上 下
93 / 398
第四章

閑話 転移前 ――陽子編――

しおりを挟む

◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 どこにでもいる平凡な女。

 それが里見陽子が自身を一言で表す時に、真っ先に挙げる言葉だった。
 決して主役になる事はなく、脇役のポジションにいて目立つ事がない。
 陽子自身、昔からそういった自分の立ち位置に不満を持つことはなく納得していたし、そういった立ち位置であろうと行動し続けてきた。

 なぜならそういった状態が自分にとって非常に落ち着くからだ。
 幸福と不幸の振れ幅が大きい人生よりも、安定した揺り籠のような人生を過ごしたい。

 そんな想いを抱き続けていた陽子は、大学在学時の就職戦線に、周りのみんなほど必死になれず、結局就職先が決まらないまま、流れるようにだらだらと卒業してしまう。
 しかし当人には焦りがあまり見られず、家事手伝いとなった娘に対してあれこれうるさく言う事のない、のんびりとした……悪く言えば危機感のない家族のせいもあって、未だに定職に就くでも結婚するでもなく自宅で暮らしていた。

 しかし何もしていなかったという訳ではない。
 昔から趣味で描いていた絵は、素人目に上手だと言える位には上達していた。
 またある時期からデッサンや絵の描き方の本などを読んで、勉強しながら絵をかきまくっていた事もあって、その腕前はぐんぐん上達していく。

 そして最早趣味の領域を超え始めた「絵を描く」という行為と、友人から勧められた「BL本」が融合することによって、ここにまた一人「BL同人作家」が爆誕してしまうことになる。


 以降は何かに取り憑かれたかのようにBL本を書き続け、その業界では名を知られる程の作家になった頃には、外部からのイラストやキャラクターデザインなどの仕事が舞い込むようになっていた。

 いや、寧ろ今ではそちらが本業となっており、BL本を息抜きに描いているといった状況だろうか。
 趣味を仕事にすると辛い、という人も世の中にはいるかもしれないが、陽子にとって現在の環境は悪くない――締め切りという言葉にビクッとするようになってきたが――ものであった。


「あー、そうそう。このキャラは普段は隠しているんだけど、左の太もも部分に暗殺者組織のトレードマークが刻印されているっていう設定なんで、風呂場のシーンではそこらへん気を付けてください」

「あ、はい。分かりましたー。イラストの指定は以上で宜しいですか?」

「んー、そうだね。他には特にないかな」

「では期日までには仕上げておきますのでお待ちください」

「うん、今回もよろしく頼むよ」

 アプリ通話による仕事の確認を終えた陽子は、盛大にため息を吐き出した。

「ううん、仕事の方は問題ないんだけど、このペースだと次の夏フェスまでに原稿を上げられるか厳しくなってきたわね」

 先ほど陽子が話していた相手は、小説投稿サイトから書籍化された時に、イラストを依頼されて以来の付き合いがある、小説を書いている作者本人であった。
 そしてこの作品が大ヒットした事が、陽子の生活をも一変させる結果になっている。

 小説がヒットしたことによって、陽子の絵が衆目に晒される機会が増えて、外部依頼が次々と舞い込んできたのだ。
 これはヒット作に恵まれたという幸運もあっただろうが、陽子自身の絵が多くの人に受け入れられた結果でもあった。

 この作品で小説家デビューを果たした作家にとっても、イラスト担当する事になった陽子にとっても、ウィンウィンの関係性を築くことに成功していたという訳だ。

 その為陽子は、他の仕事より何よりこの仕事に関してだけは力を入れており、趣味のBL本を描く時間が削られているのが、ここの所の悩みの種だった。


「こりゃーヘルプ頼まないとだめよねえ。でも今の時期みんな忙しいしどうしたもんかしら」

 イラストの方はともかく、BL本に関しては時折作家仲間に持ちつ持たれつの関係でヘルプを頼む事があった。
 しかし現段階では作品のネームすら切ってない状態で、ほぼ全く手つかずの状態だ。

 これではそもそもヘルプを呼んでも、やってもらう事が何もないような状況だった。
 半ば現実逃避してる状態の陽子の声音は、普段と変わりない口調であったが、内心はパニック映画で逃げ惑う一般人Aと変わりない。

「まっ、まずはこの仕事から片づけないと……ね」

 そうしてエナジードリンクなどを駆使して鬼のように集中力を維持し続けてイラストの仕事をこなす陽子。
 その結果、どうにか三日後には提出出来た小説のイラストに、無事オッケーサインをもらう事ができた。

 しかしそれまでの反動か、そこから三日の間は何もやる気がでず、気の抜けた炭酸の如く、日がな一日をボーッと過ごしていた。

 そんな折、四日目になって高校時代からの友人から連絡があって、久々に会う事になった陽子。
 初めは余り気乗りしなかったのだが、「気分転換にはいいかな」と会いにいったのは、結果として吉とでた。


「陽子の最近の新作って、確かに年々絵もよくなってきてるし、多くの人に受けそうな内容になってきてるけど、昔みたいなパッションを感じないのよね」

 昔からの友人というだけでなく、BLという趣味を同じくしている……というかこの友人からの紹介で嵌ってしまった、いわばBLの師匠のような人からの忌憚のない意見は、今の陽子にとって大きく心に響いた。

「どういうのを描いたら受けるか? じゃなくて自分の描きたいものをただ無心に描いていけばいいんじゃない?」

 それは陽子が心の底で思っていた、そして密かに他人から言ってほしかった言葉そのものだった。
 仕事として受けているイラストは別として、趣味で描いている同人誌にまで余計なしがらみを絡ませたくはない。

 当初は単純に金銭的な都合もあって、大衆に受ける作品を追求していた所もあったが、それで躓いて何も描けなくなっては本末転倒だ。

「うん、そうね! 久々に好きなものをこれでもかっ! って位描いてみるわ」

 一度悩み始めるとしばらく悩み続ける事が多い陽子だが、本人の中で納得できる答えを見出すと、それまでの悩みが嘘のように前に歩き出せるのが、陽子の長所のひとつだ。

 昔からの友人に背を押された陽子は、その後二人で街をぶらついたり、カラオケでアニソン大会をしたりして、すっかり活力を充電する事に成功した。
 別れ際に友人に礼を述べ、自宅へと帰ってきた陽子は、早速夏フェスに向けての原稿に着手し始めるのだった。



 それから五日後。

 これまでの倦怠ムードが嘘のように、するするとイメージが頭に浮かび上がってきた陽子は、この五日の間にネームを仕上げるところまでこぎつけた。
 ここまでくれば、後はクリエイティブな発想は余り必要ではなく、単純に作業としてスキャンしてパソコンに取り込んで、仕上げていけばいい。

「ふうぅ、んんあああああ。これなら十分どうにかなりそうね」

 腕を伸ばして体の凝りをほぐしながら満足気にそう独り言ちる陽子。
 このペースでいけば夏フェスの締め切りには十分間に合うはずだ。
 一息ついた陽子は、気分転換と買い出しのために、手軽な服装に着替えて家を出た。


「ふーふーふーん。んーんー♪」

 ようやく一段落……それも、行き詰っていた初っ端の部分を無事に片づけた陽子は、若干テンションが上がっているようで、気分よく鼻歌を口ずさみながら住宅街を歩いていく。

 そして自宅から十分程歩いた場所にあるコンビニで、自分へのご褒美として大好きなチョコレートケーキやお菓子、お茶などを買いつつ帰宅の途につく。
 その途中の出来事だった。

 ご機嫌な様子で歩いている陽子の前方から、中学生に入るか入らないか位の年ごろの男の子が歩いてくるのが目に入った。
 それがまた陽子の好みにピッタリだった事もあって、急に野獣のような視線に変わって少年をガン見しながら歩く陽子。
 そう、陽子にはBLという趣味の他に、少年好きという嗜好も持ち合わせていたのだ。

 徐々に二人の距離が近づいでいき、あと少しですれ違う、という段階になって陽子の血走った獣のような視線に気づいたのか、少年が何やら陽子に向かって声を掛けてきた。

(え、ちょ……。確かにチラッ・・・と見てたけど、こ、声を掛けられる案件じゃないはずよ)

 慌てた陽子は今更ながらに少年から視線を外し、たまたまそっち見てたのよーとアピールするかのように今度は別の方向へと視線を動かした。
 するとその目に飛び込んできたのは、交差点の左方から今まさに自分へと迫りくるトラックの姿だった。


「え……」


 気付くのが遅れた陽子は、そのままトラックに轢かれ即座に意識を失ってしまう。
 陽子を轢いたトラックは、停止する事なくそのまま逃走を開始し、慌てた様子で携帯を取り出した向かいから歩いていた少年は、逃走する車のナンバープレートを激写していた。
 それは咄嗟の動きにしては堂に入ったもので、携帯を取り出してからスムーズにカメラを起動して撮影するまでの流れは見事なものだった。

 それから引き続き救急車を呼んだ、迅速で冷静な少年の判断によって、陽子は一命をとりとめた。
 今回のひき逃げ事故は、確かに陽子の不注意な点もあったのだが、陽子は優先道路を歩いていたので、圧倒的に非があるのは、一時停止を怠ったひき逃げしたドライバーの方だ。

 こうして陽子は、意識を失ったまま病院へと搬送される事となった。


▽△▽△


 そして、あの事故から三日が経過した。

 あの時、咄嗟に少年が撮影したナンバープレートがきっかけとなり、その時トラックを運転していた者の氏名まで判明していたのだが、未だに犯人は捕まっていない。

 また陽子も事故のショックからか、未だに気を失った状態であり、病院のベッドでスヤスヤと寝息を立てている。
 その体はあちこちギプスや包帯が巻かれて痛々しいものであったが、本人は何やら夢を見ているようで、何事か寝言を言っていた。

「んあ……スキルぅ? ふたつ…………。どれに………じかんが……」

 事故直後で未だ意識がないということで、個室を宛がわれている陽子のいる病室には、その時他に誰もいなかった。
 いや、もし看護士がいたとしても他の事例と同様に異変に気づかれる事はなかったかもしれない。

 何事か寝言を呟いていた陽子であったが、次の瞬間には病室から跡形もなく消え失せていたのだ。
 晴れの日という事もあって、少しだけ開け放たれていた窓からの風が、主のいなくなったベッドへと吹き付ける。



 こうして意識を失ったままティルリンティへと導かれた陽子。
 始まりの部屋で目覚めた時の第一声は、

「あれ……。トラックに轢かれて転移ってまたベタな展開ね」

 であった。

 そして、陽子の体には事故によって受けたケガは一切残ってはいなかった……。




しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

異世界で穴掘ってます!

KeyBow
ファンタジー
修学旅行中のバスにいた筈が、異世界召喚にバスの全員が突如されてしまう。主人公の聡太が得たスキルは穴掘り。外れスキルとされ、屑の外れ者として抹殺されそうになるもしぶとく生き残り、救ってくれた少女と成り上がって行く。不遇といわれるギフトを駆使して日の目を見ようとする物語

【完結】【勇者】の称号が無かった美少年は王宮を追放されたのでのんびり異世界を謳歌する

雪雪ノ雪
ファンタジー
ある日、突然学校にいた人全員が【勇者】として召喚された。 その召喚に巻き込まれた少年柊茜は、1人だけ【勇者】の称号がなかった。 代わりにあったのは【ラグナロク】という【固有exスキル】。 それを見た柊茜は 「あー....このスキルのせいで【勇者】の称号がなかったのかー。まぁ、ス・ラ・イ・厶・に【勇者】って称号とか合わないからなぁ…」 【勇者】の称号が無かった柊茜は、王宮を追放されてしまう。 追放されてしまった柊茜は、特に慌てる事もなくのんびり異世界を謳歌する..........たぶん….... 主人公は男の娘です 基本主人公が自分を表す時は「私」と表現します

神々の間では異世界転移がブームらしいです。

はぐれメタボ
ファンタジー
第1部《漆黒の少女》 楠木 優香は神様によって異世界に送られる事になった。 理由は『最近流行ってるから』 数々のチートを手にした優香は、ユウと名を変えて、薬師兼冒険者として異世界で生きる事を決める。 優しくて単純な少女の異世界冒険譚。 第2部 《精霊の紋章》 ユウの冒険の裏で、田舎の少年エリオは多くの仲間と共に、世界の命運を掛けた戦いに身を投じて行く事になる。 それは、英雄に憧れた少年の英雄譚。 第3部 《交錯する戦場》 各国が手を結び結成された人類連合と邪神を奉じる魔王に率いられた魔族軍による戦争が始まった。 人間と魔族、様々な意思と策謀が交錯する群像劇。 第4部 《新たなる神話》 戦争が終結し、邪神の討伐を残すのみとなった。 連合からの依頼を受けたユウは、援軍を率いて勇者の後を追い邪神の神殿を目指す。 それは、この世界で最も新しい神話。

クラス転移で無能判定されて追放されたけど、努力してSSランクのチートスキルに進化しました~【生命付与】スキルで異世界を自由に楽しみます~

いちまる
ファンタジー
ある日、クラスごと異世界に召喚されてしまった少年、天羽イオリ。 他のクラスメートが強力なスキルを発現させてゆく中、イオリだけが最低ランクのEランクスキル【生命付与】の持ち主だと鑑定される。 「無能は不要だ」と判断した他の生徒や、召喚した張本人である神官によって、イオリは追放され、川に突き落とされた。 しかしそこで、川底に沈んでいた謎の男の力でスキルを強化するチャンスを得た――。 1千年の努力とともに、イオリのスキルはSSランクへと進化! 自分を拾ってくれた田舎町のアイテムショップで、チートスキルをフル稼働! 「転移者が世界を良くする?」 「知らねえよ、俺は異世界を自由気ままに楽しむんだ!」 追放された少年の第2の人生が、始まる――! ※本作品は他サイト様でも掲載中です。

復讐完遂者は吸収スキルを駆使して成り上がる 〜さあ、自分を裏切った初恋の相手へ復讐を始めよう〜

サイダーボウイ
ファンタジー
「気安く私の名前を呼ばないで! そうやってこれまでも私に付きまとって……ずっと鬱陶しかったのよ!」 孤児院出身のナードは、初恋の相手セシリアからそう吐き捨てられ、パーティーを追放されてしまう。 淡い恋心を粉々に打ち砕かれたナードは失意のどん底に。 だが、ナードには、病弱な妹ノエルの生活費を稼ぐために、冒険者を続けなければならないという理由があった。 1人決死の覚悟でダンジョンに挑むナード。 スライム相手に死にかけるも、その最中、ユニークスキル【アブソープション】が覚醒する。 それは、敵のLPを吸収できるという世界の掟すらも変えてしまうスキルだった。 それからナードは毎日ダンジョンへ入り、敵のLPを吸収し続けた。 増やしたLPを消費して、魔法やスキルを習得しつつ、ナードはどんどん強くなっていく。 一方その頃、セシリアのパーティーでは仲間割れが起こっていた。 冒険者ギルドでの評判も地に落ち、セシリアは徐々に追いつめられていくことに……。 これは、やがて勇者と呼ばれる青年が、チートスキルを駆使して最強へと成り上がり、自分を裏切った初恋の相手に復讐を果たすまでの物語である。

勇者に恋人寝取られ、悪評付きでパーティーを追放された俺、燃えた実家の道具屋を世界一にして勇者共を見下す

大小判
ファンタジー
平民同然の男爵家嫡子にして魔道具職人のローランは、旅に不慣れな勇者と四人の聖女を支えるべく勇者パーティーに加入するが、いけ好かない勇者アレンに義妹である治癒の聖女は心を奪われ、恋人であり、魔術の聖女である幼馴染を寝取られてしまう。 その上、何の非もなくパーティーに貢献していたローランを追放するために、勇者たちによって役立たずで勇者の恋人を寝取る最低男の悪評を世間に流されてしまった。 地元以外の冒険者ギルドからの信頼を失い、怒りと失望、悲しみで頭の整理が追い付かず、抜け殻状態で帰郷した彼に更なる追い打ちとして、将来継ぐはずだった実家の道具屋が、爵位証明書と両親もろとも炎上。 失意のどん底に立たされたローランだったが、 両親の葬式の日に義妹と幼馴染が王都で呑気に勇者との結婚披露宴パレードなるものを開催していたと知って怒りが爆発。 「勇者パーティ―全員、俺に泣いて土下座するくらい成り上がってやる!!」 そんな決意を固めてから一年ちょっと。成人を迎えた日に希少な鉱物や植物が無限に湧き出る不思議な土地の権利書と、現在の魔道具製造技術を根底から覆す神秘の合成釜が父の遺産としてローランに継承されることとなる。 この二つを使って世界一の道具屋になってやると意気込むローラン。しかし、彼の自分自身も自覚していなかった能力と父の遺産は世界各地で目を付けられ、勇者に大国、魔王に女神と、ローランを引き込んだり排除したりする動きに巻き込まれる羽目に これは世界一の道具屋を目指す青年が、爽快な生産チートで主に勇者とか聖女とかを嘲笑いながら邪魔する者を薙ぎ払い、栄光を掴む痛快な物語。

転生したら神だった。どうすんの?

埼玉ポテチ
ファンタジー
転生した先は何と神様、しかも他の神にお前は神じゃ無いと天界から追放されてしまった。僕はこれからどうすれば良いの? 人間界に落とされた神が天界に戻るのかはたまた、地上でスローライフを送るのか?ちょっと変わった異世界ファンタジーです。

異世界に転移した僕、外れスキルだと思っていた【互換】と【HP100】の組み合わせで最強になる

名無し
ファンタジー
突如、異世界へと召喚された来栖海翔。自分以外にも転移してきた者たちが数百人おり、神父と召喚士から並ぶように指示されてスキルを付与されるが、それはいずれもパッとしなさそうな【互換】と【HP100】という二つのスキルだった。召喚士から外れ認定され、当たりスキル持ちの右列ではなく、外れスキル持ちの左列のほうに並ばされる来栖。だが、それらは組み合わせることによって最強のスキルとなるものであり、来栖は何もない状態から見る見る成り上がっていくことになる。

処理中です...