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第1章
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ドアノブに手をかけ、バスルームを出ようとしたシリルは動きを止めた。
部屋の明かりが消えている。室内の様子を窺おうとして目を凝らすと、軽い足音とともに薄闇の中から人影が走り寄ってきた。
「早く、こっちです。早く、早く」
「あ、おいっ」
腕をとられて、強引に引っ張られる。
バスローブ姿のまま手を引かれた彼は、ひろびろとしたリビングを横切り、窓際まで連れてこられた。
見事な眺望が眼下にひろがる、一面の巨大なパノラマ・ウィンドウ。その一角には出入り口が設けられ、街を一望できる贅沢なバルコニーが設置されていた。
娯楽都市バベル・リゾート。通称、不夜城バベル。
その中でも屈指の五つ星ホテル、ル・グラン・シャリオ。その最上階のインペリアル・スイートが今夜の宿だった。
はじめは休暇中のお忍びということもあり、デラックスかエグゼクティブクラスの部屋をとるつもりでいた。しかし、シリルの愛用機、イーグルワンがコロニーのゲートを通過した時点でその身上がバレてしまい、チェックインしたホテルでは、自動的に最上級の部屋が用意された、という次第だった。
――まったく、おちおち羽を伸ばすこともできないとはな。
内心でぼやいてシリルは苦笑する。とはいえ、国の要ともいうべき立場で、かつて使用していた擬装用のIDを用いて身分を詐称するわけにもいかない。ホテルの従業員らには、あくまで私的な訪問なので、あまり事を大袈裟にすることのないようにとだけ言い含めておいた。
ローレンシア王朝第9代君主シリル・イアン・ローレンシア。それが、いま現在のこの国におけるシリルの立ち位置だった。
法の規定の枠外で自儘に仕事を請け負う運び屋。同時に、所属組織を持たない非正規の傭兵。
かつて、シリル・ヴァーノンと名乗り、血縁の存在すら知らぬまま孤児院で育った彼は、己の力だけを頼みに自由に生きてきた。その自分に課せられた、国の命運を握る使命。
先王崩御の後、次代君主としての資格を得、国王としての権限を有するまでに払われた犠牲は大きかった。
望んで得た地位ではない。むしろ、強制的にその資格を押しつけられ、国主としての義務を果たすべく、その座に据えられた。それでも、自分をおいてほかに責務を担える者がいなかったがゆえに、シリルは己に課せられた役目を受け容れるに至った。
国王の座に即いて5年。堅苦しい宮廷の作法や決まりごとは窮屈このうえなかったが、王城を離れてみても、重すぎる肩書のせいでなかなか解放感を味わうことはできない。それでも――
ふと傍らを見て、たったひとりをこうして満足させられるなら、特別待遇もそう悪くはないと思った。
窓の向こうへ転じた視線の先で、コロニーの天井部が大きく開放された夜空がひろがる。通常は密閉された空間となる設計が、この都市にかぎっては異色の構造となっていた。娯楽都市としての演出を最大限に活かすための、特別なサンルーフ機能だった。そこに、光の筋が数本立ちのぼる。直後、濃紺の闇を照らして、色とりどりの大輪の花がパッとあざやかに咲き誇った。
午前零時。悪天候の場合を除き、世界最大のリゾート施設であるこの都市は、毎夜、華やかな光の祭典が催される。シリルがその催しの存在を知り、実際目にしたのは、やはり5年前、王座に即く直前のことだった。
あれからあまりに多くの出来事があり、自分の置かれている状況もまた激変した。
もう一度この場所で、夜空を彩る華やかな光の祭典を目にする日が来るとは思いもしなかった。かつて交わした約束は、もう二度と果たされることはない。そう思っていたからだ。けれど、状況はふたたび大きく変わり、一度はたしかに夢と潰えた約束を、こうして果たすことが叶った。
自分の傍らで、おなじように花火に見入る存在に心が満たされる。
声ひとつ発するでなく、次々に打ち上がる大輪の花を一心に視つめるクリスタル・ブルーの瞳。微動だにせず、花火を鑑賞するために据えられたソファーに座ることも、バルコニーへ出ることもせずにただじっと、その場に立ち尽くす。
「おまえとの約束が果たせて、本当によかった」
しばし窓辺に並んで佇み、天空であざやかに展開される光の花々を堪能した後、シリルは穏やかに声をかけた。相手からもなんらかの反応が返ってくるものと思い、なにげなく傍らを見やる。途端に、目を瞠った。
「どうした? なんで泣いてる」
問われた言葉に驚いたように、振り返った瞳が大きく見開かれた。そこから、透明な雫がさらに溢れ落ちた。
部屋の明かりが消えている。室内の様子を窺おうとして目を凝らすと、軽い足音とともに薄闇の中から人影が走り寄ってきた。
「早く、こっちです。早く、早く」
「あ、おいっ」
腕をとられて、強引に引っ張られる。
バスローブ姿のまま手を引かれた彼は、ひろびろとしたリビングを横切り、窓際まで連れてこられた。
見事な眺望が眼下にひろがる、一面の巨大なパノラマ・ウィンドウ。その一角には出入り口が設けられ、街を一望できる贅沢なバルコニーが設置されていた。
娯楽都市バベル・リゾート。通称、不夜城バベル。
その中でも屈指の五つ星ホテル、ル・グラン・シャリオ。その最上階のインペリアル・スイートが今夜の宿だった。
はじめは休暇中のお忍びということもあり、デラックスかエグゼクティブクラスの部屋をとるつもりでいた。しかし、シリルの愛用機、イーグルワンがコロニーのゲートを通過した時点でその身上がバレてしまい、チェックインしたホテルでは、自動的に最上級の部屋が用意された、という次第だった。
――まったく、おちおち羽を伸ばすこともできないとはな。
内心でぼやいてシリルは苦笑する。とはいえ、国の要ともいうべき立場で、かつて使用していた擬装用のIDを用いて身分を詐称するわけにもいかない。ホテルの従業員らには、あくまで私的な訪問なので、あまり事を大袈裟にすることのないようにとだけ言い含めておいた。
ローレンシア王朝第9代君主シリル・イアン・ローレンシア。それが、いま現在のこの国におけるシリルの立ち位置だった。
法の規定の枠外で自儘に仕事を請け負う運び屋。同時に、所属組織を持たない非正規の傭兵。
かつて、シリル・ヴァーノンと名乗り、血縁の存在すら知らぬまま孤児院で育った彼は、己の力だけを頼みに自由に生きてきた。その自分に課せられた、国の命運を握る使命。
先王崩御の後、次代君主としての資格を得、国王としての権限を有するまでに払われた犠牲は大きかった。
望んで得た地位ではない。むしろ、強制的にその資格を押しつけられ、国主としての義務を果たすべく、その座に据えられた。それでも、自分をおいてほかに責務を担える者がいなかったがゆえに、シリルは己に課せられた役目を受け容れるに至った。
国王の座に即いて5年。堅苦しい宮廷の作法や決まりごとは窮屈このうえなかったが、王城を離れてみても、重すぎる肩書のせいでなかなか解放感を味わうことはできない。それでも――
ふと傍らを見て、たったひとりをこうして満足させられるなら、特別待遇もそう悪くはないと思った。
窓の向こうへ転じた視線の先で、コロニーの天井部が大きく開放された夜空がひろがる。通常は密閉された空間となる設計が、この都市にかぎっては異色の構造となっていた。娯楽都市としての演出を最大限に活かすための、特別なサンルーフ機能だった。そこに、光の筋が数本立ちのぼる。直後、濃紺の闇を照らして、色とりどりの大輪の花がパッとあざやかに咲き誇った。
午前零時。悪天候の場合を除き、世界最大のリゾート施設であるこの都市は、毎夜、華やかな光の祭典が催される。シリルがその催しの存在を知り、実際目にしたのは、やはり5年前、王座に即く直前のことだった。
あれからあまりに多くの出来事があり、自分の置かれている状況もまた激変した。
もう一度この場所で、夜空を彩る華やかな光の祭典を目にする日が来るとは思いもしなかった。かつて交わした約束は、もう二度と果たされることはない。そう思っていたからだ。けれど、状況はふたたび大きく変わり、一度はたしかに夢と潰えた約束を、こうして果たすことが叶った。
自分の傍らで、おなじように花火に見入る存在に心が満たされる。
声ひとつ発するでなく、次々に打ち上がる大輪の花を一心に視つめるクリスタル・ブルーの瞳。微動だにせず、花火を鑑賞するために据えられたソファーに座ることも、バルコニーへ出ることもせずにただじっと、その場に立ち尽くす。
「おまえとの約束が果たせて、本当によかった」
しばし窓辺に並んで佇み、天空であざやかに展開される光の花々を堪能した後、シリルは穏やかに声をかけた。相手からもなんらかの反応が返ってくるものと思い、なにげなく傍らを見やる。途端に、目を瞠った。
「どうした? なんで泣いてる」
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