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第二章 ビル・エヴァンス「ポーギー」

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 世の中には奇跡と呼ばれるものが本当に存在するらしい。

 なにせ井上の祖父が探していたレコードは、あろうことか「ビハインド・ザ・ビート」のレコード陳列棚の中にあったのだ。


「しかし、こんなところにあったなんてな」


 いつものカウンター席に腰掛け、俺はそのレコードを眺めていた。

 だけど、これが井上の祖父が探していたレコードだとしても簡単に彼に渡すことはできない。

 ここにあるレコードの大半は「預かりもの」なのだ。


「今日も来てくれるかな」

「きっと来てくれるはずです」


 有栖川は即座に答える。

 その声には確かな自信が伺いしれた。


「……こんにちは」


 小さな鈴の音に導かれるように、凛とした女性の声が店内に広がった。


 入り口で優しい笑顔をうかべながら立っていたのは、毎週ビル・エヴァンスの「汚レコード」をリクエストする、あの老婦だった。


「いらっしゃい」


 いつものように、東さんが老婦を迎え入れた。

 ただ、いつもと違ったのは、有栖川が老婦に声をかけたことだった。


「す、すみません。しょ、しょしょ、少々お時間、よろしいでしょうか?」


 有栖川が小さな声で訊ねる。

 老婦は驚いているようだった。

 挨拶を交わすことはあっても、こうして声をかけられたことがなかったんだろう。

 深く干渉しないというのがこのカフェのルールだし。


「はい、なんでしょうか?」

「こ、このレコードについて、少々お伺いしたいことが」


 有栖川はカウンターに置いていたレコードを手にした。

 老婦がいつもリクエストしていた、ビル・エヴァンスの「メモリーズ・オブ・ビル・エヴァンス」──。

 今見ても、このレコードと、「サンデイ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード」のジャケットはよく似ている。エヴァンスがテーブルに肩肘をついているか、両手を置いているかくらいの違いしかない。


「じ、実は、とある方がこのレコードを探していらっしゃいまして……」


 有栖川がそういった途端、老婦が息を呑んだのがわかった。

 老婦は胸に手をあてて小さく深呼吸し、ゆっくりと口を開く。


「……ま、まさか、正男さんが?」
「はい」


 有栖川は小さく頷き、しっかりとした口調で続けた。


「正男さんが、このレコードを譲ってほしいとおっしゃっています」


 井上の祖父、が探していたレコードはこの「ポーギーを正男さんに」と書かれた「メモリーズ・オブ・ビル・エヴァンス」だった。

 正男さんはジャズを聴きたいわけではなかった。

 彼が探していたのは。思い出が詰まったこの汚レコードだったのだ。

 正男さんはこのレコードを40年前に手放してしまったらしい。

 彼自身、40年前に手放した汚レコードを再び手にするのは絶対に無理だと思っていた。

 だけど、藁にもすがる思いで井上に頼んでしまった。

 それほどこのレコードに恋い焦がれていたのだ。


「ほ、ほ、本当に正男さんなんですか?」

「はい。正男さんはお孫さんに依頼してこのレコードを探していました。先日、私とそちらにいる住吉さんのふたりで御本人に会って、話を聞いてきましたので間違いありません」

「おふたりで?」


 老婦が「本当に?」と言いたげに視線を送ってきたので、しっかりと頷いた。

 彼女はその事実をゆっくりと咀嚼するようにしばらく口を噤む。


「……正男さんは、今、どちらに?」

「佐世保市総合医療センターです。正男さんは、末期癌で入院されています」


 それを聞いた老婦の顔に、驚きの色はなかった。

 ただ、喪心したような空気があっただけだった。


「いつもの席で、お話をしても?」

「はい。ぜひ」


 いつもの席。
 店の一番奥、スピーカーの前の席。

 老婦はいつもあの席でエヴァンスのピアノに耳を傾けていた。

 老婦はレコードを手にし、有栖川とその席へと向かった。

 俺も行っていいものかしばらく悩んでいたが、老婦が手招きしたので足早に彼女たちの後を追う。

 俺が席についた頃合いで、エヴァンスの「枯葉」が流れはじめた。

 この席で聴くエヴァンスは、また少し違っていた。

 華やかで切なく、軽快で優雅なエヴァンスのピアノが全身に降り注いでいるような感覚があった。


「この席はエヴァンスを全身で感じることができるから、気に入っているんです」


 それが単なるお世辞ではないことは、心地よさそうな老婦の顔が物語っていた。

 音楽は全身で感じろ、という言葉を耳にしたことがあるけど、この席にいるとその意味が分かる気がする。

 確かに、音楽は全身で感じたほうがずっといい。


「さて、どこからお話ししましょうか」


 老婦は瞼を閉じたまま続ける。


「……私が最初に正男さんに会ったのは、30年前くらいかしら。彼は私が働いていたカフェの常連だった。毎日、閉店時間までお店にいたのを覚えているわ」


 そうして老婦は、正男さんとの出会いを語ってくれた。

 老婦……澄子さんは当時、四◯三アーケードにあった小さなカフェで働いていて、正男さんはそこに毎日のように顔を出していたという。


「正男さんはいつも閉店までカフェにいた……と言っても、私的な会話をすることなんてなかったわ。『閉店です』と声をかけると『ありがとう』と笑いかけてくれるくらいね」


 澄子さんは、そんな正男さんのことがずっと気になっていたらしい。


「だって、毎日閉店までいるでしょう? この人は一体何者なんだろうって思っていたの。それで、もしかしたら私と同じ境遇なんじゃないかって思うようになった」

「同じ境遇?」


 思わず訊ねてしまった。


「こんなことあまり他人に話すことじゃないのだけれど、そのとき私は夫から逃げて一人暮らしをしていたの。夫は暴力がひどい人で、たまらず逃げて来たってわけ」


 澄子さんは夫から逃げ佐世保に来た。

 夜まで営業しているカフェで働いていたのは、夫の目を欺くためだった。


「心細さがあったんだと思う。だから、この人も同じ境遇だったらいいなと思っていた。それを確かめたくて、勇気を出して正男さんに聞いてみたの。『いつもここでお仕事をされているんですか』って。そしたら、正男さんは『違います』って笑ったわ」


 正男さんは近くの工場に勤務していて、夜勤までカフェで時間を潰しているだけだった。

 「いつも閉店までいるから、妙な客だなって思っちゃいますよね」と、正男さんは照れくさそうに笑ったという。


「正男さんは私とは真逆だった。仕事も家庭もうまくいっていた。ただ、家でジャズが聴けないことだけが不満だと言っていたわ」


 それを聞いて、井上から聞いた話を思い出した。

 結婚してすぐにリストラに遭い、深夜の工場作業員として働くことになったこと。

 それに、奥さんが洋楽嫌いだったこと。

 やはり正男さんはジャズが好きだったらしい。

 聴きたかったけれど、洋楽嫌いな奥さんに気を使っていたのだ。


「そんな話をするうちに、私はいつのまにか夫のことをを相談していたわ。そうしたら、正男さんはすぐに弁護士さんを紹介してくれた。仕事関係でお世話になった弁護士さんらしくてね。そこからトントン拍子に話しが進んで、夫との離婚が成立したの」


 仕事関係というのは、リストラにあったときのことだろう。

 不当解雇を受けて弁護士に相談する人が多いと聞いたことがある。


「正男さんのおかげで私は自由になれた。だから、せめてお礼をしたくて、彼が好きだと言っていたジャズレコードをプレゼントしたの。ビル・エヴァンスのサインを偽装してね。ほら、サインがあれば、さすがに洋楽嫌いの奥さんも許してくれはずでしょう?」


 アーティストのサインが入っていたら無下に扱うこともないだろうし、せっかくだから聴いてみようという話になるかもしれない。

 だから、澄子さんはエヴァンスのサインに「ポーギーを正男さんに」というひとことを加えて、このレコードはエヴァンスからの贈り物だと思わせた。


「でも、それが駄目だったのかもしれないわね」

「駄目だった、というと?」

「レコードをプレゼントしてから正男さんがカフェに現れることは二度となかったわ」

「え……どうして?」 

「さぁ。はっきりとした理由はわからないわ。それから正男さんと会うこともなかったし、連絡先も交換しなかったから。けれど、数年前に偶然このレコードが手元に戻ってきたときになんとなくわかったの。きっと、正男さんは迷惑だったんだわって」


 女性にプレゼントされたというのが奥さんにバレてしまい、問題になったのか。

 それとも、ジャズレコードを家に持ち込んでしまったことが原因で喧嘩になったのか。

 真実はわからないが、レコードが原因でトラブルになり、手放さなくてはならなくなった。


「そのレコードはどこで?」

「知り合いに元ジャズピアニストのレコード収集家がいて、その方に譲ってもらったの。このサインが偽造だということを見抜いていて、タダ同然で譲ってくれたわ。落書きされていたから売り物にならないって」

「元ジャズピアニストの、収集家……?」


 反応したのは、それまで静かに澄子さんの話に耳を傾けていた有栖川だった。

 やけに驚いているような気がする。


「どうした有栖川?」

「え? あっ……な、な、なんでもありません」


 有栖川は前髪をしきりに触りながら「続きを聞かせてください」と澄子さんに促した。


「私はずっと正男さんに謝りたかったの。恩を仇で返すような真似をしてしまったことを謝罪したかった。だから、ここで正男さんを待っていたの」


 正男さんはジャズを聴きたいと言っていた。

 家で聴くことができないなら、こういう場所に現れるかもしれないと澄子さんは考えたらしい。

 それで、澄子さんは佐世保にあるジャズ喫茶を周っていた。

 昔は多かったジャズ喫茶も今は数えるほどしかなくなったし、周るのは容易だったと澄子さんは笑う。

 まるで沈黙の中に溶けこんでいくように、エヴァンスの曲が終わった。

 わずかの静寂が降り、すぐにB面の曲が始まる。


「正男さんは迷惑だなんて思っていなかったはずです」


 エヴァンスの繊細なピアノサウンドに乗って運ばれてきたのは、有栖川の声だった。


「正男さんはこのレコードに託された澄子さんの想いを理解していました。だから、手放してしまったことを後悔していたんです」

「後悔? 正男さんが?」

「はい。だから正男さんは、最後のときが近づいてきたことを知って、お孫さんにこのレコードを探して欲しいと依頼されたんです。望みは薄いかもしれないけど、澄子さんにプレゼントされたレコードをもう一度手にしたいと……」


 澄子さんが息を呑んだのがわかった。

 カップの取っ手を握っている澄子さんの手がかすかにふるえていた。


「澄子さん」


 有栖川はテーブルのジャケットを手に取り、続けた。


「このレコードを正男さんに贈っていただけませんか? 澄子さんの手で、もう一度」


 澄子さんは有栖川が手にしたレコードジャケットをじっと見つめた。

 まるで、レコードに詰まった思い出を振り返るように。

 どれくらいそんなふうにしていただろう。

 やがて澄子さんは少し困ったような表情をしたあと、スピーカーのほうに視線を送った。


「……私、この曲が大好きなの」


 そう言われて、俺も曲に耳を傾けた。

 曲名はわからないけれど、エヴァンスの繊細さの中に哀愁に似た物悲しさが入り交じった曲だった。


「アイ・ラブズ・ユー・ポーギーですね」


 有栖川が言う。

 澄子さんは笑顔で頷いた。

 ポーギーを正男さんに。

 雅子さんが正男さんに贈った曲。

 確かに良い曲だ。なんとなく澄子さんに似合っていると思った。


「正男さんも好きだといいんだけれど」


 澄子さんが虚空を見つめたまま、囁いた。


「きっと好きだと思いますよ」


 有栖川が答える。

 澄子さんは有栖川を見て少し恥ずかしそうに微笑み、彼女からレコードジャケットを受け取った。
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