結婚したい女たち

木花薫

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8 裏切り

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夜の八時。
香は夕飯の片付けを終えて、明日の朝食の仕込みも終えた。これから一日を締めくくる幸せの時間、お風呂タイムだ。

いそいそと部屋へパジャマを取りにいくと、机の上のスマホが鳴った。一花からの電話だった。もうずっと畑には行っていないしお琴からランチの誘いも来ないから随分長いこと会っていない。

「畑へおいでよ」という誘いだろうか。そろそろ収穫のはず。行きたいけど収穫だけ行ったらあの実紀にどんな嫌味を言われるかわからない。自分から行くのは気が引ける。でも一花の誘いなら。

喜々として出ようとしたのだけどその瞬間、暗雲が立ち込めるような不安を感じた。連絡はいつもLINEラインで来る。香が専業主婦さながらに家事をしている状況を何かと気にかけてくれる一花なのに、家事で忙しい夜にわざわざ電話をしてくるなんて。小さなことだけどいつもと違う。おかしいと香の直感が働いた。
(なにかあったのかな)
不安になった香はベッドに腰掛けてざわめく心のまま電話に出た。

「もしもし」
「あ、香、夜にごめんね。あのね聞いてるかな。お琴から」

いつもちゃきちゃき元気な一花が夜だからだろうか、かすれて疲れた声だった。

「なにを?お琴から連絡ないよ。なに?」

一花が沈黙した。ズバズバものを言う一花が言いにくそうなのだ。香の不安は底知れず広がっていく。言いたいことは何でも言い合える大親友のはずなのに畑に行かなくなっただけでこんなにも遠くに感じるようになるなんて。不安の中に悲しみが散らばっていく。しかし吐くようにつぶやいた一花の言葉が不安の先に隠されていた狂乱へと香を突き落とした。

「お琴がね、結婚するって」

香は自分が点になったように感じた。世界がぎゅっと凝縮されて香も呑み込んで黒いひとつの小さな点になったのだ。そして自分でも驚いたことに震える低い声でこう言った。

「お琴が一花には言ったの?」
「ううん、実紀さんから聞いたの」
「実紀さん?」

香の声が強く大きくなった。

実紀。それは香が一番聞きたくない名前だ。会わない間に一花とお琴がどれほどあの女と親しくなっていることか。それも癇に障る。どうしてあんな女と仲良くしているのか。そんな香に一花は実紀から聞いたことをそのまま話した。

実紀は隣の西中之村で農業をしている知り合いからこう相談されたそうだ。

「どこか空き家知ってる?うちに手伝いに来てくれる朋君が今度結婚するからって家を探してるの。農業のできる古民家に住みたいって」

そして実紀は一花にこう尋ねた。

「その朋君が市内で小学校の先生をしているコトちゃんと結婚するって言うの。大きな車に乗ってて手作りのパンがおいしいコトちゃんと。しかもうちの畑に来てるって。お琴ちゃんのことよね」

そんなことを訊かれても一花は何も言えなかった。

「それってお琴のことじゃん!」

香は叫んだ。この感情は何だ。香の上半身がわなわなと大きく揺れ始めた。

「わたしもそう思う」

一花は力なく言った。

(香にも言ってないなんて。お琴どうして?)

涙が出そうになるのをいつもの癖でぐっとこらえる。しかしそんな一花とは真逆に香は泣きながら叫んだ。

「誰とも話したくない!もう連絡してこないでぇ!」

全身からの叫びだった。通話を切ると触っていたくもない。汚いものを手放すようにスマホを正面の壁へ放り投げた。バンと壁が音を立て、スマホが落ちた。その瞬間、香は「うわーん」と大声で泣きだした。天を仰ぎ小さな口を裂けんばかりに大きく開いて。

(連絡がないと思ってたら自分だけ結婚!私たちに黙って!!)

悲しみと怒りが香の中で爆発する。
お琴がこんなひどいことをするなんて。あのお琴がどうして?いや、お琴はもういないのだ。香の知っているお琴はもういない。一花だってそうだ。もう知らない人。実紀なんかと仲良くしている一花なんてもう知らない!

私は一人。
独りぼっち。

悲しみが怒りを圧倒しとめどなく流れる涙。溶けてしまいそうなほどに香は泣いた。するとミーちゃんが体をこすりつけて来た。我に返った香がミーちゃんの頭を撫でると嘘のように涙がひいた。胸に抱いてゴロゴロと喉を鳴らす声を聞いていたら気持ちも静まっていく。そう言えば、ミーちゃんと出会った頃もこうだった。

ちょうど付き合っていたひとと別れて、別れたと言うか捨てたと言うか、香にとってはただつまらなくなって会わなくなっただけなのだけど相手の男は大泣きしていた。同じ会社で働いていたから会社では顔を合わせる。そんな時は変わらずにこりと微笑む香だったが、プライベートでは無表情になってしまう。だって一緒にいてもつまらないのだ。「香が冷たくなった」とビービー泣かれても香は冷めた気持ちをどうすることもできない。半年もかかったがどうにか未練がましい泣き声の連絡も来なくなってホッとしていたら、彼は会社を辞めてしまった。

入れ替わるように香は結衣ちゃんに出会った。結衣ちゃんの推しへの愛情の強さに感動した香は男を捨てたことなど棚に上げて、
(私もそんなに好きになれる人が欲しい)
と思うようになった。結衣ちゃんが推しのコンサートツアーに忙しくて遊べなくなると、その想いはますます強くなった。そしてこの想いに比例するように、夢中になる男がいない自分は惨めで仕方なくなっていく。

孤独。
気まぐれに男を振った女の末路だった。

寂しさを紛らわすように一人で恋愛映画やドラマを見て過ごしていたのだけど、偶然にもミーちゃんに出会い溺愛するようになり見事孤独から抜け出せた。そして今もまたお琴に裏切られて一花とも絶交した香の孤独はミーちゃんが消してくれる。

この夜はミーちゃんと一緒に寝た。
布団の中に入れても出てしまうミーちゃんだったが、香から離れることなく枕元にうずくまっている。香はミーちゃんの気配を感じながら心穏やかに寝入ることができた。(私にはミーちゃんがいる)と思う香に孤独なんてないのだ。

片や香に絶交宣言をされて一方的に電話を切られた一花は、
(実紀さんからの情報を香に言うなんて。馬鹿なことをしてしまった…)
と後悔で顔を歪めた。お琴に訊けばよかったかと考えても、それもしない方がよかったと思える。畑に来ないお琴もきっと実紀のことは好きじゃないはず。誰にも言わずに一人で抱えていればよかった。
「お琴が一花には言ったの?」
あの香の言葉は牙となり一花の耳に噛みついたままだ。痛くてしょうがない。

香と同じように一花も最近さっぱり畑に来ない二人を疑っていた。お琴の一大事「結婚」に自分だけ蚊帳の外にされているんじゃないかと。もちろんお琴がそんなことをするわけもなく。でもそれよりもっと最悪、お琴は一花にも香にも言わずに結婚するのだ。三人で婚活を頑張ろうと誓ったのにそんなことをするなんて。お琴に捨てられたと思わずにはいられない。

同時に香も失ってしまった。体の芯が凍り付くような寒さを感じる。せっかく手に入れた家族同然の二人は泡のごとく消えた。失う時は一瞬。まるで突然出て行った夫と息子のようではないか。離婚した時と同じどす黒い孤独を感じるが、それだけにとどまらない。ママが突然死んでしまった時のことも思い出す。

あれは大学四年生の時。研修も終わりもうすぐ入社という時だった。これでママを楽にしてあげられる。これからはママのために私が働くのだと張り切っていた矢先に、ろうそくの火を吹き消すように死んでしまったママ。事故だった。五台の車が玉突きになる大きな事故に巻き込まれて即死したのだ。後ろから追突されて前へ追突してぺちゃんこの車の中の遺体はぐちゃぐちゃでママだなんて思えなかった。現実についていけない一花はママが帰って来るような気がして毎晩寝ないでママを待った。

ママのいない毎日は時間が止まったようだったけど、実際の時の流れが止まることはない。入社の日が来て働き始めたのだけどママのために働くのにそのママがいないのだ。何のために働いているのか。ママのいない家へ帰るたびに自分のしていることに疑問が生まれる。虚しさと寂しさが毎晩一花を襲った。

しかし会社では美人の新入社員がいるという噂が瞬く間に広がり温かく迎えられた。少女のような可愛さの香は女性たちから嫉妬されて嫌われる傾向にある。しかし一花のキリリとした美しさは宝塚の男役のような魅力があり女性たちから憧れられる。男女を問わず好かれる一花は上司だけでなく女性の先輩社員からも可愛がられて、会社での居心地が家よりも断然によかった。ママのいない家になんていたくない一花は男性と同格の総合職ということもあり、残業も休日出勤も喜んで引き受けてがむしゃらに働いた。次第に会社のみんなを家族のように思うようになり隣の課の夫と結婚して本当の家族を手に入れた。

夫の希望でもあり一花自身も子育てに集中したかったから妊娠と同時に会社を辞めた。子どもも生まれてママを失った一花にはかけがえのない「家庭」という幸せも手に入れた。なのにその幸せも手で救った水のように少しずつ、そして完全に消えてしまう。ところが今度はヨガスタジオという居場所が見つかった。スタジオに入り浸ってヨガに打ち込み慣れた頃に始めた婚活でお琴と香という家族同然の親友もできた。なのに内緒でプライベートレッスンを始めてしまっているし、香からは絶交されるわ、お琴は連絡もせずに結婚するわ、またもや大切なものが手からすり抜けて消えていく。

そしてまたもや新しく用意されたかのように畑があるのだ。畑と言うか実紀。不愛想で香に意地悪な実紀。どう考えても好きになる理由なんてどこにもない。お琴のように香にひどい態度を赤裸々にとる実紀の所へなど通わない方がいい。頭ではそう思っても不思議なほどに実紀とは気が合う。合うどころではない。心が安らぐのだ。
実紀をきっかけに大切な友人を二人とも失った。一花は実紀へ引き寄せられているのを感じずにはいられない。

(私の手じゃ幸せをキープできない。私の手は汚れてるのよ)

私生児という生まれに引け目を持つ一花は、生来の自己否定にはまり込んでいく。日課の瞑想もせずソファに突っ伏して泣きそのまま寝てしまった。そしてソファの痕を顔につけて朝を迎えたのだった。


それから二週間が経った。
秋の終りを感じる十一月下旬。
降りそうで降らない雲が空に居座り、昼間なのにどんよりと暗い日曜日のこと。

冷たい風の吹く中、お琴の招集で三人はランチに集まった。

お琴一押しのハワイアンカフェ。
店内はランチを食べる客で八割が埋まっている。各テーブルはコ〇ナ対策で天井から吊るされた長方形の大きなペナントで仕切られていて、そのペナントにはトロピカルな花たち、白く上品なプルメリア、黄色く陽気なエンジュルトランペット、赤く鮮やかなハイビスカスが描かれている。その花たちを優しく揺らすようにウクレレの音楽が流れている。

四人席のテーブルに香と一花が壁を背に並んで座り、お琴が二人と向き合って店内を背に座った。
「久しぶり。元気にしてた?」
とお琴の笑顔はペナントのハイビスカスに負けないくらい華やかだ。

「ふつう」と香がぶっきらぼうに答えると、一花はかぶせるように「野菜元気に育っててもう食べられるよ」とムリに明るい声を出した。
「そっか、じゃ鍋できるね。今度みんなで鍋しよ。紹介したい人もいるからさ」

香は(来た!)とお琴を睨みつけた。そんな香に一花は慌てた。隣のテーブルとは仕切りがあるから個室のような気分になるが、仕切りと言っても布一枚。話し声は丸聞こえでオープンな空間だ。香が電話のように泣き叫んだら店内はパニックになるかもしれない。ランチを楽しんでいる人たちの時間をぶち壊すんじゃないかとハラハラした。

でもお琴に何を言えばいいのかもわからない。香の怒りを覆い隠そうとムリに笑顔を取り繕った。そこへ赤いハイビスカスの造花を頭につけて、カラフルな花柄のアロハシャツを着た店員が料理を運んで来た。お琴はポテト付きのハンバーガー、一花はロコモコ丼、香は食欲があまりないと言ってサラダとフルーツジュースだった。いつもなら料理が運ばれてきたらすぐに食べ出すお琴が今日は目の前のハンバーガーに手を出さない。言いたくて仕方ないけどどうやって言おうか考えているようだ。顔を上げては下を向き、また上げては下を向いてを繰り返している。そんなお琴に知らんぷりを決め込んだ香はチューっとストローでジュースを飲んだ。一花も食べずに下を向いてお琴の言葉を待った。

しばらくすると「実はさ」とお琴は幸せそうな顔で二人を見た。香と一花の心中など知る由もない。

「結婚することになったんだ」

さぞかし驚くだろうと大きな期待を持って一花と香をみつめたお琴だったが二人は表情を変えない。驚きすぎて固まったのかと思ったら「知ってたよ」と香に言われて、反対に驚かされてしまった。
「なんで?」
と素っ頓狂な声で目を見開いたお琴に香はきつい目つきのままここぞとばかりにお琴を責めた。
「黙ってるなんてひどい」

ポカンとするお琴。だってきのうプロポーズされてOKした直後に二人にランチの招集をかけたのだ。二人に言わずになんていられなかったから。
「結婚することになったのきのうだよ」

その言葉に香と一花は目を合わせた。と同時に店内に流れていた曲が終わった。一瞬の静寂。すぐに次の曲がぽろんぽろんとスロウテンポで始まる。次第に早くなっていくリズムに押されるように一花が言った。

「二週間前に実紀さんから聞いてたんだけど」
「実紀さん?なんで?」

お琴は眉間にしわを寄せた。ウクレレの音が激しく掻き鳴らされていく。一花は実紀から聞いた話を恐る恐る話した。するとお琴は「もうとも君早すぎ」と噴き出したのだ。幸せいっぱいの顔で笑うお琴を尋問するように、香は強くゆっくりと尋ねた。
「とも君て、だれ」
「ごめんごめん怒んないでよ」
とお琴は結婚への経緯いきさつを話し出した。裏切りとも言えるお琴の結婚はこうやってあっという間に決まったそうだ。

それは畑へ行くようになったことがきっかけだった。香と一花に追いつこうと女子力アップを頑張っていたお琴だったが自分が誘った農業体験で二人に打ちのめされてしまった。何もしなくたって男に好かれる香。誰とでもすぐに打ち解けて楽しくやれる一花。どうしたってかなわないと痛感した。自力ではこれ以上ムリだと限界を感じたお琴は結婚相談所へ行った。お金を払えばコーディネーターさんが厳選したイイ男を紹介してくれるはずで、それに賭けるしかない。ところがピッタリの人を紹介してくれると言ったベテランコーディネーター桜が紹介してくれたひとはなんとお琴の年収の半分もない人だった。

「今六年生の担任でしょ。来年子どもたちが卒業するのと一緒に私も結婚して卒業しちゃいたいって思ってたのに希望と全然違うんだよ。しかも年下。弟と同じ年で」

年上を希望の条件にしてあったのに、ひとつとは言え年下の男性を紹介されてしまったのだ。人頼みでもダメな自分にがっかりしたお琴はとてもじゃないけど二人にこのことを話す気にはなれなかった。香は桜のことを言わなかったことよりも、条件の合わない人を紹介されたことに絶句した。しかもその男とお見合いをしたと言うのだ。あんなに男にこだわっていたお琴なのに。同じく驚いた一花が尋ねた。
「条件が違うのに会ったの?」
「それが写真の印象はよかったんだよね。農業をする人だって言うから野菜作りのいい情報をもらえるかなって思って」
「かっこいいの?」
と尋ねる香にお琴は、
「かっこはよくない。ひげをはやしててがっしりしてる。ああいう感じの人好きなんだよね」
とスマホを渡して朋君の写メを見せた。
「クマじゃん」
という香の率直な感想にお琴はスマホをひったくって取り返す。
「そうだよ、そうだけどさ、もう!」
と一花にも見せた。

四角い顔に太い眉。眉尻は下がっていて優しい雰囲気が漂っている。口の周りを囲むラインのひげは顎一面に生えたひげへとつながっている。顔の毛量もうりょうが多くて獣臭けものくささは否めない。

一花は何と言っていいのかわからない。香はもう以前と変わらない。言いたいことを言ってお琴と笑い合っている。まるで何もなかったかのようだ。でも一花は釈然としない。結婚前提の彼氏が出来ながらどうしてそのことを三か月も黙っていたのか。言いたいことは何でも言うと思われる一花だが、それはここまでなら言っても大丈夫と考えてのこと。それどころかある程度突っ込んだことを言うことで心の距離を縮めるという頭のいい一花なりのコミュニケーション術だった。でも香のように自分の感情をぶつけることや自分をさらけ出すことは言えないのだ。

「会ったら初めて会った気がしなかったんだよね。毎日電話してほとんど毎日会ってて。て言うか向こうが来るんだよね。で、きのうプロポーズされていいよって言っちゃった」
目が消えてしまうほどの笑顔でお琴が笑った。その笑顔につられるように、
「お琴おめでとう」
と香も笑った。その顔は親友の幸せを心から祝福しているようにしか見えない。その豹変ぶりに(さっきまで睨み付けてたのに)と一花は驚いた。しかし「ありがとう」と嬉しそうに香と微笑み合うお琴が当然のように一花を見たから(私も言わなきゃ)と、慌ててイッと口を横へひいて「おめでとう」と言葉を吐いた。
(私はうまく笑えてるのかな)
と頬がひきつるのを感じながら。そんな一花の心配とは裏腹にお琴の結婚を祝うようにウクレレの音楽が店内に鳴り響いている。

一花は自分の周りに見えない膜が張られているように感じた。お琴と香の笑顔がぼやける。なじめない。幸せという水の中に漂う油になった気分だ。


お琴の婚約者、朋輝ともきの実家は農家だ。土をいじるのが好きな朋輝は農業をしたいけれど実家の農業は兄が継いだ。朋輝は弾かれるように地元を離れて農作業の放浪の旅に出た。季節労働の募集をしている果樹園や野菜農園を巡って日本各地を転々としたのだ。五年間そうやって生きていたけど三年前に静岡に落ち着いた。静岡は特産としてお茶やみかんが全国的に有名だが、それに加えて冬でも温暖な気候であることから一年を通していろんな野菜が作られている。季節を問わず働ける静岡を気に入り、いくつかの農家にお世話になりながら野菜作りの知識と経験を積んでいる。しかしそれは昼間のことで夜は倉庫で働いている。深夜便の荷物の上げ下ろしをしているのだ。まるで自分のことのように朋輝について語るお琴に香が尋ねた。
「いつ寝てるの?」
「ショートスリーパーだから二、三時間寝るので平気」
「そうなんだ、すごいね」
「そこは尊敬してる。よく働くなって。収入は少ないけどね」
お琴は照れながら笑った。二人が話すのを聞きながら一花は不審がられないように「そうなんだ」「すごいね」など香の言葉を借りて相槌を打っている。

一通り朋輝の話が終わると香はお手洗いへ行くと言って席を立ってしまった。お琴と二人になってしまった一花は(楽しそうに話さなきゃ)と緊張した。しかしそんな一花に気づきもしないお琴は会話が一息ついたのをいいことにハンバーガーにかぶりついた。一花も合わせて黙々と食べたがのどにつかえてうまく呑み込めない。
(何も訊かないなんてまるで結婚を祝っていないみたいじゃない。親友ならあれこれ訊かなきゃ)
と沈黙に居たたまれない。焦る一花は「家は見つかったの?」と尋ねた。実紀の言っていた朋輝が探している家はどうなっているのか。家と言われたお琴は「知らない知らない」と早口に言うと、爛漫に輝いた顔で堰を切ったように喋り出した。

深夜の仕事は辞めて農業に専念したいって言ってたから自分で農園をするつもりなんだろうけど、どうのこうのと朋輝についてあれやこれやと言い始めたのだ。しかし一花の頭には言葉が入ってこない。耳に水が入ったようにぼわんとお琴の声はぼやけている。それでも時折頷いたり笑ったりはして香が戻ってくるのを待ったのだけど、もう戻ってこないんじゃないかと思うほどにやけに香は遅かった。お琴の言葉が途切れてまた会話がなくなった。どうしようと思いながら黙々と食べていたらやっと香が戻ってきた。ホッとした一花はまた二人が話すのにまかせた。

食事が終わっても頼んであるはずのデザートは一向に来ない。二十分ほどした時ぷつりと店内の音楽が止まった。それと同時に店員が三人のテーブルに大きなお皿を運んで来た。通常の三倍の大きさのパンケーキが生クリームで覆われていてオレンジ、パイナップル、イチゴ、ブルーベリー、キーウィ、ラズベリーなどのダイスカットしたフルーツが色鮮やかに散りばめられている。そこに二〇㎝はある細くて長いローソクが三本付き立てられている。燃え上がる炎は長く細く上へと揺らめいている。
「ご結婚おめでとうございます!」
大きな声が店内に響き、店員がテーブルの真ん中にお皿を置いた。もう一人の店員がフラワーレイを持って来てお琴の首にかけると、即座に店のすべての店員たちが大きな拍手をした。
「お琴おめでとう」
と香も楽しそうに手を叩いた。ぱちぱちと店内から拍手が上がりウクレレの曲がまた鳴り出した。

一花は唖然とした。
香が仕組んだのだ。
さっき席を立った時に。

ますますこの場への違和感が増した一花は機械仕掛けのような笑顔と拍手でしか「おめでとう」と言えなかった。けれどお琴は「ありがとう」と言いながら目をうるうるさせている。そして香から急かされてロウソクの火を吹き消した。

食べ終わると三人はすぐに店内を出た。
特大のパンケーキを食べていた時に朋輝から電話がかかってきたのだ。きのうプロポーズをした朋輝が今日もお琴に会いたいのは当然で。お琴も今すぐ朋輝に会いたいのだろう。そわそわと落ち着かなくなった。それでいつもなら食べ終わってもダラダラと話し続けるのに今日はすぐにお開きになった。

お店の横にある十台止められる駐車場はランチ客の車で埋まっている。お琴はそそくさと自分の車へ乗り込むと朋輝の元へと行ってしまった。ぶおんと去っていく大きな車を見送りながら香が嬉しそうに言った。
「店員さんたちめっちゃ盛り上げてくれて楽しかったね」
もう作り笑いの出来ない一花は虚ろな目で答えた。
「トイレへ行ったと思ったのにあの時頼んだんでしょ」
「お琴の幸せそうな顔を見てたらお祝いしたくなっちゃって。友だちが結婚するからそのお祝いになるデザートはありませんかって訊いたの。そしたらパンケーキですぐに作れますって。このお店ねコ〇ナ前は結婚披露宴もしてたんだって。だから結婚のお祝いには慣れてるからって。でもあそこまでしてくれるなんて思わなかった」
とお琴に負けず劣らず幸せそうに話す香は笑いながら肩をすくめた。
「お琴結婚すること隠してなかったね。わたし疑っちゃった」

香はお琴の結婚の情報源が実紀だったことが気に食わなかった。大嫌いな実紀がお琴とまで仲良くしているのが悔しくて仕方なかったのだ。しかし結婚のことを実紀が言ったと聞いたお琴は驚くと同時に不愉快そうな顔をした。それを見た時香の中にくすぶっていた不満は消えた。お琴はやっぱりお琴だ。同志だと思えたのだ。

さらにお琴だけじゃない。電話で怒鳴ってしまった一花もいつものように香の水引のピアスとブレスレットをつけてきてくれている。それを見てやっぱり一花だと嬉しかった。この日はお琴も香も水引のブレスレットをつけていた。香が最初に三人分を色違いで作ったものだ。この偶然に三人の絆を感じた香は私たちは大丈夫だと安心したのだ。

しかし一花は(なにを言ってるのよ)と腹立たしい思いがしている。苛立ちと憤りを抑えきれない。
「付き合ってる人がいることは隠してたよ。桜さんに紹介を頼んだことだって隠してたじゃない」
と吐き出したが、
「恋した時って最初はそうなるよ。彼のこと以外なんて考えなくなるじゃん?私もそうだからわかる」
と香に笑われてしまった。

香は熱しやすく冷めやすい。付き合い始めて二か月は彼のことで頭がいっぱいになってしまう。寝ても醒めても彼のことを考え続けてこの世界には自分と彼しかいなくなってしまう。そんな香だからお琴が朋輝に夢中になって畑に来なくなり連絡してこなかったことは当然のこと。気になんてならない。

でも一花はそうはいかない。だって一花はそんな恋なんてしたことがない。好意を寄せる相手への気持ちは幼虫がさなぎになり蝶へと変態して飛び立つようにゆっくりと高まっていく。

男性に対して慎重になってしまうのは妊娠したママを無責任に捨てた父への思いが関係している。容姿の良い一花に寄って来る男はいくらでもいるが、それは外見に惹かれてのこと。
(私生児としての私を受けとめられる男なの?都合が悪くなったら母を捨てた父のように逃げるんでしょ)
という気持ちが邪魔をしてしまい盲目的に恋をすることなんて出来ない。そんな一花だから、
「恋に落ちたから女友達のことなんて忘れちゃってた」
なんて言い訳到底受け入れられない。三か月も黙っていたことを許す理由なんてどこにもないのだ。


香と別れて家へと車を走らせる一花は海に流出した原油の映像を思い出していた。座礁した石油のタンカーから漏れ出た黒い油が青い海に溶けることはない。波に揺られて漂い、澄み切った清い海を汚し続ける悪魔のような黒い油。

あれはまるで私。

親友の結婚を香のように無邪気に喜べない自分は幸せの海に浮かぶ黒い油だと思わずにはいられない。
(私は汚れてる。汚れてるのよ)
妄想的な自己否定は確信へと変わったのだった。
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