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第16話 マチルダさん

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 俺の手から発せられる、白い光がマチルダさんの体を包み込んだ。
 さあ、これで彼女が回復してくれればいいのだが。
 しばらく、気持ちを込めながらヒールを続けた。
 しかし、マチルダさんは一向に回復する気配がなかった。
 うーうー唸りながら、先ほどよりも呼吸が荒くなっていた。

「マチルダ! しっかりしろ!」
 アザドの声が狭い部屋に響いた。お構いなしの切羽詰まった声だった。

 やっぱり俺の回復魔法では駄目なのか。結局、マチルダさんを苦しめているだけで、救うことなんて出来ないのか。
 いや、あきらめては駄目だ。どんな事があってもマチルダさんを救わなければ。必死な形相で鼻水を垂らしているアザドを見ていると、こんな所でくじけてはいけないと思い直した。

 マチルダさん、生きるんだ。
 こんなに君のことを大切に思っている人がいるんだ。
 あなた自身の力で立ち上がってくれ。

 そんな言葉を念じながらヒールをかけ続けている時だった。
 新しいコマンドが頭の中で開いた。

『ハイパーヒールを使いますか?』

 ハイパーヒール?
 ハッピーロードをプレイしている者なら、誰もが知っている究極魔法のワードだった。
 ヒールの最上位魔法で、使える術師などほとんどいない伝説級の魔法だ。なにしろ、勇者アークが国中を探し回って、やっと使える術師を一人見つけられるかどうかの稀な魔法なのだ。
 そんな、ハイパーヒールを、ゴブリンの俺が使えるというのか?

 苦しそうに歪んだマチルダさんの顔を見ながら、俺はすかさずコマンドに『はい』と答えた。

『ハイパーヒールを使用します。体力の消費は150です』
 そのメッセージとともに、白く光っていた俺の手が、銀色に輝き始めた。明らかに、強い光線がマチルダさんを照らしている。

「マチルダ! マチルダ!」
 大男のアザドが、両手を組みながら祈っていた。

 俺は、輝く自分の手のひらを伸ばし、マチルダさんの頬に直接触れてみた。
 彼女の頬の筋肉がぴくんと動いた。血液の脈打つ感覚が、手のひらから伝わってくる。
 気がつけば、苦しそうに歪んでいた彼女の口元が、柔らかくなっている。
 やがて、俺の手の光が弱まってきたと同時に、マチルダさんの閉じられた瞳が、ゆっくりと開かれた。

「マチルダ! 俺だ! お兄ちゃんの顔が見えるか!」

 マチルダさんの眼球が動き、アザドをとらえた。そしてやわらかく微笑みながらこう言ったのだった。

「お兄ちゃん、私、頭の中の霧が晴れている。重くて苦しい気持ちが消えてなくなっているわ」

「そうか。良かった、良かった」
 アザドは、声を震わしながらマチルダさんの手を握りしめていた。

 やがて、ベッドから上体を起こしたマチルダさんが、俺に目を向けた。
「このお方は?」

 俺よりも先にアザドが口を開いた。
「この方は、ゴブマールさんだ。お前の命を救ってくれた、世界最高の回復術師だ。なので、しっかりとお礼を言っておけ」

「ありがとうございます、ゴブマールさん。あなたは私の命の恩人ですね」

「そうだ、ゴブマールさんは命の恩人だ」
 アザドも恩人という言葉を繰り返した後、こう付け加えた。
「約束通り、俺はあんたに、しっかりと支払いをさせてもらうよ」

 俺はすぐにアザドの言葉を遮った。
「アザド、金貸しの仕事で作った金で、お礼をしてもらっても嬉しくもなんともない。あんたの仕事で、どれだけの人が苦しんでいるかは、言わなくても分かっているだろう」

「ああ、そのとおりだよ。俺はどっぷりと悪に染まった人間だ。もう俺にできることと言ったら、金貸しの用心棒くらいしかないんだ。ただ、あんたには恩がある。元気になった妹のためにも、汚い金かもしれないが、きっちりとお礼をさせてほしい。もちろん端金で終わらせようなどと思ってはいない。一生かけて恩を返していく覚悟だ」

「アザド、何を言っているんだ、金など必要はない。しっかりと目を覚ますんだ。誰だって悪に手を染めてしまうことはある。大事なのは、妹さんが元気になったこの先も、そんなことを続けるのかどうかだ。もう、お前は、高額な治療代を稼ぐ必要などないのだぞ」

「いや、これからも妹を守るためにも、俺はまだまだ生き続けなければいけないんだ。一度悪の道に手を染めたなら、そう簡単にこの道を抜けるわけにはいかないんだよ」

 確かにアザドの言う通りなのかもしれない。クローは奴隷商とも繋がっている金貸しだ。そんな組織と関係を持ったなら、手を切ろうとしても報復されるのがおちだろう。
 なんとかしてアザドが、真っ当な道に戻れる方法はないのだろうか。

「俺は、もうどっぷりと悪の道に染まってしまっているんだよ。今さら善人ぶることなんてできやしないんだ」

 そう話すアザドにマチルダさんが口を開いた。

「お兄ちゃん、もう私のために人を傷つけるのは止めて。ここから逃げて、何もかも捨てて、遠い国で、私と一からやり直しましょう」

 アザドはそんな妹の言葉を、静かに聞いていた。やがて、大きく息を吐くとこう言った。
「……お前さえ良ければ、それもいいかもしれないな」

「そうしましょう、お兄ちゃん。ここから私と逃げましょう」

 俺もマチルダさんの言葉に同意した。
「それがいいと思う。こうなったら、この土地を離れて、二人で幸せに暮らす道もありだと思う」

「実はそんなことを俺も以前から考えていたんだ。マチルダと二人、遠い国で穏やかにやり直したいと。……頃合いを見計らって、準備ができ次第、この国を離れるか」
 アザドも決心したようだ。そして、改めて俺を見た。
「ただ、ゴブマールさんには、大きな借りが残っている。逃げる準備をする間、何か一つでもあんたの役に立てることはないだろうか」

「それなら、一つだけお願いしたいんだが」

「なんでも言ってくれ」

「実は、一週間後に王宮で料理を作ることになっている。その間、俺はエルフィンから離れなければならない。けれど、俺が不在時に、アデレードさんとミルにもしものことがあったらと心配でならないんだ。その日だけでいい。エルフィンの用心棒になってくれないか」

「なんだ、そんなことでいいのか。お安い御用だ。あんたの出かけている間、しっかりと二人を守るから安心して王宮で料理を作ってくれ」

「ありがとう。アザドが引き受けてくれるなら百人力だよ」
 そう言って俺が立ち上がろうとした時だった。
 俺の頭の中にコマンドが現れた。そのコマンドは、いつもと違って赤く光っていた。
 コマンドにはこう書かれていた。

『体力をすべて使い果たしました』

 その文字を確認した瞬間、眼の前が真っ暗になってしまった。
 薄れゆく意識の中でこう思った。
 体力を使い果たしたって、まさかゲームオーバーではないよな。
 そのまま俺の体は、ガクンと崩れていく。薄れゆく意識の中で、俺は床に倒れ込んでしまう自分を、かすかに感じることができた。
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