奇跡のクマと勇者の話

西崎 仁

文字の大きさ
上 下
14 / 14
8 また会う日まで

(1)

しおりを挟む
 結果として、奇跡は起こった。
 余命を宣告された時点で、手術をしたとしても成功する確率は10パーセントにも満たないと言われていた。それどころか、仮に成功したとしても重い障害が残ることは避けられないとまで断言されていた。
 どう転んでも、俺の目の前には絶望的な未来しか示されず、希望は欠片も存在していないはずだった。だが。

 具体的に手術を受ける方向で話が進みはじめると、いつのまにか親のほうが後込しりごみする様子を見せはじめた。場合によっては、手術の最中にそのまま息を引き取ることも充分ありうる。そんな話も出ていたからだ。だが、起こりうる最悪の可能性をどれだけ示されても、俺の意思は変わらなかった。
 不安も躊躇いも、いっさいなかった。どうせこのまま行けば、確実にあとわずかで終わる生命なのだ。それが手術中であったとしてもたいした違いはない。むしろ、全身麻酔が効いてなにもわからないうちにすべてが終わるなら、苦痛がなくてありがたいくらいだった。
 それに、もしそこで俺の人生が終わるとしても、向こうの世界にはあいつがいる。先に行って、俺を待ってる。そう思ったら、不思議と恐怖は感じなかった。
 生きたい。あいつのぶんまで生きて、この世界にしがみつきたい。そう思う気持ちと、見事に矛盾するやすらいだ思い。

『大丈夫だよ、おじちゃん。奇跡は起こるから』

 神に祈るよりも、遙かにあいつのあの言葉を信じられる。そう思った。
 そうして落ち着いた気持ちで手術に臨み、結果、俺は残りの人生を手に入れた。
 医者が見立てた障害も、いっさい残ることなく術後の身体は回復し、予後も良好。予定よりずっと早くリハビリを終えて退院することとなった。

 こんなことが実際に起こるなんて。

 みずからが執刀しておきながら、担当医は信じがたい様子で呟いた。うっかり本音が漏れていることにすら気づかぬ様子で。そのぐらい、あり得ないことだったのだろう。
 俺は、病院内でひそかに『奇跡の人』と噂されるようになった。そしてその噂に、内心でそのとおりだよと深く頷いては、あの小さな子供に思いを馳せた。
 入院中、とくに手術前後の昏睡中に、あいつがもう一度会いに来てくれるんじゃないかと期待していた。だけど結局、あいつはあれっきり姿を見せなかった。


 退院した俺は、一度アパートに戻って、それからすぐに川に向かった。
 あいつとはじめて会った土手の上から河川敷を見下ろす。ブルーシートはすでに取り払われ、遺体が発見されたことはおろか、現場検証が行われた痕跡すらどこにも見当たらなかった。
 あの日とおなじように、眼下に望む景色は平和そのもので、だけどたしかに、季節は移り変わっていた。
 いつのまにか今年の桜はシーズンを終え、ゴールデンウィークすらも彼方に過ぎ去っていた。頭上から降りそそぐ陽射しはいっそうの目映さと熱気を帯び、空気の中に、夏の気配を漂わせはじめている。

『ねえ、なにしてるの?』

 いまにもなれなれしい口調で声をかけられる気がして、その瞬間をただじっと待ち侘びた。だが、いつまで待っても、待ち望んだ瞬間は訪れなかった。

「早く、出てこいよ」

 ポツリ、とだれにともなく呟いてみる。
 まえを向いたまま、河川敷のグラウンドで野球をするガキどもを見下ろしながら、それでも意識だけは背後に集中する。

「なあ、いるんだろ? わかってるから出てこいって。クマ、取りにこいよ」

 訪れる静寂が耐えがたくて、ややトーンをあげてみた。その自分の声が、妙に切迫して余裕がないものになっている。気づいた途端、バカみたいに狼狽うろたえた。
 病院にいるあいだは、まだ自分の存在が生と死の狭間はざまにいるような気がして、生き延びたことを他人事のように眺めていられた。だが、こんなふうに日常を取り戻してしまったら、もうダメだった。
 知らず知らずのうち、腕に抱えていたものを強く握りしめる。

「なあ、クソガキ、早く取りこいって。捨てちまうぞ、おまえの宝物!」

 いいよ、とか、やっぱり返して、とか、なんでもいいから早く言いにこい。
 祈るような気持ちで抱きしめた。

「なあってば、聞いてんだろ? 俺、助かったんだよ。おまえがくれたクマゴロー、ほんとに奇跡起こしやがったんだ。だから俺、おまえにちゃんとお礼が言いたいんだよ。そんでおまえに奇跡のクマ、ちゃんと返したいんだよ。おまえにももっとすごい奇跡が起こるように。なあおい、聞いてるか……? クソガキ……――律!」

 声に出して名前を呼んだらもう、我慢できなくなった。
 立ち上がって、一気に斜面を駆け下りる。入院生活で体力がすっかり落ちて、すぐに息が上がった。足も無様に、何度ももつれてそのたびに転げ落ちそうになった。それでも速度を落とさず、一気に駆け下りて河川敷の端まで走りきる。川岸に近い、ブルーシートが張り巡らされていたあたり。

「おいってば! 出てこい、クソガキッ! いるんだろ? 隠れてないで姿見せろっ。そんで一緒に帰るぞ! おまえが幽霊でもなんでもかまわねえ。俺がクマゴローごと引き取ってやる。面倒見てやるよ。ちゃんと育ててやる! だから遠慮しないで出てこいっ! なあクソガキ……――律っ!」

 呼びかけながら、必死で探しまわる。

「頼むから返事しろっ。律っ! 律っ! どこ行っちまったんだよ、おまえ。帰ってこいってっ。俺んとこ戻ってこい! 律――律っ!!」

 いい年したおっさんが、ぬいぐるみ抱えて叫びながら走りまわって、挙げ句泣き崩れてそのまま地面に座りこんで号泣とか、はたから見たら奇っ怪このうえなかっただろう。イタすぎるにもほどがある。どっからどう見たって、イッちゃった奴以外のなにものでもない。それでも俺は、諦めきれずにガキを呼びつづけた。

 律、おまえに会いたいよ。

 会ったのは、夢の中も含めてたったの三度。
 それでもあいつは、俺の心に強烈な印象を残して刻まれた。

『ぼくね、思うんだけど、生きてるとときどき、苦しいことも悲しいこともいっぱいあるでしょ? だけど、それでもやっぱり、「ここ」にいられるのっていいなあって思ったりするの』

 どういう基準であいつが俺を選んでくれたのかはわからない。だけど、あいつが生きるはずだったこれからの時間を、俺はあいつから、こんなかたちで譲り受けた。プレゼントしてもらった。そのことだけは、はっきりとわかる。
 かぎりなく望み薄な確率であったにもかかわらず、俺は手術を受けることを決断し、揺らぐことのない確信をもって最後には奇跡をこの手に勝ち取った。その勇気を、医者も看護師たちも、こぞって褒め讃えてくれた。だが、真に讃えられるべきは俺なんかじゃない。あいつに出会わなければ、俺は間違いなくその辺でのたれ死んでた。だから、本当にすごいのは俺じゃない。本当の意味で強く、勇敢だったのは、最後までだれも恨まず、己の運命をただ穏やかに受け容れて、俺に希望を托していったあいつだった。

 律――ちっこい奇跡で、とてつもない勇者。


 いつしか陽が西に傾き、夕闇がひろがりはじめていた。
 野球をしていた子供たちの姿も、すでにない。
 俺のボロアパートでの生活も、今日で終わる。明日には部屋を引き払って、当面は実家に戻って親もとで療養することが決まっていた。親も知らないうちに離婚して、会社をクビになった挙げ句に生命に関わる大病を患って行方をくらまし、さんざん心配をかけたのだ。このぐらいの頼みは聞き入れなければ、親不孝が過ぎるというものだろう。
 しらばくの療養も兼ねた経過観察を経て、問題がなければいずれは社会復帰をする。
 あいつにもらった生命で、今度は悔いがないよう、もう一度生きなおしてみようと思う。
 俺はこの世界に、勇敢な天使が起こした奇跡によって転生した。

 クソガキ――……律、ありがとな。俺、おまえが救ってくれた生命で、もう一回頑張るから。だからいつかまた、必ず会おう。そのときまで、待ってろよ――

 泣きすぎて腫れぼったく熱を持った目で、腕の中のぬいぐるみを見つめる。俺はそれから、ゆっくりと立ち上がった。



 これは俺に起こった、本当の奇跡の物語である。




    ~ end ~ 



しおりを挟む
感想 3

この作品の感想を投稿する

みんなの感想(3件)

2019.08.15 ユーザー名の登録がありません

退会済ユーザのコメントです

西崎 仁
2019.08.15 西崎 仁

観月様

おつき合いいただきましてありがとうございました!
まさに仰るとおりです。
己の思いに気づいて、受け取ってくれる人を探しつづけていた律と、どん底まで墜ちた主人公の境遇、思いが偶然リンクして起こった奇跡。
作品を通じて、観月さんそれらを受け取っていただけたことにただただ感謝です!
作者冥利に尽きるご感想、本当にありがとうございました。

解除
揺籃
2019.08.04 揺籃

 思いがけない出来事があったとしても、なにかしら、救いの手が伸びる時もあればそうでない時もある。
 その手が差しのべられるのは、そしてその手を掴めるのは、ほんの紙一重のタイミングなんですね……。
 難しい表現のない、分かりやすい文章故に、主人公の気持ちも、律くんの思いも凄く響きました。

西崎 仁
2019.08.04 西崎 仁

揺籃様

おつき合いいただきましてありがとうございました!
人生の転機や運、不運の境目。
そういうのは、ほんのちょっとしたタイミングの差、意識の持ち方の違いひとつなのかもしないと、ふと思うことがあります。
劇的な奇跡は起こらなくとも、ささやかな幸運に気づいて、感謝していける人生でありたいものですね。

解除
black-knight
2019.08.04 black-knight

泣けた…
ラストから数年後、同じ河原で「律!」と叫ぶ主人公のもとに「パパーッ!」と駆け寄る少年の姿が見えました。

西崎 仁
2019.08.04 西崎 仁

black-knight様

嬉しいご感想、ありがとございました!
数年後、おなじ河原で主人公のもとに……
いいですね。いつかきっと、そうなるんじゃないかと書き手である自分も思っております。

解除

あなたにおすすめの小説

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。

松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。 そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。 しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

【完結】その約束は果たされる事はなく

かずきりり
恋愛
貴方を愛していました。 森の中で倒れていた青年を献身的に看病をした。 私は貴方を愛してしまいました。 貴方は迎えに来ると言っていたのに…叶わないだろうと思いながらも期待してしまって… 貴方を諦めることは出来そうもありません。 …さようなら… ------- ※ハッピーエンドではありません ※3話完結となります ※こちらの作品はカクヨムにも掲載しています

すれ違ってしまった恋

秋風 爽籟
恋愛
別れてから何年も経って大切だと気が付いた… それでも、いつか戻れると思っていた… でも現実は厳しく、すれ違ってばかり…

【完結】愛も信頼も壊れて消えた

miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」 王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。 無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。 だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。 婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。 私は彼の事が好きだった。 優しい人だと思っていた。 だけど───。 彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。 ※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

【完結】内緒で死ぬことにした  〜いつかは思い出してくださいわたしがここにいた事を〜

たろ
恋愛
手術をしなければ助からないと言われました。 でもわたしは利用価値のない人間。 手術代など出してもらえるわけもなく……死ぬまで努力し続ければ、いつかわたしのことを、わたしの存在を思い出してくれるでしょうか? 少しでいいから誰かに愛されてみたい、死ぬまでに一度でいいから必要とされてみたい。 生きることを諦めた女の子の話です ★異世界のゆるい設定です

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。