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第二十六話 爪切りは苦手だから……
しおりを挟む異常気象の影響で、本来なら眩い日差しの下、爽やかな風が吹き抜ける季節の変わり目が、消えてしまった。いや、過ぎ去ってしまった。梅雨入り宣言なんて無視したい!
然しだ! 乾かない洗濯物に、今年は悩まなくて済みそうなのだ。ここは、なんと文明の利器、浴室乾燥機がお風呂場に付いているのだ!
フィルター掃除さえ小まめにすれば、お風呂場のカビ予防にもなるし、ランチョンマットのイタズラ防止にもなる。
ほら、だってユラユラ揺れる洗濯物って、猫ゴコロをくすぐるものね。
エアコンの風で乾燥させるより強力だし、カビ予防、お風呂場と洗濯物の乾燥、イタズラ防止、一石四鳥くらいお得だよ。くっ、贅沢な家電に慣れてしまうと、もう戻れない気がする……。どこに? まあ、いっか。使える物は、使えるうちに、とことん使おう!
問題は、ランチョンと夏をどうやって乗り切るかだ。
最近、ランチョンはベッドで一緒に寝てくれない。だんだんベッドの端に寄っていき、机のイスの上にいたり、机の上に乗っていたり、部屋を出てキッチンの手前で寝ていたり、快適な就寝環境を求めてさすらっている。
これで、エアコンの冷房を入れたら、どうなるのか心配だ。立地環境と建築構造が、夏場は風通しを期待出来ないので、エアコンは必要不可欠になる。
動物はエアコンの風を嫌うっていうし、小さな動物は体調を崩すとあっという間に死に直結する。
ランチョンにもしもの事があったら……。やだ、ネガティブな思考に流れやすくなってる。
そんなに心配しなくても、ランチョンだって、好みのひんやりスポットを探し当てて、快適に過ごせるはずだ。そうだよね、ランチョン。
…………?
いやん。私と目が合うと、ランチョンは、まん丸のお目々で『何?』って表情をしてる。もうっ、可愛い!
うーむ。近年の猛暑は常識を超えてるから、エアコンは絶対に使用するべきだろう。
とあるテレビ番組の実験で、エアコンを小まめに切るのと、入れっぱなしとで、電気代が安いのはどっちかというのを見た。
結果は、誤差の範囲であまり変わらないようだ。日中は留守にしているので、天気予報より暑くなると、ランチョンの命にかかわる。室温やや高めで設定して、自動運転にすれば、最新式のエアコンは適温をキープしてくれる。
新垣さんに聞いた話だと、この部屋は断熱材でしっかりと覆われているので、屋根からの熱気を防いでくれるらしい。
まずは、エアコンを使用する方向で、ランチョンの反応を見ながら、エアコンの風が届かない場所に、ペット用クッションベッドを置いたりして工夫していこう。
さて、今日はランチョンの爪切りにペットサロン・メルルに行く予定だ。
私は相変わらず、ランチョンの爪切りは苦手なんだよね。ランチョンを抱っこして肉球をプニプニしながら爪を出したり、引っ込めたりするのは出来る。
それが、片手にペット用爪切りを持った途端に、ランチョンは逃げ出すのだ。
多分、私の緊張がランチョンに伝わるからだろう。
今朝、拓海さんからメッセージが届いてた。
『今日は、バイト休みでしょう? ランチョンマットの爪切りを、無料でしてあげるからおいでよ』
拓海さんが、何故バイト休みを本人に確認しないで知っているのか疑問だけど、ランチョンの爪切りをしてもらいたかったのでお願いする。
『午後イチに伺いますが、いいですか?』
『いいよ。待ってるね』
午前中は、衣替えと家事で終わった。さて、ランチョンをキャリーバッグに……。ランチョン? どこかな?
「ランチョン? ランチョーン!」
ふむ。キッチンの戸棚を開けて閉める。途端に、タッタッタッと、ランチョンがキッチンに駆け込んで来た。
にゃあ。
「ランチョン、オヤツ食べたらお出かけしようね」
オヤツの煮干しをお皿に出してあげる。猫用煮干しは、普通の煮干しよりも塩分が少ないそうだ。オヤツを食べて満足気なランチョンを抱っこして、キャリーバッグに入れてお出かけだ。
徒歩五分もかからないで、ペットサロン・メルルに到着した。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ。やあ、彩奈ちゃん。来たね」
「お言葉に甘えて、ランチョンマットの爪切りをお願いします」
店長の拓海さんは、営業スマイルだけど、どこかスッキリした感じに見えた。いつものゾワッとする笑顔じゃない。
実は、拓海さんに会うのは、あの回らない寿司屋以来だったりする。寿美ママさんとさんに話だけは聞いているけど、直接会うと少しだけ緊張する。
「榊原! ランチョンマット!」
「八木橋先輩⁉︎」
「榊原、約束だ。ランチョンマットを抱きしめてもいいか?」
「…………爪切りが終わったらいいですよ」
「よし!」
八木橋先輩は、歓びを噛みしめるようにガッツポーズをした。まさか、ここで待ち伏せしていたの? なんて執念深いんだ……。
「彩奈ちゃん、誤解してるかもしれないけど、商店街歩いてた八木橋君に、彩奈ちゃんがランチョンマットと来るよって、声をかけたの俺だからね。……八木橋君も、欲望の向かう先を間違えてない?」
「店長さん、妙なツッコミは需要がないので、ランチョンをお願いします」
「店長さんだなんて、他人行儀だな」
「限りなく他人では?」
「うん。それって、一応は身内なんだね」
「そうですね」
拓海さんは、憑き物が落ちたように、なんだか上機嫌だった。
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