、確かなのは、首を横に振ればコヨミが傷ついてしまうということだ。

 コヨミを悲しませたくない。

 似たような家で育ったコヨミが幸せにならなければ、俺が否定されたことになってしまう。

 だからあのとき──コヨミがいじめられていることを知って、俺はいてもたってもいられなくなったんだ。


「はぁ……」


 思わず、ため息が出てきた。


「お前って、昔から俺がいないとダメだったからな」

「あんたこそ、あたしがいなかったら高校にすら進学できてなかったくせに」


 コヨミが笑った。

 つられて俺も笑ってしまう。


「まぁ、俺たちは似たもの同士ってことか」


 お互いに欠点があって、それをお互いが補ってきた。

 だから、心地よい関係が続いていた。

 これからも、そういう関係がつづけば幸せなんじゃないだろうか。

 不意に、心の中に広がっていた黒いもやもやが消えた。

 そのもやもやの正体が、ようやくわかった気がした。
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