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風に吹かれて。

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秋の匂いがした。
金木犀、銀杏、そして焼き芋。
程よく湿度を含んだ空気が、華やかな香りを鼻腔に運び込む。
顔を上げると、色とりどりな木々の向こうには長浜城の天守閣。
秋晴れの空の中で金色に輝くそれを眺めていると、なんだか胸の奥がきゅんと締め付けられて。
――この感覚を、誰かと共感したい。
そう思ってあたりを見回すけれど、そこには誰もいない。
落ち葉に彩られた静かな遊歩道の真ん中でしばし放心して、それから博樹ひろきは視線を足元へと落とした。
「はぁ……」
この校外学習で、何度目のため息だろう。
考えるのも億劫に感じるほどの暗い気持ちを抱えながら、博樹は落ち葉色に染められた遊歩道に足を踏み出した。

ずっと、どこかに行ってみたかった。
代り映えのしない小学校への通学路をただ往復するだけの毎日に、飽きていた。
何かを変えたかった。でも、自分から何かをする勇気は出せなかった。
だからこそ、今回の校外学習がとても楽しみだった。
総面積約670平方メートルもの広大な湖、琵琶湖。そこを船に乗って縦断する、一泊二日の旅。
複数の小学校が合同で開催するこの旅は町の小学五年生にとっての一大イベントで、博樹にとっても待ちわびた時間だった。
見たことのない街、行ったことのない場所、食べたことのないもの――旅先の町でなら、何かが変わるかもしれない。
そう思うとわくわくして、前の日の夜はなかなか寝付けなかった。
けれど、その期待とは裏腹に、蓋を開けてみれば旅先でもいつも通りの時間が流れているだけだった。
いつも学校でしている遊びに友達はみんな夢中になっていて、不満を抱えているのは博樹ただひとり。
かといって、一人でどこかへ行く勇気も持てなくて。
結局、みんなが遊ぶ港公園のすぐ隣にある城公園を、一人で散歩することしかできなかった。
どこにいても、結局何も変わらない。
そのことにため息をもうひとつ吐いて、博樹は落ち葉を軽く蹴り上げる。
泣きたくなるような匂いが鼻の奥に微かに香った。
「――なにしてるの?」
「わっ!!」
不意に背後から声がかけられて、博樹は飛び上がる。
あわてて振り返ると、木の陰にひとりの女の子が立っていた。
「そんなにびっくりしなくても」
困ったような笑いを浮かべながら、彼女はガサガサと落ち葉を鳴らして博樹のそばに歩み寄った。
丁度同じくらいの背の高さで、自然と視線がぶつかった。
「何してるの?」
「……散歩だよ」
応えてから、改めて少女をよく見ると、胸には見覚えのあるワッペンが見えた。
博樹もつけている、校外学習の参加者である証しのワッペン。
どうやら、博樹と同じ船に乗る他校の児童らしい。
「ひとり?」
「うん」
「そっか。……ひとりきりだと、さびしくない?」
少女が遠慮なく問いかけてきた。
あたりには誰もいない、二人きりの世界。
その静謐な空気と午後の日差しの温かさが、彼の口を緩めた。
「……ちょっとだけ、さびしい」
「そっか。じゃあ、私とおそろいだね」
少女は、ふっ……と口元を緩めて首をすくめる。
そのおどけたようなしぐさがなんとなく可笑しくて、緊張がほどけた。
「きみは?」
今度は博樹が問いかけた。
「きみもひとりぼっちなの?」
「うん」
「どうして?」
「さぁ? 女の子には秘密が多いんだよ」
「へーー。女の子って大変なんだね」
「違う、そうじゃない……」
大真面目に答えた博樹に、思わずツッコむ少女。
苦笑いをしてから、やがて少女は笑みを消す。
「ただ、どこかに行きたくなって……君もそうでしょ?」
「たしかに」
博樹の相槌に寂しげな笑いを返して、彼女は下を向いた。
整った顔立ちに影が落ちた。
美人が勿体無いと思った。
「ねぇ」
「ん?」
「一緒に散歩しない?」
ハッと顔を上げた彼女の瞳に、ちらりと光が瞬いた。
「いいの?」
「もちろん。……君が良ければ、だけど」
「ううん、楽しみ!」
さっきまでの寂寥はどこへやら、少女は笑顔で頷いた。

秋だった。
心地良い午後の陽ざしは、木漏れ日となって道を照らす。
色鮮やかに染まるその道を踏み締めるたびに香るほのかな落ち葉の匂いは、いつしか二人を旧知の仲のように打ち解けさせた。
色んな事を語り合った。
好きな動物、好きな本、好きなテレビ番組……。
ホロホロと落ち葉の舞う歩道をゆく二つの笑い声は、時折鼻をくすぐる金木犀の香りに足を止めつつ、ゆっくりと進んでいった。
「……ここじゃない、どこかに行きたかった」
ふと、笑い声の間隙に、そんな言葉が博樹の口をついて出た。
「ここって、長浜のこと?」
「ううん。『ここ』っていうのは……なんていうか……」
うまく言葉にならなくて、沈黙が生まれた。
太陽が雲に被ったのだろうか、遊歩道には影が満ちた。
いつしか二人の足は止まっていて、どこからか物悲しいカラスの鳴き声が聞こえた。
「……いつもの毎日のこと、かな」
『日常』。形容するならば、きっとこの言葉が適当だろう。
ただ、小学生にとってはこの表現が精いっぱいだった。
「学校にいても、今日こうして長浜に来ても、学校の友達といるとなんだかいつもの毎日の繰り返しみたいに思っちゃって……」
――つまらなかったんだ。
そう言うと、少女はコクコクと小さく頷いた。
「なんとなく分かる。私も、なんだか最近学校がつまんないなぁって、仲の良い友達とも離れたいなぁって思うんだ」
「仲間だね」
「ねーー」
二人で寂しく笑いあって、それからしばらく沈黙が続いた。
いつの間にやら道端の木々も松林に変わっていて、落ち葉を踏みしめる音すらも聞こえなくなっていた。
物悲しい静けさの中、木々の向こうからは波音が微かに聞こえ、自然と二人の足はそちらへと向かう。
やがて眼前が開けた。
「「わぁ……」」
そこには、雄大な琵琶湖が広がっていた。
湖畔を金色に輝く枯芝とそこに打ち寄せる透き通る素麵のような波。そして、その先に広がる青い淡海と雲の一つもない蒼い空。
絵画のような美しさに思わずぼんやりとしながら、ざざぁ……ざざぁ……と波が奏でる浜辺に歩み寄ると、今度はそのあまりの解放感に、頬をはたかれたような衝撃を受けた。
雲一つない秋晴れの空の下には水面がどこまでも広がり、その果てでは空の蒼と滲んでいて。
それはまるで……
「――ビー玉の中にいるみたい」
呆けたような少女の口から、そんな感嘆がこぼれた。
「ビー玉の中、か」
ただでさえ美しい情景。それを、彼女の紡ぐ言葉がさらに華やかで切ないものへと染め上げて、博樹はなんだか胸に疼くものを感じた。
「……ねぇ、あれ何?」
不意に袖が引かれた。
彼女の指し示す方に目を向けると、そこには奇妙な乗り物が二つ。
ハンドルはぐにゃりと折れ曲がった自転車のような、何やらメカニカルな物体がそこに横たわっていた。
「自転車……かな? 車輪が二つでペダルとチェーンもあるし……」
「でも、ハンドルがぐにゃっと曲がってるよ? それに、前カゴもついてないし……」
「「うーーん……」」
未知の物体に揃って首を傾げていると、
「お嬢ちゃんたち、ロードバイクを見たのは初めてかい?」
後ろから聞こえてきた声に二人は思わず飛び上がった。
振り返るとそこには、ヘルメットとサングラスを装着し、まるで昔の小説の挿絵に出てくる未来人のようなピチピチの服を着たカップルが微笑んでいた。
「こんにちは」
「「こんにちは」」
「二人は小学生? 船が泊まってるからフローティングスクールかな?」
お姉さんとお兄さんはにこりと笑って、「懐かしいなぁ」と顔を見合わせた。
「私たちも行ったよね!この校外学習がきっかけで、私は琵琶湖に惚れたんよ」
「僕はずっと船酔いで死んでた」
「せやったね」
「それにしても懐かしいなぁ。この間のことやと思ってたのに、僕らはもう高校生だぜ?」
「時の流れは残酷やなぁ」
「おまっ、その憐れみを含んだ目はなんやねん!」
夫婦漫才を始めた二人に、「あの……」と少女がおずおず手を挙げた。
「お二人は……?」
「あぁ、ごめんごめん。私たちはね、自転車でビワイチをしてるの」
「ビワ……」「イチ……?」
声を重ねて首を傾げる小学生組に、高校生二人は「そうそう」と頷く。
「琵琶湖をぐるりと一周するんだよ。琵琶湖一周、略して『ビワイチ』」
「一周!?」
「そそ。大体200キロくらいの距離だね。それを自転車で、二日くらいかけて走るんだ」
博樹には、それがどれくらいのスケールの話なのか想像もできなかった。
ただ、生半可な道のりでないことくらいは、小学生の頭でも容易に分かって、
「それって、すごく大変なことなんじゃ……」
「もちろん! でも、目標があるからへっちゃらさ」
「目標?」
「僕たちはね、ここじゃないどこかへ行きたいんだよ。僕たち二人で、ね」
「ぁ……」
ドキリとして、博樹は思わず胸に手をあてた。
「ここじゃないどこか……ですか?」
「そうそう」
少女の問いに顔を見合わせ、二人は笑う。
「ちょうど君たちくらいの歳の頃だったかな。よく二人で水平線を見ながら、琵琶湖の向こう側に行きたいねって話してたんだよ」
「その約束をやっと果たすんだ」
実現に五年もかかったけどね。
そう言って笑いあう二人が、博樹にはなんだかとてもまぶしく見えた。
「それで、その乗り物は自転車……なんですか?」
「そうだよ」
女の子の問いかけに弾むような声で答えて、お姉さんはその摩訶不思議な乗り物に手をかけた。
「小学生だと乗ってる子はまずいないだろうし、珍しく感じるかもね」
まぁ、みてて。そう笑って、お姉さんは自転車に跨った。
――瞬間、風が吹いた。
力強く踏み込まれたペダルが回すチェーンの微かな音とタイヤが地面を掴む音が耳を撫でて……気がつくとその姿は遥か彼方の先に消えていった。
その躍動感たるや、その疾走感たるや……
「「す……」」
「す?」
「「すっごーーい!!」」
一拍を置いて、胸の奥から憧れが爆発した。
「何これかっこいい!」
「ははっ、だろ?」
目を輝かせる二人に、お兄さんと、そして帰ってきたお姉さんは顔を見合わせて一言。
「これで、僕たちは琵琶湖を一周してるんだよ」
そう、得意げな顔を浮かべた。
やがて、二人は自転車に跨り風となった。
琵琶湖の果てを……博樹達が見たこともない水平線の先を目指して。
その背中に羨望の眼差しを向けながら、博樹は呟いた。
「いつか……」
――いつか、僕らも琵琶湖の果てに行きたい。
隣で手を振る女の子をこっそりと見る。
「ん?」
「いや……」
少女の横顔にこっそりと抱いた思いを笑顔に隠して、それから博樹は回れ右をした。
「僕らも帰ろっか」
気がつけば、自由時間の終わりが近づいていた。

湖畔の芝は秋色に染まっていた。
青い水際ギリギリまで広がる枯芝に、ポツポツと交わる赤と黄。
その美しいグラデーションを踏みしめて、二人は往く。
いつの間にか太陽はすっかり傾いていて、湖がキラキラと輝いていた。
湖国の秋の夕暮れは、まるで夢のようで。
そんな夕方の空気に棹されたのだろうか。
「楽しかったなぁ……」
気がつけば、そんな言葉が博樹の口から零れていた。
「んー? なーんて?」
その言葉をすかさず拾うと、少女はいたずらっぽい顔を浮かべた。
その表情を見ると、なんだか湿っぽいことを言っている自分が情けなく感じて。
「なんも言ってないよーだ」
「うそー! 絶対になんか言ってた! なんて言ったのー?」
「ひーみつ!」
彼女はよく笑う女の子だった。
こんな些細な会話でも笑顔を弾けさせて、そしてそのたびに、栗毛のふんわりとしたボブヘアがキラリキラリと木漏れ日に美しく瞬いた。
その横顔から目を離せないでいると、少女は静かに足を止めた。
「私はね、とっても楽しかったよ。さっきまで寂しかったのが嘘みたいに」
喜びと、そしてどこか寂しさのこもったその声音に、博樹は思わず息をのんだ。
「なんだかみんなといるのに疲れちゃって。一人でぶらぶらしてたの」
自分でみんなから離れたくせに寂しがるなんて、変だよね。
そう小さく笑う少女に、博樹はふるふると首を振る。
彼女の気持ちは痛いくらいによくわかった。
聞くだけで泣きたくなるような寂しい声の向こうには、夕陽が世界を染めている。
その燃えるような湖空を眺めていると、一層胸が苦しくなった。
何かを言わなくちゃ……そう思うのに、言葉が出てこなくて、博樹はただ首を振り続けることしかできなかった。
「……でも、そのおかげで君と出会えた」
ハッと顔をあげると、少女と目が合った。
琥珀のような、澄んだ綺麗な瞳が揺れていた。
「なんとなく似たものを感じて、気がついたら追いかけていて」
そして、気付いたら声をかけていたの。
そう言って、少女は恥ずかしそうに顔を伏せた。
なんだかその反応に博樹まであてられて、顔が熱くなった。
どきどきと鼓動が耳に響く。意識するほどうるさくなるその音に我慢できなくなって、博樹は彼女から目を逸らしてその場にしゃがみ込んだ。
足元には色とりどりの落ち葉が、まるでクッションのように沢山落ちていた。
「僕と話した時間は、寂しくなかった」
「うん!」
「そっか」
屈託のない声が降ってきて、頬が緩んだ。
「君は?私と話していて、楽しかった?」
「僕は……」
少女の逆質問に、落ち葉を手に取り考える。
「……僕もね、君と出会う前は寂しかったんだ。でもね……」
体に力を込める。
思いっきり地面を蹴って体をひねり、少女に体を向けながら跳ねるように立ち上がった。
「君がいたから、今日はとっても楽しかった!」
言うと同時に、こっそり腕いっぱいにかき集めていた落ち葉たちを頭上に投げ上げた。
赤、黄、茶色。
色とりどりの落ち葉たちは夕陽にキラキラと煌きながら空を舞い降り、まるで虹の雨みたいに二人の世界を彩った。
「綺麗……」
惚けたように呟く少女の頬には、ささやかに朱が挿す。
その反応に頬が緩むのを感じながら、いたずらに満足した博樹は歩き出し……
「……ん」
――その袖をくいと引っ張られて、博樹は足を止めた。
振り返るとそこには見たことのない、だけど一目で胸が締め付けられるような色の瞳が博樹をまっすぐに捉えていた。
心音がバクリと強く跳ねた。
「あのね……私、もっと君といろんなところに行ってみたい!」
バクリ、バクリ。
今までにないくらい、心臓が強く打ち付ける。
「いつか大きくなったら、『ここじゃないどこか』へ旅をしてみたい!」
「ここじゃない……どこかに……」
「そう!そしてその時に、今日みたいに君が隣にいてくれたら、きっと楽しいだろうなって!」
「っ……!」
キラキラと輝くその目に、きゅんと胸が強く締め付けられた。
この子ともっと一緒にいたい。
この子ともっといろんなところに行きたい。
そんな淡い想いが、まるで果実を絞ったようにあふれ出した。
「ぁ……えと……」
少女は風に煌めく髪を手で押さえ、ほんの少し目を細め。
「――行こう」
スーパーボールのように跳ねまわる鼓動を押さえつけて、声を絞り出した。
頭をガシガシと掻いて、それから少女の手を取った。
「一緒に同じ高校に行って、同じ景色を見て……それから、それから……」
――ここじゃないどこかへ行きたいんだよ、僕たち二人でね!
不意に、高校生のあの二人の背中が脳裏に浮かんだ。
キラキラした二人。あんな二人になりたいと思った。
だから……。
「いつか二人で琵琶湖の果てに、行ってみよう」
そんな憧れを胸に呟いた。
「うん!」
少女は満面の笑みを浮かべて頷くと、それから少年の手を強く握った。
その手は、とっても温かかった。
「あのね、一つだけいいかな!」
「どうしたの?」
少女は手を握ったまま、ぴょいっと博樹の前に飛び出した。
「名前、教えて?」
「あ……」
そういえば、名前を聞いていなかったことに気がついて、その今更感に博樹は思わず笑ってしまった。
「そういえば、自己紹介してなかったね」
「お互いの名前も知らないなんてね」
お互いに笑い合って、それから博樹は地面から枝を拾い上げた。
「僕は博樹。追分おいわけ博樹ひろき
地面に漢字を書きながら、博樹は口ずさむ。
「ひろき、くん……」
ひろき、ひろき……と何度も口の中で繰り返す少女に、博樹は木の枝を渡した。
「君の名前は?」
少女は木の枝を受け取ると、えっとね、と呟きながら地面を削っていった。
「私の名前はね――」

**

「――みなみ美波《みな》」
「――ぁ」
高校の体育館に響くその名前に、博樹は掠れた声をこぼして固まった。
真新しい詰襟と黒セーラーがひしめく体育館。
その、期待と不安に満ちた独特な空気の中で、新入生代表として呼ばれた少女の鈴のような返事が体育館に凛と響いた。
「美波ちゃん……」
今、確かにその名前が呼ばれた。
四年前のあの時、聞いた名前が。
ずっと会いたくて、ずっと焦がれた少女の名前が。
確かに聞こえた。

小学五年生のあの秋の夕方以来、博樹は彼女と会っていなかった。
校外学習から帰ってくると、やっぱり日常は日常のままで、博樹も旅の前とは何も変わっていなかった。
美波の学校は隣の学区という近さ。会おうと思えば会いに行ける距離ではあった。
でも、たった数キロという距離が、博樹にとっては無限の彼方にも等しい遠さに感じて、結局どうしても足がすくんで動かなかった。
結局、博樹は中学生になっても彼女と会うことが出来なかった。

中学三年生の夏。
講習を受けに行った塾で、彼女を知る男の子と知り合った。
「どうやら、地域で一番の進学校への進学を希望しているらしいよ」
彼は、そんなことを教えてくれた。
「僕もそこを目指してるんだ。今から頑張れば、いけるっしょ。」
僕は博樹くんと同じくらいの成績だけどね……と笑った彼は、秋を迎えるころにはいなくなっていた。
学校の先生には三者面談の度に、その高校への進学は絶望的だと言われた。
「よしんば受かっても、入ってからが大変だぞ」
それでも博樹は、無理を通した。
きっと、この機会を逃せば、きっと彼女に会うことはないだろう。
そんな予感を胸に、彼女が本当にその高校を選んだのかすら分からないまま、博樹は春を迎えた。

「――新入生代表、一年一組、南美波」
少し幼さの残る、透き通るような声が耳を打ち、博樹を引き戻す。
壇上に目を向けると、ひとりの少女がスポットライトに照らされていた。
ボブカットに揃えられた明るい栗毛の髪の毛に、すらりと背筋が伸びた綺麗な立ち姿。
まさしく芍薬のようなその華やかさに思いっきり頭をはたかれたように感じて、激情が博樹を包み込んだ。
間違いない。
間違いない!
間違いない!!
彼女がいた。会いたいと焦がれた彼女が、確かにそこにいた。
今すぐ彼女のもとに行きたい!
一度心を奪われると、それから先はもう、校歌斉唱も閉会の言葉も頭に入ってこなかった。

式が終わると、博樹は真っ先に駆けだした。
体育館から流れ出る人の波をかき分け進むと、その背中はすぐに見つかった。
その少女は辺りをキョロキョロとしながら、人の流れから静かに離れていく。
体育館裏へと消えていくその背中を、博樹は追いかけた。
「ぁ……」
体育館の裏へと回った博樹は、そこで息をのんだ。
人波から外れ、喧騒からも隔絶された世界の片隅。
春の陽ざしに照らされる箱庭の中心で、少女はひとり桜を眺めていた。
風に揺れる髪の毛がちらりと輝いて、冬がここだけに置き忘れていったような冷気に白い吐息が流れる。
まるで映画のワンシーンのようなその情景に、四年前の秋の景色がダブって見えた。
「……なにをしてるの?」
零れた言葉に、少女はハッと肩を弾ませる。
「――」
だけどその口は動かず、視線も桜に向けたまま。
だから博樹は、もう少し言葉を注ぐ。
「ひとりで寂しくないの?」
「……寂しくなかったよ」
あの日、自分がかけられた言葉。
それをなぞるように口にすると、ようやく少女が口を開く。
「だって、友達が来てくれるって信じてたから」
――約束したでしょ?
そう呟いて、はじめて少女は博樹を振り返る。
何度も夢で見た、可愛い幼顔。その頃の面影を確かに残し、だけどすっかり綺麗になった女の子がそこにいた。
「久しぶり、博樹くん」
「覚えて……」
「忘れるわけ、ないでしょ?」
そう言って、少女は微笑んだ。
何度も夢に見た、あの日と全く同じ笑顔だった。
「まさか、君と同じ高校になれるなんて……」
「驚いた?」
「とっても!しかも美波ちゃんは新入生代表だし……」
「見つけやすかったでしょ?」
いたずらっぽく笑うその笑顔は、いつか見たものと変わらなくて、博樹の頬も思わず弛んだ。
話したいことはいっぱいあった。伝えたいこともいっぱいあった。
そうした、四年間貯め続けたあれやこれが、胸の奥から今にも溢れ出しそうになって、言葉が詰まった。
何を言えばいいのだろうか。
何から言えばいいのだろうか。
「博樹くん?」
少女の声に、博樹は顔を上げる。
そこには琥珀のように美しい目が輝いていて、その光を見ていると不思議と頭の中がすっきりと落ち着いた。
「あのさ、お願いがあるんだ」
「ん?」
優しい相槌に、博樹は小さく息を吸う。
考えるまでもない。
彼女にずっと伝えたかった言葉は、たった一つだった。
「僕と……一緒に散歩をしてくれませんか?」
四年間、ずっと抱えていた想い。
その言葉に、少女は一番の笑顔を弾けさせた。
「もちろん!」

春風に吹かれて、花が舞う。
そのひとひらに道を尋ねて、ふたりは歩く。
どこへ行こうか、何を見ようか。
そんな胸の高まりに導かれながら、彼らはまた一歩を踏み出した。
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