欠ける星空

七瀬美織

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⑰ 理不尽な連鎖

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 夫の母親は、私が結婚してから四度入院した事がある。一度目は、結婚して二年目のクリスマスだった。今、思い出してもけっこう最悪のタイミングであった。

 一人暮らしの義母は、夕方に掃除中転んで尻餅をついただけで大腿骨を折ったのだ。
 簡単に骨折したのは、まだ五十代半ばだというのに、骨粗しょう症だったからだろう。
 義母は、好き嫌いも多く偏食気味だったせいもあり、年齢よりも見た目はかなり老けて見えた。

 救急搬送された病院は、その頃まだ完全看護ではなかった。動けない義母の夜間の世話の為に、私は電車で一時間かけて病院へ向かった。主人は夜勤で、親類縁者はみな遠方だから、私しかいなかったのだ。

 義母が入院した病院は、国道沿いの狭い敷地に立つ五階建てで、特に目立ったライトアップなどされていない。閑静な住宅街の外れで、不気味な影を落としていた。外観の焦げ茶色の古びたタイルは、年月を感じさせた。

 病院の正面玄関は、幅の広い階段を上った二階にあった。昔の造りとはいえ、体調の悪い病人や老人に配慮のない造りに、ここは本当に病院かと呆れた。
 エレベーターがあるといっても、一階の入り口が例の階段の裏側で分かりにくいし、案内表示の看板は小さく色が剥げて読めなかった。

 後に建物は、やはり病院として建てられのではないと知った。小さなゼネコンが、バブル期に本社ビルとして建てたが、バブルの崩壊で売却した物件を、改築して病院にしたそうだ。

 私は、夜間受付で手続きをして、小さなエレベーターで三階に到着した。ストレッチャーがやっと通る幅しかない廊下の端が、義母が入院している部屋だった。六人の大部屋は、満室だった。
 義母のベッドの隣に簡易ベッドを置いてもらい、そこで寝泊まりする事になった。私は、まだ二十代前半で、戸惑いながらも夜間の義母のしもの世話をした。

 その夜、間仕切りのカーテン越しに、たくさんの人の気配がした。同室の誰かの容態が急変したらしい。小さな声でやり取りする医師と看護師達が、カーテンを揺らしながら出入りする影を、簡易ベッドの中から見ていた。
 そして、薄いカーテン一枚で隔てられた、どこか現実味の無い今際の気配に戸惑いながら、いつしか眠ってしまった。

 翌日、ベッドは一つ空になっていた。

 その日の診察で、担当医師に義母の大腿骨の骨折の治療は、足に重りを付けて、けん引しながら骨が真っ直ぐ繋がるのを待つか、人工骨を入れる手術をするしかないと説明を受けた。
 前者は、骨に繋がる血管が切れてない事が条件なので、しばらく様子を見ないといけないらしい。

 入院は、最低でも三ヶ月間必要だという。

 夜勤明けで駆けつけた夫は、私が一時間かけて自宅と病院を行き来しながら、夜間はずっと病院に寝泊まりするのは無理だと判断した。こちらの病院は完全看護ではないので、転院したいと申し出た。

 医師は、転院先の病院を見つけてきてくれれば、いつでも許可するといった。救急搬送されて、病院を選べなかった立場としては、転院先の候補を紹介してもらえないのかとガッカリした。

 二人でいったん自宅に戻り、夫が近所の完全看護の転院先を調べて、受け入れてくれるか問い合わせる事になった。

 当時はまだ、インターネットや携帯電話も一般に普及する前の時代で、電話帳と市役所の相談課が頼りだった。
 夫が電話で完全看護の病院に問い合わせ、ベッドに空きがあれば連絡してもらえる事になった。

 翌日、運良くベッドが空くので、義母の転院を受け入れてくもらえるとの連絡が来た。
 ただし、転院を受け入れる条件は、明日中に転院を完了する事だった。

 すぐに、義母の入院先とやり取りして、明日の午後に転院する事になった。転院先への搬送は、病院の所有する救急車を借りられたし、医師にも書類を準備してもらえた。年末の慌ただし空気の中、ギリギリのタイミングだったと思う。

 私は、自宅に戻り何度も転院先の病院に電話をかけて、慣れないやり取りをした疲労をそのままに、看護の為に病院に行く。

 病院の受付で、明日の確認と打合せをした。明日、義母を転院先に送り届けたあと、入院費用の精算のため受付時間までに再び病院に戻らなければならない。
 まだ、若かったから出来たが、ハードな数日間だった。慣れない簡易ベッドであまり寝ることも出来なかったし、かなり疲れていて体調も弱っていた。

 だから、あんなモノを見たのだろうか……?

 転院を不安がる義母をなだめながら、簡易ベッドに横になる。今夜は、起こされないで眠りたい。

 どれくらい眠ったのだろう? 騒がしさに目が覚めた。また、同室の誰かが急変したのだろうか? このフロアの入院患者は、比較的軽症の患者しかいないはずなのに……?

 私はとても疲れていた。患者への同情心より、静かにして欲しいという苛立ちを感じていた。もっと眠りたい欲求が強くて目を閉じていた。

ジャッーー!

 仕切りのカーテンがいきなり開けられた音がした。

『そっちは、違う……』
『なんだ、違うのか』
『ここは、別口だ』
『ああ、嫁さんは苦労するな……』
『女だ。女がいるな』
『ああ、手出し無用だ……嫁さんが何とかする』

ジャッーー!

 開けられた時と同じ様に、仕切りのカーテンがいきなり閉められた。

 何の話だろうか?『嫁さん』とは、私のことだろうか? しかも『女』?!

 私は、目を開けてあたりを見ようとするけど、身体がガチガチに固まって動けない。キーンと耳鳴りがしてくる。しっかりと顔の半分まで布団をかぶっているのに寒くてたまらない。

 私は、これは金縛りだと気がついた。

 二人の声は、去っていく。真夜中にも関わらず、いきなり覗いて去って行った。
 いったい、何者だろうか? それとも、人ではないのか?

  しばらくして、ぞろぞろと沢山の人が入ってくる気配がした。それらは無言だった。

 仕切りのカーテンが、ゆらりゆらりと波打って揺れた。

 ペタペタと大量の裸足の足音が聞こえる。沢山の人が歩いて、ベッドが部屋のほとんどの場所を占めた狭い隙間を、ぐるぐると歩きまわって去っていった。

 仕切りのカーテンの揺れがおさまると、私の金縛りも解けた。

 布団をずらして外気に触れると、汗がヒンヤリと冷やされる。今のは、夢だったのだろうかと思いながら、義母のベッドを見上げた。簡易ベッドは、床上三十センチ程しか高さがないからだ。

 眠る義母のベッドの上に、薄暗いモヤの塊の様なが乗っていた。何度も瞬きをすると、それが長い髪の女だとわかった。女は、義母の首を締めていた。そして、私の方を見て、ニヤリと笑った様な気がした。

 私は、悲鳴も上げずに気を失い、次に気がついた時は、朝だった。

 義母の様子は、いつもと変わらない。病院も、看護師達も、同室の患者四人も、変わりなかった。何気なく、義母の首を気にして見てみたが、締められた様な跡はなかった。

 午後、病院の受付で退院の手続きをして、義母を救急車に乗せて転院先へ出発した。サイレンは鳴らさず、骨折した足に響かないように、普通のスピードで走ってもらった。救急車は、一時間半くらいで転院先に着いた。

 完全看護の新築の病院は、病室も明るく、ハキハキした看護師に義母も励まされていた。
 私は、付き添い看護の苦労から解放されてほっとした。

 転院先で、手続きを終えると、再び元いた病院に戻らなければならない。入院費と救急車の費用を精算するためだ。これが済めば、今夜は家でゆっくり眠れるはずだ。

 電車と徒歩で病院に向かった。病院が近づくにつれ騒がしい様子に驚いた。

 病院周辺道路に、沢山の緊急車両が駐車していたからだ。赤色灯とサイレンの音が聞こえる。モウモウとした黒と白の煙が、夕暮れの空にたなびいていた。周りのやじ馬の人々の会話から、義母の入院していた病院が火事だと知った。

 赤色灯の赤い光がどんどん増えて、怒号が飛び交う火災現場の煙が薄まる様子を茫然と見ていた。
 無事消火されたのは、日が沈みきり冷たい北風が吹くような時間だった。

 やっと火が消し止められたが、患者のほとんど逃げられなかったらしい。入院費の精算どころか、近づく事すら出来なかった。

 現場は混乱していたし、病院の受付が機能していると思えなかった。仕方なくそのまま帰宅しようと、私は野次馬の群れを離れて駅へと向かい歩き出して、ーーーーゾッとした。

 もしも、今日転院していなければ、きっと自分達も巻き込まれていただろう。同室だった四人の患者や、担当医師に看護師は無事だろうか?

 テレビのニュースのトップではなかったが、病院火災は大きく取り上げられていた。一階の厨房が、火元だと言っといた。配電室が火元のすぐ隣だったので、病院全体が停電して、上階の入院患者のほとんどが逃げられなかった。死傷者もいたようだ。
 義母の入院していた三階の被害者が、一番多かったらしい。厨房の換気扇のダクトから、何故か三階フロアに繋がっていたらしく、有毒な煙にまかれたせいだった。火事の直前に転院した義母の事が話題になるような事はなかった。

 その日から、しばらく火災にあった病院と電話が繋がらなかった。

 完全看護の転院先とはいっても、着がえの洗濯や見舞いの必要はあるので、ほぼ毎日のように通っていた。一月後、転院前の病院から請求書が届いたので、指定口座に振り込んだ。その病院との関わりは、それで途絶えた。

 結局、義母は手術することになった。術後の経過も順調で、三ヶ月後に無事退院してた。それから、一ヶ月程は私たちの家で、一緒に生活しながらリハビリをして自宅へ帰っていった。

 十年後、義母は再び同じ足を骨折して車いすに乗って生活した。施設に入って生活したので、私たち夫婦の負担はそれほどでもなかった。

 それから、五年後。痴呆が出始めた義母は、食事をあまり取らなくなり、栄養不良で入院した。

 一カ月間後、退院して施設を移ったが、褥瘡からの出血が栄養不良で酷くなり、敗血症を起こして肺炎までも患い緊急入院した。

 義母は、四度目の入院中に、還らぬ人となった。

 彼女の人生は、『禍福は糾える縄の如し』とよく言うように、波乱の人生にも思えたし、よくある平凡な人生にも思えた。

 私は、義母が入院するたびに世話してきた。苦労もしたが、一緒になって、泣いたり、笑ったりしたのは、いい思い出になっている。


 あと、残った問題は、ーーーー夫だ。


 私は、最初の入院中に眠る義母の上にいた、暗いモヤの塊のような女性を度々深夜に見た。彼女は、夫の上に乗って、夫の首を締めている。

『……嫁さんが何とかする』

 ーーーー事なんて、出来るはずない。それに、私の知らない間に、あの女は私の首を締めているのかもしれない。
 
『……嫁さんが何とかする』

 だから、無理だって……。

 それにしても、年々あの女の顔と自分の顔が似てきている気がする。

ーーーーーーーー気のせいだろうか?


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