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近江屋事件

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京都の高台寺のすぐ隣。
長い坂を上がるとそこには出来たばかりの真新しい社殿が眩しく鎮座している。
お上から命で作られたという護国神社のすぐ隣にその人物の墓はあった。

「坂本さん……」

無数に建てられた墓石。
その中でも最前列に、ひときわ大きく置かれた墓石が二柱。
坂本龍馬と中岡慎太郎という幕末の両雄が眠る墓である。
その隣には坂本の護衛であった藤吉も眠っている。
それらの墓に花を供えて、鹿野かの峯吉みねきちは手を合わせる。

あの事件から三年。
すっかり寂れ静かになった京の町を背に彼は語りかける。

「坂本さん。京はすっかりと変わってしまいましたよ」

あなたはこの未来を、どう思いますか?
あなたが望んでいたのはこんな京の町だったのですか?

あなたがあの時死ななければ、あなたはどんな未来を紡いでいたのですか?

答えの返ってくるはずがない問いを、ただ峯吉は問いかける。

***************

慶応三年11月15日、京都河原町通向かいの近江屋。

その日は朝から数多の要人がお忍びでここを訪れていた。
お目当ての男は、坂本龍馬。
大政奉還が成った、その影の立役者たるこの男は数日前からここ近江屋に身を隠していた。

「こう寒くちゃかなわんぜよ。のう? 藤吉」

「……へい」

「おんしゃあ、ほんに無口な男じゃのう。口から先に生まれたわしとは、えらい違いぜよ」

坂本はゴホゴホと咳をしながらくっくっくと忍び笑いをする。
西日の射し込む室内はすでに随分と冷え込んでいた。

「大丈夫ですか?」

「おう! なんちゃあない! けんども、おまんほど鍛えちょったら風邪なんぞ引かなさそうじゃ」

「もちろんです。風邪なんぞ、最後にかかったのがいつかも覚えてません」

「羨ましいのう」


「兎に角、坂本さんも養生してくださいね。今日はもうご予定もないのでしょう?」

「そうじゃのう。じゃが、さっき会うた中岡がまた来るち言いよったんじゃ。その相手をせにゃいかん」

面倒だというような口調で、しかし顔には嬉しそうな色を浮かべながら坂本が毒を吐く。
中岡というのは陸援隊隊長中岡慎太郎のこと。
彼はこの日の午前に一度龍馬を訪れていたが、また再びこちらへ向かうと言ってきていた。

「仕方がないのう、酒を用意してやるか」

「体調がよろしくないのでは?」

「何を言っちょるがぜよ。公が政を治天の君に還し奉ったその祝い酒ぜよ!」

『公』というのは将軍徳川慶喜公のことである。
同年10月14日、朝廷に大政奉還の奏上を行い、翌日天皇が勅許していた。
長年の活動が実を結び、激動する世界の中でようやく日本が一つになって時代の大波に立ち向かう事ができる。
そのためにも、様々な根回しや後始末などする事は山ほどあった。
坂本にとっていわゆる大政奉還の日からこの日までの一ヶ月は果てしなく長い日々だったのだ。
ストレスも溜まるというものである。

「ここ数日、毎日呑んでるじゃないですか。風邪もそれのせいですし」

「ええんじゃええんじゃ! とにかく持ってきてくれ!」

「分かりましたよ……」

藤吉が席を立った時、下の階から二階の龍馬は呼びかける声が響いた。

「才谷先生! 石川様がお見えですよー!」

続いてドタドタと騒々しく階段を上る足音。
バンッと雑に開けられた襖の向こうには、大男が一人立っていた。

「よう! 龍馬! さっきぶりじゃの!」

「おまん、もうちぃとだけ静かに出来んかぇ……」

中岡慎太郎。
陸援隊隊長で土佐藩を脱藩した直後から脱藩浪士達の中心になるなど、各方面から絶対的な信頼を受ける坂本の盟友だ。
ともすれば、坂本以上にその評価を受けることもある、幕末随一の傑物の一人である。
そんな男も、盟友の前ではその存在感も温かく大きな太陽のようになる。

「いやぁ、寒い! 寒いのう、龍馬! こりゃ風邪を引きそうじゃ!」

その太陽が今では凍えていた。
しかし、その言葉とは裏腹にその声はビリビリと部屋全体を震わせるように喧しい。

「そうじゃな。とりあえず声を落としてくれ」

「まあ、質実剛健、幕府にも負けんかった維新の志士が風邪なんぞにやられるはずはないがの!」

「わしは風邪を引いちゃるんじゃ。おまんの声がガンガン響いてクラクラするぜよ」

「おぉ! すまんすまん。まさか坂本先生ともあろうお方が風邪を引いちょるとは思わんくてのぅ」

昼間に来た時に言っただろ、と大笑いする中岡に心の中で毒突く。

「ほんじゃほうじゃ、聞いたかぇ? 最近、巷ではわしらのことを『維新の志士』ち言うもんが増えちょるらしい」

「イシン? 清の言葉で言う、『維新』か?」

「ほうじゃ。 西洋では『りぼるーしょん』ちいう意味じゃ。京の都の皆々さまも、時代の変化を感じとるようじゃのう」

将軍徳川慶喜公の英断によりまつりごとが京の朝廷へと返還されてから一ヶ月。
政治は未だ混迷を極めていた。
初めは朝廷への大政奉還が成ったところで政治から手を引く考えだった坂本だが、その混迷を見るうちに新政府の形が成立し稼働するところまで見守ろうと覚悟を決めるようになっていた。

「まだまだぜよ。日本国が変革し、それをすべての人民に反映するには時間がかかる」

「西欧列強や亜細亜の中でのつきあいもあるからのぅ」

日本を変えても、次の壁として外国がある。
だからこそ、坂本は大政奉還を推し進めた。
海外列強のアジアでの存在感が増していく中、日本にも触手を伸ばそうとする英仏などの国々。
海援隊の活動を通したグラバーなどの海外との関わりの中で、坂本はそのことに敏感に気づいていた。
国内で争っている場合ではない。
薩摩や長州が推し進める『倒幕』が実行されていれば、国内は二分され内乱となっていただろう。
だからこそ、坂本は幕府による自主的な奉還を企画実現させた。
幕府を潰すのではなく、幕府と朝廷を融合した『挙国一致』体制で新たな日本を作り出すために。

「まあそのことは、おいおい話そう」

「ほいじゃあ、本題に入るか」

「なんじゃ?」

堅苦しい話はおしまい、と中岡は手にしていた風呂敷を広げる。

「酒じゃ。極上の逸品じゃ」

「中岡……」

「齢三十と一つの祝いじゃ。呑もうぜ」

「全く……」

そう、この日は坂本龍馬の誕生日。
盟友の粋な心遣いにこのは笑みを浮かべ、藤吉を呼びだす。

「こっちも酒を用意してたんじゃ」

やはり類は友を呼ぶのだろうか。
同じことを考えていたことに二人で笑い合う。

「ええのう! 呑みくらべじゃ」

「酒だけじゃつまらん。なんか食うていくかえ?」

「おう。寒いからのぅ、鍋でも食うか」

「おし、ほんなら軍鶏鍋にするぜよ。ついでにおまんの好きな焼き飯も用意しちゃる」

「おい! 藤吉! 軍鶏を頼むぜよ!」

「おい中岡、わしの藤吉になぁにを言っちゃるがぜよ」

冬の短い陽が落ち、薄暗くなった室内。
酒を持ち、灯りを点けに来た藤吉に二人が絡む。
わいわいと談笑する二人の影が部屋の中にゆらゆらと伸びていった。

***************

「峯吉よ、使いに行ってくれんか?」

「藤吉さんじゃないですか! どうしました?」

「坂本さんが軍鶏鍋を食べたいと仰ってな。一つ、使われてくれ」

「分かりました! 行ってきますね!」

藤吉に声をかけられ、鹿野かの峯吉みねきちは元気よく返事を返す。
藤吉は元相撲取りらしく、大きな図体に陽気な性格を兼ね備えた優しいおっちゃんだ。
暇があるときはいつも一緒に過ごし、峯吉もまた彼に懐いていた。
その主人、坂本も気さくなお兄ちゃんのような存在で、峯吉は彼と話す機会を多分に持っていた。
小間使いの自分に対しても、他の大人と違って同じ目線に立って話してくれる一方で、多くの人から先生と呼ばれ敬愛されるその姿は彼にとって憧れの人物である。
当然その人の望みなら軍鶏の一つや二つ幾らでもお使いにいく。

「暗いから、気をつけて行っといでな!」

「ありがとうございます! 藤吉さん!」

11月の酉の刻は陽もすっかり落ち、明かりがなければ真っ暗闇に閉ざされる。

「さっぶ」

戸を開けると一気に冷気が押し寄せ、思わず身震いをする。
少し前まで、京都の至る所で血なまぐさい事件が頻発していた。
どうやら世直しが行われたらしく、最近はそう言った話を聞くことはないが、それでもやはり闇夜は少し心細い。
通りを吹き抜ける風が呼び込む寒さの中で、峯吉は提灯の灯りを頼りに数件離れた所まで小走りで出かける。

「こんばんは! 遅くにすみません!」

「はいはい、あら峰ちゃん! どうしたの?」

「軍鶏を一つ頂けますか?」

「軍鶏ね、はいどうぞ!」

「おおきに!」

「毎度ありがとう! 遅いから気をつけるのよ」

坂本は軍鶏が届くのを待っているだろう。
自分が早く届けたら喜ぶに違いない。
そう思うと峯吉の足は自然と速くなる。

「??」

近江屋の近くに辿り着くと何やら騒がしい。
向かいの土佐藩邸から人が出入りし、近江屋の前には不審な人影。
ゴクリと唾を飲み込み、意を決して近づくと不審な人影が動いた。

「とまれ! 何者か!」

輝く棒のようなものを構える男。
よく見るとそれは抜刀された真剣だった。
天下の往来で真剣を抜き去るなど尋常ではない。

「ぼ、僕は近江屋小間使いの鹿野峯吉です。お侍さん、これはどういったことでしょうか」

「ここに宿を取っていた土佐藩商人の才谷という者が強盗に襲われたとの一報があってな。まだ犯人が中にいる可能性があるのだ」

「坂本先生が!?」

そう叫び、次の瞬間身体が固まる。
わずかに見える玄関の中には鮮血と横たわる大きな物体。

「うそ……」

「あ、まて!」

信じられない、信じたくない思いのまた峯吉は刀を持つ侍の横をすり抜けてその顔を見る。

「なんで……」

藤吉が倒れていた。
背中には袈裟懸けに刻まれた深い深い一太刀。

「藤吉さん! 藤吉さん!!」

「さか……もと……先生が……」

必死に呼びかけると、うわ言のように彼は何かを呟く。
重症ではあるが、息があることに安堵する。

「小僧。坂本先生の部屋はわかるか?」

突然侍が声をかけた。
びっくりして振り返ると、真剣な表情をしている。
だが、峯吉が驚いたのはそこではない。

「今、坂本先生と……」

『才谷』ではなく『坂本』と、確かに侍は言った。
そのことに峯吉は全てを理解する。
何かが起きている事へのとてつもない不安と恐怖を押し殺して、立ち上がる。

「分かります」

「拙者は嶋田庄作。今は立場を抜きにして頼みたい。坂本先生のお部屋はどこか」

後に峯吉は嶋田が土佐藩下横目(下級警察官)という役職の者だと知るが、この時の彼にはそんな事など想像もつかない。
ただ、侍が小間使いの自分に対して頭を下げているという異常事態に目を白黒とさせるだけだった。

「敬愛する先生を助けたいんだ。早く頼む!」

「わ、分かりましたから! 頭をあげてください!」

慌てて頭をあげさせ、案内をする。
急な階段を上り、坂本の泊まっていた部屋の方を確認する。

「襖が……」

坂本の部屋は荒らされていた。
襖は蹴破られ、そこら中に血が飛び散っている。
障子や柱などには刀傷がいくつも出来、部屋の中央には血溜まり。

「ああ……ああ…………」

そしてその中に、坂本龍馬が倒れていた。
その体は一切動かない。
それはただの少年でしかない峯吉にも、事切れていることが一瞬で分かる姿だった。

「坂本先生……あぁ……あぁ……うあぁぁぁあああ!!!」

深夜の京都に、慟哭が響き渡った。



坂本龍馬は即死、もしくはそれに近い状況だったと考えられている。
背中と頭部に深い裂傷を追い、頭部への二つの傷のうち片方は頭蓋を抉り、脳にまで達していた。
藤吉はその翌日に死亡。
中岡もさらにその翌日、死亡した。

坂本と中岡、その両雄を失った日本は、それでも何事もなかったかのように新時代に突入した。
坂本、中岡両名が死亡してから丁度一年が経った頃、天皇は江戸――今は東京と名を改めた――に移り、貴族や武士もそれに追従、それ以来京の街はすっかり寂れてしまった。
明治の世になって三年、東京奠都が行われてから二年。
清水の舞台から見える街はかつての賑わいを失い、すっかり廃墟と化している。

峯吉はその街を見下ろしながら思う。
あの時、軍鶏を買いに行かなかったなら、坂本や藤吉を救えたのではないだろうか。
あの時、藤吉が使いを自分に頼まず自分で軍鶏を買いに行っていたなら藤吉だけでも助かったのではないか。
もちろん、自分がいたところで何かが変わったとは思えない。
そんなことを考えることすら、亡くなった三人への侮辱でしかないことは分かっていた。
ただ、自分のいないところで全てが起こり、そして終わっていたことが未だに峯吉の心を縛っている。

彼は眼下に広がる寂れた京の町を想う。
かつて藩邸がひしめき合った辺りは荒野になり、御所のあったところは貧民街となっている。
街を行く人の数は目に見えて少なくなり、その服装も次第に貧相なものになっている。

これが、坂本の望んだ日本だったのか。
これが、彼の望んだ京都だったのか。

幕末は血生臭い事件こそ無数に起きていたが、それでも日本中から人が集まり京の都には活気があった。
見知らぬ土地の話を、言葉を、空気を、全身で感じることができた。
長く一つの場所に留まる人もいれば長くそこに居座る人もいて、そうした人の入れ替わりは寂しく思うこともあったけれど街全体が生きているようで心が躍るようだった。

けれども、たった二年でそれは全て消え失せてしまった。
まるで夢か、幻のように。

いつかと、峯吉は思う。
いつかこの寂れた京が、昔のように活気あふれる街になることはあるだろうか。
様々な文化や人が混じり合い、見知らぬ土地の話や言葉や空気を感じることができる、まるであの時のような時間を過ごすことは出来るだろうか。

十年、五十年、あるいは百年後。
ひょっとすれば百五十年の長きに渡る時間を経て、もう一度そんな時代が来るやもしれない。
再び京の都が活気を取り戻し、様々な人や文化が混じり合うあの夢のような世界をいつか再び楽しむことができるやもしれない。
きっとそれこそが、坂本龍馬という男が夢見た日本であり、彼が見たかった日本の姿でもあるはずなのだから。

身近に見ていた英雄達の背中。
憧れていた彼らの背中に、しかし自分は届かないことを峯吉は知っていた。
彼らのような強い信念と行動力の元で世界を変えた人たちに比べ、いかに自分という存在がいかに小さく取るに足らないかということは分かっていた。
彼に出来ることは、精々自分の目の前の日々を守っていくことだけ。

でも、それで良いのかも知れない。
そう峯吉は思った。
坂本や中岡の遺した新時代を生きていくだけ、ただそれだけの事が大切なのかも知れない。

時は流れ、今ではもう坂本の顔も、藤吉の声もはっきりとは思い出せなくなっていた。
あの時の肌を刺すような寒さも、飲み込まれてしまいそうな夜の闇も、今では随分と遠いところに行ってしまったように感じる。
過ぎ去ったあの日は、峯吉の下からただ遠ざかっていくばかり。

京の街を見ていると、昔のことを思い出してしまう。
どうも見ていられなくなって、空を仰ぐとそこにはまるで海のようにどこまでも続く空がある。

「わしゃあ、海が好きじゃ」

ふと、坂本の言葉を思い出した。
それは一緒に空を見上げていた時に、彼が零した言葉だった。

「海の向こうには、見知らぬ世界がごまんとある。わしはのぅ、峯吉。いつか、世界中を回ってみたいと思うちょる。ほんでのぅ、いつか……」

坂本は峯吉の頭をポンポンと軽く叩いて笑いかけた。

「いつか、日本と世界中を繋ぎたいと思ってるんじゃ。わしらが海の向こうに行くっちゅう話だけではのうて、世界中の人が日本っちゅう国に憧れ、訪れてくれよる未来ぜよ」

「そんなこと出来るんですか?」

「分からん!」

ガハハと豪快に笑い飛ばし、彼は峯吉の背中をバンッと叩いた。

「分からんが、そうなったらきっと毎日がわくわくするぜよ。それに、数年後には藩がのうなって、日本が一つになるはずじゃ。ほんなら、もっと未来には世界が一つになるかもしれんのぅ。……ん? じゃけどそうなったら色々問題が……」

難しい顔をしてしばらくブツブツと一人で呟くと、坂本は「まぁ、兎に角」と峯吉を振り返った。

「兎に角、海はええんじゃ。峯吉も大きゅうなったら海に出てみぃ。そん時は鍛えちゃるからの!」

そう言ってガハハと笑った坂本。

約束が果たされることは無かったが、その時峯吉は彼が別世界の人間のように思った。
彼にはただ青い空が見えているだけだったのに、坂本にはそこに海を見て、海と空で繋がる外国を見て、そして未来さえ見ていた。
自分には想像すら出来ない世界が坂本には見えている。
峯吉はそう感じた。

あれから三年が経った今でも、峯吉には彼の見ていた世界は見えていない。
きっとそれは、自分には一生理解できない世界なのだろうとも思っている。
けれど一つだけ、「海に出ろ」と言う言葉だけは強く彼の心に残っていた。

「……いつか、土佐の海に行ってみよう」

彼との日々を心に抱き、そんな密かな想いを胸に抱え、峯吉は今日も京の街へと足を踏み出した。
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