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第5章
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『ル・シエル・エトワール』をオープンして九ヶ月あまり。
まさか開店して一年にも満たぬ間に、ふたりも従業員を雇うことになるとは思いもしなかった。しかもそのいずれもが、若い女性なのである。
朝、出勤して葵と加奈子、それぞれが立ち働いている姿を目にすると、馴染まない光景に違和感をおぼえる。同時に、ひどく落ち着かない気分になった。自分の店であるにもかかわらず、自分のほうこそが場違いな気さえしてしまう。だが、そんな戸惑いも、月が変わるころには関心を払っている余裕はなくなった。バレンタインはもちろん、個人事業主として運営に関する申告義務を果たす準備にも取りかからなければならない時期に差しかかったからである。あらゆることがはじめての鳴海には、日々の仕事をこなすので手一杯となった。
「オーナー、キャラメルとプラリネクリームの準備できました」
厨房の一角から声をかけられて、鳴海は振り返った。
「次、ヘーゼルナッツとアーモンド、ミディアムロースト。ピスタチオはキャラメリゼを頼む」
「ホールと粉砕、分量はそれぞれ、昨日とおなじくらいで大丈夫ですか?」
「とりあえずそれでいい」
頷きながら差し出した鳴海の手に、ガナッシュ用のキャラメルが渡される。キャラメル、リキュール、コーヒー、ピスタチオ、フランボワーズ、アールグレイ。用途に合わせてテイストを変えたガナッシュを、鳴海は手早く作っていく。その背中に、加奈子がふたたび声をかけた。
「あとで倉庫から、ギフトボックス取りにいってきます」
「いい。重いから俺が行く」
「あ、でも、ナッツ類も補充しておきたいので」
「なら余計、俺が行ったほうが早い。ついでに在庫状況も確認してくる。ひととおりフィリングの準備を済ませてからになるが、一時間後でも間に合うか?」
「大丈夫です。よろしくお願いします。フィリングはいま、ガナッシュ手がけられてるんですよね? こちらの手が空き次第、ジャンドゥージャ作りに入ります」
「わかった」
最小限のやりとりで、テンポよく手順を確認し合いながら作業を進めていく。ちょうどそこへ、葵が顔を出した。
「商品の補充?」
加奈子に訊かれて頷いたものの、すぐさまチョコレートセラーに向かいかけた加奈子を葵は制した。
「あ、ボックスのほうなので、あたしが」
え?と振り返った加奈子に、葵は大丈夫だと応じる。
「なんか今日は、思った以上にアソートの小さいほうの売り上げがよくて」
言いながら、出入口わきの棚に積んであるバレンタイン用のギフトボックスを手にとった。
「紙袋は大丈夫?」
「はい、そっちはまだ。小分け袋も含めて充分余裕があります」
「どっちにしてもランチタイムも終わるころだし、もう少しすれば客足も落ち着くでしょうから、あとでショウケースのほうも補充しておくわね」
「あ、それじゃあ、タブレットとチョコバーの追加もお願いします」
ふたりのやりとりを耳にしながら、鳴海は時計を見やる。それから、葵のほうを振り返った。
「商品の補充が終わったら、昼休憩に入っていい」
「え、でも……」
「こっちは大丈夫だから、葵ちゃん、お昼食べてきていいわよ」
加奈子にも重ねて言われ、葵は一瞬、なにか言いたそうな顔をした。だが結局、口先まで出かかった言葉は、その口の中に呑みこまれて消えた。
「わかりました。それじゃあお店のほう、お願いします」
葵の見せた様子に、鳴海はわずかなひっかかりをおぼえた。けれど、その姿がドアの向こうに消えると、胸に湧いた違和感もうやむやのうちに消失した。バレンタインに向けた商品作りの作業は、いまだゴールの輪郭すら見えないほど山積みとなっていた。
まさか開店して一年にも満たぬ間に、ふたりも従業員を雇うことになるとは思いもしなかった。しかもそのいずれもが、若い女性なのである。
朝、出勤して葵と加奈子、それぞれが立ち働いている姿を目にすると、馴染まない光景に違和感をおぼえる。同時に、ひどく落ち着かない気分になった。自分の店であるにもかかわらず、自分のほうこそが場違いな気さえしてしまう。だが、そんな戸惑いも、月が変わるころには関心を払っている余裕はなくなった。バレンタインはもちろん、個人事業主として運営に関する申告義務を果たす準備にも取りかからなければならない時期に差しかかったからである。あらゆることがはじめての鳴海には、日々の仕事をこなすので手一杯となった。
「オーナー、キャラメルとプラリネクリームの準備できました」
厨房の一角から声をかけられて、鳴海は振り返った。
「次、ヘーゼルナッツとアーモンド、ミディアムロースト。ピスタチオはキャラメリゼを頼む」
「ホールと粉砕、分量はそれぞれ、昨日とおなじくらいで大丈夫ですか?」
「とりあえずそれでいい」
頷きながら差し出した鳴海の手に、ガナッシュ用のキャラメルが渡される。キャラメル、リキュール、コーヒー、ピスタチオ、フランボワーズ、アールグレイ。用途に合わせてテイストを変えたガナッシュを、鳴海は手早く作っていく。その背中に、加奈子がふたたび声をかけた。
「あとで倉庫から、ギフトボックス取りにいってきます」
「いい。重いから俺が行く」
「あ、でも、ナッツ類も補充しておきたいので」
「なら余計、俺が行ったほうが早い。ついでに在庫状況も確認してくる。ひととおりフィリングの準備を済ませてからになるが、一時間後でも間に合うか?」
「大丈夫です。よろしくお願いします。フィリングはいま、ガナッシュ手がけられてるんですよね? こちらの手が空き次第、ジャンドゥージャ作りに入ります」
「わかった」
最小限のやりとりで、テンポよく手順を確認し合いながら作業を進めていく。ちょうどそこへ、葵が顔を出した。
「商品の補充?」
加奈子に訊かれて頷いたものの、すぐさまチョコレートセラーに向かいかけた加奈子を葵は制した。
「あ、ボックスのほうなので、あたしが」
え?と振り返った加奈子に、葵は大丈夫だと応じる。
「なんか今日は、思った以上にアソートの小さいほうの売り上げがよくて」
言いながら、出入口わきの棚に積んであるバレンタイン用のギフトボックスを手にとった。
「紙袋は大丈夫?」
「はい、そっちはまだ。小分け袋も含めて充分余裕があります」
「どっちにしてもランチタイムも終わるころだし、もう少しすれば客足も落ち着くでしょうから、あとでショウケースのほうも補充しておくわね」
「あ、それじゃあ、タブレットとチョコバーの追加もお願いします」
ふたりのやりとりを耳にしながら、鳴海は時計を見やる。それから、葵のほうを振り返った。
「商品の補充が終わったら、昼休憩に入っていい」
「え、でも……」
「こっちは大丈夫だから、葵ちゃん、お昼食べてきていいわよ」
加奈子にも重ねて言われ、葵は一瞬、なにか言いたそうな顔をした。だが結局、口先まで出かかった言葉は、その口の中に呑みこまれて消えた。
「わかりました。それじゃあお店のほう、お願いします」
葵の見せた様子に、鳴海はわずかなひっかかりをおぼえた。けれど、その姿がドアの向こうに消えると、胸に湧いた違和感もうやむやのうちに消失した。バレンタインに向けた商品作りの作業は、いまだゴールの輪郭すら見えないほど山積みとなっていた。
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