欠ける星空

七瀬美織

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⑫ 四度目の呼び声

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 小学二年の夏休み、祖父が倒れた。

 父親の実家は、電車を降りて、一日三本しかないバスで一時間、終点のバス停から、山道を歩いて一時間四十分という田舎だった。
 二十世帯くらいが暮らす山の集落は、ひっそりとしていて、道路がアスファルトで舗装されているのが、不思議なくらいの場所だった。

 お店は、だった一軒の雑貨屋があるだけだったし、公共施設は山を下った町まで行かなければない。

 当然、祖父が入院したのは町の病院だ。完全看護の病院なら問題無かったが、家族の付き添いの必要な病院だった。

 夏休みという事もあり、働き手の父親を家に残して、娘と嫁たちが子どもたちを連れて実家を拠点に、病院で交代の付き添い看護をしたのだった。

 あまり覚えていないが、確か五つの家族の子どもだけで、十数人。まだ一番年上でも中学一年生で小学生が八人いたし、幼稚園児が二人に、保育園にも入ってない幼児が二人いた。

 最初、子どもたちは、詳しい事情は知らないが、従兄弟たちと田舎で夏休みを過ごせるのを楽しんでいた。

 今にして思えば、母親たちは大変だったろう。そんな空気を、敏感に感じてか、従兄弟達の結束は固かった。年上の子が、自分の弟や妹以外の従兄弟姉妹の面倒をよく見たのだ。

 電気はあるが、ガスはボンベ、水道は山の湧き水から引いていた。下水は整備されていないので、母屋から離れた外のボットン便所だ。お風呂は、簡単な囲いしかなく、下で直接火を炊く五右衛門風呂だった。不便さよりも、物珍しさが優った。

 夏の夜の星空を見上げて、雲が多くてよく見えないと思ったら、それが星の輝きだと知り驚いた記憶がある。

 清流は、天然の川魚の宝庫だったが、その年は雨が多くて、釣りや川遊びが出来る日が少なかった。

 集落は、林業を生業にしている家も多かった。まわりの山林は、よく手入れをされていて、日の光が明るく射し込む森の、整然と並んだ杉の巨木が、子どもながら美しいと思って感動した覚えがある。

 エアコンなどない、扇風機を奪い合いながら、夏休みの宿題をしたり、近所の農家さんからスイカを差し入れてもらったり、虫取りに、花火、雑貨店のアイスをおやつに食べるのが楽しみだった。

 集落に小学生がいないので、毎朝のラジオ体操がなく、スタンプを押してもらえないと泣いた子や、テレビのチャンネルの少なさから、毎週見ていた番組も見られなかった。夕立ちの雨は激しく、山のどこかに雷が落ちると停電して、一、二時間くらい復旧しないのは、当たり前だった。

 初めての田舎暮らしは、なかなか都会暮らしの子どもには慣れない事も多かった。交代とはいえ、母親がいない集団生活は、子どもにもストレスだった。

 無知から無茶な遊びをしたり、言う事を聞かず迷子になる子もいたり、よく、ひと夏をケガなく無事に過ごせたものだ。

 蒸し暑い深夜、どうしても尿意に我慢出来なくなって起きた。

 今まで、夜にトイレに起きた事がなかったので忘れていたが、真夜中の便所が一番不便だった。夜でも便所には照明がなく、誰かに懐中電灯を持ってもらい、隙間から照らしてもらいながら用を足さなければならなかった。

 誰か起こそうとしたが、みんなぐっすりと眠っている。停電があったのか、止まっていた扇風機を動かして、仕方なく一人で外に出た。


 その夜は、月もなく、曇り空から今にも雨が降りそうだった。集落にも田んぼがあって、蛙の大合唱が聞こえていた。夏の虫たちの音が、草むらの奥で、これでもかと大音量で響いていた。

 雨が降るなら大丈夫かと、つい魔がさして、庭先でおしっこをした。

 その瞬間、周囲から音が消えた。あんなに蛙の大合唱と、絶え間なく虫の音が聞こえていたのに、ピタリと鳴き声がしなくなったのだ。静か過ぎて、キーンと耳鳴りがしてきた。

『……フッ、フッ、フッ、フッ、フッ、フッ……』

 笑い声とも、息遣いとも言えない声が頭上から響いてきた。暗い庭先に、一人でいるだけでも怖いのに、何だというのだ。不気味な声は、だんだん近づいて、耳もとに迫っている気がした。用を足しているあいだ、気が気ではなかった。

 急いで、母屋に戻り、玄関の鍵を閉めて蚊帳かやの中の布団に潜り込んだ。怖くて、怖くて、眠る叔母たちを、揺すって起こそうとしたが、疲れているのか誰も起きてくれなかった。
 辺りの様子に耳をすませば、田んぼで蛙が、草むらの奥で虫が鳴く声が聞こえてきた。

 あの、声は聞こえない。

 ただ、カサリ、カサリと、何かが家の周りを歩く気配がしているようで、朝方まで眠れなかった。

 翌朝、雨が降らなかったせいで、庭先におしっこの跡が残っていて叱られた。

 夏休みを数日残し、祖父の体調は、すっかり良くなり、退院する事になった。これを機に、祖父は長男一家と暮らす事になった。従兄弟たちも、それぞれの自宅に戻って行った。

 大きくなって、あれは、フクロウの鳴き声かもしれないと思った。鳥の鳴き声は、時に、人の声に近く感じる事もあるという。

 しかし、あの夜の出来事は、夏休みの忘れられない思い出の一つになって、今でも胸にトゲのように深く刺さっている。






 この話には、続きがある。

 二十歳の頃、家族と住んでいたアパートの隣の敷地は、砂利置場だった。砂利の山の間は草むらで、町中だというのに、夏の夜は虫の音が、うるさいくらい響いていた。

 その夜は、涼しい風が入り、雨戸を半分閉めて、網戸にしていた。窓の外は真っ暗な砂利置場だった。窓際の椅子に座り、家族とテレビを見ていたが、気がつくと虫の音がピタリと聞こえなくなっていた。

 変だなと、思った次の瞬間に、窓の外から、幼い子どもの声がした。

『ねえ、ねえ、遊ぼうよ』

 ギョッとして、窓の外を見ても、明るい室内からは真っ暗な闇しか見えない。ここは、一階なので、窓の外に人が来れなくはない。

 しかし、時刻は十時を過ぎている。子どもが外にいていい時間ではない。気味が悪くなり、素早く窓を閉めた。






 さらに、ある年の夏に、河川敷で行なわれた花火大会を見にいった時だった。
 友人と、メイン会場のある河川敷の反対側で、花火を見上げていた。会場の裏から見ても、花火の美しさに変わりはない。あちら側は、夜店や観覧席の灯りで賑わっている。迷子の案内が、風に乗って聞こえてくる。

 こちら側も、花火見物の穴場だと知っている人々で、結構な賑わいだった。暗い河川敷を、それぞれの手持ちの灯りや、本格的なテントや投光器を持ち込んだグループもいて、それなりに明るかった。花火が打ち上がる間は、暗い河川敷は明るくなって、歓声も上がり会場に負けないくらい賑やかだった。

 花火大会が終わり、友人と河川敷の堤防の上を歩いて帰る。会場と違い、駐車スペースが限られていたので、離れた場所に車を置いてきたのだ。

 花火大会の賑やかな雰囲気から離れると、夜の河川敷は街灯もなく真っ黒だ。堤防の下は田んぼが広がり、民家もまばらで、街灯の並ぶ道路まで距離があった。それでも、街の中心部からの光で薄っすらと明るい夜空に、星は数えるほどしか見えない。手持ちの懐中電灯で、歩くのに問題はなかった。

 田んぼから蛙の鳴き声と、河川敷の草むらの奥から虫の音が、絶え間なく聞こえていた。

 この後カラオケに行こうと約束していたので、二人とも早く車に着きたかった。黙々と歩いていると、周りが静かなになっているのに気がついた。

『……おーい。……おーい。……おーい』

 真っ黒な闇に包まれた河川敷から声が聞こえる。若い男の声のようだ。
 しかし、どう考えても声のする辺りは、人が入れる場所ではなかった。

『……おーい。……おーい。……おーい』

 次の瞬間、すぐ真後ろの暗闇から声はした。

『なんだ、無視するなよ』

 二人で顔を見合わせて、どちらかともなく走りだした。一刻も早く、この場から逃げなければならない。そんな気持ちに、追い立てられるように逃げた。







 アウトドアは嫌いだ。キャンプなんて、もってのほかだ。森の中の暗闇、虫の声も大嫌いだ。 蛙の大合唱なんか聞きながらなんて眠れやしない。
 また、虫の音が突然止んで、今度は何を囁かれるのかと考えると、怖くて眠れる訳ないじゃないか……。



 二度ある事は、三度あるというが、三度目があったら、四度目には何が起こるのだろう…………。


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