こどくのさきに

睦月マコト

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冬の日

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 弘前京ひろさきみやこは、視界いっぱいの白を見つめていた。
 どんな物よりも身体を預け慣れたベッドに身を沈め、額に手を乗せる。夕陽のような柔らかいオレンジ色のシーツに広がった長い黒髪が美しく流れる様は、京の姿勢も相まってさながら絵画のように美しい。
 だが、もちろん京がこうしている理由は絵になるからというわけではない。
 こうすると京は落ち着くのだ。額に、手に、何かの感触と温度があると、京は落ち着く。
 そうして触れた自分の温度に、優しい睡魔、そして柔らかなベッドの感触に身を委ねながらも、京の表情は浮かないものだった。
 思い出すのは、他人の姿。隣を歩いて帰った人の姿ではなく、立ち尽くすだけの小さな小さな男の姿。
 不快感に顔を力ませては、力む理由を考え、悲しくなって力を無くす。そんなことを繰り返しながらただただ天井を見つめること十数分、京は七回目のため息の後にのそりと緩慢な動作で身体を起こした。
 「むかつく……」
 薄い桜色の唇から零れた言葉は、京の心をちくりと刺す。
 京は自分の心を包み込むようにぐっとシャツの胸元を掴む。皺のできたシャツが自分の心のように思えて胸がざわついたが、京はそれでも手を離せなかった。
 京の部屋に置いてある姿見は、今日だけ鏡面が壁に向いている。ベッドに倒れこむ前に自分の姿を見た京が裏返した。
 それだけでもだいぶよかったな、と、京は記憶を辿りながら思う。
 今の京に、鏡映しの自分と言う皮肉は辛かった。
 そうして微かな安堵混じりに俯いていると、ふいに京の部屋のドアが軽くノックされた。
 「ひまー」
 部屋主である京の返事を待たずにドアを開けたのは、ビタミンカラーのパジャマに身を包んだ京の妹、弘前あかねだった。
 「暇?」
 「暇。お姉ちゃんなんか面白いことない?」
 そう言いながらカーペットにうつ伏せで寝転がる茜の視線は慣れた手つきで素早く動く指に操作されるスマホに釘付けで、京のほうを見ようともしない。
 「スマホいじってるじゃん」
 「暇だからいじってんの」
 茜がこうしてスマホでは紛らわしきれない退屈を抱えて京の部屋にやってくることは珍しいことではない。その度に行われるこのやり取りはもうお約束となっており、この短いやり取りをするだけで姉妹揃って少しだけ口元が緩むのだった。
 「ねーお姉ちゃん今度冬服買いに行こうよ」
 「そんなお金あるの?」
 「ないけど服に使うお金はある」
 「ならいいよ。私は買ってあげるほどのお金ないから」
 「えー」
 不満の声を漏らしたところで、茜がようやくスマホから顔を上げる。
 「お姉ちゃんバイトしてるんだからいいじゃん」
 「コンビニで働く方が稼げるわよあんなの」
 「安いの一着でいいから」
 「だめ」
 「えー」
 「だーめ」
 茜の無心をきっぱりと断り、京は姿勢を変えて壁にもたれかかる。
 「まあいいや。次の日曜行こうよ」
 「日曜はバイト」
 「その前に」
 茜の提案に、京は少しだけ逡巡する。
 「いいよ。夕方まで寝たりしないでね」
 「頑張るー」
 気の抜けた返事をして、茜がごろりと身体を回転させて仰向けになる。京と同じ黒髪が重力に従って綺麗に流れ、白いおでこを露出させた。
 「はー、私もバイトしようかな」
 「茜の成績じゃ無理」
 「バカでも働けるもん」
 「バカじゃお母さん言いくるめられないでしょ」
 「それなんだよねー」
 そう言って茜が起き上がり、手近にあったクッションを胸に抱いてベッドの上の京に向き直る。
 「女子高生は忙しいんだから勉強してる時間なんてないんだよ。お母さんだって女子高生の時は絶対そうだったのにわかってくれないんだもん。無理だよ」
 口を尖らせる茜は気の抜けた口調が少し引き締まり、発する言葉も虚空に放り投げていたような言葉からしっかりと京に届けるための言葉に変わっている。
 「女子高生の三年間は女子高生の三年間しかないんだよ。JKがJKコーデできるのはJKの時だけなんだよ。私は大人になってからJKコーデして、私もまだイケるわね、とか言いたくないよ。お姉ちゃんもこの気持ちわかるでしょ?」
 「まあ、わかる」
 「だから私には今お金が必要なんだよ。稼ぎたいけど稼げないんだよ。だから」
 「茜のぶんの服は買わないってば」
 「えー」
 先読みした言葉を遮り、姉妹で笑う。
 屈託のない笑顔を浮かべる京と茜。この時間は、姉妹どちらにとってもかけがえのないありふれた時間だった。
 「バイトもできないし服も満足に買えない。こんなんじゃ彼氏もできないよ」
 だが、ふいに茜の口から出た言葉が、すっかり凪いでいた京の心を微かに揺らした。
 水面を揺らすのは、京の記憶。底に沈めてしまおうとしても何度でも浮き上がってきて、その度に沈めたくないと傷つきながら自分の手で沈めなければ心が荒れ続けてしまう、捨てることのできない記憶。
 その気持ちが大きくなければよかったのに、と、今でも京が思うこと。
 「お姉ちゃんはいい男の人とか周りにいない? バーのピアノ奏者なんていかにも人が寄ってきそうなバイトしてるじゃん。いたら紹介してよ」
 「ライブバーで酒飲む男に女子高生の妹紹介できないわよ」
 意識の半分を過去に持っていかれていた京だったが、茜に振られた言葉に急速に意識を引き戻され、咄嗟に答える。
 重い過去に引きずられてしまっては、ありのままの自分で話せるこの時間が壊れてしまう。そんな京の気持ちとは裏腹に、京の脳裏をよぎったのは、先刻まで浮かんでいた男の姿だった。
 「変なのばっかりだし」
 不機嫌を隠して言い放った言葉は、京がこの後、一人暗闇の中で目を閉じた後に京の心を揺らすことになる。
 京は荒れる心に映る自分の姿を見ないようにして、その向こう側にいるはずの存在に向かって声に出さずに告げる。
 ごめん、と、短く。
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