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第二章 ビル・エヴァンス「ポーギー」

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 学校を出て、最寄り駅の泉福寺駅に到着してからスマホを取り出した。

 俺が通っている佐世保工業高校では校内でのスマホの使用が禁止されているのだ。

 母からなにか連絡が来ていないか確認して、音楽アプリを起動する。

 イヤホンを耳にはめながら画面をスワイプ。

 選んだのは、先日購入したジョン・コルトレーンのアルバム、「ブルートレイン・エキスパンデッドエディション」だ。

 このアルバムには、タイトルにもなっている「ブルートレイン」をはじめ、軽快なリズムが特徴的な「モーメントノッティス」、「ロコモーション」など、コルトレーンらしい楽曲が七曲入っている。

 このアルバムを買ったのは三日前なのだが、登下校中に毎日聴いている。

 家を出てから学校に着くまでに聴き終えるくらいの長さなので、丁度いい。

 できるだけ快適に聴くために小遣いを使ってブルートゥースのイヤホンも購入した。

 改めて、そんなことをしている自分が不思議で仕方がない。

 数日前まで俺こと住吉隆弘は、ジャズが大嫌いだったのだ。

 忘れていたジャズへの情念を思い出させてくれたのは、クラスメイトの有栖川ちひろだった。

 彼女は、俺の父が残した8枚のレコードから全てを紐解いてくれた。

 俺が父やジャズに向けていた偽りの感情と、父が俺に向けていた秘めた想い。

 すべてがあるべき形に戻った後、俺は素直に父が探していたブルートレインのオリジナル盤を聴きたいと思った。

 そうすることが父の手向けになると思ったからだ。

 だから俺は待つことにした。

 有栖川がバイトをしているあの店に、ブルートレインのレコードが現れるときを。


「あっ」


 泉福寺駅の待合室に入ったとき、イヤホンから流れてくるブルートレインの3つの管楽器によるハーモニーの向こうで声がした。

 長い髪を後ろで留めた大人っぽい雰囲気の女子。

 顔を隠すように文庫本を持ち、誰もいない待合室の椅子に座っていたのは、有栖川だった。


「よう」


 耳からイヤホンを外し、小さく手を挙げた。

 隣に座るのは少し気が引けたので、椅子をひとつまたいで腰をおろした。


「こ、こんにちは。き、きき、奇遇ですね。こっ、ここ……こんなところで会うなんて」


 本に顔を半分隠したまま、有栖川は消えそうな声で言った。

 まるでずいぶんと長い間会っていないような言い方だが、俺たちはつい数十分前まで同じ教室にいたんだけどな。

 まぁ、同じ教室にいたといっても、談笑をしていたというわけではないけど。

 以前よりも仲が深まったのは事実なのだが、それはビハインド・ザ・ビートの中だけの話なのだ。


「これから、バイト?」

「は、はい。でも、時間があったので……ここで読書しながら……少しだけ時間つぶしを……しようかと」

「なるほど、読書で時間つぶしか」


 ちらりと有栖川が手にしている文庫本に視線を落とす。

 指摘するべきか悩んだが、どうにも気になるのでやむなく言うことにした。


「あのさ、本が逆さになってるんだけど?」

「……あっ」


 ようやく気づいた有栖川は慌てて本をひっくり返した。

 文庫本で顔を隠したが、耳先が真っ赤になっている。


「音楽に集中しすぎだよ」


 有栖川はジャズに夢中になるあまり、周りが見えなくなることがある。

 妙に饒舌になり、いつもは出てこない佐世保弁が飛び出てくる。

 本を逆さに持っていることに気づかないくらい集中しているなんて、本当にジャズが好きなんだな。

 そう思って有栖川の耳を見たが、不思議なことに彼女の耳にイヤホンは刺さっていなかった。


「そっ、そそそ、そうですね。ジャ、ジャズに集中しすぎました」


 本を閉じてカバンの中にしまう。

 ジャズを聴いてなかったのにジャズに集中してた。

 なるほど。有栖川ほどのマニアになると、想像でジャズを楽しめるのか。


「とっ、ところで住吉さん。コルトレーンは聴いていますか?」

「もちろん聴いてるよ。勧めてくれたアルバムだからな」


 何を隠そう、買ったあのコルトレーンのアルバムは有栖川に勧められたものなのだ。


「それは良かったです! 私はあのアルバムの中では『アイム・オールド・ファッションド』が好きなんですけど、住吉さんはどうですか?」


 相変わらずジャズの話になると、言葉がしっかりとしてくる。


「良いと思うけど、俺は『モーメントノッティス』のほうが好きかな」

「あれも良いですよね。実にコルトレーンらしいというか、まさにシーツオブサウンズという感じがします」


 シーツオブサウンズというのは、コルトレーンのテナー・プレイに対する表現のことだ。

 畳み掛けるようなコルトレーンのサックスは「敷き詰められた音」とも表現されるらしい。

 それを教えてくれたのは、有栖川だ。


「住吉さんにもぜひ『マイ・フェイバリット・シングス』を聴いて欲しいです」

「前に有栖川が言っていたやつだっけ? たしか、ミュージカルの一曲だったとか」

「そうです。コルトレーンの代表曲のひとつで、実に彼らしいナンバーなので……あ、そういえば、住吉さんのお父様のコレクションの中にありましたね」

「え、マジで? 知らなかった」

「先日お預かりしたときに全部チェックしたので、間違いないと思います」


 父が残したジャズレコードはビハインド・ザ・ビートに預けることになった。

 母にレコードを預けたいと話したところ、ふたつ返事で承諾してくれたのだ。

 彼女もやはり手放すのは忍びないと思っていたのかもしれない。

 今はかなわないが、行けるようになったらビハインド・ザ・ビートに足を運びたいと笑っていた。


「あ、あの」


 と、有栖川の声。


「すっ、住吉さんは、今日もお店にいらっしゃいますか?」

「うん、そのつもりだ」


 ビハインド・ザ・ビートに通い始めて一週間くらいが経つが、学校が終わって一時間くらいカフェに立ち寄るというのが最近のコースになっている。

 カフェに行くのにはいくつか理由がある。

 ひとつは、父のレコードをリクエストするためだ。

 良い状態でレコードを保つには聴き続ける必要がある。

 カフェに預けたとはいえ、一日に流せるレコードの量は決まっているのでリクエストしないとずっと聴かれないことになりかねない。

 ふたつめは、カフェにブルートレインのオリジナル盤が来ていないか確かめるためなのだが──


「あっ、もしかして、ブルートレインのオリジナル盤が来た?」

「え? い、いえ……それは、まだ」

「あ、そうなのか」


 わかっていたことだけれど、ほんの少し落胆してしまった。

 出回っていないオリジナル盤が数日で来るなんて奇跡は起きるはずがない。

 しばしの沈黙が待合室に流れる。

 佐世保とは逆方向の左石駅方面の列車が止まり、生徒たちが数名乗り込んでいった。


「お店に来るのは、楽しいですか?」

「……え?」


 列車の音と入れ替わるようにふわりと流れてきたのは有栖川の声。


「ほ、ほら、私ってジャズのことになると、ペラペラと余計なことまでしゃべっちゃうじゃないですか。もしかすると、住吉さんが不快に思われているんじゃないかなあと」


 うつむきがちに有栖川は言う。


「せっかく息抜きでお店にいらっしゃっているのに、私が邪魔をしていたら本末転倒というか……」

「いやいや、邪魔なんてことは全くない。むしろ、もっと聞きたいくらいだ」


 いつもカフェでリクエストをしたとき、有栖川は楽曲の説明をしてくれる。

 曲が作られた背景だとか、深くアーティストのことを知れるエピソードを曲に添えてくれるのだ。

 それがカフェに行く楽しみのひとつでもあった。

 深くジャズレコードを楽しむことができているのは、有栖川のおかげにほかならない。

 不安げに、有栖川が訊ねてくる。


「め、迷惑じゃない?」

「全く」

「呆れて、いない?」

「全然。むしろ、知識が豊富だなっていつも感心してる」

「か、かか、感心……!?」


 有栖川は顔を真っ赤にして、前髪をいじりはじめた。


「いや、本当に凄いと思うよ。質問したらなんでも返ってくるし」

「そっ、そんなことないです」

「それに、レコードを変えるときも曲が終わるドンピシャのタイミングで針を上げてるだろ? あれなんて名人芸だと思うよ」

「あ、あれは、なんていうか、癖みたいなもので……曲の終わりが近づくと自然と体が動いてしまうんです。本当はあんまりよくないんですよ? 誰かと話していてもやってしまうので、上の空で話を聞いているのかと勘違いされてしまって……も、もちろん、そんなことはないんですが……」


 それは言われなくてもわかっている。有栖川は見かけによらず観察力や洞察力に優れているのだ。


「まぁとにかく、カフェに行くのは楽しいよ。その言葉に嘘偽りはない」


 きっぱりと言い放つと、有栖川は何度か目を瞬かせて小さく息を漏らした。


「……よかった」


 そして、ぎゅっと自分の手のひらを握りしめ、くすぐったそうに笑う。

 返す言葉を見失ってしまい、しばらく沈黙が流れた。

 会話の余韻が狭い待合室に漂う。

 だけど、有栖川はそんな余韻すら楽しんでいるように思えた。

 次第に待合室にも学生が増えてきたと思った矢先、遠くから踏切の音が聞こえてきた。

 どうやら佐世保方面に向かう列車が来たようだ。


「……じゃあ、行こうか」


 俺はおもむろに腰を上げる。すぐに有栖川も席を立った。


「はい。急がないとバイトに遅れてしまいます」

「そうだな……って、遅れる?」

「え?」

「時間があるからここで暇つぶししてたんじゃないのか?」

「……あっ」


 有栖川がぎょっと目を見開いた。

 バイトまで時間があったから、ここでジャズを聴きながら本を読んでいた。

 確かそう言っていたはずだが。


「わっ、わわわ、私、先に列車に乗っとりますから!」


 すべりこんできた列車のディーゼルエンジンの音に追い出されるように、有栖川は待合室から飛び出していった。

 彼女の小さな背中が、列車を待つ生徒たちの列へと消えていく。

 それから有栖川は佐世保駅につくまで、なぜか俺に近づいてこようとはしなかった。
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